頼朝以前の鎌倉        大庭御厨の濫妨

大庭御厨(おおばみくりや)

相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。

と、「奥州後三年記」にも書かれた、有名な鎌倉権五郎景正(以下「景政」とする)は、30代の壮年に達していた頃、鎌倉の西の大庭の地を開発し、おそらくは当時、在庁官人にしてその地の郡司も兼ねていたのか、近隣の公田もまとめあげて名目上伊勢神宮に寄進、所謂「立荘」をして大庭御厨とします。その経緯を、石井進氏の「相模の武士団」(p125-132)、及び『鎌倉市史・総説編』(高柳光寿著 p31-48)から要約してみましょう。

尚、当時の資料としては後に紹介する 『天養記』には、「官宣旨案」天養2年2月3日、と3月4日付の2通の他に、1141年(保延7)6月の相模国司の解が残っています。

大庭御厨(おおばみくりや)は始めは郷でした。10世紀初頭の「倭名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)には、高座郡大庭郷があります。「官宣旨案」には鵠沼郷他が出てきますが、これが大庭御厨立荘以前に別符の新郷として成立していたものなのか、それとも御厨(荘園)内の村郷なのかは、はっきりしません。

1104〜1106年頃(長治年中)、景政は所領・相模国鵠沼郷一帯を先祖伝来の地として、当時の相模守藤原宗佐の承認のもと、多数の浮浪人を集めて開発をしました。高柳光寿氏が紹介する伊勢神宮側の主張は、長治年中の開発自体が御厨としての開発だとしています。

高柳光寿氏は「長治年中」を1104〜1105年頃と書かれていますが、長治3年(1106年)4月9日に 嘉承に改元しているからその方が可能性は高いということでしょう。

しかし、相模守藤原宗佐は、おそらく年限を限って(通常3年)開発地の年貢を免除したのでしょうが、それ以降の国司が官物免除を公式に行った形跡はありません。現に、伊勢神宮の訴えの中にも、そののちにこれを濫妨(らんぼう:掠奪・暴行)するものがあったので、1116年(永久4:当時の相模守藤原盛重が、任期切れ間際)に奉免立券、そして、検注(検田)により領域も確定し、免税地として国衙と郡衙の文書による正式な承認をうけて、伊勢神宮領・大庭御厨の成立となったとしています。大庭御厨の「御厨」(みくりや)とは天皇家や伊勢神宮の荘園です。この場合は伊勢神宮ですが。そして鎌倉権五郎景政はその下司職に。

『吾妻鏡』には、長江太郎義景が先祖権五郎景政が1117年(永久5)5月23日に御厨を「奉寄」つまり寄進したとあります。

『吾妻鏡』1182年(養和2)2月8日条
御願書を伊勢太神宮に奉らる。大夫屬入道善信草案を献ず。これ四海泰平・万民豊楽の為なりと。生倫衣冠を着し、営中に参りこれを賜い、則ち進発す。中四郎維重これを相副えらる。長江の太郎義景、神宝奉行として同じく首途す。義景が先祖権五郎景政、鄭重の信心を抽んで、去る永久五年十月二十三日、私領相模の国大庭の御厨を以て、永く神宮に奉寄するの間、彼の三代の孫尤も神慮に相叶うべきかの由、御沙汰を経られ、その撰に応ずと。

高柳光寿氏は、相模守藤原盛重がそれを認めてから、諸手続が完了して、正式な立荘となったのが、翌年の1117年(永久5)5月23日なのだろうとされています。それにしても1104〜1105年頃の長治年中から、約10年後にやっと、相模守の承認にこぎ着けたということ、「当御厨は本より荒野の地なり。誠に田畠無きの由国判に見ゆるなり。」と「官宣旨案」における伊勢神宮の主張は述べていますが、しかし、そんな広大な土地に「田畠無き」とはとても思えません。

10世紀頃の「倭名類聚鈔」によると、相模国の水田は11,236 町余とあります。大庭御厨は山間部ではなくて、相模国の中央の平野です。確かに大部分は台地で、水田はその縁のあたりでしょうか、それししても、そこが「田畠無き」ならいったい何処に田畠があったんだい! と言いたくなります。

大庭御厨の不安定さ

石井進氏は、鎌倉権五郎景政は12世紀以前からその地を少しづつ開拓していて、御厨開発申請の段階では、既にこのエリアで郡・郷司の地位を獲得していたのではないか、そしてそれを核に、周囲の公領も囲い込んだ大庭御厨の地の荘園化を計ったのではないかと。当時の寄進系大規模荘園のお約束のパターンですね。石井進氏はこれを例に次ぎのようにおっしゃいます。「寄進系荘園」を定義する有名な一文ですね。

寄進地系荘園の成立は現地の豪族が中央の有力者と共謀して、国衙領を分割し、みずからの支配地としてしまうことだ、と述べたが、大庭御厨の領域を考えれば、その感はまことに深い。

大庭御厨は東は鎌倉郡玉輪庄との境の俣野川(現在の境川)、西は相模一宮の社領である神郷、南は海で、北は現在のどかに当たるか不明ですが大牧ア、面積は1144年(天養1)当時で95町(『神鳳抄』に150町)、収穫量は47,750束あったといいます。鎌倉時代末期の『神鳳抄』によると、その時点では13郷からなっていたそうです。

石井進氏は収穫を4,750石と書かれていますが、そのたった1行前に「反あたり籾五石、米で二石五斗の数字を得る」とありますので、4,750石は籾(もみ)でのことでしょう。すると、米なら2,400石ぐらい。この頃の石と、太閤検地以降の石とはえらい違うようなので、更に補正をしなければならないかもしれませんが、それにしても当時としてはえらい大きな荘園です。その広大は領域を考えれば、その成立までに、国司・国衙との利害の衝突、調整、そして多分紛争も当然想像されます。それ故にその成立まで約10年も要したのではないかと。

さて、高柳光寿氏の『鎌倉市史・総説編』に戻りましょう。
当時の資料(『茅ヶ崎市史』に全て収録されているようです)によると、そのたった2年後の1118年(元永1)、そして1131年(大治6・天承1)、1132年(天承2)に、在任の国司が奉免立券したとありますが、何度も奉免立券が成されているということは、逆に何度も国衙によって取り消されたということでもあります。

最初の承認自体が、相模守藤原盛重の任期切れ間際であったことが物語っているように、国司の交替の度に、新任の国司や在庁官人は荘園の整理や見直しを行って、国衙領の増収を図ろうとします。そしてまた任期切れ間際に、今度はその荘園を承認して謝礼を懐に入れるのは、この当時一般的でした。

が、この大庭御厨については、『天養記(官宣旨案)』に、「漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処」、1123年(保安3)と、1127年(大治2)に、伊勢大神宮に、子細を言上せよとの宣旨、院宣が下された。そして国司側もとうとう先例に任せて奉免したと。しかし在庁官人らは、国司の交替毎に、その始めに濫妨(らんぼう)をしたと訴えています。どうも、国司(国守)が、というより、周辺の他の開発領主でもあったろう国衙の在庁官人らとの、長年の紛争という雰囲気も強く感じられますね。

荘園はその最盛期にすら、全国平均では半々だった、実は在庁官人として国衙を根城にする開発領主と、それに対立し、国衙に脅かされる開発領主が、権門を頼んで荘園として寄進し、領地を守ろうとした、という近年の理解の証拠をここにも見ることが出来そうです。

荘園にはその国の国司が認めたものと、朝廷が認めたものと2つのランクが有って、この大庭御厨は国司が認めたもの、つまり国司(受領)が交代すればまた取り消される可能性のあるもので、「国免荘」であったという訳です。教科書的には国司が認めた「国免荘」が不安定なために、権門に寄進をしたというが、その権門・伊勢神宮でさえこうでした。

もっともこれは、大庭一族が可哀想に国衙の権力にいじめられた、などと考える訳にはいきません。中心は鎌倉権五郎景政の領地だったとしても、その周囲はおそらく、他の一族を実力で威圧しながら、退任間近の国司に多額の認可料を払って、国衙領を分割して御厨に組み込む=私物化することを認めさせた。だから周辺では他の開発領主一族との縄張り争いが絶えなかった、ということも十分に考えられるのです。他の一族は誰かというと、相模国西部の各地を開発し、子弟を配置していった中村庄司一族を中心とする勢力あたりでしょうか。

大庭御厨と御霊社

もうひとつ、大庭御厨を開発・寄進したのは『天養記(官宣旨案)』に有るとおり、鎌倉権五郎景政でしたが、1134年(長承4)当時の大庭御厨司は平景継。1144年の「大庭御厨の濫妨」のときの下司は大庭平景宗です。その子二人「大庭平太景義、同じく景親」が保元の乱では源義朝に従っています。その大庭景宗の墓は、鎌倉から見ると、大庭御厨を越えて、更に相模川の向こう側の、豊田庄にあったことが、『吾妻鏡』によって知られます。

『吾妻鏡』 1188年 (文治4)11月27日条 
景能父景宗の墳墓相模の国豊田庄に在り。而るに群盗競い来たり、彼の塚を掘り開き、 納める所の重宝等を盗み取り去りをはんぬ。これを追奔すと雖も、その行方を知らず。 この事の始めを思うに、去る比狐斃れるの由見い出す時なりと。人以て不思議と。

梶原はともかく、豊田ではとても鎌倉党とは言えません。

先に紹介した『吾妻鏡』養和2年2月8日条には、鎌倉権五郎景政の「三代の孫」として「長江の太郎義景」が、そして江戸時代の鎌倉の地図には鎌倉大町のあたりに鎌倉権五郎景政の墓が書いてあります。長江は三浦郡長江郷、現在の鎌倉から逗子を越えた葉山の長柄で、長江義景は三浦一族の勢力下に居ます。頼朝旗揚げの頃から。

鎌倉権五郎景政からの系図には3種類あって、上記を当てはめると、3種類の内の「尊卑分脈」が、どうもおかしい。他の2つは矛盾しない。しかしその2つとも、大庭氏は鎌倉権五郎景政の子孫ではなく、兄弟の子孫と書かれています。そちらを正しいとすると、1134年(長承4)当時の大庭御厨下司は景政の子の景継であったが、10年後の1144年には大庭御厨下司は、景政の甥の子か、景政の従兄弟の孫の大庭景宗に下司職が移ったことになります。

例えば、大庭御厨下司景継が死んだとき、嫡男の(長江)義景はまだ若くて、とても近隣開発領主との抗争をさばききれなかったので、長老の景宗が下司職(一族の長)となって、一族を守った、とも取れます。

しかし、想像を逞しくすれば、大庭御厨下司景継の子の(長江)義景が、大庭御厨下司景宗を攻めた側の三浦義明らの側についていること、鎌倉権五郎景政を祀る神社が、御霊社であることなどを考えると、一族の内紛で鎌倉を本拠とした権五郎景政系が大庭御厨から排除され、一族の内、西の豊田を本拠とした景宗系が、大庭御厨を乗っ取り、いよいよ周囲との抗争が激化した。かつ、英雄・権五郎景政の怒りを恐れて御霊社に祀った。だから御霊社は鎌倉郡側にしか無い。と考えることも出来ます。御霊社は英雄を祀るものではなく、祟りを鎮める、祟りを祀ることによって逆にその強い霊力で自分を守ってもらおうと、まあ乱暴にいえばそういう信仰です。

しかし本当のところはどうであったのか、もはや判る手だてはありません。

大庭御厨の濫妨

さて、話しを戻して。

御厨周辺での境界争い、国衙に終結する在庁官人との争いに対して、伊勢神宮は、国司の承認による「国免荘」ではなく、より確実な朝廷の承認による荘園とすべく運動を始めます。ちょうど、比較的荘園を押さえ気味だった白河法皇が崩御し、鳥羽上皇によって大規模荘園の立荘が急拡大していく時期です。そして鳥羽上皇の承認を得て、国司が口出し出来ない官省符荘ランクに昇格させたのが1141年(永治1)。これは『鎌倉遺文614』だそうです。『鎌倉遺文』なら図書館にありますのでそのうち確認してきましょう。で、これでもう大丈夫と思ったところへ。

その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。(天養記)

という、源義朝の「大庭御厨の濫妨」が起こります。ここで、それまで大庭御厨と対立していた在庁官人等の面子が明らかになります。このとき源義朝が率いた軍勢を詳細に見ていくと、国衙の在庁官人と摂関家の荘園の庄司です。

頼朝の父源義朝は無官ではありながら地方の豪族にとっては貴族の血を引く「貴種」、というのがこれまでの穏当な見方でしたが、「武士の棟梁」そのものに疑問の出てきた現在においては、源義朝を担ぐことは、彼が源義家の血を引く「貴種」だからというよりも、摂関家の爪牙となった源為義、そしてそれを通じて摂関家とのパイプであったことが、相模、両総の開発領主にとっての源義朝の価値だったのではないでしょうか。「貴種」とは血統証ではなくて、極めて実利的なものです。

源義朝は、院近臣であった母親の実家、また父為義の摂関家家産機構とのつながりなどを利用しながら、現地の輩発領主にはそれをちらつかせながら、南関東でのそうした紛争に介入し、自分の勢力を伸ばしていきます。そのひとつがこの「大庭御厨の濫妨」、もうひとつが相馬御厨です。どちらも、摂関家領でも、鳥羽院周辺の皇族の荘園でもない、伊勢神宮の御厨であったことも、なにか臭わせます。

これによって頼朝の父源義朝は大庭御厨では大庭一族を、相馬御厨では千葉氏を従わせて、父為義が傘下にあった摂関家の影響からも離れて院近臣に接近し、見事下野守となってその父を追い抜き、保元の乱では鳥羽院・後白河天皇側の武力の中心として父や弟もろとも摂関家(この場合忠実・頼長)を崩壊させます。

 『天養記(官宣旨案)』

『天養記(官宣旨案)』は2通残っており、ひとつは天養2年2月3日、もうひとつは3月4日です。共に漢文全文と、その口語訳が『鎌倉市史・総説編』(高柳光寿著)に載っています。漢文はつらいのでその後者をカナ混じり文にして下さったこちらを参考にあげておきます。『吾妻鏡』でもお世話になっているところです。でも、登場人物の強調の為に編集します。

左弁官下す 伊勢大神宮司

且つは度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、且つは国司子細を弁え申し、相模国田所目代源義朝並びに同じく義朝郎従散位清原安行、恣に謀計を巧らみ、大庭御厨高座郡内鵠沼郷を以て、俄に鎌倉郡内と号し、供祭料の稲米を運び取り、旁々 濫行を致すに応ずる事

右、祭主神祇大副大中臣清親卿の去る月十二日の解状を得て称く、大神宮禰宜等の同月日の解状をに称く、伊勢恒吉の今月七日の解状に称く、謹んで案内を検ずるに、当御厨は本より荒野の地なり。誠に田畠無きの由国判に見ゆるなり。而るに彼の国の住人故平景正(鎌倉権五郎景正)、国判を相副え大神宮の御領に寄進するの刻に、永く恒吉に附属する所なり。即ち御厨の為に開発せしめ、供祭上分に備え進す。
漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処に、宣旨、院宣等を本宮に下され、子細を召し問うの後、全く綸旨の停廃無きの上、両代の宰吏に問われ、彼の請文に就いて、殊に奉免の宣旨を下さるるの日、国祇承り散位平高政、同惟家、紀高成、平仲廣、同守景朝臣等地頭に臨み文書に任せ、堺の四至に傍示を打ち、立券を言上す。
その四至と云うは、東は玉輪庄堺俣野川、南は海、西は神郷堺、北は大牧埼てへり。
その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。
訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。
その旨を訴え申すの処に、本宮の解状、祭主の奏状すでにをはんぬ。
而る間同十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明(三浦義明のこと) 、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。
爰に彼等の所帯する宣旨の状を承るの処に、更に御厨に入らざるの事、只指せる官省符新立の庄園に非ず。
本庄の外加納の一色別符勘じ入るべきの由なり。また隣国他堺の高家若しくは悪僧等、乱入を停止すべきの状ばかりなり。仍って神宮の御領として尤も大悦なり。
しかのみならず、当御厨に於いては奉免の宣旨限り有るの由、披陳すと雖も、敢えて承引無く、神人等敵対に及ばざるの間、同二十二日卯の時より始めて、在廰官人等郷々に押し入り、傍示を抜き取りをはんぬ。
また御厨の作田玖拾伍町の頴肆萬七千七百伍拾束を苅る。
下司家中の私財雑物悉く以て押し取り、神人紀恒貞、志摩則貞、国元、末永、重国、兼次等を簀に巻き死門に及ばしむ。或いは凌轢せらるる所なり。
この外供祭料米農料出挙並びに甲乙輩の私物及び有事縁所宿置熊野僧の供米等百余斗を捌き、負人住人逃げ脱すの間、行方を知らず是非他なり。
義朝と頼清と同意を成し、名代を出立するの由、御厨の定使井濱御薗検校散位藤原朝臣重親、下司平景宗(大庭景宗)等言上する所なり。その状に就いて案内を検ずるに、勅免の神領に於いては、縦え国衙より沙汰せしむべきの事有りと雖も、若しくは宣旨を申し下し、若しくは本宮使を相具して、進士せしむるの例なり。
爰に当御厨の四至の内字殿原、香川郷、宣旨・代々の国判に背き、国役に充てしむるの事、度々彼の目代頼清朝臣に相触るの次いでに、上件子細の披露すでにをはんぬ。
皆返報有って、御厨の事専入宣旨の状に有らざるの上、停廃すべきの由、殊に国の定め無しと云々ばかりなり。
高座郡内を以て今俄に鎌倉郡内と称し、濫行を成さしむの條、玄隔たるの事に依って、彼等の所行を省みんが為に、惣所御厨を牢籠せしむか。
茲に因って子細を熟察し、沙汰を致さんが為に、先ず国司に経訴するの処に、義朝濫行の事に於いては、国司の進士に能わず。
停廃せしめんと擬するの事に於いては、在国を尋ね問い、左右すべきの由、返報せしむるに依って、暫く彼の裁許を相待つと雖も、事を左右に寄せ敢えてその沙汰無きの間、義朝乱行の事宣下せられすでにをはんぬ。
然れば停廃の事と雖も、重ねて送達せられざれば、殿原、香川郷のその妨げ絶えざるか。
就中国役を御厨田に伐ち充て、御厨田を宮寺の浮免を曳き成し、勘責いよいよ重なるの間、僅所に残る住人また以て逃げ脱すの由、下司重ねて言上するなり。
重ねて案内を検ずるに、神宮御領を以て院宮御領と号し押し取らるるの時、本宮より子細を言上するの日、その妨げを停止すべきの旨、宣下せらるるの例、諸国に繁多なり。
而るに今勅免の神領を停止し、宮寺の浮免を曳き成すの條、神事の不信不浄の基、何事か斯れに過ぐべきか。また先例を訪うに、職掌人を刃傷し、神人等を殺害し、供祭物を取り穢し、神民の貯えを奪い取るの輩は、贖罪の軽重、或いは法の科罪に任せ、或いは乱行人に解謝を致さしむる所なり。
而るに彼等の所為、一つとして尋常ならず。先ず以て他郡を鎌倉郡内と号するの條、誠に矯餝の甚だしきなり。
各々證文を召すの日、敢えて遁るる所無きか。しかのみならず、宣旨立券の時、祇承の官人、皆以て見在の輩なり。
また庄園の宣旨を以て謀計を巧らみ、御厨を停廃せしむるの條、これ唯神威を蔑爾するのみならず、将に綸言に違背する所なり。
然れば則ち義朝の乱行に於いては、宣下の旨に任せ沙汰を致さしむと雖も、猥に傍示を抜き取るに至っては、尤も厳制を加え、向後を懲らしめ、本の如く傍示を立てしめらるべきや。
また押し取る所の供祭上分料獲稲見米並びに所司住人の私物等、悉く糺返せらるべきや。
これ等の如きの所行、早く糺断せられずんば、神威の凌遅、諸国の狼藉、積習して倍増するものか。
宮の廰裁を望み請う。且つは重ねて奏聞を経て、且つは早く牒を留守所に送り、糺行せられば、将に神威の不朽を仰ぎ、綸言の軽からざるを厳とするか。
てへれば、解状に就いて覆審を加え、庄園の加納を勘がえ入るべきの由宣旨を以て、限り有る勅免の神領を停廃せしめんと擬すの條、神威を蔑爾するのみならず、すでに綸言を違乘するものか。
祭主の裁を望み請う。重ねて奏聞を経て、早く糺行せられてへり。仍って言上件の如く相副え天裁を望み請う。
禰宜等の解状に任せ、早く糺行せられば、権大納言源朝臣雅定宣べ、勅を奉りて宣ぶ。度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、兼ねてまた国司をして子細を弁え申さしめば、同じく彼の国に下知既にをはんぬ。
宮司宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行え。
  天養二年三月四日  大史中原朝臣(宗遠花押影)
少弁源朝臣(師能花押影)

2007.1220-.22 更新