武士の発生と成立     都の武者・滝口

さて、先に天慶勲功者達を在京勤務させて極力地方から引き剥がそうとしたと書きましたが、地方で土地を開墾し勢力を付けるしかなかった平高望などかつての受領の子孫達、そして天慶勲功者達は例え五位(諸大夫・散位)止まりと言えども中央での立身出世の道が大きく開かれたことになります。

その出発点が滝口です。 「保元物語」などに「山内首藤刑部丞俊通、その子滝口俊綱」とか「草刈部十郎太夫定直、(蓮池)滝口家綱、同滝口太郎家次」などとよく出てきます。

内裏の警護は9世紀には近衛府の任務でしたが、桓武天皇の子である平城天皇(上皇)と嵯峨天皇(在位809〜823)兄弟のお家騒動である薬子の変(くすこのへん)をきっかけに令外の官として設置された蔵人(くろうど)所が、九世紀末宇多天皇の寛平年中(889〜897)に管轄するようになります。

蔵人所の元で、天皇の在所・清涼殿の「殿上の間」には四位・五位の殿上人が交代で宿直。そして庭を警護する兵士は清涼殿東庭北東の滝口(御溝水の落ち口)近くにある渡り廊を詰め所に宿直したことから、清涼殿警護の兵士(武士)を「滝口」と呼ぶ様になりました。
紫式部の『源氏物語』「夕顔」巻にも出てきます。

この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、「今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。

蔵人(くろうど)所自体が令外の官、つまり律令制では定められていなかった役職ですから滝口それ自体は官職では無かったと思います。

平安時代10世紀の京では兵仗(武器)特に弓箭(弓矢)を帯びることは正規の武官以外には許されていなかったのですが、『日本略記』貞元2年(977年)11月9日条に、「滝口の武者」が弓箭を帯びて宮中に出入りすることが許されたことが記されています。これによって「滝口の武者」は朝廷が公式に認める「武士」とみなされるようになります。滝口は無位ではありますがそれを勤めて実績を積み、そこから八省の丞(じょう)、左右衛門少尉を経て、検非違使(いわば警察署長)などに成ります。そしてうまくいけば従五位下に叙爵。後で出てくる「山内首藤氏」にも書きましたが、六位ぐらいの刑部丞とか左右衛門尉(じょう)が一応の到達点でしょうか?

滝口の任命は天皇即位のときに摂関家や公家らが家人(侍)の中から射芸に長じた者を推挙します。平将門も当時左大臣だった藤原忠平の家人として仕え、その推挙により滝口となっています。定員は当初の宇多天皇の頃で10名、白河天皇の頃には30名ほどだったとのこと。