兵の家各流・平氏    常陸平氏・大掾氏

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平繁盛 平維幹 平為幹 平安忠 

平繁盛

尊卑分脈11冊22/50には 「武略通神人也」 陸奥守 正五位下 とあるが信じがたい。

有名なのが寛和3(987)年正月24日『太政官符』等この「金泥の大般若経」の話です。平繁盛は将門と抗争を繰り広げた叔父平国香の子で、将門を討った平貞盛の弟で、兄平貞盛が京で出世したのに対し、父平国香の常陸国での遺領を継ぎ代々常陸大掾として土着し、常陸の大豪族となります。その繁盛が「将門の乱」で大功をあげたのにそれから五十年余たつ間、自分だけ恩賞が出ていないと嘆いて、朝廷へのアピールの為に「聖朝安穏鎮護国家の御為」という名目で金泥の大般若経を比叡山延暦寺に納経しようとしたところ、その金泥の写経を持った一行が武蔵国で平良文の子の「陸奥介平忠頼、忠光等」によって散々に打ちのめされて納経出来ず、繁盛は太政官(朝廷)にこれを訴える「解状」を提出します。将門の乱のときに平繁盛が何歳であったかは知りませんが、およそ80歳前後までまともな官職にはついていないと考えられます。

子に平維幹 平兼忠 平安忠? 平維茂(これもち)余五将軍?

平維幹(維基) 常陸大掾氏

「今昔物語」に登場していたと思うが、後日

999 12月 平繁盛(平国香の次男・常陸大掾)の子の平維幹(常陸大掾:貞盛養子)、右大臣藤原實資に臣従し絹、馬などを献上、五位の叙爵を得る。
平維幹は多気山(筑波市北条)に館を持つことから多気大夫と呼ばれる。

和名抄,筑波郡水守郷,・・・中世或三守(尊卑分脈),又水漏(大掾系図)に作る,将門記にも水守営とある所なり,(国香が宅,石田よりも近し)後貞盛が子維幹居り,水守大夫と称す,後多気(今北条村)に徒り,多気大夫と云ふ,嫡子為幹は多気の総領を継ぎ,二子為賢水守氏たり(分脈系図,宇治拾遺物語)今古墟猶存す, 吉田東伍「大日本地名辞書」第六巻「坂東」p.1086

『今昔物語』巻第二五第九「源頼信の朝臣、平忠恒を責めたる話」では左衛門大夫惟基として登場。常陸介源頼信が「館の者共(頼信直属の兵)、其の国の兵(惟基以外の常陸の豪族軍)共打ち具して二千人」であるに対し、平惟基は単独で「三千騎軍を整えて」合流。数に誇張はあるにせよ比率に注目。国司の動員力を大きく上回っている。

 

平為幹

1020年7月 紫式部異母弟、常陸介藤原惟通の死後、その妻を平維幹の子為幹が強姦 
「故常陸守惟通朝臣妻、強姦彼国住人散位従五位下平朝臣為幹、縁惟通母愁被召」 
藤原惟通の母が訴えた(愁被召)ことによると言う翻訳で良いのでしょうか? やりたい放題ですね。

国司(受領)が生きているうちは国の兵、受領が京から連れて行った郎党も従っていますが、彼らに報酬を支払う受領が任期中に死んでしまうと、その私的な郎党達すら四散してしまうことは良くあります。受領の妻子を無事に京に届ければちゃんと報酬を払ってくれる、資産家の受領の親族が居れば別ですが。ちょうど、倒産した会社社長の家族みたいなものです。

1021年12月26日 平為幹、前年7月の罪を許される。

ちょうどその頃の話として宇治拾遺物語(うじしゅうい13世紀前半頃に成立)にはこういう話が。
為幹なのかその父維幹なのかわ解りませんが、為幹ならやりそう。もっとも200年も後に伝わった噂話ですからどこまで信じて良いのかは解りませんが。

四一 伯母事[巻三・九]  今は昔、多気の大夫といふ者の、常陸より上(のぼ)りて愁(うれ)へする比(ころ)、向かひに越前守といふ人のもとに経誦(ず)しけり。

この越前守(高階成順:なりのぶ)伯の母花山天皇の孫の神祇伯延信王の妻で康資王の母)とて世にめでてき人、歌よみの親なり。妻は伊勢の大輔(たいふ)、姫君にたちあまたあるべし。多気の大夫つれづれに覚ゆれば、聴聞に参りたりけるに、御簾(みす)を風の吹き上げたるに、なべてならず美しき人の、紅(くれなゐ)の一重(ひとへ)がさね着たる見るより、「この人を妻(め)にせばや」といりもみ思ひければ、その家の上童(うへわらは)を語らひて問ひ聞けば、「大姫御前の、紅は奉りたる」と語りければ、それに語らひつきて、「我に盗ませよ」といふに、「思ひかけず、えせじ」といひければ、「さらば、その乳母(めのと)を知らせよ」といひければ、「それは、さも申してん」とて知らせてけり。

さていみじく語らひて金(かね)百両取らせなどして、「この姫君を盗ませよ」と責め言ひければ、さるべき契りにやありけん、盗ませてけり。 やがて乳母(めのと)うち具(ぐ)して常陸へ急ぎ下りにけり。

跡に泣き悲しねど、かひもなし。程経て乳母おとづれたり。あさましく心憂(こころう)しと思へども、いふかひなき事なれば、時々うちおとづれて過ぎけり。伯の母、常陸へかくいひやり給ふ。

匂ひきや都の花は東路に こちのかへしの風のつけしは

「都でみんなが心配しているのに、東国の貴女にはその気持ちが伝わらないのかしら、少しは便りぐらい下さいよ」 ぐらいの意味でしょうか? 和歌の素養が無いので解りませんが。

返し、姉、  

吹き返すこちのかへしは身にしみき都の花のしるべと思ふに 

人の子の親になって、じぶんの親の気持がいやっていうほどよく分かった。お母さん達が私のことを思ってくれることをしみじみと有り難いことだと思っているのよ

年月隔りて、伯の母、常陸守(花山源氏源延信、延信王が臣下に下るのは1025年、神祇伯になるのは1046年)の妻(め)にて下りけるに、姉は失(う)せにけり。女(むすめ)二人ありけるが、かくと聞きて参りたりけり。田舎人とも見えず、いみじくしめやかに恥づかしげによかりけり。

常陸守の上(うへ)を、「昔の人に似させ給ひたりける」とて、いみじく泣き合ひたりけり。四年が間、名聞(にやうもん)にも思ひたらず、用事などもいはざりけり。 

任果てて上る折に、常陸守、「無下なりける者どもかな。かくなん上るといひにやれ」と男にいはれて、伯の母、上る由(よし)いひにやりたりければ、「承りぬ。参り候(さぶら)はん」とて明後日上らんとての日、参りたりけり。

えもいはぬ馬、一つを宝にする程の馬十疋づつ、二人して、また皮籠(かはご)負(お)ほせたる馬ども百疋づつ、二人して奉りたり。何とも思ひたらず、かばかりに事したりとも思はず、うち奉りて帰りにけり。

常陸守の、「ありける常陸四年が間(あひだ)の物は何ならず。その皮籠の物どもしてこそ万(よろづ)の功徳も何もし給ひけれ。ゆゆしかりける者どもの心の大きさ広さかな」と語られけるとぞ。 

この伊勢の大輔(たいふ)の子孫は、めでたきさいはひ人多く出(い)で来給ひたるに、大姫君のかく田舎人になられたりける、哀れに心憂(こころう)くこそ。

「縁惟通母愁被召」
「多気の大夫といふ者の、常陸より上(のぼ)りて愁(うれ)へする比」

まさか、常陸介であった紫式部の弟の妻を強姦したと紫式部の義母に訴えられて、その裁判の為に上京したときに、今度は紫式部の同僚と言うか、やはり一条天皇の中宮彰子(道長娘)のもとに出仕していたインテリ女流歌人・伊勢大輔の娘を拉致って妻にしてしまった? 
平安王朝文学の担い手達の身辺も結構物騒ですね。まあ略奪婚は「源氏物語」でも当たり前な話ですが。

1025年 常陸国「作田僅かに300町歩」と。荒廃の様子が。しかしこれは本当なのかどうか、国司が直接支配した作田のことかもしれません。
「常陸守(常陸は親王国で公式には介だが事実上の守)の、「ありける常陸四年が間(あひだ)の物は何ならず。その皮籠の物どもしてこそ万(よろづ)の功徳も何もし給ひけれ。ゆゆしかりける者どもの心の大きさ広さかな」と語られけるとぞ。」
受領としての四年間の収入を遙かに越える餞別を出して常陸介を驚かせるほどの富を誇った大豪族が居るのですから。

これは60年ぐらい、ちょうど二世代後の「後三年の役」の切欠に関わる話ですが。

常陸国に多気権守宗基といふ猛者あり。そのむすめをのづから頼義朝臣の子をうめることあり。頼義むかし貞任をうたんとてみちの国へくだりし時、旅のかり屋のうちにて彼女にあひてけり。すなわちはじめて女子一人をうめり。祖父宗基これをかしづきやしなふ事かぎりなし。眞ひらこの女をむかへて成衡が妻とす。(奥州後三年記 群書類従本)

 

平兼忠

上総介 平維茂(余五将軍)の実父として「今昔物語」に登場

兼忠子 維良 鎮守府将軍

1003年下総国府を焼き討ち。維良は朝廷から追討命令が出され越後国へ逃亡、処罰されることはなく、1012年には「鎮守府将軍」に任じられている。維良は父の代から藤原道長に仕えていたのは有名な話し。余五将軍平維茂(これもち)と同一人物ではとの説も。

平安忠(海道平氏)

従五位下 陸奥権守 出羽守

平安忠 平則道 平忠清 平清隆 平師隆 平隆行 岩城隆衡

    清原武則 (きよはらのたけのり)を平安忠の次男とする説も。『清原系図』
          武貞−真衡

    平泰貞(出羽守)−海道小太郎成衡
    平貞衡

 

『清原系図』は清原真衡の養子になった成衡を平安忠の子、海道小太郎とするがこれでは成衡は兄弟の孫の養子になったことになり不自然。平安忠の孫ならまだ解る。それでも真衡は養子成衡の従兄弟の子になるが。

中条家文書『桓武平氏諸流系図』は、『中条町史』資料編1などに掲載されて紹介されたもので、越後の三浦和田氏(その惣領家が中条氏)に伝えられた系図であり、武家の桓武平氏系図としては、比較的信憑性が高いとみられるものです。桓武平氏系図としては、『尊卑分脈』記載系図など不十分な系図が多いなかで、同系図は記事内容から見て成立年代が十三世紀半ば過ぎではないかとみられており、他所に見ない有益で貴重な内容があります。・・・・

『桓武平氏諸流系図』には、岩城一族の祖とみられる安忠の子に清原武則をあげております。すなわち、平繁盛の子に菊満権守安忠をあげ、その子に清原武則と石城三郎大夫貞衡をあげ、武則の子には家衡と武貞(荒河太郎)、武貞の子には実平(清大夫)と清平(平泉藤原氏初代)をあげ、実平の子には成平をあげて「海辺大小郎、実直成子」(誤記あり、後述)と記しています。 

・・・・岩城氏の系図では、一般に「安忠−則道(次郎大夫)−泰貞(海道平大夫)、その弟貞衡」とされますから、則道の兄弟として武則を考えることは、年代的にも命名的にもあり得ることだからです。貞衡は『陸奥話記』に平真平と見える人物に当たると考えられ(真と貞、直とは相互に誤用されがち)、また安倍頼時の婿の伊具十郎平永衡も、貞衡の兄弟とする系譜(『諸系譜』第二九冊「石井系図」)があります。
清原武則の孫で後三年の役の当時、清原氏の総帥であった真衡は、海道小太郎成衡を養嗣に迎えていますから、これもご指摘のように出羽清原氏と海道平氏との関係の深さを窺わせます。前出の「海辺大小郎」は、「海道小太郎」の誤記であることは言うまでもありません(「辺」は「道」の異体字)。成衡の系図が「実は直成子」というのは難解ですが、成衡には安忠の子とも海道平大夫泰貞の子ともいう説もあり、世代的に考えて「泰貞−貞成−成衡」という系図ではなかったかと推測しています。成衡には、良貞という子があったとも伝えます。

 古樹紀之房間 サイトの応答板 どういう立場の方なのか不明

平姓を称した岩城一族が古代石城国造の末裔嫡宗にあたるかどうか、国造の末裔嫡宗があの時代家を保てただろうか。国造は郡司となってもその後の国政改革で旧郡司層・郡衙は大きく凋落している。

また新しい支配層として中央からやってきた平高望の子らを見て判る通り先にやってきた嵯峨源氏との婚姻で地盤を受け継いでいる。これはもっと後の佐竹氏にも言え、そもそも「イエ」「父系」の概念が確立していない時代、藤原利仁の「芋粥」にも見られるように入り婿の時代で、それにより貴種の血を取り込むことにより一族の力を増そうとするのが一般的。

従って仮に国造の末裔嫡宗が生き残っていたとしても、それが貴種平氏を婿にむかえ、またその婿平安忠がそれによって地盤を築いたことは十分にあり得る話ではと思いますが。

「岩城一族の姓氏平朝臣がいかに信拠できないかが分かります」と言い切る動機がちょっと解りません。