武士の発生と成立 前九年の役(前編) |
|
「前九年の役」の話の全てのルーツは「陸奥話記」にありその冒頭は佐藤弘弥氏の現代語訳によるとこうです。
この部分が一番???な部分かもしれません。しかしそれ以降の「陸奥話記」の記述だけ見ても、それが源頼義側からの記述であるにも関わらず、「陸奥話記」の編者、あるいは当時の公家は内心安部氏に同情していたのではと思ってしまいます。 「陸奥話記」「前九年の役」の史料として筆頭にあげられるのは「陸奥話記」。前九年役のあとそれほど遠くない11世紀後期頃と推定されています。 原文はこちら陸奧話記 群書類従本 漢文です。ただし今に残るものは原本ではなく、写本、または更にその写本で群書類従本以外に4パターンぐらいが有るそうです。書き出しの「六箇郡之司」からして、別の写本では「六箇郡内」、「六箇郡之司」の「之」を取って「六箇郡司」、「陸奥六箇郡司」などあるそうです。つまり写した者の理解で変形しています。もしかすると写した者が何を目的にそれを写したかによっても変形しているのかもしれません。 作者は不明ながら「今、抄國解之文、於衆口之話、注之一卷、但少生千里之外、・・・」と、陸奥国から奏上された国解を元にしながら、それに伝え聞いた話を交えたと著者自身が書いており、朝廷内で多くの国解を見ることの出来る人物がと思われています。 最初に踏まえて置くべきことは、陸奥国から奏上された国解が元と云うことは勝者である守源頼義の側からの報告(功労のアピール)がベースと云うことです。安部氏が俘因長云々と云うのは「朝廷の臣が東夷を討つ」と云うパターンに則ったアピールなのでしょう。 同じ話は「今昔物語」、「古事談」、「古今著聞集」、更に「保元物語」、「平家物語」等にも登場しますが、おそらくそれらは「陸奥話記」の初期の写本のどれかが元ネタと思われます。その写本が現在知られている何種類のもののひとつなのかどうかも解りません。 鎮守府奈良時代前半より陸奥国に置かれた軍政を司る役所の事。 この話題「前九年の役」より少し前の鎮守府は、胆沢城(いさわじょう)の鎮守府で、多賀城にある陸奥国府と併存した形で、いわば第2国府のような役割を担い、胆沢の地(現在の岩手県南部一帯)を治めていたようです。 但し、この「前九年の役」の頃に本当に鎮守府が官庁として、胆沢城が建物として存在していたのかどうかははっきりしないようです。 なお、胆沢城(いさわじょう)に鎮守府がおかれた当時、多くの蝦夷(えみし)は関東や西国にまで移住させられ、逆に胆沢城には何千人(記録にあるのは4千人)という朝廷側の移民が移されて開発が進めらています。その移住が東国その他の俘囚の小反乱を引き起こします。従って胆沢城周辺に居たのは内国の人間の方が多かったはずです。もちろんその移住(血液交換?)は目論見通りに成功した訳ではなく、逃げ帰った者も相当に居たようですが。 当時、おおよそ衣川柵あたりを境に南が内国で多賀城(国衙)の陸奥守の支配、鎮守府は奧六郡を支配する第二国衙のようなものとの見方もあります。そしてその奧6郡の郡司? 鎮守府の在庁官人? 「陸奥話記」でもここのところは写本により異なり、確実な証拠は何もありませんが、少なくとも在地で勢力を拡大してきたのが安倍氏であり、そしてその奧6郡の更に北には蝦夷の村々があり安倍氏はその蝦夷との交易も支配していたと推測されます。 在地の実力者、大規模私営田経営者(通常は郡司とか在庁官人になっていますが)と受領(守)とのイザコザはこの時期どの国でもあったことで、教科書にも載っているらしい尾張国国解や、将門の乱の発端の武蔵国の権守興余王・介源経基と武蔵武芝もそうです。 鎮守府将軍奈良・平安初期には「鎮守将軍」と称したそうですが、平安中期からは鎮守府将軍と呼ばれます。 本来は受領(陸奥守)より格下ですが、その赴任に当たっては「守」と同じ処遇「御前に召して禄を賜う」(侍中群要)を受けたようです。これは秋田城介も同様です。ただし、この時代には常に任命されていた訳ではないようです。 「将軍」と名がつくものは、鎮守府将軍を除けば征夷大将軍も含め臨時の官職だったので、鎮守府将軍は平時に唯一人の将軍です。その為、鎌倉時代より前の武士にとってももっとも名誉ある役職でした。藤原利仁将軍も、将門の父も、将門を討った藤原秀郷も平貞盛もそう伝えられ、余五将軍も鎮守府将軍を務めます。鎮守府将軍を祖先に持つことまごうことなき「武士の家」の証明となります。 秋田城介秋田城も鎮守府に似た性格をもち、守の次の介が赴任したことから秋田城介と云われ、これも武士にとっては鎮守府将軍に次ぐ武門の家の証しとなります。今回登場する秋田城介平重成の子孫はこれを家の名誉として城氏を名乗ります。 ただし平重成以前は空席であり、そのことから重成は藤原登任の要請に応じて、対安部頼良戦の為に任命されたとの見方もあります。 吾妻鏡(健保6年3月16日条) 尚、秋田城は発掘調査によって11世紀の遺構が確認されており、この平重成の頃までは確かに存続したようです。 今昔物語での安倍氏「今昔物語」巻二十五第十三「源頼義朝臣、安部貞任を罰ちたる話」 こちらは源頼義側からの話。一般に語られるのはこちらの筋書き。 「今昔物語」巻三十一第十一「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」 こちらは安部貞任の弟で安部宗任が降服して筑紫に流されていたときに聞いた話。 どちらをとっても安倍頼時・貞任側が仕掛けた戦ではない。平安時代からそう認識されています。 安倍氏の系譜の諸説安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)の「俘囚」を統括し、と言われるほど勢力を持っていたことは確かでしょうが、郡司、在庁官人であったかどうかは定かではありません。更にのそ血筋については全てが推測の世界です。
もしも安部氏が郡司であったのなら、私もこの方と同様に3が一番可能性として高いと思います。 1については、安部氏滅亡後の12月17日の陸奥国の國解に「散位安倍為元」と官位を持った者まで居ます。攻める側の清原氏も「朝臣」より古い「真人」と呼ばれ、また貴族の清原氏に平氏の婿入り説も確証は無いながら有力です。その清原軍の第二陣、第四陣に橘兄弟の名が見えますが、貴族橘氏は橘好則に見られるように陸奥に勢力を持ち土着しています。 もうひとつ、安部氏については何を言っても証拠は無いのですが、清原氏については「清原真人」つまり臣下に下った天皇の子孫の家柄として当時から記録されています。 また、「陸奥話記」の「父祖忠ョ東夷尊長」ですが、「陸奥話記」自体が勝者源頼義側の報告を元に書かれたもの、京の朝廷にとっては鎮守府が治める奧六群は内国ではなく占領地であり、そこに住む者はじゅっぱひとからげに「俘囚」と思いやすいと言うことともうひとつ。 そしてその奧六郡の実力者が南の「内国」、陸奥守・陸奥国衙の行政エリアまで進出してきたと。 藤原登任が秋田城介平重成とともに安部氏を最初に攻めた口実は奧六郡の年貢ではなく、その南の「内国」に安部氏が保有した領域での年貢についてです。 進出と言っても、常陸国の平維幹(維基)、良文流両総平氏 に見られるように、在地の私営田経営者、開発領主が天下り国司以上の経済力・軍事力を持ち得ることは当時の常識であり、何処にでも有った受領と在地勢力との紛争が、陸奥であったが為に、「俘囚」との偏見を一方に利用されてややこしくなったと見ることが出来るのではないでしょうか。 [PDF] 世界遺産講座 平泉への道 - HTMLバージョン 藤原登任(なりとう、987年- ?)藤原氏南家師長の子。主殿頭、出雲守などを歴任 1050年63歳(「尊卑分脈」にその9年後72歳で出家とあることから逆算)で陸奥守として下向。京大の元木泰雄氏は『武士の成立』の中(p89)で「朝廷は安部氏の追討の為に彼らを起用した(陸奥守藤原登任、秋田城介平重成)ものと思われる。」と書かれていますが薮の中です。しかし朝廷が奥州攻めを計画したのなら兵の家でもない老人の藤原登任など任命するでしょうか。ちょっとしゃくぜんとしません。 実はこの「前九年の役」から「後三年の役」の間にも朝廷は奥州戦争を仕掛けます。白河法皇の父後三条天皇は桓武天皇の故事にならい、自身の権威を示すべく、1069年に大和源氏の源頼俊を陸奥守として清原氏の協力も得て奥州北部の追討を敢行したと。(元木p145) さて藤原登任は下向の翌1051年(当時64歳)「賦貢しない」とか「傭役を果たさない」などと理由をつけ、秋田城介平重成と共に安倍氏を攻めますが敗走。 秋田城介平重成平維茂(これもち)余五将軍の子に平繁成(しげなりで読みは同じ、重衛とも)が居ますがこの人が秋田城介ですので平重成=平繁成で良いと思います。秋田城介平重成(繁成)が余五将軍平維茂(これもち)なら陸奥にも領地・利権・権益・利害関係が深く、藤原登任の誘いに乗って出兵したことは理解できます。また平繁成の秋田城介任命そのものが奥州攻めの為の朝廷の布陣だったとの説もあるようですが。 後三年の役 清原氏・平氏説によると、その子である平貞成は子は海道成衛ですなわち「後三年の役」の清原真衛の養子。越後城氏の祖と云うことになります。ただし、確たる証拠はありません。
源頼義が陸奥守に朝廷は源頼義を陸奥守とし事態の収拾を図りますが、1051年に後冷泉天皇生母で藤原道長女の中宮藤原彰子の病気祈願のために恩赦。頼良は頼義と同音を遠慮して名を頼時と改め頼義に従います。その頃かその前か、陸奥国南部の秀郷流藤原経清、平永衡は頼時の女婿となります。 1053年、源頼義は鎮守府将軍も兼任。 1056年、頼義方の陣を襲撃した者があり、容疑頼時の子である貞任に違いなしと決めつけ、これにより安倍氏は蜂起。ここから数えると6年となる。 前九年役の発端は「陸奥話記」にはどのように書いてあるのかを戦前の学者さんに説明してもらいましょう。
「陸奥話記」を読むだけでも凄い言いがかり。源頼義は即に「下手人貞任を引き渡せ」と安倍頼時に通告しますが、「今昔物語」巻二十五第十三「源頼義朝臣、安部貞任を罰ちたる話」によると安倍頼時は貞任こう云って源頼義の引き渡し要求を拒絶したと。
良いことを云いますね。まさに「人の道」ですね。
投降して京に連れていかれた安部宗任から伝え聞いた話なのかもしれません。あるいは源頼義が安倍頼時がそう思うように無理難題な言いがかりをつけて安倍頼時を合戦に引きずり出したと言うことを「陸奥話記」の著者は書きたかったのか。 源頼義の前任国司藤原登任が安倍頼時(当時は頼良)を攻めた事情はこれも一方的な情報だけで真相は不明です。確かなのは安部氏が仕掛けたものでは無いと言うことぐらい。 前九年の役の首謀者は?その絵を描いたのが源頼義だったのかどうか、以前は源頼義首謀者説が大勢を占めていましたが、最近では権守藤原説貞ら在庁官人の主導との見方が有力になっているそうです。 もうひとつ、朝廷は徹底的にやる意志を持っていたのかと言うとそうでもなさそうです。追討官符などうやむやになることはこの時代日常茶飯事ですので。 源氏はこのとき板東の武士の頭領であったのか後世、この合戦で板東の武士がことごとく源頼義に従って戦ったように言われますが、そう言われ出したのは頼朝以降でしょう。実体は後でも書きますが、藤原景通は美濃、藤原則明は河内に本拠地を持つ京武者で。おそらくは直属の配下はそれら京武者と、相模を中心とした地域に領地を持ち源頼義と関係の深かった者で、それら直属兵力それほどは大きなものとは思えません。 源頼義の父頼信は確か平忠常の乱で功績を挙げました、しかしそれは投降の説得であって源頼信は甲斐の国を出ていません。軍勢率いて出陣したわけではないのです。源頼義は相模守でしたが任期は4年、前相模守が動員をかけてどれぐらいの武士が集まったのでしょうか。 相模を中心とした地域に領地を持つ者と言っても、その代表で、源頼義が戦死したと思って自分も敵陣に切り込み壮絶な戦死を遂げた散位佐伯経範は「30年将軍(源頼義)に仕え」と言ったそうですから、それは相模においてではなく、京においてでしょう。 諸国兵士の動員、諸国からの兵糧を供出すべきことを国解で朝廷に要請し、その官符は出されましたが、隣国出羽守源兼長、その後任の源斉頼も全く応じてはいません。ましてや関東の国々においてはです。
|
|