武士の発生と成立     前九年の役(前編)

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「前九年の役」の話の全てのルーツは「陸奥話記」にありその冒頭佐藤弘弥氏の現代語訳によるとこうです。

六箇郡之司有安倍頼良者。是同忠良子也。祖父忠頼東夷尊長威名大振。部落皆服。横行六郡。却略人民。子孫尤滋蔓。漸出衣川外。不輸賦貢進勤徭役。代々驕奢誰人敢不能制之。

奥六郡の首領に安倍頼良という者がいた。この者は、安倍忠良の息子で、祖父の忠頼は蝦夷の首領であった。武力をもって勢力を拡大し、村という村の者は皆これにつき従うほどの勢いがあった。奥六郡を我が物顔で横行しては、村人たちを脅し、掠め取り、その子孫たちも、その勢いに乗って、増え蔓延り、次第に衣川の外にまで勢力を拡大する有様であった。田畑に課せられた税は納めず、定められた公民としての労役も果たそうとしなかった。

この部分が一番???な部分かもしれません。しかしそれ以降の「陸奥話記」の記述だけ見ても、それが源頼義側からの記述であるにも関わらず、「陸奥話記」の編者、あるいは当時の公家は内心安部氏に同情していたのではと思ってしまいます。

「陸奥話記」

「前九年の役」の史料として筆頭にあげられるのは「陸奥話記」。前九年役のあとそれほど遠くない11世紀後期頃と推定されています。

原文はこちら陸奧話記 群書類従本 漢文です。ただし今に残るものは原本ではなく、写本、または更にその写本で群書類従本以外に4パターンぐらいが有るそうです。書き出しの「六箇郡之司」からして、別の写本では「六箇郡内」、「六箇郡之司」の「之」を取って「六箇郡司」、「陸奥六箇郡司」などあるそうです。つまり写した者の理解で変形しています。もしかすると写した者が何を目的にそれを写したかによっても変形しているのかもしれません。

作者は不明ながら「今、抄國解之文、於衆口之話、注之一卷、但少生千里之外、・・・」と、陸奥国から奏上された国解を元にしながら、それに伝え聞いた話を交えたと著者自身が書いており、朝廷内で多くの国解を見ることの出来る人物がと思われています。

最初に踏まえて置くべきことは、陸奥国から奏上された国解が元と云うことは勝者である守源頼義の側からの報告(功労のアピール)がベースと云うことです。安部氏が俘因長云々と云うのは「朝廷の臣が東夷を討つ」と云うパターンに則ったアピールなのでしょう。

同じ話は「今昔物語」、「古事談」、「古今著聞集」、更に「保元物語」、「平家物語」等にも登場しますが、おそらくそれらは「陸奥話記」の初期の写本のどれかが元ネタと思われます。その写本が現在知られている何種類のもののひとつなのかどうかも解りません。

鎮守府

奈良時代前半より陸奥国に置かれた軍政を司る役所の事。
初め多賀城(国府)に置かれていましたが、802年(延暦21)坂上田村麻呂によって平泉のちょっと北の衣川のそのまたちょっと北の胆沢城(いさわじょう)が造営されると、多賀城から鎮守府が移されます。移転後の鎮守将軍の位階は、以前の陸奥守を兼務した四位相当から五位相当に下がり、陸奥介を兼務、またはそれと同格となりました。

この話題「前九年の役」より少し前の鎮守府は、胆沢城(いさわじょう)の鎮守府で、多賀城にある陸奥国府と併存した形で、いわば第2国府のような役割を担い、胆沢の地(現在の岩手県南部一帯)を治めていたようです。

但し、この「前九年の役」の頃に本当に鎮守府が官庁として、胆沢城が建物として存在していたのかどうかははっきりしないようです。

なお、胆沢城(いさわじょう)に鎮守府がおかれた当時、多くの蝦夷(えみし)は関東や西国にまで移住させられ、逆に胆沢城には何千人(記録にあるのは4千人)という朝廷側の移民が移されて開発が進めらています。その移住が東国その他の俘囚の小反乱を引き起こします。従って胆沢城周辺に居たのは内国の人間の方が多かったはずです。もちろんその移住(血液交換?)は目論見通りに成功した訳ではなく、逃げ帰った者も相当に居たようですが。
しかし遠く離れた京の朝廷からすればじゅっぱひとからげで陸奥に居るのは野蛮な蝦夷(えみし)と云うことになってしまうのでしょう。

当時、おおよそ衣川柵あたりを境に南が内国で多賀城(国衙)の陸奥守の支配、鎮守府は奧六郡を支配する第二国衙のようなものとの見方もあります。そしてその奧6郡の郡司? 鎮守府の在庁官人? 「陸奥話記」でもここのところは写本により異なり、確実な証拠は何もありませんが、少なくとも在地で勢力を拡大してきたのが安倍氏であり、そしてその奧6郡の更に北には蝦夷の村々があり安倍氏はその蝦夷との交易も支配していたと推測されます。

在地の実力者、大規模私営田経営者(通常は郡司とか在庁官人になっていますが)と受領(守)とのイザコザはこの時期どの国でもあったことで、教科書にも載っているらしい尾張国国解や、将門の乱の発端の武蔵国の権守興余王・介源経基と武蔵武芝もそうです。
ただ、場所が奥陸奥であったことで蝦夷・東夷・俘囚との歴史を引きずって話がややこしくなったのでしょう。

鎮守府将軍

奈良・平安初期には「鎮守将軍」と称したそうですが、平安中期からは鎮守府将軍と呼ばれます。

本来は受領(陸奥守)より格下ですが、その赴任に当たっては「守」と同じ処遇「御前に召して禄を賜う」(侍中群要)を受けたようです。これは秋田城介も同様です。ただし、この時代には常に任命されていた訳ではないようです。

「将軍」と名がつくものは、鎮守府将軍を除けば征夷大将軍も含め臨時の官職だったので、鎮守府将軍は平時に唯一人の将軍です。その為、鎌倉時代より前の武士にとってももっとも名誉ある役職でした。藤原利仁将軍も、将門の父も、将門を討った藤原秀郷も平貞盛もそう伝えられ、余五将軍も鎮守府将軍を務めます。鎮守府将軍を祖先に持つことまごうことなき「武士の家」の証明となります。

秋田城介

秋田城も鎮守府に似た性格をもち、守の次の介が赴任したことから秋田城介と云われ、これも武士にとっては鎮守府将軍に次ぐ武門の家の証しとなります。今回登場する秋田城介平重成の子孫はこれを家の名誉として城氏を名乗ります。

ただし平重成以前は空席であり、そのことから重成は藤原登任の要請に応じて、対安部頼良戦の為に任命されたとの見方もあります。
また平重成以降秋田城介は任命されず、その後秋田城介となったのはずっと時代の下がった鎌倉時代の1218年(建保6)、幕府の有力御家人安達景盛に肩書きとして与えられるまでは途絶えています。「吾妻鏡」を信じればですが。従って事実上平重成が最後の秋田城介とも言えます。

吾妻鏡(健保6年3月16日条)
・・・・先ず籐右衛門の尉景盛を御前に召し、聞書(範高御前に於いて更にこれを書写す)を賜う。これ出羽権の介に任ずるが故なり。景盛恐悦顔色に彰わる。当職は、醍醐天皇の御宇昌泰二年以来中絶す。而るに後冷泉院の御時に至り、永承五年九月日平の繁盛(繁成=重成の間違い)始めてこれに任ず。その後また補任の人無きの処、今絶えたるを興さるるの條、尤も珍重と謂うべきか。

尚、秋田城は発掘調査によって11世紀の遺構が確認されており、この平重成の頃までは確かに存続したようです。

今昔物語での安倍氏

「今昔物語」巻二十五第十三「源頼義朝臣、安部貞任を罰ちたる話」

こちらは源頼義側からの話。一般に語られるのはこちらの筋書き。

「今昔物語」巻三十一第十一「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」

こちらは安部貞任の弟で安部宗任が降服して筑紫に流されていたときに聞いた話。
「今昔、陸奥の国に、安部の頼時と云う兵(つわもの)ありけり。其の国の奧に夷と云うものありて・・」
と安部氏と俘囚は別物として書かれています。

どちらをとっても安倍頼時・貞任側が仕掛けた戦ではない。平安時代からそう認識されています。

安倍氏の系譜の諸説

安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)の「俘囚」を統括し、と言われるほど勢力を持っていたことは確かでしょうが、郡司、在庁官人であったかどうかは定かではありません。更にのそ血筋については全てが推測の世界です。

前九年の役

ひとつは、一般的に語られる系譜、「陸奥話記」の冒頭に「六箇郡の司に安倍頼良なるもの有り。これ同忠良の子なり。父祖忠頼は東夷の酋長なり・・・」とあり忠頼→忠良→頼良の系譜関係が知られることと、頼良の子に貞任がいたということのみであるが、安倍氏は俘囚であると記されている点からして俘囚長の系譜であるものと解釈されている。

二つ目は、前記の南東北や関東の阿倍氏が移民とするか、征夷の関係者として奥六郡に入り鎮守府の下級官吏として実務を担当しながら実力を蓄え、後に一大勢力として伸張したのではないかという点、この考えは安倍氏は蝦夷の系統ではない一族とみることができる。

三つ目は中央貴族の出、すなわち平安初期の鎮守府将軍、陸奥介、陸奥少掾といった上級官吏に阿倍氏の名が散見され、これらのうちから奥六郡に子孫を残しものか、子弟などを呼び寄せ、後にこの地に残留する経緯があって、在地からは中央の貴種として尊敬され、代々在庁役人として力を蓄えていたものとも推測されるようです。

もしも安部氏が郡司であったのなら、私もこの方と同様に3が一番可能性として高いと思います。

1については、安部氏滅亡後の12月17日の陸奥国の國解に「散位安倍為元」と官位を持った者まで居ます。攻める側の清原氏も「朝臣」より古い「真人」と呼ばれ、また貴族の清原氏に平氏の婿入り説も確証は無いながら有力です。その清原軍の第二陣、第四陣に橘兄弟の名が見えますが、貴族橘氏は橘好則に見られるように陸奥に勢力を持ち土着しています。
そもそも光圀によって編纂された歴史書「大日本史」の「氏族志」にすら阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳7世紀中期の日本の将軍)の後裔」とあるそうで(後述)学説として「俘囚」とするのは逆に新しい方(と言っても戦前)のようです。

もうひとつ、安部氏については何を言っても証拠は無いのですが、清原氏については「清原真人」つまり臣下に下った天皇の子孫の家柄として当時から記録されています。
藤原経清は『造興福寺記』で藤原氏本家?摂関家から一族、そして五位以上の貴族と認められている家柄です。にもかかわらず、奥州藤原氏は京の朝廷と貴族から俘囚と呼ばれます。
つまり、この段階においてはその血筋とは関係なしに、東北人(元々住んで居た人、移住させられた人、土着した人全てを俘囚呼ばわりしているだけだと言うことに注意する必要があります。

また、「陸奥話記」の「父祖忠ョ東夷尊長」ですが、「陸奥話記」自体が勝者源頼義側の報告を元に書かれたもの、京の朝廷にとっては鎮守府が治める奧六群は内国ではなく占領地であり、そこに住む者はじゅっぱひとからげに「俘囚」と思いやすいと言うことともうひとつ。
鎮守府が治める奧六郡には坂上田村麿の時代から律令制は適用せず、社会制度は「俘囚」=現地人の自治を有る程度認めていたと云うことがあります。つまり占領国の出先機関、いわば軍政府・鎮守府と、被占領民・土着民の自治政府を有る程度は認めていたと。つまり「俘囚」とは「経済特区」奧六郡の住人、律令制の及ばない地域の住民、「東夷尊長」とはその地域の事実上の支配者と言う意味に解釈出来るのではないかと思います。

そしてその奧六郡の実力者が南の「内国」、陸奥守・陸奥国衙の行政エリアまで進出してきたと。

藤原登任が秋田城介平重成とともに安部氏を最初に攻めた口実は奧六郡の年貢ではなく、その南の「内国」に安部氏が保有した領域での年貢についてです。

進出と言っても、常陸国の平維幹(維基)良文流両総平氏 に見られるように、在地の私営田経営者、開発領主が天下り国司以上の経済力・軍事力を持ち得ることは当時の常識であり、何処にでも有った受領と在地勢力との紛争が、陸奥であったが為に、「俘囚」との偏見を一方に利用されてややこしくなったと見ることが出来るのではないでしょうか。

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藤原登任(なりとう、987年- ?)

藤原氏南家師長の子。主殿頭、出雲守などを歴任

1050年63歳(「尊卑分脈」にその9年後72歳で出家とあることから逆算)で陸奥守として下向。京大の元木泰雄氏は『武士の成立』の中(p89)で「朝廷は安部氏の追討の為に彼らを起用した(陸奥守藤原登任、秋田城介平重成)ものと思われる。」と書かれていますが薮の中です。しかし朝廷が奥州攻めを計画したのなら兵の家でもない老人の藤原登任など任命するでしょうか。ちょっとしゃくぜんとしません。

実はこの「前九年の役」から「後三年の役」の間にも朝廷は奥州戦争を仕掛けます。白河法皇の父後三条天皇は桓武天皇の故事にならい、自身の権威を示すべく、1069年に大和源氏の源頼俊を陸奥守として清原氏の協力も得て奥州北部の追討を敢行したと。(元木p145)

さて藤原登任は下向の翌1051年(当時64歳)「賦貢しない」とか「傭役を果たさない」などと理由をつけ、秋田城介平重成と共に安倍氏を攻めますが敗走。

秋田城介平重成

平維茂(これもち)余五将軍の子に平繁成(しげなりで読みは同じ、重衛とも)が居ますがこの人が秋田城介ですので平重成=平繁成で良いと思います。秋田城介平重成(繁成)が余五将軍平維茂(これもち)なら陸奥にも領地・利権・権益・利害関係が深く、藤原登任の誘いに乗って出兵したことは理解できます。また平繁成の秋田城介任命そのものが奥州攻めの為の朝廷の布陣だったとの説もあるようですが。

後三年の役 清原氏・平氏説によると、その子である平貞成は子は海道成衛ですなわち「後三年の役」の清原真衛の養子。越後城氏の祖と云うことになります。ただし、確たる証拠はありません。

 

源頼義が陸奥守に

朝廷は源頼義を陸奥守とし事態の収拾を図りますが、1051年に後冷泉天皇生母で藤原道長女の中宮藤原彰子の病気祈願のために恩赦。頼良は頼義と同音を遠慮して名を頼時と改め頼義に従います。その頃かその前か、陸奥国南部の秀郷流藤原経清、平永衡は頼時の女婿となります。

1053年、源頼義は鎮守府将軍も兼任。

1056年、頼義方の陣を襲撃した者があり、容疑頼時の子である貞任に違いなしと決めつけ、これにより安倍氏は蜂起。ここから数えると6年となる。

前九年役の発端は

「陸奥話記」にはどのように書いてあるのかを戦前の学者さんに説明してもらいましょう。

第四 前九年役の経過の梗概 

さて陸奥話記に拠りまして前役の梗概を申しますと奥の六郡の司に阿倍頼時というものがあった。この阿倍氏は姓氏録や続日本紀などに拠りますと陸奥の人に安倍臣の姓を賜ったことが見えて居って其の族に日下部とか、那須とかいうのがありまして、いずれも大彦命の後としてある。而して其の中にも阿倍頼時の一族が最も顕われた。これは比羅夫の後裔であって頼時の後裔には藤崎とか安藤とかいう氏があると大日本史の氏族志にこう云う工合に記載してあります。が近頃喜田博士の説には彼の俘因長云々の語に基きて盛にアイヌ人の後裔ということを説かれて居ります。

・・・そこで永承年中に陸奥守であった藤原登任という人が兵数千人を発してこれを攻めました。・・・出羽の秋田城介平重成も来ってこれを助け重成が先鋒となり登任が首隊となって頼時を攻めました。・・・所が陸奥守と秋田城介の両軍が大敗して死者も多く出来ました。そこで朝廷では大に評議があって誰か偉い大将を撰んでこの追討に宛てねばならぬが誰がよかろうかということになって源頼義が遂に其撰に当たったのであります。

頼義は父頼信このかた武名が東国に響いて居って、殊に頼義は此時相模守で最も東国の武士がこれに帰服して居ったのでありますから、かたがた頼義が陸奥守に任ぜられ鎮守府将軍をも兼ねまして奥州に下って頼時追討の大任に当たりました、これが丁度永承六年の事であります。処が頼義が任地に着しました時丁度大赦が布かれました。そこで頼時は大に悦び且つは頼義の威名にも服して居りましたので一身を捧げて頼義に帰服いたしました。

そこで奥羽二州の境内も無事に治まり戦争もなくて天喜二年に頼義は任満ちて愈々京に還ることになったのです。これまで頼義は専ら国府に在って管下を支配して居ったのですが、愈々帰京せねばならぬというので、鎮守府に参って鎮守府将軍たるの所務をも観ねばならぬ必要から鎮守府のある所へ参ったのです。そして鎮守府で最後の府務を処理して事務引続の事やら色々の用事を終え、数十日滞留の後、其所を出立して又国府への帰途に就きました。此時阿倍頼時は能く頼義に奉事して居ります。陸奥話記に頼時首を傾けて給仕し、駿馬金宝の類を悉く幕下に献じ、士卒に至るまでも振るまったと書いてある。恰も今日で申さば縣知事が縣内を巡視するに当たって其地方の有力家が出て来て知事を歓待するという様な風であったろうと思われます。処が頼義が国府への帰途に阿久利川という所に宿ったが、其の夜、人あって窃かに権守藤原説貞の子光貞元貞等の野陣の小屋に入って人馬を殺傷した。将軍此の事を聞いて光貞を召して加害者を尋ねた所が、それは頼時の長子貞任の所為であるらしいとの事でありました。何故かと申しますと貞任が以前に光貞の妹を聘して妻としたいと申込みました所が光貞の方では貞任の家柄を賤んで其縁談に応じなかった。

「陸奥話記」を読むだけでも凄い言いがかり。源頼義は即に「下手人貞任を引き渡せ」と安倍頼時に通告しますが、「今昔物語」巻二十五第十三「源頼義朝臣、安部貞任を罰ちたる話」によると安倍頼時は貞任こう云って源頼義の引き渡し要求を拒絶したと。

「人の世に有ることは皆妻子の為也、貞任我が子なり、棄(すて)むこと難有し(出来る訳はない)。被殺(ころされるの)を見て、我世に不可有る(自分は生きておられようか)。・・・汝不可嘆(なげくべからず)」

良いことを云いますね。まさに「人の道」ですね。
安倍頼時・貞任は可哀想ですね。上記「今昔物語」の記述は 「陸奥話記」のこれが元ネタでしょう。

頼時その子姪に語りて曰く、「人倫世に在るは、皆妻子のためなり。貞任愚かといえども、父子の愛、棄忘すること能はず。一旦、誅に伏さば、吾何をか忍ばんや。関を閉ざし、来攻を甘んじて聴かざるにしかず。況や吾が衆もまた、これを拒み戦うに足りず。未だ以て憂いと為さず。たとえ戦さ、利あらずとも、吾が儕死また可ならずや」と。その左右の皆曰く、「公の言、是なり。請う、一丸泥を以て衣川の関を封ぜば、誰か敢へて破る者有らんや」と。  

投降して京に連れていかれた安部宗任から伝え聞いた話なのかもしれません。あるいは源頼義が安倍頼時がそう思うように無理難題な言いがかりをつけて安倍頼時を合戦に引きずり出したと言うことを「陸奥話記」の著者は書きたかったのか。

源頼義の前任国司藤原登任が安倍頼時(当時は頼良)を攻めた事情はこれも一方的な情報だけで真相は不明です。確かなのは安部氏が仕掛けたものでは無いと言うことぐらい。

前九年の役の首謀者は?

その絵を描いたのが源頼義だったのかどうか、以前は源頼義首謀者説が大勢を占めていましたが、最近では権守藤原説貞ら在庁官人の主導との見方が有力になっているそうです。
実際このときは源頼義は陸奥守としては任期切れ(鎮守府将軍としては不明)のときであり、後任は武士ではない藤原良綱で、乱の勃発を聞いて辞退し、源頼義が再任されています。その後1061年12月、再び任期が切れたときの後任は高階経重で、この人は実際に陸奥に赴任しましたが、在庁官人が誰も言うことを聞かず「なすところなく帰京」したと。

もうひとつ、朝廷は徹底的にやる意志を持っていたのかと言うとそうでもなさそうです。追討官符などうやむやになることはこの時代日常茶飯事ですので。
戦の最中の後任、文官の高階経重にはそういう含みがあったのかもしれません。また源頼義が「諸国の兵」(出羽/関東の兵)の動員を求めても朝廷はすぐには応じなかったようです。

源氏はこのとき板東の武士の頭領であったのか

後世、この合戦で板東の武士がことごとく源頼義に従って戦ったように言われますが、そう言われ出したのは頼朝以降でしょう。実体は後でも書きますが、藤原景通は美濃、藤原則明は河内に本拠地を持つ京武者で。おそらくは直属の配下はそれら京武者と、相模を中心とした地域に領地を持ち源頼義と関係の深かった者で、それら直属兵力それほどは大きなものとは思えません。

源頼義の父頼信は確か平忠常の乱で功績を挙げました、しかしそれは投降の説得であって源頼信は甲斐の国を出ていません。軍勢率いて出陣したわけではないのです。源頼義は相模守でしたが任期は4年、前相模守が動員をかけてどれぐらいの武士が集まったのでしょうか。

相模を中心とした地域に領地を持つ者と言っても、その代表で、源頼義が戦死したと思って自分も敵陣に切り込み壮絶な戦死を遂げた散位佐伯経範は「30年将軍(源頼義)に仕え」と言ったそうですから、それは相模においてではなく、京においてでしょう。
波多野氏の祖と言われますが、秀郷流藤原公光の子(尊卑分脈」)か婿(佐伯系図)かで、また波多野荘が摂関家の荘園でありその庄司になったこと、波多野氏は相模以外にも確か伊勢にも領地を持っていたこと、そして代々の官位からも京武者としての側面を持っていたと見て間違いは無いと思います。

諸国兵士の動員、諸国からの兵糧を供出すべきことを国解で朝廷に要請し、その官符は出されましたが、隣国出羽守源兼長、その後任の源斉頼も全く応じてはいません。ましてや関東の国々においてはです。