武士の発生と成立  「奥州後三年記」に見る義家像 2

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さて、やっぱりこれは欲が絡んだ私闘だよな〜、と思わせるのか次の下り。この家衡が乳母(「めのと」とあるが男、御養育係り、じいや?)千任に対する義家の仕打ちは後ほど。

家衡が乳母千任といふものやぐらの上に立て声をはなちて将軍にいふやう、
「なんぢが父頼義、(阿部)貞任、宗任をうちえずして、名簿(注)をさヽげて故清将軍(鎭守府将軍清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま(阿部)貞任らをうちえたり。恩をになひ徳をいたヾきていづれの世にかむくひたてまつるべき。しかるを汝すでに相伝の家人として、かたじけなくも重恩の君をせめたてまつる不忠不義のつみ、さだめて天道のせめをかうぶらんか」といふ。
おほくのつはものをのをのくちさきらをとぎてこたへんとするを、将軍制してものいはせず。
将軍(義家) のいふやう、もし千任を生捕にしたらんものあらば、かれがためにいのちをすてん事、ちりあくたよりもかるからんといへり。

名簿とは「めいぼ」ではなく「みょうぶ」と読んだと思います。臣下の礼を取るとか軍門に下るとかの証として差し出すものですが、色々あって喧嘩して「御免、こっちが悪かった、ゆるしてちょ」なんて、今で言えば詫び状か始末書みたいな感じでも使いますがいずれにしても頭を下げたと言う証です。源ョ義が前九年の役で阿部貞任に苦戦し阿部貞任と同じ蝦夷の豪族清原武則に頭を下げ、多くの貢ぎ物をして応援を求めたのでこんなことを言われたのでしょう。実際、対安部貞任軍は7軍の内6軍は清原武則の軍勢と言う有様でした。2005.6.5追記

義家にすれば弱みをえぐられて怒り心頭です。その後清原武衡は食料も底をつき降伏を申し入れますが、義家は許しません、あくまで皆殺しです。

舘のうち食つきて男女みななげきかなしむ。武衡、義光につきて降をこふ。義光このよしを将軍にかたる。将軍あへてゆるさず。

更には

城をまきて秋より冬に及びぬ。寒くつめたくなりて皆こごえておのおの悲しみて・・・
城中飢にのぞみて先下女に童部など。城戸をひらき出来る。軍どもみな道をあけてこれを通しやる。是をみてよろこびて。又おほくむらがりくだる。秀武、将軍に申やう。このくだるところのげす女童部。みな頸をきらんといふ。・・・・。此くだる所の稚童女部は。城中のつはものどもの愛妻愛子どもなり。城中にをらはをつとひとりくひて妻子に物くわせぬ事あるまじ。おなじく一時にこそ餓死なんずれ。しからば城中の粮。今すこしとく盡べきなりいふ。将軍之を聞て尤しかるべしといひて。降る所のやつどもみな目の前にころす。これを見て永く城戸をとぢて。かさねてくだる者なし。

義家は吉彦秀武の進言を入れて、城より落ちようとする非戦闘員の女子供を城内から見えるところで皆殺しにします。殺されるのを見れば誰も城中から出ないだろ、そうすれば城中の食糧はあっという間に底をつき、兵も飢えて落城する時が早まるからです。後にそれを伝え聞いた京の公家達はあまりの残忍さに驚愕し、義家が死んだときに近所の人が「義家が鬼に引きずられて地獄へ連れていかれる夢を見た。気になって義家の家を覗いたらちょうど死んだときだった」と言う話が後世まで語り伝えられています。確か『故事談』に有ったと思いましたが。

山内首藤氏の祖先も登場します。

藤原の資道は将軍のことに身したしき郎等なり。年わづかに十三にして将軍(義家)の陣中にあり。よるひる身をはなるヽ事なし。夜中ばかりに将軍(義家)資道をおこしていふやう、武衡、家衡こん夜落べし。凍えたる軍どもをのを野すへしたる仮宿もに火をつけて手をあぶるべしといふ。資道このよしを奉行す。人あやしく思へども、将軍の掟(命令)のまヽに、仮宿どもに火をつけて、をのをの手をあぶるに、まことにそのあかつきなんおちけり。人是を神なりとおもへり。すでに寒のころほひに及ぶといへども、天道将軍の心ざしをたすけ給ひけるにや。雪あへてふらず。

そしてついに・・・

武衡、家衡食物ことごとくつきて、寛治五年十一月十四日の夜、つゐに落をはりぬ。城中の家どもみな火をつけつ。烟の中にをめきのヽしる事地獄のごとし。四方にみだれて蜘蛛の子をちらすに似たり。
将軍のつはもの、これをあらそひかけて城の下にて悉殺す。又城中へ乱れ入て殺す。にぐる者は千万が一人也。・・・又千任おなじく生虜にせられぬ。・・・城中の美女ども、つはものあらそひ取て陣のうちへゐて来る。おとこの首は鉾にさヽれて先にゆく。此の妻はなみだをながしてしりに行く。 ・・・・

戦争とは常にこういうもんです。それは歴史の中だけに閉じたものではありません。アメリカでの白人のインディアンへの仕打ち、ベトナム、カンボジア、ソ連崩壊後のボスニア、そしてイラク戦争、どこでも繰り返されたことです。別に日中戦争に限る訳ではありません。だからといって黙殺すべきことでも、正当化すべきことでもありません。

さて、先ほどの家衡が乳母千任に対する義家の仕打ちは・・・

次に千任丸をめし出して先日矢倉の上にていひし事、たヾ今申てんやといふ。千任かうべをたれてものいはず。(義家は)その舌きるべきよしをいふ。
源直といふものあり。寄りて手を持ち舌を引出さんとす。将軍大きに怒りていはく、虎の口に手をいれんとす。はなはだ愚かなりとて追立つ。・・・・金箸をとり出し、舌をはさまんとするに、千任歯をくひあはせてあかず。
金箸にて歯をつきやぶりてその舌を引いだして是を斬つ。千任が舌をきりをはりて、しばりかヾめて木の枝につりかけて、足を地につけずして、足の下に武衡がくびをおけり。千任泣く泣く足をかヾめて是をふまず。しばらくありて、力盡て足をさげてつゐに主の首をふみつ。将軍これをみてすでにひらけぬ(満足する)。

この絵巻には舌を引き出し切ろうとするところと主人の首の上につるされているところと両方同時に書かれています。


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義家の父の頼義も既に書いたようにそうとうなものでしたが、義家も織田信長顔負けです。別に残虐なのはヨーロッパ人や西太后だけじゃありません。

「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」(後白河法皇編:梁塵秘抄)

と後白河法皇が「今様」で詠っていたのは「武勇」よりもこの京にまで伝わった「殺戮」です。

もっともこの残忍さは頼義・義家だけのものではなく、当時の武士はみなそうだったようです。将門と戦った平貞盛ですが、敵の矢傷が膿んだかで命が危なくなったとき、医者?に胎児の肝を飲めば治ると言われて丁度妊娠中だった息子の嫁の腹を裂こうそしたそうです。息子が慌てて医者に「身内では効かない」と言わせたそうですが。2005.6.5追記

尚「後三年合戦絵巻」は1171年(承安1)に後白河法皇が絵師に命じて4巻の絵巻を制作させましたが、その絵巻は現存していません。現在上野の国立博物館にある「後三年合戦絵巻」は1347年の飛騨守惟久筆によるものです。確証はないですが、そのストーリーは後白河法皇が書かせたものと同じかと。

それは一見義家の武勇を讃えているようにも見えますが、同時に上の絵にあるような朝廷の命も無しに私戦を引き起こした義家の残虐さを語り伝えるものであり、

先に書いた『故事談』(鎌倉時代初期の説話集)での説話の、京の義家の家の近所の人が「義家が鬼に引きずられて地獄へ連れていかれる夢を見た。気になって義家の家を覗いたらちょうど死んだときだった」と言う話がまことしやかに伝えられたこと。そして義家の嫡男義親の首級の入京を見た中御門右大臣藤原宗忠の日記『中右記』の978年(天元1)1月29日条

故義家朝臣は年来武士の長者として、多くの罪なき人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか

に見える貴族の違和感・偽悪感を、後白河法皇を経由して今に伝えるものになっていると思います。この『中右記』の段階で、「武士の長者」はそれまで同じ貴族の一員として違和感なく存在した「兵の家」の軍事貴族とは異なった職能集団の長(代表)として見られ始めたようです。

それ以前の京の武士だってある面では殺し屋、殺人者集団ではありましたが、その当時の「兵の家」以外の貴族とて実に暴力的な面を持ち、殺人者であることとてありましたが、しかしそれは当事者間での言い換えれば少人数同士の殺し合いか強盗殺人であって、無差別殺戮と言うようなものは前代未聞だったと思います。家衡が乳母千任に対する義家の仕打ちは無差別殺戮ではなくて見てきた通り理由のある「残虐行為」ですが、話しを伝え聞いた側からすれば「無差別殺戮」聞いたことも無い「残虐」さ、その一例ぐらいのものでしょう。

もっとも最終局面での無差別殺戮では、実は義家軍は主力ではなく、吉彦秀武などの在地豪族軍主導での戦いであり、その在地豪族軍は、異民族・異文化の中での戦闘の歴史から「やぁやぁ我こそは」な戦闘とは無縁だったのかもしれません。

出なかった追討官符

そして最後はこうです。追認で追討の官符(追討命令)をくれと。
実は頼朝の奥州征伐も既に書いた通り朝廷の命令無しの出兵だったんですが、事後に朝廷(後白河法王)は慌てて命令(院旨だったかな?)を出しますが、この頃はまだ源氏の統領と言えども中流貴族にすぎませんし、奥州から朝廷におさめるはずだった税金(砂金)は届けないし、朝廷(後じゃない白河法王)は官符を出しません。

将軍国解を奉て申やう、武衡、家衡が謀反すでに貞任、宗任に過たり。わたくしの力をもってたまたま打ち平らぐる事を得たり。はやく追討の官符をたまはりて首を京へたてまつらんと申す。然れどもわたくしの敵(私闘)たるよし聞ゆ。官符を給はせば勧賞をこなはるべし。
仍て官符なるべからざるよしさだまりぬと聞て、首を道に捨てむなしく京へのぼりにけり。

この「奥州後三年記」はえらい残虐な記述が多く、あまり美辞麗句を尽くした感じではないのですが、これは後白河法王が1171年に作らせた絵巻物の詞書きかもしれません。国立博物館に有るのはそれを南北朝時代に写したものかと。仮にそうだとすると、比較的近い時代ですから元資料は提出された国解(報告書・上申書)があったのかもしれません。更に後白河法王の源義家感が反映されているのかもしれません。05.6.5 08.1.13追記

実はこの合戦。後の世では華々しい合戦絵巻ですが、義家本人にとっては大失敗でした。やるんじゃ無かったと後悔したんじゃないでしょうか。その失敗に義家はその後10年近く苦しめられます。

「国解」と「官符」について少々説明を、

「符」とは、上級官庁が下級官庁に下す文書の書式で、朝廷の最高機関である太政官から管轄の官衙、国司に出す公文書を「太政官符」、略して「官符」と言います。「国解」は国司から朝廷への報告書・上申書、今で言えば稟議起案のようなもの。
そしてなにか事件があると国司は太政官(中央政府)に上申書に当たる「国解」を送り、太政官(中央政府)から「追捕官符」が下されたら、人夫や兵を召集し事に当たります。そのやりとりの緊急時対策に早馬の駅が整備されています。国司(例えば陸奥守とかいわば知事)と言えども独断で徴兵することは出来ません。

それが徹底されていたのは奈良時代で、平安時代の行政改革(概略「2.平安時代の時代背景・律令時代の軍制」を)で段々緩和されていきますし、大和朝廷にとって尾張から先、更に箱根から先、ましてや奥州など実は異国の占領地で特に奥州には律令制は最初から徹底していません。占領地政策です。

そうは言ってもここでの事件は30名ほどの暴徒の話ではありません。義家は3年もの間その法制度を無視して戦争を続け、そして追認で「追捕官符」を頂戴よと言った訳です。当時は確か白河法王だったと思いますが、新興勢力の武家いじめに恩賞を与えなかったと言うより、法制度を無視して3年も戦争を続たことの方が問題でしょう。あるいは義家を野放しにしておくと何をやらかすか判ったものではないと思われたのかもしれません。

義家への田畑寄進禁止?

さて、関東から散々兵を動員した義家はしょうがなしに私財をなげうって恩賞としたと言うので関東武者にはこれまた義家の株が上がって荘園の寄進が相次ぎ、通説ではその義家人気を恐れた白河法皇がとうとう「義家に荘園の寄進をしちゃダメ!」令が出たとか。ここでは「歴史データ館」の「後三年の役」から引用しますが、このことについての40年前の解釈はこういうものでした。

朝廷が源義家に恩賞を与えなかった理由はもう一つ有る。彼の名声の高まり諸国から荘園の寄進が相次ぐようになり、新たなる権門になることを旧来の上流貴族が恐れたからである。殺生を生業とする武士は上流貴族から見れば、侍身分に過ぎず、武力を利用するだけの存在でしかなかった。それが自分たちと同じ権門に成り上がることは、到底容認できなかった。そこで、源義家に恩賞を与えず彼の力を削ごうとしたとも考えられる。

1966年には安田元久氏も『源義家』(人物叢書)にそう書かれていますが、しかしそれはあくまで1966年時点の話で、研究の進んだ現在ではそういう説は姿を消しているのではないでしょうか?

伊勢神宮とか摂関家ならともかく、義家に寄進しても免税にはならないんじゃないだろうか? 変だな〜と思っていたのですが、これについては元木泰雄氏の研究があります。(詳しくはこちら「源義家をめぐる論点.3  義家への荘園寄進」にまとめました。)

先に挙げた「武士道の権化」には

後醍醐天皇南狩以後にあっては、極めて少数の人々を除いて、武将の多くが只管権勢(しかんけんせい)を得んとし、功名心の奴隷となつて了ひ、彼の戦国時代の如き弱肉強食の世となり、ここに武士道の堕落時代が現はれて来た。されば英雄も出で、豪傑も出たであろうが、純粹潔白な、毫末(ごうまつ)の私心を挟(はさ)まぬ、一身を犠牲にして武士道に殉ずるやうな武将は、最早(もはや)殆(ほと)んど観ることが出来なくなった。
創元社「日本文化名著選」「義經伝」(初版昭和十四年六月十五日刊)

とありますが、それは嘘です。勝者の歴史、官製の歴史感です。おまけにそれは後の世の「官製の歴史感=皇国史観(その実天皇を飾りとした軍国史観)」であって当時の朝廷からすれば「違法行為」であり、「彼の戦国時代の如き弱肉強食の世」の何百年も前に同じ源氏内のそれも親兄弟で骨肉合噛む私闘の死闘を演じているのですから。 

例を挙げれば、弟義綱と領地争い(正確には義家の郎党と弟義綱の郎党の領地争い)であわや合戦と言う事態に及び白河法王の命令で矛を収めたり。義家の嫡男義親が謀反人になって朝廷から派遣された平清盛のじいちゃんだったかの因幡守平正盛に討たれてさらし首になったり。

更に弟新羅三郎義光(佐竹、武田の祖)と義家の子の義国(新田、足利の祖)と、領地争い?で私合戦を演じたり、義家の跡を継いだ四男義忠を義家の弟義綱が殺したと義家の孫為義(頼朝の祖父)が義綱親子を攻め殺したが実は真犯人は、「美談」だったはずの義家の弟新羅三郎義光であったと南北朝の時代の「尊卑分脈」には書かれています。「尊卑分脈」は300年近く後に書かれたものですから直ちに信用する訳にはいきませんが、そう書いた元資料はいったい何だったのでしょうか。

先に挙げた「武士道の権化」には

また後三年の役に、義家が清原武衡を討つのに困難せる際、その弟新羅三郎義光が、兄の危急を救わんため、検非違使の官を抛って、京都から遙々奥羽に赴いたことも、実にこの兄にしてこの弟ありというべき武士道の佳話で、今なお人口に噌炙するところである。

とありますが、東大名誉教授・日本考古学会会長・日本古文書学の確立者で『国史大系』の編纂までなさった戦前の歴史学会の重鎮が、当時の学生でも読んでいる『尊卑分脈』にある源義光の長い注記を知らない訳がありません。2005.8.5追記

「武士道の権化」も書かれた時代背景を考えれば感慨深いです。戦前の軍部(と言っても陸軍)台頭の抗争の中で、心底こう思ったのが皇道派の将校で、それを「アホか!」と蹴散らして実権を握ったあと、アジテーションとして使ったのが陸軍統制派です。「武士道の権化」の著者黒板勝美氏の皇国史観は計算されたアジテーションなのか、それともアジテーションに踊らされた結果の皇国史観なのか、どうやら黒板勝美氏は前者、筋金入りの御用学者であったようです。

2005.06.05追記
2005.08.05追記
2007.10.27追記

2008.01.13追記