武士の発生と成立 都の武者・検非違使 |
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検非違使これも令外の官、つまり律令制では定められていなかった役職で平安初期、蔵人所と同時期に嵯峨天皇(在位809〜823)が設置したと言われています。はっきりはしません。 史料に於ける初見は「文徳実録」の嵯峨天皇の代。五位以上つまり貴族が死んだときに、その者の経歴・人となりを国の正史などに残したものを「卒伝」と言いますが、興世書主(おきよのふみぬし)の卒伝に「弘仁7年(816年)2月、転じて左衛門大尉となり検非違使の事を兼行す」とあるそうです。このことから816年以前に設置されていたと見られています。 極めてまれに兵衛府の官人が兼任したこともありますが、原則として左右衛門府の役人が兼任します。弘仁左右衛門府式では定員を左右それぞれにつき官人1名、府生1名、火長5名と定め、貞観・延喜式では左右それぞれ佐1名、尉1名、志(さかん)1名、府生1名、火長9名に増員し、834年(承和元)には別当(べっとう)が置かれています。 佐の定員は時代が下っても左右各1名ですが、尉以下の職員については、必要に応じ増員されています。 別当(長官)は三位の中納言の兼任で、その発する別当宣(庁宣ともいう)は勅宣に準ずる権威を持つ重職ですがほとんどは名誉職であり、別当を補佐する佐が実質長官で従五位上程度、大国の国守と同じぐらい。家柄・人物を選んで補任(ぶにん)されたようです。 尉は検非違使庁の実務の中心を担う職員で、いわば地裁の裁判官と、武力に秀でた者が任命される追捕尉(ついぶのじょう)といういわば警察署長のようなもので犯人・罪人の逮捕・追捕を担当しています。通常は少尉(しょうじょう)がそれにあたります。 志(さかん)は主に法律家で尋問・裁判など、府生は追捕や裁判に従い、府生以上がいわば将校で、府生は主に京周辺の負名層(単純に言うと豪族)あたりの子弟、あるいは院の主典代(しゅてんだい)・庁官、太政官の史生(ししょう)、蔵人所の出納(すいのう)、諸家の下家司(しもげいし)ら地下(じげ)官人のなかから武芸の心得の多少あるものが補任されたようです。検非違使と言うのはこの府生以上を言うらしく、この府生以上はそれぞれ一家を成していてあまり組織性は無かったようです。 その検非違使の下に火長があり下士官から兵隊ぐらい。その中から案主は書記の様な事務方、看督長(かどのおさ)が選ばれ獄直や追捕に当たります。府生以上の官人ないし看督長が出動するときにはそれに従者(火長と検非違使の個人的な従者も?)や放免(ほうめん)が従います。放免(ほうめん)は、前科者を捜査の便のためにあてたものです。 蔵人所が宮中警護を指揮し、検非違使所が市中の治安維持を行う武官を指揮すると言えます。 詳細はこちら:官制大鑑・検非違使、検非違使・検非違使庁(平凡社『日本史大事典』より) どんな武士がその職にあったかというと、例えば安和の変で、源満仲のライバル、藤原秀郷の嫡男・藤原千晴とその子久頼と郎党を捕らえた源満季(源満仲の弟)、平忠常の乱で追捕使?を命じられた平直方、出世する前の伊勢平氏平正盛、八幡太郎義家の嫡男で為義の養父源義忠。そしてその養子で頼朝の祖父源為義なんか一生この検非違使でした。平安後期の朝廷の通常の軍事力はこの検非違使が率いる郎党です。
さて、中央の軍事貴族は後に触れる検非違使などのポジションを勤めて、従五位下(諸大夫)になり、うまくいけば受領(相模守などの国司)となって任地へ赴きそこで国衙の権力を振り回して巨大な富を築くことが出来ます。 受領の官位は大、上、中、下国のランクにより一定では無いし、中、下国なら従五位下である必要は無いのですか少なくとも平安後期だと実際には従五位下以上が任命されているようです。
と言うか従五位下が増えちゃった?
実際たった三代の院政期のそれも後半大分大きな変化が有るように思います。はっきり言っちゃうと「成功」、じょうごう?って言いましたかね? 官位、と言っても貴族最下位従五位下ぐらいまでだと思いますが、金で買ってしまいます。 受領は4〜5年ぐらいの任期で常になれる訳ではないですから、受領を勤め任期満了後、また検非違使となることもあったようです。
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