源頼義・源義家については後世に沢山の逸話が作られています。源頼義・源義家を英雄視し、武家の統領、源氏の嫡流という伝承をつくりあげたのは第一に頼朝であり、次ぎに足利幕府です。更に源氏を名乗った徳川幕府と、そして戦前の陸軍統制派です。戦前の史学の重鎮にして御用学者黒板勝美の「義經伝」の冒頭「武士道の権化」にはこうあります。
武士道に光輝を放っている名将は、何というても八幡太郎義家である。義家は板東武士を率いて、前九年後三年の両役に勇名を轟かし、優に柔しき武士、物の哀(あわれ)を知れる大将として、非常に将士の心を得、遂に源氏の根拠を東国に置いたと言われている。
そうした後世の権力者による偶像化を極力排して歴史を見ていかなければならないのですが、安田元久氏が1966年の『源義家』の「はしがき」に述べているように「歴史上の人物としての義家と、伝説上の義家とを峻別したいと考えながらも、時としてしらずしらずの中に、説話の世界にひきこまれようよして、あやうくたちどまる」ということがままあります。さらには川合康氏いうところの「平家物語史観」の呪縛も。
日本史の研究は軍部の統制から解放された戦後に再スタートを切ったと考えて良いと思いますが、それから半世紀以上が過ぎ、中世史の研究もだいぶ進んで様変わりしている部分もあるように思います。そこで「武士」の中でもっとも偶像化されやすい源義家について、戦後の範囲で初期の第一世代の学説、第二世代の学説、第三世代として現在の学説を比較してみたいと思います。
竹内理三氏の「武士の登場」 1965年
中央公論社『日本の歴史』全26巻の内の第6巻、竹内理三教授の『武士の登場』から源義家を見ていきます。
義家疎外さるp209-211
1091年(寛治5)、朝廷から諸国の百姓に、田畑を義家に寄進することを禁じる旨の宣旨が出された。これは郎党の田畑をめぐって、義家が弟の義綱と都で戦いをはじめようとして大騒動になった最中のことであり、こうした事態の再発を防ごうとする目的から出されたものである。(p209)
しかし、特に義家に限ってこの禁止が行われたのはなぜであろうか。・・・わたくしは、ここに義家にたいする貴族たちの変化をみとめるのである。当時はすでに白河上皇の院政時代である。貴族達の変化は同時に白河上皇の変化である。(p209)
義家は・・・前九年の役、後三年の役によってその武名を天下にとどろかせ、関東の武士を郎党と化し、武士の棟梁として「天下第一武勇之士」といわれた。白河上皇は義家を身辺の警固のために大いに利用した。上皇は院政を行うための武力的背景として、かれらの武勇をあますところなく利用したのである。しかし、義家が諸国の百姓の田畑の寄進をうけて、貴族達と同じような荘園領主になることは認めがたいところであった。(p209)
本所や領家とあおがれるものは自他ともにゆるす政治的権力者である。そうでない貴族たちは、本所・領家の荘園の預所職となって生活の資をうる。おのずからここに荘園をめぐる貴族社会特有の家格がうまれるわけである。摂関家の侍にすぎぬ義家が、諸国の百姓から田畑の寄進をうけて貴族と同じ荘園領家化することは、上皇をふくめての貴族層にとってはたえがたいことであった。禁止の真の目的は、これによって義家が貴族たちの世界に加わることを防ぐことにあったのである。義家はようやく貴族達から煙たがられはじめたのである。(p210-211)
ここでは「田畑の寄進をうけて貴族と同じ荘園領家化することは、上皇をふくめての貴族層にとってはたえがたいことであった。」の中の「領家」そして「本所や領家」というところに注目しておきます。「荘園領主」には実は「本所や領家」「預所」「庄司(下司)」の3段階があるのですが、竹内理三氏や、次ぎに見る安田元久氏ら戦後第一世代の研究者はその一番上のランクに義家を見ています。
義家の昇殿
しかし、諸国の武士・百姓の衆望が義家にあつまっていることには変わりはない。まったくこれを排除することは得策でない。そこで1098年(生得2)10月23日、白河上皇は義家に院の昇殿を許した。このとき左中弁であった中御門宗忠はその日記『右中紀』に、
「前陸奥の守義家朝臣と、若狭守敦兼が院の昇殿を聴(ゆる)された。義家朝臣は天下第一武勇の士だ。しかし昇殿を聴(ゆる)されたことについては、世人も納得しない気配があるようだ。」
と記した。先にもいったように、ここに世人というのは宗忠自身の社会、つまり貴族社会の人々である。後三年の役からこれまで11年をへているのに、義家が前陸奥守であることに注意したい。ふつうであれば11年のあいだにさらにつぎの官職を与えられているはずである。この点からでも、義家が貴族達から疎外されつつあることを察することができる。院の昇殿聴許は、こうした待遇に対する義家の不満を緩和するためであったとしか考えられない。
「ふつうであれば11年のあいだにさらにつぎの官職を与えられているはずである」と書かれていますが、それが「当然」なのか「不当」なのかについてはあとで年表にまとめてみます。尚その後の研究ではこの当時「ふつう」は「巡」が回ってくるのは旧史(受領経験者)でも8年から15年ぐらいです。それも公文完済、つまり納めるべきものを納め終わってからです。
安田元久氏の「源義家」 1966年
「源義家」 (吉川弘文館人物叢書)より安田元久氏の論を見てみましょう。先の竹内理三氏の論にくらべて、安田元久氏のそれは若干綿密に見えますが、安田元久氏の引用はまるまる本1冊からであるに対し、竹内理三氏の引用は『日本の歴史』第6巻からで、義家に関するページはその一部に過ぎないからということもあります。それにしても両者の見解を比べてみると、ほとんど共通していますね。おそらくこの第一世代の共通認識であったのでしょう。
義家は「天下第一武勇之士」とか「武士の長者」とか評されるに至った(中右記)。しかし義家が「武士の長者」といわれ、清和源氏が武士の家として認められるに至ったとはいうものの、それが12世紀以降に見られる如き、いわゆる武家とは質的に異なっていた点に注意しなければならない。
(p115)
・・・その目標はやはり貴族社会の中においてその家の位置を確定させ、貴族としての経済的地盤を拡大することであった。義家も諸国の守に歴任していることが端的に示すとおり、当時の貴族の一員としての側面を備えていた。
(p116)
ここだけ読むと、まるで第三世代の元木泰雄氏の著書を読んでいるような気になります。第一世代の学者さんなのに、安田元久氏もなかなか侮れないなぁと思いました。あたり前ですが。
白河上皇は依然として身辺の警固の為に義家を利用していた。上皇が院政を行うための武力的背景としての源氏の武力を有効に働かせることを忘れてはいなかった。しかしそれはあくまで警衛のために駆使すべき武力であり、政権の擁護に利用すべき勢力にすぎなかった。従って義家の名声が高まって、諸国の百姓の田畑寄進をうけ、上級貴族達と同じように荘園領主となろうとすることは、全く認めがたいところであったと思う。・・・すべての貴族層にとっては到底たえがたいものであった。こうしてこれまで順調に発展してきた源氏の勢力が、院政当事者の抑圧策によって、その発展を阻害され、源氏の運命の転換の時期に直面するに至った。 (p119-120)
この著書は一般人向けに書かれたものですので「領家」とか「預所」などの「専門用語?」は使っていませんが、分脈から、ここでも荘園の一番上の所有者をイメージしていることは明らかです。
義家が陸奥守を退いたのち、その功過(こうか)も決定されずに放置されていたのであり、それは義家が当局者たる貴族たちから疎外されていたことを物語るのであるが、同時に、後三年の役の間の、陸奥守としての義務履行について、未解決の問題が残っていたためでもあった。永長元年(1069)12月、朝廷は義家に命じて、未進の砂金について尋ねしめるということがあった(中右記)。
・・・・このことがどのように解決したかは、史料不足で断定できないが、こうした問題が残っていて、容易に陸奥守の功過が定められなかったのだと思う。(p134-135)
「このことがどのように解決したかは、史料不足で断定できないが」については、あとで『中右記』を見ていきます。
後三年の役の朝廷の評価
まず、後三年の役についての当時の記録をまとめておきます。
1083(永保3)
9月 |
出羽の吉武秀武、清原清衡・清原家衡を語らい、清原真衡と兵を構える
源義家、陸奥守として下向。清原真衡、出羽へ向かうが病死。 |
1085(応徳2)12月4日 |
「陸奥交易御馬三十疋」京へ届く(為房卿記) |
1086(応徳3)
9月28日
|
清原清衡と家衡が対立し、家衡が清衡妻子を殺害。義家は清衡を支援し、沼柵を攻める。後三年の役の始まり
京に「陸奥に、兵、起こる事」の知らせ。朝廷、奥州に源義綱を派遣することを議するが実現せず (後二条師通記) |
10月 7日 |
朝廷、源義家の解文を審議 |
10月 29日 |
左大弁と民部卿が「義綱申文」を見て「陸奥守に成すべき日を教えるところなり」と。 (後二条師通記) |
11月 2日 |
藤原師実、源義綱に「世間(にいう)義家合戦」のことを問う(後二条師通記) |
1087(寛治1)
7月9日 |
「奥州合戦停止」の官使の派遣が決定される (為房卿記) |
1087(寛治1)
9月23日 |
弟源義光が勝手に陸奥下向。朝廷はその官(左衛門尉)を解く
(為房卿記、本朝世紀) |
11月14日 |
出羽金沢柵にて清原武衡、家衡を破る、 |
12月26日 |
国解にて正式に官符を要請するが追討官符は下されず恩賞もなし。
「守義家朝臣、俘囚を追討し了んぬ」(中右記)
「陸奥守義家、賊徒清原家衡の首を切るの由言上」(本朝世紀) |
1088(寛治2)正月25日 |
「陸奥守に成すべき人を定められる」議(後二条師通記)
義家罷免
「未功課の藤原基家」替任(中右記)、後三年の役集結 |
1096(永長1)12月15日 |
朝廷、源義家に陸奥の未進の砂金を督促 (中右記) |
1097(永長2) 2月25日 |
朝廷、未進の貢金を督促 (中右記) (以下に別記) |
1098(承徳2)正月23日 |
陸奥守の官物を完済 (元木p431 中右記)
(以下に別記) |
4月2日 |
正四位下 (中右記) |
10月23日 |
院昇殿を許される(中右記) |
官物未進
清原氏は安部氏のときとは異なり「朝威を重んじ朝宣をかたじけなく」し、朝廷に従順で官物の滞納などもなかったとあります。ところが「義家合戦」が起こると「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととの」えたために朝廷に対する官物(納税)が滞る事態となります。
『中右記』に「朝廷、源義家に陸奥の未進の砂金を督促」が2回出てきますが、漢文を入力するのは大変なので1097(永長2)
2月25日条ひとつだけ引用します。
又従蔵人所沙金不下給、其直法為行事所不足也、・・・・・・前陸奥守義家合戦之間不貢金、彼年行幸者、尋件年例可申者
蔵人所は天皇の秘書室かと思ったら、実は天皇家の家政機構とも言えるものであり、砂金は直接蔵人所に納められていたのかもしれません (『日本通史』6巻 p15)。
「行事所」は聞き慣れない言葉かもしれませんが、9世紀中頃に大嘗祭(だいじょうえ)などに現れ、徐々に恒常、臨時を問わず様々な行事に設けられた、機能性を重視した一種のプロジェクトチームであり、必要な物資の調達を含む行事事務全般を取り仕切るものです。上卿(しょうけい)1名、弁官、史からなのが一般的です。10世紀後半からはこの行事所が、独自の経済基盤として、召し物を諸国から徴収するようになり、この義家の件の頃には朝廷諸行事執行の重要な柱となっています。 (岩波講座 『日本通史』6巻 p20)
金はこの当時、後のような「財貨」であるより以前に、装飾の貴重にして重要な材料であり、当時金は陸奥からしか手に入らなかったのでその「不貢金」は単なる租税未収以上の、朝廷の諸行事に支障をきたす大問題だったと言えます。だから朝廷で議題にあがったと。
朝廷の命令も無しに私戦を始め、それがために官物(それも貴重な金)の滞納を引き起こせば、受領の功過定にマルは付かないのは当たりまえで、もっと昔なら京に帰ることすら許されなかったぐらいです(「国司の受難」の中井王を参照)。
そして功過定が出なければ、次の官職には就けないことも当時としては当たり前ではなかったでしょうか。例外は1例読んだことはありますがそれは非常事態で他に適任者が居なかったときです(注記) 。
だからこそ1098(承徳2)正月23日の「官奏」が必要だったのです。次ぎにその「官奏」について見ることにします。
注記:おっと、その例外はなんと、義家の後任の藤原基家でした。これによっても、陸奥守の交代は緊急事態であったことが解ります。戦乱で官物の途絶えた陸奥国をきちんと切り回せる者は他には居なかったのでしょう。
官物未進の決着
その官物未進の決着に10年がかかりますが、承徳2年正月23日条を『大日本古記録・中右記四』は(東京大学史料編纂所編纂 岩波書店刊)で確認しましたがこれ以上のことは書いてありません。
官奏 義家の公文のことに依り除目以前に行ふ
今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依済舊國公事、除目以前被忩(そう)行也(件事依有院御気色也)
、左大史廣親候奏
「官奏」の意味はこちらに。
「八世紀中葉頃に「官奏」という政務が成立するが、それも大臣から奏上された文書そのものを天皇が閲読し、口頭で決裁を行なうものであった。さらに平安時代以降には、職事・蔵人による伝奏が一般化するが、その場合も口頭決裁という原則は変わらなかった。天皇の言葉は、例えば「ヨシ」などという簡単なものだったと思われ(単にうなずくだけだったのかも知れない)、それは奏請した側が文字にして記録する。こうした決裁記録が「奏報」とか「宣旨」とかと呼ばれるものであった。」
小文字で注記された「件事依有院御気色也」がどこにかかるのか気になるところです。 「前陸奥守義家朝臣依済舊國公事」にもかかるとすれば白河院の意向で「未進の砂金」を不問として「済舊國公事」つまり功過定を通過させたとも深読み出来ますが。その決着が元木氏が解釈したようにやっと「陸奥守の官物を完済」(多分砂金以外のもので代納)したのかまでは判りません。功過定にくるまでにいろんな条件をパスしていなければなりませんから単純に不問にされたとは考えにくいです。
いずれにしてもこの「件事依有院御気色也」の注記は、「白河院政の黒い手」どころか、白河院が義家を昇進させる意向をもっていたことを示しています。しかしそのためには未解決のままの官物未進の決着をつけて功過定を通さなければそれも出来ない。功過定を行う陣議に出席する公卿に、予め摂政関白(陣議には出ない)が圧力をかけ、みなが目配せして誰も発言ぜずにそのまま通ってしまうということは摂関時代からあったようですが、形式的にでも受領の功過定は加階(位階を昇進させること)の大前提だったのです。
そして今回の圧力は摂関家からではなく、白河法皇(1096年出家)だったと。今流にいうと代表取締役会長が「印を押してやるからさっさと稟議書を廻さんかい!」とせっついたというようなものでしょうか。
世人有甘心之気欺
尚、安田元久氏の「源義家」p135にはこう書かれています。
承徳2年(1098)10月になってようやく功過が定まり、義家は功績を一応認められて正四位下に叙された。そしてまた、上皇は義家に院の昇殿を許したのである
一見「功過定」が承徳2年(1098)10月のようにも読めますが、これは「上皇は義家に院の昇殿を許した」年月です。その院昇殿について『中右記』承徳2年10月23日条の裏書きにはこう書かれます。
義家朝臣者、天下第一武勇之士、被聴昇殿、世人有甘心之気欺(興に欠)、但莫言。
これをもって「武士」が昇殿を許されたことに貴族達が反発を覚えたと読むのが一般的です。
長承元年(1132)、平忠盛が内昇殿を許され殿上人となったことに他の殿上人が反発したこをを描いた『平家物語』の有名な一節「殿上闇討」をすぐざま思い出すのではないでしょうか。私も子供の頃に見た『平家物語』絵本で左兵衛尉家貞が御殿の庭に控えている絵を覚えています。
忠盛三十六にて始て昇殿す。雲の上人是を猜み、同き年の十二月廿三日、五節豊明の節会の夜、忠盛を闇打にせむとぞ擬せられける。忠盛是を伝聞て、「われ右筆の身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮の恥にあはむ事、家の為身の為こころうかるべし。せむずるところ、身を全して君に仕といふ本文あり」とて、兼て用意をいたす。
私は絵本でしたが、歴史学者を目指すような人なら学生の頃から原文で読みふけっていたでしょうね。そこで「天下第一の武勇の士とまで言われた義家でさえ、武士なるが故に貴族からは、あんなやつと同席だなんて、と反発されたのか」と思ってしまうのも無理はありません。
しかし、『中右記』の同じ年に同じような感想が書かれているところがあります。院昇殿を許される前、義家の正四位下の臨時叙位があった承徳2年(1098)正月23日条なんですが、こうあります。
「臨時叙位」正四位下源義家朝臣
従今日丹波守為章朝臣、依院宣渡閑院舎屋於鳥羽殿、仍被免造宮温明殿了、
新造家被壊之事、世人不甘心云々
、同日同時に行われた祭除目の次ぎに、義家の正四位下叙位について淡々と事実だけ記していますが、そのあとに白河法皇が近臣の丹波守高階為章に命じて閑院の舎屋を鳥羽殿に移築させたことに対して「世人不甘心云々」とこちらの方が感慨深いと?
どうも『中右記』承徳2年10月23日条の「世人不甘心云々」も「武士だから」「自分達の脅威だから」と言った階級対立やら高度に政治的な理由ではなくて
勝手に合戦をおっぱじめて、金沢柵では罪もない女子供の無差別殺戮をやって、おまけに陸奥からしか入らない大事な砂金を私戦で滞納していろんな行事(造仏含む)を滞らせた義家を、いくら天下第一の武勇の士だからと言って、法を曲げてまで功過定を通し、位階の昇進は良いとしても、院昇殿までとは(絶句)。正四位になったからと言って、だいたいあれは受領クラスの家じゃないか、これまでの天皇陛下はこんなことなかったぞ。いったいどうなってるんだ。世も末じゃ。
というような「例」を重んじる公卿の白河法皇に対する不満のようにみえてしまうのですが。実際、白河法皇も、後白河法皇も、伝統を重んじる公卿達が「エーッ!」と思うことを、思うままに押し通していますので。
2007.11.11-22
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