奈良平安期の寺社     星井寺 (せいせんじ)

極楽寺坂切り通しの入り口に、念仏を書いた白い旗が沢山立っているところがあります。以前から何じゃろか? とは思っていたのですが、小さいお堂なのでそれ以上には気にせずに上に上がりもしなかったんですが、なんと1200年も前から有ったお寺なんだそうです。
フルネームは「明鏡山円満院星の井寺」です。これだと読みは「ほしのいてら」ですね。

星井寺(せいせんじ)」と言って天平(729-749年)年間聖武(しょうむ)天皇の時代に杉本寺、岩殿寺と同じく行基によって創建されたとのことです。行基って東大寺の大仏建立に関わった高僧と言うことは知っていたんですが、改めて調べてみると行基の活動って鎌倉時代の一編上人に似てますね。下層階級の救済に力を注いだようです。こちらのサイトによると最初は弾圧されてたんですね。最後は日本で最初の大僧正らしいですが。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。717(霊亀3)年、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。

「私度僧」と言うのはお寺で正規の修行を積んだのではないアングラ僧ぐらいの意味です。実はもうひとりの奈良の大仏の立役者良弁も私度僧でした。

ちなみに縁起はこちら、画像をクリックすると拡大します。行基がこの地の住民にこの井戸を覗くと明るく輝く明星の光が見えると聞き、覗いたら虚空菩薩のお姿が見えたと。それで虚空菩薩の像を作ってお堂を建てて安置したと言うのがこの星井寺の縁起です。

虚空蔵菩薩と星は近い関係があるそうです。虚空蔵菩薩の信仰は、奈良時代にはすでに盛んで、それが奈良時代の行基が井戸の中に写る星の光に虚空蔵菩薩を、と言う背景なのでしょう。


これがその虚空蔵菩薩です。国立博物館にあったものでこのお寺では無いですが。

虚空蔵とは、虚空が広大ですべてのものを包み込み蔵しているように、無量無辺の福徳や智恵を備え、人々に常に二つの徳を与えて、諸々の願いを満たす大慈大悲の菩薩

とこのすぐ先、極楽寺切通しの上の成就院のご住職がおっしゃっていたそうです。
現在この星井寺(虚空蔵堂)は成就院が管理しているようです。


ノーストロボ・スローシャッターなんで良く見えませんが、肉眼でもこの程度です。
ちょっと色調補正してみましょうか。画像をクリックしてみてください。

中に安置されているのがその虚空蔵菩薩なんでしょうか?
ご開帳は年に1回(昔は35年に一回)1月13日と聞きましたが。その謎は鎌倉市の文化財の目録で解けました。画像は下の説明にある前立像の方なんでしょう。江戸時代の作です。
その奧に開帳年1回のご本尊があるのでしょう。そちらは「仏師勘蔵延宝7年」の墨書銘が台座裏にあるそうです。延宝7年と言うと1679年、江戸初期ですね。あれ?そちらは 「金泥塗」とあります。するとこれがご本尊? でもこれと別に前立像なんて有ったかな〜???

行基が彫った虚空菩薩は何処に行ったんだって? さー、なんせ奈良時代、1300年近く昔の話ですからね〜、朽ち果てちゃったのか、そもそも無かったのか、行基ってほんとに仏像を彫ったんでしょうか? と言うか、行基作である仏像ってどこかに現存するのでしょうか?
私は学者ではないので判りません。
もし作ったとしても鉈彫荒彫・木っ端仏では無かったでしょうか。木だって材質を選んで十分に乾燥させてなんて考えられませんね。鉈彫と言えば江戸初期の円空が有名ですね。日本各地を渡り歩き宿泊先で鉈荒彫の仏像を作りお礼としたとか。行基だって一カ所に止まってじっくり仏像を彫っている暇など無かったと思います。大仏建立のカンパ集めで大変だったんですから。

鉈彫で検索したら伊勢原の日向薬師に行基作といわれる薬師瑠璃光如来(重文)があるみたいです。「鉈彫(なたぼり)像の代表格として有名」とか。大山寺ともども一度行かなければなりませんね。


こちらがその「星月夜の井(ほしづきよのい)」という井戸です。鎌倉十井のひとつだそうです。

下から見上げるとなかなか雰囲気はありますが・・・・

小さなお寺・・・と言うよりお堂(虚空蔵堂)ですね。