武士の成立  源義家をめぐる論点.3  義家への荘園寄進

義家への荘園寄進の禁止

次ぎに先の竹内理三氏の引用の冒頭の騒動と、義家への寄進禁止の件について見てみましょう。
1091(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と義綱の郎党藤原則清、河内国の所領の領有権を争いから、源義家・源義綱が兵を構える事態となり、京は騒然とします。
鎌倉時代後期に、それまでの諸日記を編纂した『百錬抄』(ひゃくれんしょう)にはこうあります。

六月十二日、宣旨を五畿七道に給い、前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること、あわせて諸国の百姓、田畠の公験をもって好みて義家朝臣に寄する事を停止す。件の由緒は、藤原実清と清原則清と河内国の領所を相論するの間、義家朝臣と舎弟義綱と権を互にし、両方威を争うの間、攻伐を企てむと欲すなり。天下の騒動、これより大なるはなし。

「百姓」とは「藤原実清と清原則清」らのことですね。農民ではありません。それはともかく、 「百姓、田畠の公験をもって好みて義家朝臣に寄する事」を「義家への荘園寄進」と解釈するのが正しいのでしょうか。あるいは「通説」が思い描く「荘園」と、当時の実際の「荘園」は一致しているのでしょうか。

前述の田中文英氏が1997年に書いた論文(「河内源氏とその時代」:『院政とその時代』佛教大学鷹陵文化叢書8 2003年 p87-91)の中に河内源氏の本拠地での石川荘のことがあります。

石川荘の初見は1207年(建永2)7月8日付けの河内通法寺領注文案(鎌倉遺文1691号)に引用されている1142年(康治2)の石川荘坪付注文定であり、そこには「河内国石川庄 源義■領河内国石川東条田畠■事」とあます。その内容はかなり広い地域の中に散在する数町から小さいものでは数段、つまり数十石から数石ぐらいの田畑の寄せ集めの様相を示していて、合計しても千石前後、あるいは未満?。 この石川荘は義家が立荘して摂関家に寄進し、自らは預所となって、それを子の左衛門尉義時が受け継いだものかと。するとこの石川荘、ないしはその周辺が「義家の郎党藤原実清と義綱の郎党藤原則清、河内国の所領の領有権」争いの現場なのかもしれません。

諸国の百姓、田畠の公験をもって好みて義家朝臣に寄する事」はそこに見られる数町の田畑のレベルと思われ、これを後の大荘園単位の寄進であるかのように過大評価するのは誤りでしょう。白河法皇時代の寄進は実に小さな単位です。1097年(永長2)に平清盛の祖父・平正盛が藤原顕季か、あるいは祇園女御かを仲介に、鳥羽院の愛娘六条院領として寄進し、平家の興隆の出発点となった伊賀国山田・鞆田村の田畑はたったの20数町(200石から300石)です。

もちろん人口と地域経済の成熟度の違いからか、平安時代初期のいわゆる「初期荘園」においても、「北陸型荘園」は大規模であったに対し、「畿内型・瀬戸内型」は比較的小面積という傾向はあり、そうした地域差は平安時代末期まであったということも頭の片隅においておかなければならないとは思いますが。

『後二条師通記』と『百錬抄』の相違

両書の比較

『後二条師通記』同日条によると、その日の公卿の議定(審議)が白河院へ報告され、それをうけた白河院の指示は以下の内容であり、「寄進停止」はありません。また「義家の隋兵入京」云々も違っています。

但し兵の事は遣わし返すべき也。子細退きて申すべき也。諸国国司隋兵留めらるべきの官符、諸国に下知せよと云々。上左大臣承る所也。

『後二条師通記』には翌年の1092年(寛治6)5月12日条に義家は構立した荘園が停止された記事があり、これは『百錬抄 』には載っていません。

さて、以上に見たように、1091(寛治5)6月12日の史料は2つあります。ところで、同時代にリアルタイムに書かれた一次史料の『後二条師通記』と、既に見た鎌倉時代後期に、それまでの諸日記を編纂した『百錬抄』(ひゃくれんしょう)と。その中の同じ事象を記録した部分を比較検討することによっても、信頼性の差を検証することが出来そうです。ちょっと表にしてみましょう。

もっとも生の漢文の比較でないことがちょっと弱点ではありますが、学者さんの翻訳なのでその通り書いてあると見なします。

  『後二条師通記』 『百錬抄』
成立 同時代リアルタイム 鎌倉時代後期に諸日記を編纂
寛治5
6 月12日
諸国国司隋兵留めらるべきの官符 前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること・・を停止
(荘園の記述無し) 田畠の公験を義家に寄する事を停止
寛治6
5 月12日
義家は構立した荘園が停止される (該当記事なし)

編集途中でを入れ間違えたとしたら、『百錬抄』の「田畠の公験を義家に寄する事を停止」は『後二条師通記』の「義家は構立した荘園が停止される」と同じ事実と見えなくもないですね。そのことはちょっと保留して上記の表の6月12日条の1行目を見てみましょう。

寛治5年6 月12日条の「諸国国司隋兵留めらるべきの官符」「前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること・・を停止」は全く同じ事象を述べているはずなのに表現が違っています。

鎌倉時代後期の『百錬抄』を編纂した編者の関心が義家中心だったにしても、「前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること」はちょっとおかしな話しです。このとき義家は京の六条に居たのではないでしょうか。おそらく義綱も京に。その京に居た双方の屋敷に郎党が集まりだしたから京で戦乱が起きると大騒動になったと見るのが自然です。

実際に朝廷が双方に使いを出しで問いただしたところ、双方とも相手が攻めてくるというので守りを固めただけであり、進んで争乱を起こす気はもうとうないと返答しています。

双方とも屋敷が京の外、それこそ和泉国とかにあったなら、その二人が私合戦をするつもりだったとしても、何でわざわざ京までやってきて合戦をするでしょうか。京で合戦をしかけたら、そのあとどういう目にあうのかは義家も義綱も十分に心得ているはずです。あり得ません。

それより1世紀昔ですが、藤原行成の日記『権記』 998年(長徳四年)十二月の記事に、平貞盛の子下野守平維衡と散位平致頼(平良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも)が伊勢国の神郡で私合戦を起こしたことが書かれています。その結果は、長保元年(999年)十二月、致頼が官位をはく奪されて隠岐に流され、維衡は位をそのまま淡路への移配です。差があるのは維衡が過状(詫び状)を提出したからですが。それを京でやらかしたら二度と浮かび上がることは出来ません。

諸国国司隋兵

『後二条師通記』の「諸国国司隋兵留めらるべきの官符」は理解できます。またここで諸国国司隋兵」とあるのであって、「諸国の兵(つわもの)」ではないことに十分注意すべきです。

その翌年、『中右記』1092年(寛治6)2月8日条によると、春日祭のおり、上卿(春日祭執行委員長)藤原忠実に随行した源義綱の随兵20騎の内10騎は五位の貴族だったと言います。当時の軍事貴族は直属の家人はそれほど多くはありません。また当時の武者は一人の主人に養われているわけではなく複数の主人と緩やかな関係をもっています。従って武士の棟梁たる義家や義綱にも従いながらその仲介で院や摂関家にも仕え、官職も得て宮仕えもするという存在です。それら独立した五位六位の侍階級の武者(侍=武士ではありません)が、盟主たる棟梁から招集がかかると馳せ参じるという形態です。

それら五位六位の侍階級の武者は盟主たる義家や義綱の紹介、あるいは独自のつてで、諸国に赴任する受領に期間契約の郎党としてその任国に同行します。『中右記』の天永2年(1111年)正月21日条にはこうあります。

およそ外記・史叙爵の後、受領の執鞭として遠国に赴く、巡年のとき参上してその賞に関はる、近年の作法也

正月21日は年始めの除目の日です。「外記・史」は太政官の四等官で少納言(五位)の下ですから、この当時では六位だった者。それが年功により五位の貴族の一員となり(叙爵)、受領(国守)の順番待ちのあいだ、実務能力を買われて先輩の受領(国守)の目代など上級スタッフとして雇い主の任国で働き、自分の順番が回ってくると(巡年)、京に戻ってきて除目にあずかるのが近年の例だと。
都の武者とて買われる実務能力が武力というだけで、あとは他の官人と変わりません。多少の田畑はもっているでしょうが、受領になるまでは、あるいは次の除目にあずかるまでは、収入のかなりの部分はそういう契約社員・傭兵家業だったようです。

実例を挙げてみましょう。正確な年は解りませんが少なくとも1097年(永長2)の何年か前、多分ちょうどこの事件の頃に、平清盛の祖父・平正盛は受領の順番待ち(なったのは小国・隠岐守ですが)であり、その間に白河院の近臣藤原為房藤原顕季の郎等となってその任国で赴いています。平家物語には1180年(治承4)5月18日に平家と対立した南都・興福寺の大衆が、平家を罵倒する下りにこうあります。

清盛入道は平氏の糟糠(さうかう:「かす」や「ぬか」のこと)、武家の塵芥(ちんがい:ちり・あくた)なり。祖父正盛蔵人五位の家に仕へて、諸国受領の鞭をとる。大蔵卿為房賀州刺史(守の唐読み)のいにしへ、検非所(けんびしよ)に補し、修理大夫顕季播磨大守たし昔、厩(うまやの)別当職に任ず。
平家物語 高野本 巻第四 南都牒状)

すごいですねぇ。 「武家のちり・あくた」だって。そこまでいうか!って感じですね。
ここではそれが主題ではないですが、「武家」が「ちり・あくた」といわれているのではなくて、清盛の家(伊勢平氏庶流)が「ちり・あくた」といわれているということに注目しておいてください。

義家の近辺では、前九年の役で源頼義の側近であった河内の武士・藤原則明は、加賀の国で介となって(といっても名目だけの可能性大ですが)そこから加藤を名乗り、その父でやはり源頼義に仕えた藤原則経は美濃守藤原定房の目代を勤めています。(元木「武士の成立」p106)
そうした出稼ぎ中の都の武者が、盟主たる義家や義綱の招集によって駆けつけることを、雇い主たる諸国の国司(受領)に禁止させたというのが「諸国国司隋兵留めらるべきの官符」です。石井進氏国衙軍制の図にある「a.館の者共」の「α.国司の私的従者」ですね。義家や義綱が、諸国の土着武士「国の兵共」「地方豪族軍」を招集したというのではありません。

『百錬抄』の編集ミス?

第三世代の元木泰雄氏は『武士の成立』(吉川弘文館 1994年p101-104)の中で、どちらが正しいかは当然同時代の一次史料であ、『後二条師通記』とすべきであり、『百錬抄』はそれから2世紀の後に日付を誤って読んで(年が違い月日は同じ)まとめて記載した可能性が高いとで指摘しています。しかし、この元木泰雄氏の見解が、現在のアクティブな学者さんの間でどの程度支持を受けているのかは解りません。

元木氏の指摘ではないですが、『百錬抄』の編者の認識の誤りはこれだけではありません。もう一件は一次史料である複数の公卿の日記と相違しています。1181年8月に「義仲追討宣旨が出された」とあるようですが、この当時、平家は義仲のことをほとんど意識していません。意識していたのはむしろ甲斐の武田です。(出典:上杉和彦氏の『源平の争乱』p124)

『玉葉』と『吉記』ともに1181年(養和1)8月15日の条に陸奥守藤原秀衡、越後守平助職とする小除目があり、『吉記』には「今朝、北陸道追討使但馬の守経正朝臣進発す。郎従五百騎ばかりを率すと」とありますが、その後木曾義仲が北陸道から京に攻め上ったことから、木曾義仲の進路を塞ぐ為と解釈されたのでしょう(『吾妻鏡』もそうですが)。『吾妻鏡』の他の事例などからも、わたしも『百錬抄』の編者の感心が義家中心であり、かつ、各資料をまとめているうちに要約しすぎた、年月を間違えた可能性は十分に考えられると思います。(私もよく間違えますので。苦笑 2007.12.01追記)

この『後二条師通記』の記載と『百錬抄』の記載の相違に気がついたのは決して第三世代の元木泰雄氏が初めてではなく、第一世代の安田元久氏も1974年の『日本の歴史第7巻 院政と平家』(小学館)の中でそれに触れて、以下のように解釈されています。

もし『百錬抄』にいう措置がとられたのであれば、それは左大臣俊房以下の公卿たちが、関白師実とともにとった処置であって、上皇の意志からでたものではなかったことになる。これまでの義家に対する冷遇的態度からみて、当局者のそのような措置もじゅうぶんに考えられるのである。それは後三年の役以来、一貫した傾向であったからである。(p113)

「もし」というあたりで安田元久氏も『百錬抄』を疑っていらっしゃる様子がわかりますね。すくなくともこの件に関しては「白河院の陰謀」は消滅します。更に『百錬抄』にいう措置がとられなかったのであれば、「摂関家の陰謀」まで消滅します。

ところで、その議定に出席した公卿達、なにより関白師実が、白河上皇の指示とは違う措置を取るということが、この時代にあり得ただでしょうか。関白師実の子、師通が関白になった頃には確かにそうした傾向はあったかもしれません。しかしそれは、受領功過定も通っていない院近臣を新たに受領としようとした白河院に猛反対して撤回させたとか、美濃における当時の国守源義綱と比叡山領荘園との争いから、比叡山が源義綱の配流を要求して強訴に及んだときに、関白藤原師通は白河院の意向を伺うことなく、大和源氏の源頼治と源義綱に命じてそれを実力で撃退することを決めたとかいうものであって、それはそれで合法的な対処です。

更にこのときの関白は師通ではなくて、その父師実です。師実と白河は、『愚管抄』にも「あいあいまいらせて、めてたく有る也」と称される緊密な強調関係にあり、師実が常に白河の意向を尊重していたことの現れのひとつが、この件で「白河院の指示」を仰いだことです。

当時は幼少の堀河天皇の時代で、師実はその外祖父、現在我々がイメージする「院政」はまだ既成事実ではなく、まさにその師実の「あいあいまいらせて」な態度と、その後の堀河天皇の死、更に幼少な鳥羽天皇の即位から、本格的な院政が始まったと言えます。

更にこの時期、朝廷の外側の社会経済全体に大きな変動の時期であり、過去には無かった様々な問題が起こり、有識故実(ゆうそくこじつ)な公卿達の議定では方針が出せず(事実上諮問委員会のようなもので結論を出すわけではなく、両論併記もよくある)、摂政関白に判断を委ねることになります。しかしその関白師実も判断を下せず、重要事項については常に「白河院の指示」を仰いだということは、師実の性格もあるでしょうが、もうひとつ、前関白藤原教通の死去に際し、藤原教通の子信長の関白就任を退け、師実を関白にしたのが白河天皇だったという恩義、それによる従属がありました。

その師実が「上皇の意志からでたものではなかった」措置を、官符として出したとすることは極めて不自然です。師実がそうしたければ「細かなことだから」と、天皇の代理人としての関白師実がそう指示するだけで済んだはずです。

1960年代には、院政と、師実と白河帝の関係の研究がそこまで詳細にはつきつめられてはいなかったのかもしれません。しかし、すくなことも現時点までの研究で明らかにされてきた状況を鑑みれば、後世の『百錬抄』のこの件に関する記述は、極めて疑問の多い、信ずる根拠の極めて少ないものと言わざるを得ません。

そもそも安田元久氏が微妙なニュアンスで迷いながらも結論付けた「摂関家の処置」、俗説ベースで言うと「”新興勢力・武士”の進出を警戒した摂関家と白河院の陰謀に振り回され、没落した源義家と清和源氏」との説が妥当なものであるかどうかは「後三年の役の恩賞がなかったのは不当」「義家は荘園の本所として多数の寄進をうけていた」との2つの前提の上に成り立っています。

従ってその2つの点が妥当であったかどうかによるのですが、その2点がこれまでに見てきた通り「不当」ではなく、また「義家は荘園の本所」でもないのであれば「摂関家の陰謀」も「白河院の陰謀」とともにそのよりどころを失い、消滅します。

『後二条師通記』の「荘園立庄停止」と奥羽の摂関家領

残るのは、『後二条師通記』、1092(寛治6)5月12日条にある 朝廷、源義家の荘園の立庄を停止です。元木氏はこれは荘園自体を禁じたのではなく、義家の職(預所?)が奪われたものとも考えられるとおっしゃっています(『王朝の変容と武士-古代の人物6』 清文社 2005年 p430)。

1993年に出版された岩波講座『日本通史』7巻 の「通史 12-13世紀の日本 古代から中世へ」において石井進氏は、

諸国の人民が所領支配権を証明する証拠書類(田畠の公験のこと)を源義家に寄進するのを禁止したり、義家が諸国に立てた荘園を停止する宣旨が発布された。荘園の整理令、停止の命令はこの時代にめずらしくないが、ある個人の立てた荘園に対する禁止令は、これ以外に例がない。(p10-11)

と『百錬抄』と『後二条師通記』の「荘園立庄停止」の件を述べた上で、荘園史では名高いらしい大石直正氏の1986年の論文「奥羽の荘園と前九年・後三年合戦」について触れています。

大石は、頼義の祖父満仲以来、摂関家の従者、「用心棒」として活躍してきた源氏の性格や、当時の荘園寄進の一般の例、そしてこの宣旨が出たのち、摂関家領小田島荘について国司が整理の動きをみせていることなどを理由に、東北地方の摂関家領荘園の多くは、現地の豪族の寄進を中間で媒介した源頼義・義家親子ら源氏の活躍によって成立したのではないかというが、いかにも魅力的な推定である。(p11)

大石直正氏は同じ岩波講座『日本通史』7巻の論説「地域性と交通」を担当されていますが、そのなか、及び単著の『奥州藤原氏の時代』 (吉川弘文館 2001年)の中で、院政期以降の中世の全国の荘園の分布に触れています。

それによると、東国の特徴は王家領荘園が過半数、それに次ぐのが伊勢神宮の御厨で、摂関家の荘園は第三位とは言っても王家領荘園の半分にも満たないそうです。ところが、奥羽でだけは逆転して確認出来る35の荘園の内、王家領荘園が5件であるのに対して、摂関家領荘園はその倍の11を数えるそうです。

また、出羽でも陸奥でも北限に位置し、陸奥であれば、その北は今流に言えば特区のような奥六郡地域の近くであること。そしてその荘園は11世紀に遡るか、遡る可能性が高い古い由緒をもっていること。奥羽では全ての摂関家荘園で、藤原清衡が荘園の管理者として登用され、奥州の支配者としての権威を固めたとあります。 

元木氏が「義家の職(預所)が奪われたものとも」というのは大石氏の研究をヒントにしているようです。前九年、後三年の役当時、あるいはそれ以前から軍事貴族の進出により荘園は立荘されていたと思われ、頼義・義家父子も国守として積極的に田畑を獲得して荘園を立荘・寄進したでしょう。もちろんこれは状況証拠の閾を出ません。大石直正氏の著書にも義家が奥州に荘園を立庄していたという確かな証拠はあげられてはいません。しかし源頼義、源義家が陸奥に荘園を立荘しなかった訳がないと私も思います。その寄進先は大石氏のいうように摂関家で、この時代だから国免荘でしょうね。

それらの荘園はその後には国衙領に戻ったものも多少はあったかもしれません。しかし少なくとも摂関家を本所とする荘園については、藤原清衡が進出して支配したようです。この当時の陸奥守は義家の後任の藤原基家で、この基家と藤原清衡は、いわゆる受領と現地開拓領主の利害対立のパターンで鍔迫り合いがあったようです。前九年の役の前哨戦、受領・藤原登任(なりとう)と安部氏奥六郡の主・安部氏の対立を思い出しますね。あれも安部氏が奥六郡から南に支配地を拡大していく過程での受領との利害対立です。しかしそれを知っている奥州の藤原清衡は正面対決を避けながら勢力を拡大していきます。

この頃、というのは1091(寛治5)11月15日ですが『後二条師通記』には奥州の藤原清衡が師通の父、関白藤原師実(もろざね)に馬を送り、一緒に届いた文箱には2通の解文、申文が入っていたと書いてあります。解文はおそらく貢馬の添え状、申文は解文同様下のものから目上のものに差し出す文書ですが、通常任官の申請などに用いられます。そしてその後、奥州の藤原清衡は、陸奥、出羽、越後の北部に渡る広い範囲で摂関家の荘園を管理しています。(橋喬 『奥州藤原氏』  中公新書 2002年 p115-126)

時期的にはなんか臭ってきますね。その申文の中身が知りたいところですが、残念ながらそこまでは伝えられていません。しかし、それが奥州藤原氏が摂関家にすり寄り、受領・藤原基家を牽制しながら、奥六郡に隣接する南部の、既に実質支配下にあった摂関家領荘園を預所相当の立場で正式に支配下においたと推定することは極めて自然だと思います。その過程で摂関家に荘園を寄進していながら、陸奥から遠く離れた京に逼塞し、現地支配が出来なかった源義家は、預所相当の立場を失ってしまっただろうと。また、その過程での受領・藤原基家との取引で、源義家の荘園の一部は国衙領に戻されてしまったかもしれません。

延久荘園停止令で記録荘園券所 設置を開設したのは、白河帝の父・後三条天皇のときで1069年(延久3)。白河院政期もどちらかというと荘園を抑止しています。「荘園の立庄を停止」の「立庄を停止」に着目すれば、新たに立庄することを禁止されたともとれますし、国衙領に戻されたとも取れます。この時期に立荘された荘園は、国免荘であり、国司交替の度に国免の認定を取る必要があります。実際、鎌倉時代にまで存続した荘園はあまりなく、陸奥・出羽の摂関家領はむしろ例外とも言えます。

しかし石井進氏が指摘されたように「ある個人の立てた荘園に対する禁止令は、これ以外に例がない」とはいえ、それが公卿の日記に記されたのは「義家朝臣と舎弟義綱と権を互にし、両方威を争うの間、攻伐を企てむと」という寛治5年6 月12日の事件のせいか大きかったのではないでしょうか。今でいえばワイドショー登場時間第一位とか。荘園の停止自体は、当時においては石井進氏もいわれる通り別に義家だけに起こった特別なこととは思えません。

参考文献

  • 安田元久 『源義家』(吉川弘文館、1966年)
  • 竹内理三 『日本の歴史 (6) 武士の登場』(中央公論社、1965年)
  • 坂本省三 『日本の歴史 (6) 摂関時代』(小学館、1974年)
  • 大石直正 「荘園公領制の成立をどうみるか」 
    『争点・日本の歴史』 4巻:中世編 (新人物往来社 1990 年)
  • 入間田宣夫 『日本の歴史 (7) 武士の世に』(集英社、1991年)
  • 玉井力 「10-11世紀の日本−摂関時代」 『岩波講座 日本通史』6巻 (岩波書店 1993年)
  • 石井進 「11-12世紀の日本−古代から中世へ」 『岩波講座 日本通史』7巻 (同上)
  • 大石直正 「地域性と交通」 『岩波講座 日本通史』7巻 (同上)
  • 元木泰雄 『武士の成立』(吉川弘文館、1994年)
  • 福田豊彦 『東国の兵乱ともののふたち』((吉川弘文館、1996年)
  • 下向井龍彦 『日本の歴史 (7) 武士の成長と院政』(講談社、2001年)
  • 元木泰雄編 『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』(吉川弘文館、2002年)
  • 橋喬 『奥州藤原氏』  (中公新書 2002年)
  • 田中文英 『院政とその時代−王権・武士・寺院』(思文閣出版、2003年)
  • 高橋昌明 『清盛以前―伊勢平氏の興隆』(文理閣、2004年)
  • 元木泰雄編 『古代の人物 (6) 王朝の変容と武者』(清文堂、2005年)
  • 野口実 『源氏と板東武者』(吉川弘文館、2007年)

2007.11.11
2008.01.20