武士の発生と成立 清少納言の周辺・橘則光とその一族 |
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橘則光とその一族 今昔物語から橘氏で武門としての名をはせたのは第一に将門の乱の時に、相模押領使に任ぜられ、その後伊予国警固使として藤原純友を追討したことで有名な橘遠保(とおやす)でしょう。鎌倉時代以降は「武士の家」としては現れませんが、平安時代末期には「兵の家」とさほど変わらない現れ方をする人達が沢山居ました。 橘則光(965-1028以後)橘敏政の子で母は花山院御乳母右近。陸奥守、従四位上。 夜中に女の元へ通う途中で夜盗に襲われ、逆に三人を斬り殺した噺が『今昔物語』に載っています。 『今昔物語』巻二十三第十五 陸奥の前司橘則光、人を切り殺せる話
「兵の家に非ねども」は『今昔物語』が書かれたのはそれより一世紀近く後の平安末期と言うことをふまえておきましょう。がそれはともかく、「兵の家に非ねども」以降の「心極て太くて思量賢く、身の力などぞ極て強かりける」は『今昔物語』の中で優れた武士に対して繰り返し使われた表現です。 清少納言とその兄清原致信橘則光は清少納言の最初の夫としての方が有名ですが、その清少納言の兄清原致信は大和の国の権益を巡った暗闘で源頼親に討たれています。1017年3月11日、即位したばかりの後一条天皇の行幸で賑わう京で、検非違使の警護がそちらに集中した隙を狙ったのか、7〜8騎の騎馬武者と10人あまりの歩兵が六角・富小路の清原致信の館を襲撃しました。 清少納言もその時は出家して兄の館におり、僧形の従者と間違えられて殺されそうになり、とっさに裾をまくり上げて女隠を晒し、男ではないことを証明して難を逃れたとか。二世紀後の鎌倉時代初期に、藤原定家とも親交のあった中流貴族源顕兼{あきかね:村上源氏}によって書かれた説話集「古事談」にはこうあります。
まあその頃は清少納言も、もう若くは無かったし本当かどうかは判りませんが。 さて、その実行犯の一人は秦元氏の子で、秦元氏は源頼親の従者です。秦氏は平安京に遷都される前に山城国を本拠地としていた大和朝廷の豪族=貴族です。このあたりも軍事貴族=「兵の家」は確立されかかっていても、尚その他の貴族、官人との境目は曖昧だったと言えます。 しかしながらその事の起こりは、清少納言の兄清原致信が先の藤原保昌の手先として、大和国で源頼親をバックに威を誇った当麻為頼を暗殺したからで、清原致信が襲撃されたのはその報復です。 藤原保昌も源頼光の弟源頼親も、そして清少納言の兄清原致信も、更に清少納言の最初の夫橘則光もその実体はあまり変わらない、つまり貴族と武士とは垣根が出来つつあってもまだそれほどはっきりしたものでは無かった、未分化であったとも言えるでしょう。 橘季通巻第二十三第十六 駿河の前司橘季通、構へて逃げたる語 橘則光と清少納言の間に生まれた橘則長(982〜1034 越中守正五位下)が居ますが、他に弟である従四位上因幡守橘行平の娘(つまり姪)との間の子に橘季通がおり、季通は式部大丞、蔵人、内蔵権助から従五位上駿河守になっています。季通も清少納言が母との説もあるようです。
この親にしてこの子ありでしょうか。いや、悪い意味ではないですが、ここでも武に優れた人間として描かれています。 関係は不明ですが、平安時代末期の武士で駿河国目代に橘遠茂が居ます。1180年8月に源頼朝が挙兵すると平家方として源氏に敵対。同年10月、甲斐源氏攻略のため、長田入道父子(頼朝の父義朝を尾張国で謀殺した良兼流伊勢平氏か?)とともに戦いますが武田勢に生虜されます。遠茂の子為茂は文治3年(1187年)に北条時政のはからいによって富士郡田所職に安堵されたとか。(「吾妻鏡」) 橘好則巻第二十五 第五 平維茂、藤原諸任を罰ちたる語
平維茂、藤原諸任らとともに陸奥の国に領地を持っていたと思われる従五位下の貴族。その妹(だいぶ歳が離れていたのか?)は藤原諸任(秀郷の孫)の妻。 陸奥の国ではこれより後に前九年の役が起こりますが、その時の安部氏、清原氏も俘囚の長ではなく、この橘好則、平維茂、藤原諸任らと同様に奥州、出羽に根を張った王臣貴族であり在庁官人兼開発領主であったのだろうと私は思います。岩波文庫池上洵一編『今昔物語』には安部貞任の祖父安部忠良を陸奥大掾(守・介の下の国司)と注記してあります。そのあたりはまた改めて。 |
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