武士の発生と成立  兵家貴族の経済基盤−伊勢平氏 

高橋昌明氏の『清盛以前−伊勢平氏の興隆』にはこうあります。

平氏の伊勢居住の理由がなんであれ、それをいわゆる「土着」と単純に理解してはならない。
九世紀以降、中級官人や貴族が都に本宅をおいたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営にあたる動きが生じていた。この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。
彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持実現するための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築かんとしたのである。(p13〜14)

そういう意味で在京の軍事貴族・京武者は全て「領地」をもっています。例えば平安の歌人−西行法師は23歳で出家するまでは佐藤義清(のりきよ)よ言う北面の武士でその曽祖父は山内首藤氏の祖でもある藤原公清でおそらくこちらが本家でしょう。紀伊国田仲庄を私領とし、これを大徳寺に荘園として寄進し、預所を行っていました。どちらが本宅かは微妙ですね。それは4:6のどちらが京でどちらが荘家かと言うぐらいです。その側近郎党の多くは荘家の方を生活基盤としていたでしょう。後世の大名の江戸家老とか交代の江戸屋敷詰めみたいな者は居たでしょうが。

藤原行成の日記『権記』 998年(長徳四年)十二月の記事に、平貞盛の子下野守平維衡と散位平致頼(平良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも)が伊勢国の神郡で私合戦が載っています。

中世の説話集「十訓抄」に優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼・平維衡が並んで挙げられ、この四人がもし、互いに相争うのならば必ず命を失うはずと。その2人が争った訳です。

当時右大弁だった藤原行成が藤原道長に相談した政務上の問題のひとつで、行成は道長に、伊勢神宮司と国司に命じて二人を京に追い上らせるべきだ、と言上。朝廷は二人に召喚状を出し検非違使の庁に出頭させ詰問。合戦で有利だった致頼は非を認めず一方維衡は過状(詫び状)を提出します。

その結果、長保元年(999年)十二月、致頼が官位をはく奪されて隠岐に流されたのに対し、維衡は位をそのままに淡路への移配。間もなく許されて京に戻り、その三年後には致頼も召還されて元の五位に復しますが。

『今昔物語集』によると、伊勢国で武芸を競い合っていた両者を中傷する者がいたことから合戦が始まったとか、そんな単純なものではないでしょう。この両流の抗争はその子の代まで争われます。

高橋昌明氏の「清盛以前−伊勢平氏の興隆」には平貞盛流の維衡と致頼の伊勢での合戦の事後処理は、両者の闘争を封殺するほど強力で真剣なものではなく、子の代まで継承された。

これは王朝国家が地方豪族の扱いについて、ほかの国内問題同様、国守の自由裁量にまかせたことと関係している。この場合、国守は多く彼らを政治的軍事的同盟者として処遇し、その動きに強い規制を加えなかった。
国守の国内支配が強化された段階においても、直接彼らを押えこみ、その基盤を解体させるなど、ほとんど問題にもならなかった。地方豪族が、それぞれ中央の顕貴な貴族を自己の政治的保護者として仰いでいるという事情が、この傾向に拍車をかけた。それゆえ地方豪族の闘乱が発生しても、国衙支配への公然たる反逆や大規模な武力衝突など国政上の問題に発展しない限り、国レベルの対症療法で糊塗されてしまうのが通例だったと思う。
ために問題の解決はおくれ、結局紛争は長期化せざるをえなくなる。維衡や致頼は純粋な地方豪族ではないにしても、右のことはそのままあてはまる。
 維衡流と致頼流の対立も、根本的な解決をみないまま長期化し、長元年間の在地における再度の武力衝突を迎える結果になった。(p30)

長徳四年以来の維衡流と致頼流の対決は、史料上、長元年間の事件を最後としている。和解が成立したと考えるのは非現実的で、なお一定期間対決が継続されたことと思う。現存諸記録は黙して語らないが、この対決の結果を思い描くのは、さして困難ではない。致経の子孫たちが、その後伊勢より姿を消しているからである。
おそらく彼らは年来の仇敵である維衡の子孫たちに圧倒され、駆逐されたのであろう。いずれにせよ、伊勢平氏を称するようになるのは、維衡流であって致頼流ではない。この素朴だが動かし難い事実こそ、なによりも両者の対決の結果をさし示すものである。p33)

彼らは土着した訳ではありません。基本的には京武者です。しかし互いに伊勢に領地を持ち、対抗勢力(たとえ同族であっても)と抗争を繰り返し、相手を駆逐してその地盤を固めようとしています。

ここまで見てくると、平安時代の武士=「兵(つわもの)の家」にも、京武者、軍事貴族(受領層)、国衙の在庁官人と種類が有ること、しかしその境目は極めて曖昧であることが判ります。

その境目は京での栄達が可能であったか、実際にそれがなしえたのかではないでしょうか。源義国もそうですが、京に勤務しながら子達を荘家周辺に配置して勢力を伸ばそうとしていきます。