武士の発生と成立       平忠常の乱

平良文流と国香流の抗争

平良文の系統は武蔵・相模・下総に勢力を持ち、常陸国の平繁盛系と対立関係にありました。有名なのがこの「金泥の大般若経」の話です。平繁盛は将門と抗争を繰り広げた叔父平国香の子で、将門を討った平貞盛の弟で、兄平貞盛が京で出世したのに対し、父平国香の常陸国での遺領を継ぎ代々常陸大掾として土着し、常陸の大豪族となります。その繁盛が、朝廷へのアピールの為に「聖朝安穏鎮護国家の御為」という名目で金泥の大般若経を比叡山延暦寺に納経しようとします。
が、その金泥の写経を持った一行が武蔵国で平良文の子の「陸奥介平忠頼、忠光等」によって散々に打ちのめされ、納経出来ず、繁盛は太政官(朝廷)にこれを訴える「解状」を提出します。

寛和3(987)年正月24日『太政官符』

「陸奥介平忠頼、忠光等、武蔵国に移住し、伴類を引率し、運上の際事の煩ひを致すべきの由、普く隣国に告げ連日絶へず」

これを受け太政官(朝廷)は「忠頼追討の官符」を東海道・東山道の国司に発布します。前述の引用はその中の一節です。

しかし8月9日にはその官符が取り消されます。おそらくは平忠頼、平繁盛の双方がそれぞれに公卿の有力者に仕えていて「政界工作」の応酬をしていたのでしょう。

同年11月8日、繁盛は追討の官符の再発布を求めるため自ら上洛し、その途路で比叡山へも訴え出ます。比叡山から届けられた平繁盛の訴えのうち、朝廷は比叡山への大般若経の搬送は認めたもののその方法は諸国の国衙をリレーしてであり、繁盛の宮中参内は認めなかったそうです。

平良文の系と平繁盛系の対立がこれ以上熾烈になるのを避けるためでしょう。

平忠常

そのときの平忠頼の子が忠常であり、平忠常は『日本紀略』等の朝廷の記録に「前上総介」とあることから、彼が朝廷から「上総介」に任じられていたことは間違いないと思われます。

その平忠常と源頼信のことが『今昔物語』巻第二五第九「源頼信の朝臣、平忠恒を責めたる話」に登場します。石井進氏の「鎌倉武士の実像」に治められている「中世成立期の軍制」がこの話を題材としながら国衙軍制を分析したことは有名ですが。その物語の中に忠常の先祖からの敵、左衛門大夫平惟基が登場します。

1016年以前から下総国の平忠常は隣国常陸国の「左衛門大夫惟基」と争っており、忠常は惟基を「惟基ハ先祖ノ敵也」と(今昔物語)。『今昔物語』の平惟基は先の平繁盛(平国香の次男・常陸大掾)の子の平維幹(常陸大掾)と思われます。 

おそらく忠常は常陸国南部にも勢力を広げていたのでしょう。『今昔物語』に出ている話とは、忠常は大きな軍事力を背景に常陸国の公事を行わなかったとして、当時常陸介であった源頼信が国を越えて軍勢を下総国へ進めることがありました。しかし忠常はすでにすべての舟を隠し何日もかけて霞ヶ浦をぐるりと回らなければ攻めてこれない様にして安心していましたが、頼信は「家の教えによるとどこかに渡れるところがあるはず」と道案内を探し出して浅瀬を渡り、これに驚いた忠常はついに名簿(みょうぶ)を差し出して降伏したと言う話です。

尚、常陸・上総は親王が国守であるため、常陸介源頼信、上総介平忠常など上総国、常陸国の「介」他の国の「守」と同格。「掾」は、他の国の「介」と同格です。

さて、平忠常がいつ上総介(任期4年)だったかについての資料は残されていませんが、「あたかも土人のごとし」ではその国の国司には任命されません。と言うのも、あの藤原道長でさえ、源頼信の兄が源頼親摂津守に推挙したときにその理由から反対にあって実現しなかったぐらいです。反対意見はこうです。

「かの国(摂津)に住し、所領はなはだ多く、土人(土地の人・土着の意味)の如し」(小右記)

ただし、治安の悪いと思われていた東国では其の国に地盤(武力)を持っているものを利用するケースもあるので、100 % 断定は出来ませんが、上総介となってからその職権を利用して上総・下総に地盤を作ったと考えるのが自然であり、『今昔物語集』の一件のときには既に「前上総介」であった可能性が高いです。そしてその上総介(受領)就任は年代的に藤原道長の時代に道長自身か、その子藤原教通に仕えてそれが評価されての任官と見るのが自然でしょう。

当時は受領になるには京での有力公卿への奉仕がなくては考えられず、その他を圧倒する最有力者が藤原道長一族であり、後に平忠常は道長の子内大臣藤原教通を私君としていたようですので。

ただし、藤原道長親子に仕えていたのは平忠常がけではなく、その宿敵貞盛流の維時・直方親子もまた藤原道長親子(子は関白頼通)に仕えています。

平忠常の乱

1028年(長元1)6月、忠常は安房守惟忠を焼き殺す(「惟」を名に持つことから貞盛流平氏の可能性もあるが不明)。おそらくは受領と在地領主である忠常との対立。 

1028年2月21日、検非違使右衛門少尉平直方を「前上総介忠常」の追討使

1028年7月13日、平忠常に占領された上総国の国司・上総介縣犬養為政から、馬二疋と手作布四百反が藤原実資のもとへ届けられ、15日には、為政の厩舎人・伴友成が実資の屋敷を訪問し、国司の妻子が近日中に上洛する(京へ逃れる)ことを報告する一方、国人らが国司の言うことを聞かず、すべての権力を忠常が握って、生死も彼の心のままになっていること、さらに忠常の郎党が国司の館に乱入して国司の郎党に乱暴をはたらいた報告がなされた。

朝廷は追討使として検非違使右衛門尉平直方を任命。平直方は吉日を選び任命から40余日も後の1028年8月に兵200を率いて京を出立。

1028年8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられ、郎党は忠常の私君内大臣藤原教通宛ての書状を持っており、追討令の不当を訴える内容だった。

1029年2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させる。

1029年2月1日、藤原実資は東海道・東山道・北陸道諸国、追討使平直方へ下す忠常追討の太政官符の草案
1029年2月5日、「各道諸国は互いに協力して忠常を追討すべき旨の太政官符」。
さらに追討使の支援のため平直方の父維時を上総介に任じ、維時は2月23日、京都を発し、関東へ向かった。

6月13日には、京都にあった忠常郎党の住宅を検非違使が家宅捜索。忠常は留住はしていても土着ではなく、京にも地盤を持っていることを物語っている。

1030年3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で平致経と抗争により任国へは迎えず。

 

乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。

1030年9月、朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。甲斐守に任じ、任じたばかりの甲斐守に隣国両総の平忠常の乱の平定を命じたのではないかと。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向。しかし甲斐から動かず。おそらくこの間に水面下で平忠常側の説得工作をしていたのではないでしょうか。その為に京より平忠常の子を同行させたのではと。

1031年春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死。何の根拠も無い私の想像ですが、それも最初から予定の筋書きでは? 

その知らせを受けた朝廷では忠常の子の常昌らの処遇について会議を持ち、

左大弁・藤原重尹「忠常は首となってすでに帰降し、事実、常昌らもこれに従っており、追討する必要はない」
左兵衛督・藤原公成「忠常入道常安は帰降しており、その息子達も帰降する気持ちであったが、忠常は上洛の途中で死去してしまった。罪人でも父母の死の際には暇が出るのに、父の忠常が死んで間もなく、未だ罪人でもない常昌らの罪状を問うのはどうか」

頼信は忠常の首をはねて帰京。朝廷は降人の首をさらすべきではないとして忠常の首は従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。その子らが後の頼朝挙兵時に活躍した上総介氏、千葉氏となります。

1032年、功により頼信は美濃守に任じられます。

この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったと言います。

これは平直方の収奪と言う説もありますが、実際には当時の戦争の仕方、動員の仕方にあると言う説を東工大の福田豊彦氏が述べています。

この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となったと一般には言われますが、確かに源頼信の関東での名声は高まり、源頼信に名簿を提出して臣従したものは多かったでしょうが、しかし一般に思われるほどの者ではなかった、過大評価すべきでは無いと言うのが最近では定説となっています。例えば京大の元木泰雄氏、龍谷大横沢大典氏など。

秀郷流藤原氏への影響

後で追記します。