利仁将軍
『続群書類従』 系図部54 p274 「利仁流系図」
参考:総持寺縁起と鉢かづき物語の史的背景 こちらは『尊卑分脈』ベース
祖父 藤原高房(795-852)
美濃介、備後守、肥後守、越前守
仁寿二年(852)二月の藤原高房の薨伝(文徳実録)逸話。
美濃介であった時、威恵兼ね行い取締りを厳しくしたため、国内には盗賊がいなくなった。・・・また、席田郡に妖術を行う巫女がいて人々に害毒を与えていたが、みなは恐れて放置していた。しかし、彼は単騎出かけていって一味を捕らえ厳しい刑罰を加えた。
その後、備後守、肥後守、越前守を歴任し、五十八才で没した。
藤原利仁
『続群書類従』 系図部54 p274 「利仁流系図」
父は藤原時長、「利仁流系図」では常陸介、他に民部卿(正四位下相当)とも、 母は越前国の秦豊国の女で、越前の豪族有仁の女婿にむかえられたと。
『尊卑分脈』によると、911(延喜11)年に上野介、その後上総介、武蔵守など東国の国司を歴任し、延喜15年(915)、鎮守府将軍。
「最初の武士かも」と言われる人です。平安時代第1級の英雄
そして武人ですね。今昔物語から芥川龍之介もモチーフに使っています。『芋粥』がそれで貧乏人の都人五位の侍を越前の館に招いて芋粥をご馳走したのが利仁将軍で、『今昔物語集』26巻だそうです。物語に出てくる越前の館は越前の豪族有仁の館でそこに妻がおり、物語のなかに舅有仁も登場。 利仁の「仁」は婿入り養子となって舅有仁の1字を貰ったのでしょうか? まだ完全には父系ではない通い婚の時代に土着の有力者が見込みのある貴族の子弟と結びついていくと言うパターンがここにも見られます。
藤原利仁についてはここによると「藤原利仁に関しては、岩波書店『日本古典文学大系』版の岡見正雄氏による補注(pp.391-393)がもっとも詳しくその後に出たものも、岡見説をベースにしているものばかり・・・」とのこと。
『今昔物語集』には藤原利仁はもう一度出てきており、新羅を征伐する将軍に任命されたが、それを聞いた新羅が宋の法全阿闍梨に調伏を依頼し、そのため利仁は出征途上で死んだと言うことです。
しかし利仁将軍の名を轟かせたのはやはり『鞍馬蓋寺縁起』にある群盗征伐でしょう。
■ 鞍馬寺縁起(室町時代の縁起書。永正十年(1513)成立)を要約すると
なお、『尊卑分脈』が引く「鞍馬寺縁起」(漢文)は、「鞍馬蓋寺縁起」には読み下し文で載っているので、両者を比較しながら読んでみると、下野国の高坐山(高蔵山)の麓に蔵宗・蔵安を先鋒として盗賊が千人ほど集まり、関東から都へ送るものを奪ってしまう。そこで、それらを退治するために藤原利仁を派遣したという話になっています。《遂に凶徒を切て馘を献ず。これによつて名威天下に振ひ武略海外にかまびすし。》とありますから、蔵宗・蔵安を殺したことで藤原利仁はヒーローとなったようです。
『尊卑分脈』には「海路を飛ぶこと、翅在る人のごとし。以為へらく、神の人に化すか」とあるそうです。『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日条、田谷の洞窟について頼朝が聞いた言い伝えにも藤原利仁も出て来ます。
文治5年(1189)9月28日条 御路次の間、一青山を臨ましめ給う。その号を尋ねらるるの処、田谷の窟なりと。これ田村麿・利仁等の将軍、綸命を奉り征夷の時、賊主悪路王並びに赤頭等、寨を構えるの岩室なり。その巖洞の前途、北に至り十余日、外浜に隣るなり。坂上将軍この窟の前に於いて九間四面の精舎を建立す。鞍馬寺を模せしめ、多聞天像を安置し西光寺と号し、水田を寄付す。寄文に云く、東は北上河を限り、南は岩井河を限り、西は象王岩屋を限り、北は牛木長峰を限るてえり。東西三十余里・南北二十余里と云々。
「新羅征伐や群盗退治とは正に都から来た軍事貴族の姿である。そして都の軍事貴族を在地で受入れたのが、越前の在地の豪族でありなにやら象徴的である。」と言う坂東千年王国サイトの意見に私も同意します。
『続群書類従』 系図部54 p274
「利仁流系図」によれば、父時長は常陸介と。利仁には「将軍」としか書いていない。また嫡子の叙用は斎宮頭、その他の子、有頼、国風、利宗は皆「将軍」である。
「不輸の成立」 の史料で有名な伊勢国司に宛てた太政官符があります。
『慶延記』
「太政官符 伊勢国司 まさに醍醐寺所領曽禰庄を不輸租田となし、并せて庄司・寄人等の臨時雑役を免ずべき事 壱志郡に在り 右、彼の寺の去ぬる七月七日の解状を得るにいわく。件の庄租税雑役を免除せらるべきの由、具さに事状を注し言上すること先に畢ぬ。しかるにいまだ裁下を承らず。しかる間、彼の庄司今月九日の解状にいわく。『件の庄いまだ租税を徴するの例有らず。しかるに当任の守藤原朝臣国風、俄かに前例に乖き、庄田を収公し、雑役を付科す。望み請うらくは、早く言上せられ、官符を給いて全く地子を運納せん』者り。望み請うらくは、先の解状に任せ、早く官符を給せられ、租税雑役を免除し、もって庄務を済さん者れば、左大臣宣すらく、勅を奉るに、請いに依れば、国宣しく承知し、宣に依りてこれを行うべし。符到らば奉行せよ。 従五位下右少弁藤原朝臣 国光 右大臣正六位上兼行春宮坊大属 天暦五年九月十五日」
天暦五年は西暦951年。利仁が鎮守府将軍になったのが915年(延喜15)ですから年代としては辻褄が合います。この中に出てくる伊勢守藤原朝臣国風は利仁の子の国風でしょうか? こういう名前は珍しいので。尚、従五位下右少弁藤原朝臣 国光は利仁の叔父山蔭の祖孫か?
叙用(利仁嫡子):斎宮頭(従五位上相当) この斎宮頭の藤原から「斉藤」と言う通り名になったようです。 以下に主立った子孫を上げてみます。
吉信(叙用子):加賀守、則高(叙用子):越前守(能登斉藤氏) 公範(吉信子):駿河守、範経(公範子):河内守・従五位下、範経(範経子): 維幸(範経子):官位は不明ですが子の維重は近江権守でここから近藤を名乗っているようです。その子らは滝口・左右衛門尉景清、そして源義朝の郎党で平治の乱で戦死した景重、近藤武者と言われた貞守、その子が安芸守能成、その子が大友能直で・・・、こここはホントか? いや能成とその子大友能直は秀郷流にも出てくるので。(;^_^A
伊傳(吉信子):越後惣追補使・伊傳に始まる越前での土着系諸流についてはこちらのサイトに詳細なもの が。
利仁の叔父藤原山蔭からの家系はなかなかのものですが、「兵の家」ではなく生粋の貴族なのでこのサイトの家系図には含めません。
藤原山蔭(824-888) 利仁の叔父
高房の二男。剛毅な魚名流の中にあって初めて従三位中納言にまで昇進 左馬大允、右衛門少尉、春宮大進、蔵人、右衛門少將、美濃守、備前守、渤海使の郊労使、貞観十七年(875)に従四位下蔵人頭、右近衛中將、ついで右大弁、元慶三年(879)参議、仁和二年(886)には従三位中納言となり、翌年、民部卿、仁和四年、六十五才で没。
山蔭の子
藤原在衡(892-970)
有頼養子実如無の子 天慶四年(941)参議、その後、中納言、大納言、従二位右大臣を経て、天禄元年(970)左大臣となり、同年七十九才で没。従一位を追贈、粟田左大臣、あるいは万里小路大臣とも呼ばれた。
時姫
山蔭の子摂津守中正の娘 藤原兼家妻 道隆、道兼、道長と詮子母
|