頼朝以前の鎌倉 大庭御厨の濫妨 |
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大庭御厨(おおばみくりや)
と、「奥州後三年記」にも書かれた、有名な鎌倉権五郎景正(以下「景政」とする)は、30代の壮年に達していた頃、鎌倉の西の大庭の地を開発し、おそらくは当時、在庁官人にしてその地の郡司も兼ねていたのか、近隣の公田もまとめあげて名目上伊勢神宮に寄進、所謂「立荘」をして大庭御厨とします。その経緯を、石井進氏の「相模の武士団」(p125-132)、及び『鎌倉市史・総説編』(高柳光寿著 p31-48)から要約してみましょう。 尚、当時の資料としては後に紹介する 『天養記』には、「官宣旨案」天養2年2月3日、と3月4日付の2通の他に、1141年(保延7)6月の相模国司の解が残っています。 大庭御厨(おおばみくりや)は始めは郷でした。10世紀初頭の「倭名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)には、高座郡大庭郷があります。「官宣旨案」には鵠沼郷他が出てきますが、これが大庭御厨立荘以前に別符の新郷として成立していたものなのか、それとも御厨(荘園)内の村郷なのかは、はっきりしません。 1104〜1106年頃(長治年中)、景政は所領・相模国鵠沼郷一帯を先祖伝来の地として、当時の相模守藤原宗佐の承認のもと、多数の浮浪人を集めて開発をしました。高柳光寿氏が紹介する伊勢神宮側の主張は、長治年中の開発自体が御厨としての開発だとしています。 高柳光寿氏は「長治年中」を1104〜1105年頃と書かれていますが、長治3年(1106年)4月9日に 嘉承に改元しているからその方が可能性は高いということでしょう。 しかし、相模守藤原宗佐は、おそらく年限を限って(通常3年)開発地の年貢を免除したのでしょうが、それ以降の国司が官物免除を公式に行った形跡はありません。現に、伊勢神宮の訴えの中にも、そののちにこれを濫妨(らんぼう:掠奪・暴行)するものがあったので、1116年(永久4:当時の相模守藤原盛重が、任期切れ間際)に奉免立券、そして、検注(検田)により領域も確定し、免税地として国衙と郡衙の文書による正式な承認をうけて、伊勢神宮領・大庭御厨の成立となったとしています。大庭御厨の「御厨」(みくりや)とは天皇家や伊勢神宮の荘園です。この場合は伊勢神宮ですが。そして鎌倉権五郎景政はその下司職に。 『吾妻鏡』には、長江太郎義景が先祖権五郎景政が1117年(永久5)5月23日に御厨を「奉寄」つまり寄進したとあります。
高柳光寿氏は、相模守藤原盛重がそれを認めてから、諸手続が完了して、正式な立荘となったのが、翌年の1117年(永久5)5月23日なのだろうとされています。それにしても1104〜1105年頃の長治年中から、約10年後にやっと、相模守の承認にこぎ着けたということ、「当御厨は本より荒野の地なり。誠に田畠無きの由国判に見ゆるなり。」と「官宣旨案」における伊勢神宮の主張は述べていますが、しかし、そんな広大な土地に「田畠無き」とはとても思えません。 10世紀頃の「倭名類聚鈔」によると、相模国の水田は11,236 町余とあります。大庭御厨は山間部ではなくて、相模国の中央の平野です。確かに大部分は台地で、水田はその縁のあたりでしょうか、それししても、そこが「田畠無き」ならいったい何処に田畠があったんだい! と言いたくなります。 大庭御厨の不安定さ石井進氏は、鎌倉権五郎景政は12世紀以前からその地を少しづつ開拓していて、御厨開発申請の段階では、既にこのエリアで郡・郷司の地位を獲得していたのではないか、そしてそれを核に、周囲の公領も囲い込んだ大庭御厨の地の荘園化を計ったのではないかと。当時の寄進系大規模荘園のお約束のパターンですね。石井進氏はこれを例に次ぎのようにおっしゃいます。「寄進系荘園」を定義する有名な一文ですね。
大庭御厨は東は鎌倉郡玉輪庄との境の俣野川(現在の境川)、西は相模一宮の社領である神郷、南は海で、北は現在のどかに当たるか不明ですが大牧ア、面積は1144年(天養1)当時で95町(『神鳳抄』に150町)、収穫量は47,750束あったといいます。鎌倉時代末期の『神鳳抄』によると、その時点では13郷からなっていたそうです。 石井進氏は収穫を4,750石と書かれていますが、そのたった1行前に「反あたり籾五石、米で二石五斗の数字を得る」とありますので、4,750石は籾(もみ)でのことでしょう。すると、米なら2,400石ぐらい。この頃の石と、太閤検地以降の石とはえらい違うようなので、更に補正をしなければならないかもしれませんが、それにしても当時としてはえらい大きな荘園です。その広大は領域を考えれば、その成立までに、国司・国衙との利害の衝突、調整、そして多分紛争も当然想像されます。それ故にその成立まで約10年も要したのではないかと。 さて、高柳光寿氏の『鎌倉市史・総説編』に戻りましょう。 最初の承認自体が、相模守藤原盛重の任期切れ間際であったことが物語っているように、国司の交替の度に、新任の国司や在庁官人は荘園の整理や見直しを行って、国衙領の増収を図ろうとします。そしてまた任期切れ間際に、今度はその荘園を承認して謝礼を懐に入れるのは、この当時一般的でした。 が、この大庭御厨については、『天養記(官宣旨案)』に、「漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処」、1123年(保安3)と、1127年(大治2)に、伊勢大神宮に、子細を言上せよとの宣旨、院宣が下された。そして国司側もとうとう先例に任せて奉免したと。しかし在庁官人らは、国司の交替毎に、その始めに濫妨(らんぼう)をしたと訴えています。どうも、国司(国守)が、というより、周辺の他の開発領主でもあったろう国衙の在庁官人らとの、長年の紛争という雰囲気も強く感じられますね。 荘園はその最盛期にすら、全国平均では半々だった、実は在庁官人として国衙を根城にする開発領主と、それに対立し、国衙に脅かされる開発領主が、権門を頼んで荘園として寄進し、領地を守ろうとした、という近年の理解の証拠をここにも見ることが出来そうです。 荘園にはその国の国司が認めたものと、朝廷が認めたものと2つのランクが有って、この大庭御厨は国司が認めたもの、つまり国司(受領)が交代すればまた取り消される可能性のあるもので、「国免荘」であったという訳です。教科書的には国司が認めた「国免荘」が不安定なために、権門に寄進をしたというが、その権門・伊勢神宮でさえこうでした。 もっともこれは、大庭一族が可哀想に国衙の権力にいじめられた、などと考える訳にはいきません。中心は鎌倉権五郎景政の領地だったとしても、その周囲はおそらく、他の一族を実力で威圧しながら、退任間近の国司に多額の認可料を払って、国衙領を分割して御厨に組み込む=私物化することを認めさせた。だから周辺では他の開発領主一族との縄張り争いが絶えなかった、ということも十分に考えられるのです。他の一族は誰かというと、相模国西部の各地を開発し、子弟を配置していった中村庄司一族を中心とする勢力あたりでしょうか。 大庭御厨と御霊社もうひとつ、大庭御厨を開発・寄進したのは『天養記(官宣旨案)』に有るとおり、鎌倉権五郎景政でしたが、1134年(長承4)当時の大庭御厨司は平景継。1144年の「大庭御厨の濫妨」のときの下司は大庭平景宗です。その子二人「大庭平太景義、同じく景親」が保元の乱では源義朝に従っています。その大庭景宗の墓は、鎌倉から見ると、大庭御厨を越えて、更に相模川の向こう側の、豊田庄にあったことが、『吾妻鏡』によって知られます。
梶原はともかく、豊田ではとても鎌倉党とは言えません。 先に紹介した『吾妻鏡』養和2年2月8日条には、鎌倉権五郎景政の「三代の孫」として「長江の太郎義景」が、そして江戸時代の鎌倉の地図には鎌倉大町のあたりに鎌倉権五郎景政の墓が書いてあります。長江は三浦郡長江郷、現在の鎌倉から逗子を越えた葉山の長柄で、長江義景は三浦一族の勢力下に居ます。頼朝旗揚げの頃から。 鎌倉権五郎景政からの系図には3種類あって、上記を当てはめると、3種類の内の「尊卑分脈」が、どうもおかしい。他の2つは矛盾しない。しかしその2つとも、大庭氏は鎌倉権五郎景政の子孫ではなく、兄弟の子孫と書かれています。そちらを正しいとすると、1134年(長承4)当時の大庭御厨下司は景政の子の景継であったが、10年後の1144年には大庭御厨下司は、景政の甥の子か、景政の従兄弟の孫の大庭景宗に下司職が移ったことになります。 例えば、大庭御厨下司景継が死んだとき、嫡男の(長江)義景はまだ若くて、とても近隣開発領主との抗争をさばききれなかったので、長老の景宗が下司職(一族の長)となって、一族を守った、とも取れます。 しかし、想像を逞しくすれば、大庭御厨下司景継の子の(長江)義景が、大庭御厨下司景宗を攻めた側の三浦義明らの側についていること、鎌倉権五郎景政を祀る神社が、御霊社であることなどを考えると、一族の内紛で鎌倉を本拠とした権五郎景政系が大庭御厨から排除され、一族の内、西の豊田を本拠とした景宗系が、大庭御厨を乗っ取り、いよいよ周囲との抗争が激化した。かつ、英雄・権五郎景政の怒りを恐れて御霊社に祀った。だから御霊社は鎌倉郡側にしか無い。と考えることも出来ます。御霊社は英雄を祀るものではなく、祟りを鎮める、祟りを祀ることによって逆にその強い霊力で自分を守ってもらおうと、まあ乱暴にいえばそういう信仰です。 しかし本当のところはどうであったのか、もはや判る手だてはありません。 大庭御厨の濫妨さて、話しを戻して。 御厨周辺での境界争い、国衙に終結する在庁官人との争いに対して、伊勢神宮は、国司の承認による「国免荘」ではなく、より確実な朝廷の承認による荘園とすべく運動を始めます。ちょうど、比較的荘園を押さえ気味だった白河法皇が崩御し、鳥羽上皇によって大規模荘園の立荘が急拡大していく時期です。そして鳥羽上皇の承認を得て、国司が口出し出来ない官省符荘ランクに昇格させたのが1141年(永治1)。これは『鎌倉遺文614』だそうです。『鎌倉遺文』なら図書館にありますのでそのうち確認してきましょう。で、これでもう大丈夫と思ったところへ。
という、源義朝の「大庭御厨の濫妨」が起こります。ここで、それまで大庭御厨と対立していた在庁官人等の面子が明らかになります。このとき源義朝が率いた軍勢を詳細に見ていくと、国衙の在庁官人と摂関家の荘園の庄司です。 頼朝の父源義朝は無官ではありながら地方の豪族にとっては貴族の血を引く「貴種」、というのがこれまでの穏当な見方でしたが、「武士の棟梁」そのものに疑問の出てきた現在においては、源義朝を担ぐことは、彼が源義家の血を引く「貴種」だからというよりも、摂関家の爪牙となった源為義、そしてそれを通じて摂関家とのパイプであったことが、相模、両総の開発領主にとっての源義朝の価値だったのではないでしょうか。「貴種」とは血統証ではなくて、極めて実利的なものです。 源義朝は、院近臣であった母親の実家、また父為義の摂関家家産機構とのつながりなどを利用しながら、現地の輩発領主にはそれをちらつかせながら、南関東でのそうした紛争に介入し、自分の勢力を伸ばしていきます。そのひとつがこの「大庭御厨の濫妨」、もうひとつが相馬御厨です。どちらも、摂関家領でも、鳥羽院周辺の皇族の荘園でもない、伊勢神宮の御厨であったことも、なにか臭わせます。 これによって頼朝の父源義朝は大庭御厨では大庭一族を、相馬御厨では千葉氏を従わせて、父為義が傘下にあった摂関家の影響からも離れて院近臣に接近し、見事下野守となってその父を追い抜き、保元の乱では鳥羽院・後白河天皇側の武力の中心として父や弟もろとも摂関家(この場合忠実・頼長)を崩壊させます。 『天養記(官宣旨案)』『天養記(官宣旨案)』は2通残っており、ひとつは天養2年2月3日、もうひとつは3月4日です。共に漢文全文と、その口語訳が『鎌倉市史・総説編』(高柳光寿著)に載っています。漢文はつらいのでその後者をカナ混じり文にして下さったこちらを参考にあげておきます。『吾妻鏡』でもお世話になっているところです。でも、登場人物の強調の為に編集します。
2007.1220-.22 更新 |
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