兵の家各流・平氏     越後城氏

平兼忠

上総介・出羽守 (尊卑分脈

鎮守府将軍・平維良の父、関白・藤原道長に仕えていたとも。
「今昔物語」(巻第二十五 第四「平維茂が郎党、殺され話」 には余五将軍平維茂の父とも書かれる。

野口実『武家の棟梁の条件』(中公新書)p123には「兼忠が出羽城介に任じたのが天元3年(980年)であることからすると」とあるが、その出典までは記載されていない。『桓武平氏諸流系図』か。p125には「「兼忠が出羽城介であったことは確実であり」とかなり確信をもって書かれている。

平維良

平兼忠の子
1003年(長保3)に下総国府を焼討ちし官物を掠奪したかどで押領使藤原惟風の追補を受け、越後に逃亡した。
1014年(長和3)小右記の2月7日条には陸奥国鎮守府将軍の重任を得るため、道長に馬20疋他豪華な貢ぎ物を行い、門前にはそれを見ようとする見物人が列をなしたと。それ以前に鎮守府将軍であったことが解る。

尊卑分脈には見えない。

 

平維茂(これもち)余五将軍

尊卑分脈」では 鎮守府将軍(或非将軍云々)・信濃守・従五位上
「桓武平氏系図」によれば将軍出羽介(出羽城介)

「今昔物語」では平貞盛の弟陸奥守繁盛の孫で上総介兼忠の子、または繁盛の子とするものもある。叔父平貞盛の養子となり、貞盛の数多い養子の中で15番目にあたることから余五(よご)、長じて信濃守、出羽介(秋田城介)、を歴任し鎮守府将軍となったことから余五将軍と呼ばれる。

東国の武者藤原諸任(ふじわらのもろとう)との合戦他一話が「今昔物語」にある。山城(やましろ)の鬼女退治などの伝承もあるが、それ以外には同時代の記録に見えないことから、野口実氏他は平兼忠の子鎮守府将軍平維良と同一人物と見る。

こちらは???。紅葉狩  戸隠 鬼女伝説

「今昔物語集」巻第25 第4 「平維茂が郎党、殺され話」 第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」
『中世東国武士団の研究』 「平維茂と平維良」 野口 実

惟貞

維茂−繁貞−繁清−惟貞−繁賢

従五位下・右衛門尉・石見守 (尊卑分脈)

繁賢 

維茂−繁貞−繁清−惟貞−繁賢

従五位下・壱岐守(尊卑分脈)

平繁成、(繁茂、重衛)

維茂の子、秋田城介 尊卑分脈には従五位下出羽城介とあるが、秋田城介と同義

陸奥守藤原登任は秋田城介平重成と安倍頼良を攻めるために軍を起こしたのが「鬼切部の戦」(1051年、永承6年11月)で、平繁成は2000の兵を出羽(秋田)方面から多賀城へと向かい、藤原登任は3000の兵隊で北上を開始。
この両軍が合流して、鬼切部で安倍頼良と衝突。
秋田城介平重成(繁成)が余五将軍平維茂(これもち)なら陸奥にも領地・利権・権益・利害関係が深く、藤原登任の誘いに乗って出兵したことは理解できます。また平繁成の秋田城介任命そのものが奥州攻めの為の朝廷の布陣だったとの説もあるようですが。

後三年の役 清原氏・平氏説によると、その子である平貞成は子は海道成衛ですなわち「後三年の役」の清原真衛の養子。越後城氏の祖と云うことになります。ただし、確たる証拠はありません。

後三年の役 清原氏・平氏説

 清原氏は平氏である可能性が高い説も存在している。この説は桓武平氏諸流系図(中条家文書)所収にみえるものとされ、史料的には信憑性が高いものとされているようです。
 この系図によると清原武則の父は平安忠とされ、この系統は海道平氏と呼ばれ現福島県浜通り地方に勢力を持っていたと一族である。さらに前九年の役の発端となった陸奥守藤原登任の援軍として参戦した秋田城介、平重衛は父、平維茂もまた秋田城介で、さらに重衛の子である平貞成の子は海道成衛で、すなわち清原真衛の養子となった清原成衛で清原氏、海道平氏系は何かしらのつながりがあるとの見解もありますが、中央官人清原氏、平氏と存在する説をみますと清原氏は俘囚の出ではないとの結論が生じます。

「清原氏・平氏説」と言うと誤解を生みそうな気が。清原氏は清原氏で養子に入ったと言うことでしょう。ただそうすると清原氏は武則以前にこの地に勢力を張っていて、婿養子?の武則がその勢力を引き継いだと言うことになりますが、清原氏がこの地に勢力を張っていてたと言う史料は皆無です。ともかく断片的にしか情報が残っていない。ただし平氏の一流が出羽・奥州に勢力を広げていたことは確かなようです。

清原武則自身も海道平氏から清原氏に入った人物であることを示唆する系図がある。かなりに信頼度が高い系図とされる「桓武平氏諸流系図」には(野口実「平安期における奥羽諸勢力と鎮守府将軍」『古代世界の諸相』1993)、清原武則を平貞盛の弟の繁盛の孫と表記し、それが清原氏に入ったとされている。この系図によれば清原武則の系統の清原氏は平繁盛の系統のなかでも、とくに海道平氏と一体のものだったということになる。ちなみに前九年の合戦の発端時に、陸奥守藤原登任とともに安倍氏と戦った出羽城介・平繁成も平繁盛の孫(『尊卑分脈』)である。
真衡は養子に迎えた成衡の妻として、源頼義と常陸の多気権守平宗基むねもと(致幹むねもと)の娘との間に生まれ、宗基に養われていた女性を迎えることにした。多気権守致幹は常陸大掾系図に「為幹(常陸大掾) ――繁幹(上総介)――致幹(薩摩守・多気権守)」とある人物である。源頼義は前九年の合戦の折に多気権守のもとに立ち寄ったことがあり、その際に娘をもうけ、その娘を多気権守は大事に育てていたのである。為幹は平繁盛の孫(『尊卑分脈』)とも平貞盛の孫【桓武平氏諸流系図】ともされる人物である。清原氏と平繁盛の系統の平氏とのこのような関係をふまえると、清原真衡が養子として平氏から成衡を迎えたことも、その妻として平宗基(致幹)の孫娘を迎えたことも自然であろ (世界遺産講座・平泉への道:平泉藤原氏の時代

野口実氏は同じようなことを『武家の棟梁の条件』(中公新書)p122でも書いています。

城貞成(城太郎)

繁成−貞成(尊卑分脈)

 

海道成衛(不明)

妻、清原武衡娘、つまり源頼義と常陸の多気権守平宗基むねもと(致幹むねもと)の娘との間に生まれ、宗基に養われていた女で、後三年の役の清原武衡の養子となった海道成衛がこの資国。が、清原武衡が突然死んで事実上養子の意味が無くなったのだろう。 『白河の御館』と呼ばれる

網野善彦氏が発見した例の『大中臣氏略系図』(鎌倉時代末)に記載があり、「海道小太郎業平(なりひら=成衛)が「御勘気」を蒙った際に大中臣性中部氏の祖にあたる中部権守頼経が下野国氏江(氏家)風見楯」にこれを討ったとある。網野氏も野口氏も「御勘気」は源義家であろうとしている。尚、海道氏はその後の奥州藤原氏の代におうても、藤原氏の下で一種独特の地位を保ったようであるとする。(野口実『武家の棟梁の条件』 中公新書p126)

城資国

平繁成−貞成−永基−城九郎助国(尊卑分脈)
平維茂−−−−−−−助國(城九郎)−長茂(越後守城四郎) (桓武平氏系図)
                長茂弟 助永(従五位下越後守) −資盛(城長茂)

城資国(じょうすけくに,助国,九郎)
[父、城永基。養父、城永家]妻、清原武衡娘。『白河の御館』と呼ばれる平家方人物辞典  
これはちょっと変、海道成衛=城資国? これ以下は系図は混乱

城資長(資永とも)

資国嫡男、越後瀬波川流域奥山荘を収める。越後守

城資長(じょうすけなが,助長,資永,助永,資元,太郎)
[城資国嫡男]越後豪族(瀬波川流域奥山荘)。越後守。伯父宮禅師と乙宝寺の純金三重の塔を建立。養和元年(1181)1/16、頼朝追討の宣旨。2/25(or9月)、病死平家方人物辞典 

城資職 

資職は信濃に侵入、初め華々しく木曽勢を討ったが、やがて反撃されて会津に逃れた。平家はこの資職を越後の守に任じ、奥州藤原氏とともに、頼朝・義仲を挟み撃ちにしようとしていた。資職は”白河の御館”とよばれるようにその本拠は白河荘(水原町)であった。白河荘は、奥山荘とならんで殿下渡領(摂関家領)であり城氏はその開発領主であった。

「新潟県の歴史」井上鋭夫 1970山川出版

以下も同一人物なのかどうか、全く混乱!

城長茂(本名資盛)

資国4男?、阿賀野川流域白河荘. 1181/6/14、横田河原の合戦で源義仲軍に敗戦、8/15、従五位下・越後守。1188年(文治4)源頼朝に御家人にと懇願、梶原景時に預けられ、頼朝は文治4年(1188)9月に御所に召し出して対面した。

吾妻鏡 文治4年(1188)9月

尊南坊僧都定任熊野より参向す。これ年来御本尊(愛染王像)並びに御願書を給い置き、御祈祷の薫修を積むなり。二品偏に二世の悉地を恃ましめ給う。
而るを城の四郎長茂 は、平家の一族として関東に背くの間、囚人として景時に預け置かるる所なり。
これまた定任を以て師檀と為す。仍って参上の次いでを以て免許有り。御家人に召し加えらるべきの由、頻りに執り申すの間、二品召し仕うべきの由仰せらる。今日定任御所に参る。簾中に召し入れられ、世上の雑事を談り給う。御家人等侍(二行、東を以て上と為す)に着座す。南の一座は重忠、北の一座は景時なり。爰に長茂参入す。
諸人目を付けるに、長七尺の男なり。白の水干・立烏帽子を着す。二行着座の中を融り参進し、横敷に着し、簾中を後に宛つ。その内より二品御一覧、是非を仰せられず。
定任この躰を見て頗る赭面す。景時長茂に対して云く、彼の所は二品御坐の間なりと。
長茂存知ざるを称し、座を起ち即ち退出す。その後定任執り申すに及ばずと。この長茂(本名資盛) は、鎮守府将軍維茂(貞盛朝臣の弟なり)の男、出羽城介繁茂七代の裔孫なり。
維茂の勇敢上古に恥じざるの間、時の人これを感じ、将軍宣旨以前に、押して将軍と称す。而るを武威を以て大道を為すと雖も、毎日法華経八軸を転読し、毎年六十巻(玄義文句止観)一部を一見す。また恵心僧都に謁し住生極楽の要須を談る。
繁茂生まれて則ち逐電す。悲歎を含みながら四箇年を経て、夢想の告げに依って捜し求むの処、狐塚に於いてこれを尋ね得て、家に持ち来たる。その狐老翁に変ぜしめ忽然と来たり、刀並びに抽櫛等を嬰児に授くと。翁深窓に於いて養育せしめば、日本の国主たるべし。今に於いては、その位に至るべからずと。嬰児は則ち繁茂なり。長茂遺跡を継ぎ彼の刀を給い、今にこれを帯すと。

尊卑分脈と桓武平氏系図をつなげれば確かに平維茂から7代目が資盛(城長茂)になる。

平維茂−平繁成−貞成−永基−城九郎助国−助永(従五位下越後守)−資盛(城長茂)

奥州攻めに参加し、このとき、自分の旗を掲げれば逃亡の郎党が群集するだろうと公言した。旬月を経ずして200人の郎党が馳せ参じたのをみて、さすがの頼朝も驚かされたとか。

「新潟県の歴史」井上鋭夫 1970山川出版

吾妻鏡 1201年 (正治3: 建仁1) 3月4日
京都の飛脚参着す。去る月二十二日、城の四郎長茂並びに伴類新津の四郎以下、吉野の奥に於いて誅せられをはんぬ。長茂先立って出家を遂ぐ。同二十五日、長茂並びに伴党四人の首大路を渡さると。

 

城長茂(じょうながもち,永茂,永用,長用←助職,助元,資茂,四郎)
[城資国4男]越後奥山荘豪族(阿賀野川流域白河荘)
保延7年(1141)頃(or1152)誕生。養和元年(1181)6/14、横田河原の合戦で源義仲軍に敗戦、越後→会津へ敗走、4,50人で越後へ。助職から長茂と改名。8/15、従五位下・越後守。文治4年(1188)源頼朝に御家人にと懇願、梶原景時に預けられる。文治5年(1189)7月、奥州出兵参戦。正治2年(1200)1/20、梶原氏滅亡→御家人になれず。建仁元年(1201)1/23、小山朝政を攻撃。関東追討宣旨もらえず。2/22、潜伏先の吉野で討死。平家方人物辞典 

 

城資茂 (城資盛とも)

長茂の反乱に呼応して、越後でも城資茂が鳥坂城(中条町)に兵をあつめて背き、幕府がたの追討軍を追い散らすという事態を引き起こした。越後にはしかるべき御家人がいないため、幕府は上野にいた佐々木盛綱に命じて越後御家人の総大将として、討たせることにした。

「吾妻鏡」1201年(正治3:改元・建仁1)5月14日には越後国において資永の子城資盛の挙兵が見え(建仁の乱)。これは坂額御前の兄の城長茂の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は1201年2月22日に吉野の奥に於いて討ち取られるが、城資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせたが敗走。

鳥坂城についてはあとで。

坂額御前

城資永の娘。
坂額は同時代の巴御前と並び称される程の武勇の持ち主で、「吾妻鏡」では

女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。 中たるの者死なずと云うこと莫し

と書かれている。

しかし最終的には藤沢清親の放った矢に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。坂額は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾される。