武士の発生と成立 清少納言の周辺・橘則光とその一族

橘則光とその一族 今昔物語から

橘氏で武門としての名をはせたのは第一に将門の乱の時に、相模押領使に任ぜられ、その後伊予国警固使として藤原純友を追討したことで有名な橘遠保(とおやす)でしょう。鎌倉時代以降は「武士の家」としては現れませんが、平安時代末期には「兵の家」とさほど変わらない現れ方をする人達が沢山居ました。

橘則光  清少納言とその兄清原致信  橘季通  橘好則  

橘則光(965-1028以後)

橘敏政の子で母は花山院御乳母右近。陸奥守、従四位上。
997年花山院供奉人(「小右記」)。1004年花山院の道長第御幸に奉仕。1013年2月、叙一階を請い、藤原道長の家司に似たり(「御堂記」)。1019年7月、陸奥守(「小右記」)。在任中の砂金の事で辞任の後まで問題を残す。(「左経記」)。

夜中に女の元へ通う途中で夜盗に襲われ、逆に三人を斬り殺した噺が『今昔物語』に載っています。

『今昔物語』巻二十三第十五 陸奥の前司橘則光、人を切り殺せる話

兵の家に非ねども心極て太くて思量賢く、身の力などぞ極て強かりける

「兵の家に非ねども」は『今昔物語』が書かれたのはそれより一世紀近く後の平安末期と言うことをふまえておきましょう。がそれはともかく、「兵の家に非ねども」以降の「心極て太くて思量賢く、身の力などぞ極て強かりける」は『今昔物語』の中で優れた武士に対して繰り返し使われた表現です。

清少納言とその兄清原致信

橘則光は清少納言の最初の夫としての方が有名ですが、その清少納言の兄清原致信は大和の国の権益を巡った暗闘で源頼親に討たれています。1017年3月11日、即位したばかりの後一条天皇の行幸で賑わう京で、検非違使の警護がそちらに集中した隙を狙ったのか、7〜8騎の騎馬武者と10人あまりの歩兵が六角・富小路の清原致信の館を襲撃しました。

清少納言もその時は出家して兄の館におり、僧形の従者と間違えられて殺されそうになり、とっさに裾をまくり上げて女隠を晒し、男ではないことを証明して難を逃れたとか。二世紀後の鎌倉時代初期に、藤原定家とも親交のあった中流貴族源顕兼{あきかね:村上源氏}によって書かれた説話集「古事談」にはこうあります。

頼光朝臣遣四天王等令打清監之時清少納言同宿ニテアリケルガ 
依似法師欲之殺間為尼之由云エントテ忽出開(女隠)云々

まあその頃は清少納言も、もう若くは無かったし本当かどうかは判りませんが。
でも襲撃したのは源頼光の郎党ではないですね、弟の大和源氏頼親です。更に頼光の郎党に渡辺綱が加わり四天王と言われ始めたのは平安時代ではなくて鎌倉時代からだと思います。「古事談」は『小右記』『扶桑略記』『中外抄』『富家語』などの先行文献からの引用が多いそうですが、この話の下敷きとなった記述は『今昔物語』にあったのかもしれません。清原致信が殺された事件は『今昔物語』のタイトルだけに残されていたと思いますが、その中身は伝わってはいません。

さて、その実行犯の一人は秦元氏の子で、秦元氏は源頼親の従者です。秦氏は平安京に遷都される前に山城国を本拠地としていた大和朝廷の豪族=貴族です。このあたりも軍事貴族=「兵の家」は確立されかかっていても、尚その他の貴族、官人との境目は曖昧だったと言えます。

しかしながらその事の起こりは、清少納言の兄清原致信が先の藤原保昌の手先として、大和国で源頼親をバックに威を誇った当麻為頼を暗殺したからで、清原致信が襲撃されたのはその報復です。

藤原保昌も源頼光の弟源頼親も、そして清少納言の兄清原致信も、更に清少納言の最初の夫橘則光もその実体はあまり変わらない、つまり貴族と武士とは垣根が出来つつあってもまだそれほどはっきりしたものでは無かった、未分化であったとも言えるでしょう。

橘季通

巻第二十三第十六 駿河の前司橘季通、構へて逃げたる語

橘則光と清少納言の間に生まれた橘則長(982〜1034 越中守正五位下)が居ますが、他に弟である従四位上因幡守橘行平の娘(つまり姪)との間の子に橘季通がおり、季通は式部大丞、蔵人、内蔵権助から従五位上駿河守になっています。季通も清少納言が母との説もあるようです。

この季通思量(おもんばかり)賢く力などぞ極(いみじく)強かりけるに・・・
・・・然とも夜明けて後には我と知りなむ、此も彼も否不為じ物を(この俺だと知ったらそう簡単には手出しは出来ないはずだ)

この親にしてこの子ありでしょうか。いや、悪い意味ではないですが、ここでも武に優れた人間として描かれています。

関係は不明ですが、平安時代末期の武士で駿河国目代に橘遠茂が居ます。1180年8月に源頼朝が挙兵すると平家方として源氏に敵対。同年10月、甲斐源氏攻略のため、長田入道父子(頼朝の父義朝を尾張国で謀殺した良兼流伊勢平氏か?)とともに戦いますが武田勢に生虜されます。遠茂の子為茂は文治3年(1187年)に北条時政のはからいによって富士郡田所職に安堵されたとか。(「吾妻鏡」) 
駿河国と言うことからもしや橘季通の? などと思いたくもなります。が「遠」の字を名にしていることからは橘遠保(とおやす)の流れかもしれませんが。

橘好則

巻第二十五 第五 平維茂、藤原諸任を罰ちたる語

その大君と言うは能登守の惟通(橘則光の従兄弟)と言いける人の子なり、長(おとなしき)武者にて心恥ずかしく心おきて有りければ(心くばりも行き届いていたので)、身に敵もなく、万人に被請(信頼されて)てなむありける。・・・・兼ねてより「若し事や有らむずらむと」と思いければ家に郎党二三十ばかりを置きて、少々を櫓に登せて遠見をせさせて・・・

平維茂、藤原諸任らとともに陸奥の国に領地を持っていたと思われる従五位下の貴族。その妹(だいぶ歳が離れていたのか?)は藤原諸任(秀郷の孫)の妻。
『今昔物語』には「武者」と紹介され、平維茂、藤原諸任同様に数十名の郎党を数時間の内に館へ集めています。

陸奥の国ではこれより後に前九年の役が起こりますが、その時の安部氏、清原氏も俘囚の長ではなく、この橘好則、平維茂、藤原諸任らと同様に奥州、出羽に根を張った王臣貴族であり在庁官人兼開発領主であったのだろうと私は思います。岩波文庫池上洵一編『今昔物語』には安部貞任の祖父安部忠良を陸奥大掾(守・介の下の国司)と注記してあります。そのあたりはまた改めて。