『吾妻鏡』に田谷の洞窟が
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『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日条で見つけたのですが、田谷の洞窟も頼朝以前から有ったようです。頼朝が聞いた話では坂上田村麻呂が西光寺と言うお寺を建て多聞天を安置したと。藤原利仁も出て来ます。
文治5年(1189)9月28日条
御路次の間、一青山を臨ましめ給う。その号を尋ねらるるの処、田谷の窟なりと。これ田村麿・利仁等の将軍、綸命を奉り征夷の時、賊主悪路王並びに赤頭等、寨を構えるの岩室なり。その巖洞の前途、北に至り十余日、外浜に隣るなり。坂上将軍この窟の前に於いて九間四面の精舎を建立す。鞍馬寺を模せしめ、多聞天像を安置し西光寺と号し、水田を寄付す。寄文に云く、東は北上河を限り、南は岩井河を限り、西は象王岩屋を限り、北は牛木長峰を限るてえり。東西三十余里・南北二十余里と云々。
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鎌倉が古来より奥州に対する武器の兵站基地と言う見方があるのですが、坂上田村麻呂もそうでしたか。藤原利仁も出てきますね。915年(延喜15)鎮守府将軍になった「最初の武士かも」と言われる人です。平安時代第1級の英雄
そして武人ですね。今昔物語から芥川龍之介もモチーフに使っています。『芋粥』がそれで『今昔物語集』26巻だそうです。
でも江戸時代中期の「平泉雑記」には「これ・・賊主悪路王並びに赤頭等、寨を構えるの岩室なり。」については「それ違うよ」と書かれています。フキフキ "A^^; こちら
を見るとどうも藤原利仁についての伝承が奥州攻めとごっちゃになって伝承された? それとも頼朝に説明をしたこの近隣のご家人が頼朝の奥州攻めにあやかって「ここもちゃんと庇護してね♪」と言うつもりでワザとごっちゃにした?なんか有りそう。後に今の定泉寺が建てられたのですから成功したのかも? 本当に頼朝に聞かれたのならですが。その点はどうも嘘くさい。 ただ鞍馬寺は両方に掛かっているのでその支寺の西光寺が藤原利仁に関係が有ったのかもしれませんね。もっとも1513年の縁起書ですから『吾妻鏡』を見たのかもしれませんが。
でその吾妻鏡』文治5年以降は
ただし西光寺と言うお寺は頼朝がそれを聞いたときに既に無くなっていたようです。場所は大船の西北に1kmぐらい? 現在は鎌倉時代からの田谷山定泉寺というお寺がありここに田谷の洞窟があります。
古代人の横穴式住居跡だったとも、古墳のあとだったとも言われていますが、鎌倉時代以降、真言密教の修行窟として拡大していったとのことです。現在のお寺はその時の宿坊として機能していたんでしょう。真言密教って鎌倉五山は禅宗だろうっておっしゃるかもしれませんが、当時の禅宗はそれほどはっきりしたものではありませんでしたし、「禅律」の「律」の方は真言密教に近いです。 以前のオフではお坊さんが解説をしてくれました。
古墳時代の横穴墓あるいは横穴住居跡だったものを、鎌倉時代、修行僧たちが真言密教の道場としてノミ1本で迷路のように掘り広げたもの。その後崩落荒廃していたが江戸後期、天保年間に洞窟を整備して数々の彫刻を施し現在の地底伽藍が完成。幾度かの大地震にも耐えているが、関東大震災でかなりの被害をこうむり、洞窟に関しての古い資料は一切散逸したという。
『吾妻鏡』を信じる限り、鎌倉時代の修行僧が初めて何も無いところに掘り出した訳ではなく、元からあった洞窟に様々な仏像を彫っていったのでしょう。ただねぇ、信じてよいものかどうか。
頼朝はここを通ったんですかね。隣にラドン温泉があります。全然関係無いですが。(笑)
ところで、頼朝が奥州攻めの帰路ここを通ったと言うことは大手中路新説にはちょっとやばいですね。まあ、帰りの路も大手中路だったとはどこにも書いていないからいいけど。(笑)
参考資料
■ 鞍馬寺縁起(室町時代の縁起書。永正十年(1513)成立)を要約すると
なお、『尊卑分脈』が引く「鞍馬寺縁起」(漢文)は、「鞍馬蓋寺縁起」(*2)には読み下し文で載っているので、両者を比較しなが
ら読んでみると、下野国の高坐山(高蔵山)の麓に蔵宗・蔵安を先鋒として盗賊が千人ほど集まり、関東から都へ送るものを奪ってしまう。そこで、それらを退
治するために藤原利仁を派遣したという話になっています。《遂に凶徒を切て馘を献ず。これによつて名威天下に振ひ武略海外にかまびすし。》とありますか
ら、蔵宗・蔵安を殺したことで藤原利仁はヒーローとなったようです。
■平泉雑記
巻之二 相原友直著(1758年頃)
田村・利仁伐東夷 (九)
日本後記ニ桓武帝延暦二十年辛巳二月丙午ニ征夷大将軍坂上田村麿ニ節刀ヲ賜ハル、十一月乙丑ニ詔シテ、陸奥國州ノ蝦夷等代々ヲ歴時ヲ渉テ邊境ヲ浸シ亂リ百姓ヲ殺害ス、是以従四位坂上田村麿大宿禰等ヲ遺シテ伐平ラケ掃ヒ治メシム、同廿一年壬午正月甲子陸奥國三神加階、征夷大将軍田村霊験ヲ奏スルニヨル、同丙寅田村麿ヲ遺シテ陸奥國膽澤城ヲ作ル、同夏四月庚子田村麿等言、夷ノ大墓公阿弖利為・盤具公母禮種類五百餘ヲ率テ降ル、同秋七月甲子田村麿来、夷ノ大墓二人並従フ、八月丁酉夷大墓公阿弖利為・盤具公母禮等ヲ斬ル、此二虜ハ並ニ奥地ノ賊首也トアリ、
東鑑九巻九月二十八日ノ記ニ、田谷窟ハ田村・利仁等ノ将軍綸命ヲ奉(ウケタマハ)リ、東夷征夷ノ時、賊首悪路王並ニ赤頭等塞ヲ構フル岩室ナリト云リ、
友直曰、田谷、今達谷ト書ス、岩井郡達谷村ニ在リ、平泉ノ西也、
(私もこの部分はなんか変だな〜と思ったんですけど、まあ吾妻鏡も頼朝にそういう伝承が伝えられたって書いているだけだから。)
義經記ニ、坂上田村麿ハアクシノ高丸ヲ討チ、藤原利仁ハ赤頭四郎将軍ヲ討ト云リ、王代一覧云、延暦廿年ノ春、奥國ノ夷賊高丸ト云者達谷窟ヨリ起リ、駿河國清見関迄攻上ル、征夷大将軍坂上田村麿節刀ヲ賜リ進發ス、高丸退テ奥州ヘ引籠ル、田村ツゝヒテ奥州ヘ攻入合戦シ、神楽岡ト云所ニテ高丸ヲ射殺ス、又悪路王ト云賊ヲモ平ク、同ク廿一年田村帰京ス、夷ノ張本大墓公・盤具公ト云者、降参シケルヲ召連テ來ル、此二人モ斬罪セラル、釋書云、延暦二十年十一月歸京トアリ、
元亨釋書延鎮傅ニハ、奥州ノ逆賊高丸駿州清見關ニ次ル、田村将軍ノ軍兵ヲ發スルヲ聞テ奥州ニ立歸ル、官軍追うツキ戦テ神楽岡ニテ高丸ヲ射殺ス、其首ヲ帝城ニサヽゲラルト云リ、
或説ニ、赤頭ハ伊達郡ニテ討ル、屁ヲ同郡半田村ニ埋ム、其塚今ニ有ト云、
百将傅曰、藤原利仁延喜之時率兵討奥賊、風雲之夜乗敵無備撃平之、
百将傅抄云、藤原利仁ハ左大臣魚名公ノ後胤也、延喜帝ニツカヘテ鎮守府将軍ニ任セラレ、東國・北國ヲ守護ス、高丸ト云ル悪黨奥州達谷窟ニ楯籠ル、利仁是ヲ討テ、其窟ヲ攻破ルト云云、
七武曰、田丸鎮東夷之虐、利仁屠高丸之窟、
名将傅曰、藤原利仁ハ勇力絶衆軽捷如雲、醍醐朝當關東盗賊起奉勅往捕之、會天大雪利仁夜潜兵襲其落、賊果無備大克テ斬首萬級、威名大震、冶奥州夷賊起、又令利仁弄鎮守府将軍征討之、軍所至頻克功名速成而、朝廷賞之、剖符於越後世々無絶、由是其胤竟盛于北越、
愚按ルニ、悪路王・赤頭ノ名ハ、東鑑ニ出、田村高丸ヲ討ト云ハ、元亨釋所ニ出、羅山翁神社考上ニ同、又、坂上田村麿ハ高丸ヲ討チ、藤原利仁ハ赤頭四 郎ヲ討ト云ハ、義経記ニ出、百姓傅抄ニハ利仁高丸ヲ誅スト云、按ルニ、征夷大将軍従四位坂上田村麿「夷賊征
伐」ハ、人皇五十代桓武帝延暦廿年也、鎮 守府将軍藤原利仁ハ人皇六十代醍醐帝延喜年中夷賊ヲ誅伐、延暦廿年ヨリ延喜年中迄百餘年也、然ルニ田村モ高丸ヲ伐ト云、又 利仁モ高丸ヲ伐ト云、其 外諸書ノ説紛々トシテ不能無疑、請後考正説而當歸一也、
(賄い岩田曰く、やっぱり義経記って変だよね。
2016.8.1 若干修正 『吾妻鏡』の記事は頼朝の頃ではなく、編纂時点での話だろうと。 |