(鎌倉城資料)  吾妻鏡での城・館 1190-1236年

吾妻鏡1192年(建久3)

2月11日

走湯山の住侶専光房使者を進す。
申して云く、直實が事御旨を承るに就いて、則ち海道を走り向かうの処、上洛を企てるの間、忽然として行き逢いをはんぬ。すでに法躰たるなり。而るにその性殊に異様なり。ただ仰せの趣を称し抑留せしむるの條、曽って承引すべからず。仍って先ず出家の功徳を讃嘆し、次いで相構えて草庵に誘い来たり。同法等を聚め浄土宗の法門を談り、漸く彼の鬱憤を和順せしむるの後、一通の書札を造り、遁世逐電の事を諫諍す。茲に因って上洛に於いては猶予の気出来するか。
てえれば、その状の案文を送り進すと。将軍家太だ感ぜしめ給う。猶秘計を廻らし、上洛の事を留むべきの由仰せらると。
[専光の状案に云く、]
遠くは月氏の先蹤を訪い、近くは日域の旧規を案ずるに、有為の境を出で、無為の道に入るは、専ら制戒の定まる所、佛勅限り有り。抑も 霊山金人の王舎城を出で、壇特山に入り、猶摩耶の恩徳を報ぜんが為に、トウ利天に安居せしむること九十日、 花山法皇の鳳凰城 を去り、熊野山に臨む。また皇祖の菩提を救わんが為に、那智雲に参籠せしむること三ヶ年、これ皆智恩を表し恩理に報いんが故のものか。爰に貴殿図らずも出家の道を起して、遁世有るべきの由その聞こえ有り。この條冥慮に通ずるに似たりと雖も、頗る主命に背かしむるものか。凡そ武略の家に生まれ、弓箭の習いに携わり、身を殺すを痛まず。偏に死に至るを思うは、勇士の執る所なり。
これ則ち布諾に背かず、芳契を忘れざるの謂われなり。而るに今忽ち入道し遁世せしむるは、仁義の礼に違い、累年の本懐を失わんか。如じ、縦え出家の儀有りと雖も、元の如く本座に還らしめよ。もし然らずんば物儀に背かず、宜しく天意に叶うべきものならんや。これを為すこと如何。

この直實風諫の雁札を以て、来葉称美の亀鑑に伝えんが為、右京の進仲業にこれを預け置かると。

「霊山金人の王舎城を出で」は不明、所謂「城」ではなかろう。「金人」は仏の意味もあり。

吾妻鏡1193年(建久4)

八田知家陰謀の件・「多気山城に楯籠」

6月5日

祐成等が狼藉の事聞き及ぶに随い、諸人馳参するの間諸国物騒す。
八田右衛門の尉知家と多気の太郎義幹とは常陸の国の大名なり。強ち宿意を挿まずと雖も、国中に於いて相互いに聊か権勢を争う者なり。
而るに知家この事に依って参上せんと欲するの刻、内々奸謀の所存有り。疋夫の如きの男を義幹が許に遣わし、八田右衛門の尉軍士を相催し義幹を討たんと欲するの由、これを構えしむ。
仍って義幹防戦の用意を構え、一族等を相聚め、多気山城に楯籠もる。これに依って国中騒動す。
その後知家また雑色男を遣わし、義幹に告げ送りて云く、富士野の御旅館に於いて狼藉有るの由風聞するの間只今参る所なり。同道すべし。てえれば、義幹答えて云く、所存有って参らずと。
この使いに就いて、義幹いよいよ以て防禦の支度を廻すと。

 

6月12日

八田右衛門の尉知家、義幹野心有るの由を訴え申す。これを聞こし召し驚き、義幹を召し遣わされをはんぬ。

 

6月22日

多気の義幹召しに応じ参上するの間、善信・俊兼等奉行として、知家を召し決せらる。
知家訴え申して云く、去る月祐成が狼藉の事、今月四日承り及ぶに随い参上せんと欲す。
而るに義幹を誘引すと雖も、義幹一族郎従等を集め、多気山城に楯籠もり反逆を企つと。
義幹陳謝す。その趣明らかならず。 但し城郭を構え軍士を聚むるの事に於いては、承伏し遁るる所無し。
仍って常陸の国筑波郡・南郡・北郡等の領所を収公せられ、その身を岡部権の守泰綱に召し預けらると。
所領等に於いては、則ち今日馬場の小次郎資幹に賜ると。因幡の前司廣元これを奉行す。

 

吾妻鏡1200年 (正治2)

1月20日 梶原平三景時の失脚

辰の刻、原の宗三郎飛脚を進し申して云く、梶原平三景時この間当国一宮に於いて城郭を構え、防戦に備うの儀、人以て怪しみを成すの処、去る夜丑の刻、子息等を相伴い、潛かにこの所を逃れ出ず。これ謀叛を企て上洛の聞こえ有りと。

「城郭を構え」が日常ではなく、極めて異例な戦闘準備のころであることが解る。

吾妻鏡1201年(正治3:改元・建仁1)

5月14日 城郭を構え

佐々木三郎兵衛の尉盛綱入道が使者参着し、一封の状を捧ぐ。・・・その状に云く、日来城の小太郎資盛、朝憲を謀り奉らんと欲し、城郭を越後の国鳥坂に構う
近国の際忠直を存ずるの輩、なまじいに来襲すと雖も、還って悉く以て敗北す。爰に西念発向すべきの由厳命を奉る。件の御教書、去る月五日西念が住所上野の国磯部郷に到着す。
仍って時刻を廻らさず鞭を揚げ、三箇日の中に鳥坂口に馳せ下る
則ち使者を資盛に遣わし、御教書の趣を相触るの間、早く城辺に来るべきの由を答う。
茲に因って勇士等を発す。時に越後・佐渡・信濃三箇国の輩、鋒を争い競い集まる。
西念が子息小三郎兵衛の尉盛季先登せんと欲するの処、信濃の国の住人海野の小太郎幸氏、盛季が右方を抜き進出せんと欲す。爰に盛季郎従幸氏が騎轡を取る。この間盛季思いの如く先登に進み一箭を射る。その後幸氏また進み寄せ相戦うの間疵を被る。
資盛已下の賊徒、矢石を飛ばすこと 雨脚に異ならず。合戦の間彼の両時に及び盛季疵を被る。
郎従等数輩、或いは命を殞し或いは疵を被る。また資盛姨母の坂額御前と号するもの有り。
女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ、腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。 中たるの者死なずと云うこと莫し。
西念郎従また多く以てこれが為に誅せらる。時に信濃の国の住人藤澤の次郎清親城の後山を廻り、高所より能くこれを窺い見て矢を発つ 。その矢件の女の左右の股を射通す。即ち倒れるの処清親郎等生虜る。疵平癒に及ばばこれを召し進すべし。姨母疵を被るの後資盛敗北す。
出羽城の介繁成(資盛曩祖)野干の手より相伝する所の刀、今度合戦の刻に紛失すと。

「日来城の小太郎資盛」は「日来城」の小太郎ではなく、「城の小太郎資盛」、つまり城氏と言う一族の名。先祖が秋田城介であったことから。「出羽城の介繁成」は出羽国秋田城介平繁成、(繁茂、重衛とも)、余五将軍平維茂(これもち)の曾孫

吾妻鏡1203年(建仁3)

9月17日〜26日 叡山の堂衆と学生と確執「城郭を構え」

9月17日

掃部の頭入道寂忍注し申して云く、叡山の堂衆と学生と確執し合戦に及ぶ。その起こりと謂うは、去る五月の比、西塔釈迦堂衆と学生と合和せず。惣堂衆始めて各々別に温室を興す。八月一日学生城郭を大納言岡並びに南谷走井坊に構え、堂衆を追却す。
同六日、堂衆三箇庄官等の勇士を引率し登山し、上件の城郭を攻め戦う。両方の傷死の者勝計うべからず。而るに院宣を下さるるに依って、堂衆は、同七日城を棄て退散す。学生は、同十九日城を出て下洛しをはんぬ。今に於いては静謐の由を存ずるの処、同二十八日また蜂起す。本院の学生同心し、霊山・長楽寺・祇園等に群居し、重ねて濫行に及ばんと欲すと。

 

10月26日

京都の飛脚参着す。申して云く、去る十日、叡岳の堂衆等、八王子山を以て城郭と為し群居するの間、同十五日官軍を差し遣わし、これを攻めらるるに依って、堂衆等退散すと。
葛西の四郎重元・豊嶋の太郎朝経・佐々木の太郎重綱以下官軍三百人、悪徒の為討ち取られをはんぬ。伊佐の太郎・熊谷の三郎等先登に進むと。

同十九日五幾七道に仰せ、梟党等を召し進すべきの由宣下すと。その間悲しむべき事有り。
佐々木中務の丞経高・同三郎兵衛の尉盛綱、勅定を奉るに依って山門に発向せんと欲するの処、同四郎左衛門の尉高綱入道(黒衣、桧笠を着す)高野より来たり。舎兄等に謁す。
而るに高綱入道が子息左衛門太郎重綱、伯父経高に属き出立するの間、入道子の行粧を見るべきの由を申す。重綱甲冑を着し父の前に来る。父暫くこれを見て、敢えて瞬きすること能わず。また詞を出さず。その後重綱休所に退去す。その際経高・盛綱等重綱に感じて云く、今度の合戦、芸を彰わし名を挙げ、勲功の賞に預ること、その疑い無しと。
高綱入道これを聞いて云く、勇士の戦場に赴くは、兵具を以て先と為す。甲冑は軽薄、弓箭は短小なり。これ尤も故実たり。就中、山上坂本辺の如き歩立合戦の時、この式を守るべし。而るに重綱が甲冑太だ重く、弓箭大にして主に相応せざるの間、更に死を免かるべからずと。
果してその旨に違わず。しかのみならず彼の時兵法の才学を吐く。盛綱等これを聞き、件の詞を意端に挿み、合戦を致すの処、一事としてこれに府合せざると云うこと莫しと。

 

吾妻鏡1213年(建暦3:改元・建保1)

8月14日 清水寺・城を構う

京都の飛脚参着す。申して云く、去る月二十五日清水寺の法師一堂を建立す。
その地清閑寺領に在るの由。彼の寺憤欝し相論するの間、清閑寺は台嶺の末寺たり。山またこれを咎む。清水寺は南都の末寺たるに依って、奈良殊にこれを怒る。而るに今月三日清水寺城を構う。山僧は長楽寺に集会す。
公家より先ず検非違使有範・惟信・基清等を遣わし、清水の城を破却す。武備を制止し、急ぎ法衣を着し仏前に在るべきの旨仰せ含めらる。寺僧これを承伏す
相次いで廰官長季を長楽寺に遣わし、禁制せらるの処、所司法師等僅かに相逢い、更に承伏の詞無し。廰官猶衆徒に逢い綸言を伝うべきの由示し含むの間、悪僧等妄りに奇怪の詞を吐く。曽って身命を惜しむべからず。
綸言を承り及ばざる由呵叱し、殆ど放言に及ぶ。廰官当時の恥を遁れんが為退去するの間、飛礫門扉を打つ。馳せ帰り奏聞するの間、忽ち北面の輩並びに在京の健士・近臣の家人等に仰せられ、彼の寺の四至を囲む。一人残らず生虜るべきの由宣下す。
これに依って壮士等先登に進む。近江の守頼茂、伏兵を将て嶺東の険阻を遮り、山上の者を生虜る。これ悪徒等多く険阻に赴く。仍って先ず家人をしてその所に廻らしめ、旗を嶺上に指し上げるの間、更に還り奔る。登嶺者幾ばくならず。時に狼藉に及ばず。
甲冑を剥ぎこれを相具し参らしむ。殊に叡感に預かる。凡そ生虜三十人、誅せらる者十余人なり。同六日、山門の衆徒悉く離山す。中堂・常行三昧堂を打ち付け、常燈を滅す。七社以下の御簾・神鏡を截り落とし、門々を鑽し、祠官を追放すと。天台仏法魔滅の期に及ぶかと。

極めて一時的な施設であったことが解る。

明月記での同じ事件

7月25日

伝聞、清水寺の法師一堂を建立す。その地清閑寺領に在るの由、彼の寺の法師憤欝し相論するの間、清閑寺は山の末寺たるの間、山僧またこれを咎む。清水は本より奈良の末寺たるに依って、南京また怒ると。事定めて不善に及ぶか。今夜山法師件の新立堂を焼くの由風聞す(後聞、大衆の所為に非ず。或いは云く、清水方より焼くと)。
後日これを尋ね取り、忠廣或る人の許に注し送ると。

8月3日

伝聞、山僧少々祇園に入りその門を鎖し、清水を焼かんと議すと。戒服し、清水また日来より城を守ると。所々これを堀切る(皆甲冑を蒙る。三條坊門)。
仙洞官軍を召さる。制止せんが為か。洞院大路(三條坊門押小路)に在り。また或いは清水に遣わさると。また云く、山の悪徒追い来たり加わり、河東に横行すと。炎旱すでに久し。
兵革静かならず。申の時ばかりに閭巷の説に云く、山法師長楽寺に籠もり、清水に寄せんと欲す。上下北面の衆・主典代・廰官等を遣わし、頻りに止むべき由仰せらる。
更に承引せざるの間、官兵を遣わし、その法師原を搦め召さるるの間、死傷者多し。
また僧十余人を縛り、御所の辺に参ると。路頭太だ騒動すと。日入以後御所に参る。
今日の事を問うに、清水寺城を構え、山僧長楽寺に集会す。先ず検非違使を遣わし清水の城郭を破らる。武備を制止し、急ぎ法衣を着し仏前に在るべき由仰せ含めらる。寺僧承伏す。穏便の儀なり。

相次いで廰官を長楽寺に遣わし、制止せらる処、所司法師等僅かに出合い、更に承伏の詞無し。廰官猶衆徒に逢い、綸言を伝うべきの由示し合わすの間、悪徒等出来し、妄りに奇怪の詞を吐く。更に身命を惜しむべからず。綸言を承り及ばざるの由呵叱し、殆ど放言に及ぶ。
廰官当時の恥を遁れんが為還出するの間、飛礫を以て門扉を打つ。馳せ帰り奏聞するの間、忽然西面の輩並びに在京の武士・近臣の家人等に仰せられ、彼の寺の四至を囲む。一人も泄らさず搦め取るべき由宣下す。・・・西面の壮士先登の輩、或いは死傷の者有りと。官軍の中多くこれ有り。未だ定説を聞かず。近江の守頼茂伏兵を将て嶺東の険阻を遮り、多く山上に逃げる者を搦めると。後日彼の朝臣語りて云く、逃げる者多く険阻に赴く。早く罷り向い旗を嶺上に指し出すの間、更に還り奔る。登嶺者は幾ばくならず。仍って狼藉に及ばず。ただ両三人甲冑を剥ぎ、相具し参るべきなりと。謂う所尤も穏便なり。

 

吾妻鏡1236年(嘉禎2)

南都(奈良)の蜂起

10月2日

六波羅の飛脚参着す。申して云く、去る月中旬の比より南都蜂起す。城郭を構え合戦を巧む。六波羅使者を遣わし相宥むと雖も、いよいよ倍増すと。

 

10月5日

評議を経らる。南都の騒動を鎮めんが為、暫く大和の国に守護人を置き、衆徒知行の庄園を没収し、悉く地頭に補せられをはんぬ。
また畿内・近国の御家人等を相催し、南都の道路を塞ぎ、人の出入りを止むべきの由議定有り。印東の八郎・佐原の七郎以下殊勝・勇敢・壮力の輩を撰び遣わさる。衆徒もし猶敵対の儀を成さば、更に優恕の思い有るべからず。悉くこれを討亡せしむべしと。且つは各々致死を欲すべきの由、東士に於いては、直に仰せ含めらる。京畿に至りては、その趣を六波羅に仰せらる。
また南都領の在所悉く知ろし食されべからざるの処、武蔵得業隆圓密々にその注文を佐渡の守基綱に与う。基綱関東に送進するに就いて、地頭に新補せらると。

 

11月1日

未の刻六波羅の飛脚参着す。南都去る月十七日の夜城郭を破り退散す。これ所領に於いて、地頭を補せられ塞関せらるるの間、兵粮の計を失い、人勢を聚め難きが故なりと。

「夜城郭を破り退散す」は敵が破ったのではなく、自ら防衛線を解いて退散したと。

 


 謝辞:吾妻鏡は こちらのサイトを参考にしています。とても助かっています。ありがとうございます。