武士の発生と成立 兵家貴族の経済基盤−伊勢平氏 |
|
高橋昌明氏の『清盛以前−伊勢平氏の興隆』にはこうあります。
そういう意味で在京の軍事貴族・京武者は全て「領地」をもっています。例えば平安の歌人−西行法師は23歳で出家するまでは佐藤義清(のりきよ)よ言う北面の武士でその曽祖父は山内首藤氏の祖でもある藤原公清でおそらくこちらが本家でしょう。紀伊国田仲庄を私領とし、これを大徳寺に荘園として寄進し、預所を行っていました。どちらが本宅かは微妙ですね。それは4:6のどちらが京でどちらが荘家かと言うぐらいです。その側近郎党の多くは荘家の方を生活基盤としていたでしょう。後世の大名の江戸家老とか交代の江戸屋敷詰めみたいな者は居たでしょうが。 藤原行成の日記『権記』 998年(長徳四年)十二月の記事に、平貞盛の子下野守平維衡と散位平致頼(平良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも)が伊勢国の神郡で私合戦が載っています。 中世の説話集「十訓抄」に優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼・平維衡が並んで挙げられ、この四人がもし、互いに相争うのならば必ず命を失うはずと。その2人が争った訳です。 当時右大弁だった藤原行成が藤原道長に相談した政務上の問題のひとつで、行成は道長に、伊勢神宮司と国司に命じて二人を京に追い上らせるべきだ、と言上。朝廷は二人に召喚状を出し検非違使の庁に出頭させ詰問。合戦で有利だった致頼は非を認めず一方維衡は過状(詫び状)を提出します。 その結果、長保元年(999年)十二月、致頼が官位をはく奪されて隠岐に流されたのに対し、維衡は位をそのままに淡路への移配。間もなく許されて京に戻り、その三年後には致頼も召還されて元の五位に復しますが。 『今昔物語集』によると、伊勢国で武芸を競い合っていた両者を中傷する者がいたことから合戦が始まったとか、そんな単純なものではないでしょう。この両流の抗争はその子の代まで争われます。 高橋昌明氏の「清盛以前−伊勢平氏の興隆」には平貞盛流の維衡と致頼の伊勢での合戦の事後処理は、両者の闘争を封殺するほど強力で真剣なものではなく、子の代まで継承された。
彼らは土着した訳ではありません。基本的には京武者です。しかし互いに伊勢に領地を持ち、対抗勢力(たとえ同族であっても)と抗争を繰り返し、相手を駆逐してその地盤を固めようとしています。 ここまで見てくると、平安時代の武士=「兵(つわもの)の家」にも、京武者、軍事貴族(受領層)、国衙の在庁官人と種類が有ること、しかしその境目は極めて曖昧であることが判ります。 その境目は京での栄達が可能であったか、実際にそれがなしえたのかではないでしょうか。源義国もそうですが、京に勤務しながら子達を荘家周辺に配置して勢力を伸ばそうとしていきます。
|
|