奈良平安期の寺社?     長谷寺

2007.1.6 更新

長谷寺ってホントに奈良時代? 

正式には海光山慈照院長谷寺。縁起を単純化した説明で藤原房前が徳道上人を鎌倉に招いて736年に創建した」なんて良く書いてあるんですがホントでしょうか?

長谷寺の山門

この長谷寺の山門は、昭和に復元されたものだそうですが、長谷寺では貴重な木造建築です。

 

長谷寺の阿弥陀堂

山門から階段を登った一番近くが長谷寺の阿弥陀堂です。こちらの阿弥陀如来座像は、「厄除阿弥陀」とも呼ばれ、鎌倉六阿弥陀の一つ。 源頼朝42歳の厄除けに建立し、元は長谷村の誓願寺に安置されてましたが、元禄初年頃に長谷寺に移されたと言うことです。 

長谷寺の観音堂

この中に高さ9.18mもある大きな木造の十一面観世音菩薩が安置されています。

長谷寺ご本尊の十一面観世音菩薩は確かに迫力です。圧倒されますね。
でも私はその前にある小さな方の観音様の方が気になるのですが。残念ながら画像がありません。
ここは撮影禁止なんで撮っていないんです。まあストロボでパシャパシャやられちゃたまったもんじゃ無いですからね。

 長谷寺の縁起

さてこの十一面観音にまつわる縁起がこの長谷寺の縁起でもあるのですが、長谷寺の寺伝では721(養老5)年の奈良に始まります。もっとも本家奈良の長谷寺では727 年(神亀4)と出ているんですが、まあそれはともかく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖とも言われる徳道上人が1本の楠の霊木で二体の十一面観音を造ったと。木の本もとで造った尊像を大和国初瀬寺(現在の奈良・長谷寺)に祀り、木の末すえで造った尊蔵は縁のある地に出現して人々を救ってくださいと祈って海に流したとのこと。また一説には大水で流されたとも。
16年後の736(天平8)年6月18日、相模国の三浦は長井に流れ着いたと。それが鎌倉に移され、藤原房前がそれを作った徳道上人を奈良から遣わしてこの十一面観音安置するために長谷寺を創建したといわれます。

もっともあくまで伝えられた「寺伝」であって現在の長谷寺がそう主張している訳ではありません。宝物館の中にある解説には「こう言われているけど鎌倉時代以前にどういう状態であったのか全く資料が無い」と書かれています。ネット上で検索しても歴史に関することはほとんど出てきませんね。これぐらいのものです。

それにしても困りました。(;^_^A アセアセ…
私は頼朝以前の鎌倉を調べる為にこのお寺に来たのですが、どうもこの長谷寺は頼朝以降ではないかという気がしてきました。大仏さんと同じような動機で、あるいは西国三十三所観音霊場に対抗して板東三十三所観音霊場を作るぞー!と言う流れの中で、北条氏の鎌倉幕府が建てたのではないかと。源頼朝42歳の厄除けに阿弥陀如来座像を建立したときには長谷寺は無かったから誓願寺に置いてあったとか・・・・
誓願寺で調べたら鎌倉では廃寺なんでしょうか?だから長谷寺に移されたと、で名古屋の誓願寺は頼朝が生まれたところと言われているようです。もっとも享禄2年(1529)創建の尼寺ですから誓願寺と言う名前と頼朝は関係は無いかな? おっ、栄西略年譜の中に誓願寺が出てきますね。筑前国今津ですが、栄西は頼朝時代の鎌倉にも関係しますから栄西が鎌倉にも誓願寺を建てたと言うことも想像されますね。

しかし弘長二年(1262)在銘の板碑、文永元年(1264)鋳造の銅鐘、嘉暦元年(1326)造顕の懸仏などから鎌倉時代後期には在ったのだろうと思います。また徳川家康が慶長12年(1607)に再興した時の棟札に「海光山長谷寺荒廃、七零八落年久矣」とあるそうで戦国時代にはかなり厳しい状態であったようです。

長谷寺の阿弥陀如来座像(伝頼朝寄進)

鎌倉市文化財目録によれば室町時代とのこと。これについては三上進氏の「鎌倉彫刻史論考」に詳しくでており解体修理中に10種の銘文が発見されておりその中で一番古いものは応永19年(1412)5月15日の「奉修理」であり、像はそれ以前に作られ、像の様式等からも 「室町時代前期頃と見て大過ないであろう」とされています。鎌倉時代は1333年までだから、仮に最初の修理まで100年とすれば鎌倉末期までは僅かな可能性が有ったとしても、頼朝42歳の年までは無理と言うものです。まあ伝承と言うのはそういうもんですが。だもんで誓願寺についてはここで推理する必要は無くなってしまった訳です。誓願寺については下の画像をクリックしてください。

長谷寺の本尊十一面観音

ところで肝心な、721(養老5)年に徳道上人が1本の楠の霊木で二体造った、そのひとつと言われるあの大きな十一面観音はどうでしょうか?

本家本元奈良長谷寺のものは何度の焼けてしまって当時?のものは残っておらず、それとの比較から論を進めることは出来ません。とりあえずまた鎌倉市文化財目録を見ると・・・
「寄木造」、あれ? 「造立年代不詳」、あっちゃ〜。(;^_^A アセアセ…
「渋江二郎氏『鎌倉彫刻史の研究』(有隣堂)に詳しい報告がなされているので参照されたい。」
つまり渋江二郎氏の研究で済みと言うことなのでしょう、調査はしなかったそうです。『鎌倉彫刻史の研究』は鎌倉図書館には見あたりませんでした。

「風土記稿」には足利尊氏が康永元年(1342)に本尊を金箔で修復、義満が明徳三年(1392)に光背を造るとあり、関東大震災で壊れましたがそのときの一部は宝物館で見られます。現在の光背は高さは11.85メートルでアルミ製です。(平成3年完成)

尚、前立の小さな(と言っても像高178.8cmの)十一面観音は調査がされて江戸時代初期の作だそうです。胎内の銘札、及び胎内木柱の墨書きも明らかにされていますが、私には漢文が読めないのが辛いですね。ちなみに私はでっかいご本尊よりこちらの方に惹かれます。

 木造三十三応現身立像

杉本寺のものと同様に有名なものですが、室町時代の文明8年から天文年間(1478〜1555)の銘があり、仏師は室町時代に活躍した泉円とあるそうです。私は長谷寺へ行ったらこれをこそ見るべきだと思います。

長谷寺・国重文の梵鐘

こちらには、文永元年(1264)に鋳工物部季重(もののべすえしげ)が鋳造した国重文の梵鐘があります。鎌倉では常楽寺・建長寺よりは新しいけど、円覚寺よりも古いんですね。

  長谷寺の 経蔵

このお堂には輪蔵(りんぞう)と呼ばれる回転式書架があり教典が納められています。

ほれこの通り、この輪蔵を一回転させると一切経(いっさいきょう)を読むのと同じ功徳があるんだそうです。 「そんな都合の良い話が有るか!」と言いたくなりますが、でも昔はお経なんて読める人間はエリートだけ、今で言えば東大か京大生ぐらいのものです。考えてみれば義務教育から大学まで、延々16年以上教育を受けて来たはずの我々ですらお経なんて読めませんもんね。そりゃ私も昔は般若心教なんかを声に出して読んだことはありますが、意味なんて未だに知らんですわ。
 文字も読めない民衆に仏への信心を教える為にはご本尊が火事のときに自分で避難はするわ、窮地に陥れば船頭となって頼朝を救うわ、悪いことをすると血の池地獄へ落ちて死んでも死の苦しみ(ん?)って掛け軸を見せられるわ(*)、でも極楽浄土に行くには「南無阿弥陀仏」と唱えさえすればとかと同じに、ある意味「飴とむち」の飴の方なんでしょうね。仏にすがろうと何かをする心さえ有ればよいと。

  • あの地獄絵ってのは江戸時代の農民の道徳教育の為と円覚寺の偉いお坊さんから聞きました
  • どうもお経を一同に集めたものを一切経とか大蔵経とか言うらしいです。
  • 「一セット五千四百巻近い経典から成り立っている」とうっひゃ〜、ですね。

確かに救いを求める者に心の平安を与えることが宗教の動機のひとつですからそれはそれで良いと思います。

詐欺師が起こした自称新興宗教や、カルト教団でなければね。
あれは人の心の弱みにつけ入るもので宗教ではありません。

それにしても五千四百巻を1回転ですませちゃおうなんて。まだ「南無阿弥陀仏だけでよい」って方が教える方としても正直なんじゃないかしら? ところで長谷寺って何宗だっけ?


その経蔵の後ろは紫陽花で有名な散策路になっています。紫陽花の頃にはすごい人なんですが、その散策路から経蔵を見下ろすとなかなか良い景色です。

こちらのお地蔵さんも雰囲気があります。


散策路を降りると、ここもこの赤い傘が良い景色を作っていますね。

 

長谷寺の弁天窟

 弘法大師が霊感によりこもって自ら刻んだと伝えられています。私は信じてはいませんが。
と言うのはこの寺の縁起の版木が宝物館にあって、その解説に江戸時代のある時期まで開基は行基とされていたがその後空海とされた。この版木は空海とあるので江戸時代○○年以降と思われるって解説があったからです。行基も、弘法大師の伝承も全国各地にありますが、行基も、弘法大師・空海は全国を行脚した訳ではありません。全国を行脚したのは高野聖です。その意味では弘法大師・空海に関係はするかもしれませんが。

 でもこの弁天窟に刻まれた弁財天と十六童子が灯明に浮かぶ姿、そしてその十六童子をひとつひとつ見ていくと仏教がどのようにして日本に根付いていったか、その当時の民衆現実的な望み、生活、生産。富の関心事がどういうものであったがが窺われて感慨深いです。

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長谷寺リンク

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