辻薬師堂
辻薬師堂はこのように小さなお堂なので、ネットで調べても大した情報は出てきません。 ほとんど全部が「鎌倉散策」とかのコースの中での紹介で総合するとおおよそこんなもんです。 「神亀年間(724〜729年)に建てられた医王山長善寺という寺があったところで、横須賀線が引かれたときに本堂が取り壊されて廃寺となり、薬師堂だけが残りました。行基作の本尊薬師如来像をはじめ貴重な平安仏が多く安置されています。」 たいていはもっと短いですが。でも上記の要約は正確ではありません。そのあたりを解る範囲で見ていきましょう。
一番詳細な説明はお堂の脇に貼ってある説明書ですね。クリックすると読めるようになります。ただしビニールが反射して苦労しました。
読んでみると、ゲゲーです。ここにも藤原の鎌足の玄孫、奈良の大仏を作った良弁(ろうべん)僧正の父染屋太郎太夫時定が! それも幼子(後の良弁)が鷲にさらわれたとき、我が子の遺品のあった名越字御獄の地に寺を建立供養し、後年医王山長善寺となったと。
但しその長善寺も何度か場所を変えて現在の位置に来たのは江戸時代文化文政(1789-1825年)の頃と言うことです。幕末に火事で焼失し、廃寺となっりましたが幸い薬師堂と仏像は難を逃れ、以来村人によって守られてきたとのこと。
更に明治22年、横須賀線が通るに際し、また立ち退きになったのか、線路からすぐの現在の位置に引っ越したようです。実は何かの本でも読んだ気がするんですが、どれだか解りません。ところでここのご本尊様はのことは何て書いてあるんだろう?
当薬師堂の本尊である薬師如来(訳詞瑠璃光如来または大医王仏とも言う)立像は、鎌倉に現存する数少ない平安仏の1体で「行基」の作と伝えられている。
ほうほう、やはりそんなに古いものでしたか。ん?・・・ なにー! (O.O;)(o,o;) ちょっとまて、「行基」って奈良時代の人じゃなかったの? 聖武天皇って平安時代だっけ? 大仏は京都? んなバカなー! ったくも〜、誰だ「行基の作」なんて言ったやつはー! これからは「行基の作」と言われても軽々には鵜呑みにしないようにせんと。(;^_^A
アセアセ…
このご本尊は1940年の調査で、二階堂にあった医王山長光寺のものであったことが解っています。南北朝時代に廃寺となって本尊が長善寺に迎えられたのだろうと。
鎌倉市の文化財目録によると、薬師は平安時代、両脇の日光、月光像は江戸時代とのことです。本尊薬師の胎内には多くの経典があり、その中には「明文10(1478)年」の年号がみられるとか。十二神将のは鎌倉時代だが内4体は後補室町〜江戸時代のもの、損傷が激しく鎌倉国宝館に移して修復。ともに県の指定文化財です。後補の4体は文化財目録には江戸時代のものと書かれていますが、鎌倉国宝館副館長の岩橋氏は室町時代の仏師朝祐では?とおっしゃっています。それは後ほど。
本屋さんの有鄰堂にタブロイド判/6頁の『有鄰』て月刊紙があって鎌倉及び周辺史について検索するとよく引っかかります。 これがなかなか中身が濃いくて、年間購読料=500円、って事実上送料だけだね。今度とろうかな〜 そのバックナンバーが有鄰堂サイトに掲載されているんですがその、平成13年2月10日 第399号 P3 に現在十二神将像を修復をされている仏像修理師・明珍 昭二氏、鎌倉国宝館副館長の岩橋 春樹氏らの座談会が載っています。ちょいと引用させてもらいましょう。
辻ノ薬師十二神将像──太ももに修理銘
岩橋
鎌倉のもので、明珍先生に継続的に修理していただいているのは辻ノ薬師十二神将像です。
本尊は平安仏ですし、十二神将像は鎌倉時代ですが、何体か室町時代の後補の像がまじっている。この像は、
本来は東光寺にあったと記した江戸時代の銘札が入っている。
東光寺は大塔宮の所にあった寺で、二階堂の永福寺伽藍の関連として鎌倉時代にはすでにあったようです。
南北朝時代に、足利直義(ただよし)が護良(もりよし)親王を幽閉して殺した場所で、東光寺が廃寺になった後、明治になってその場所に大塔宮(鎌倉宮)が
建てられました。 十二神将像は本来はこの東光寺にあって、それから名越の長善寺に移って、さらに大町の辻ノ薬師堂へ移ったということらしい。
それを現在修理中ということなんです。薬師三尊像と十二神将像は三体目で、修理を終えた像は、国宝館で展示をしております。
鎌倉でもっとも古い十二神将像
明珍 修理銘は一部出ていますね。応永年間でしたか。それは像にじかに書いたものでした。
岩橋
太もものところですね。応永十六年(一四〇九)。辻ノ薬師の像は、鎌倉で一番古い十二神将像だろうと思います。
問題は、ちょうどその頃に覚園寺の十二神将像を室町時代の代表的な仏師である朝祐が新造していることです。
本来覚園寺には創建当初のものがあったはずだけど、それがみんななくなってしまって、戌神将像だけが当初のものと 考えられている。
辻ノ薬師の十二神将像を考えると、当然、覚園寺より古いから、これをお手本にして朝祐が覚園寺の像を新しく
つくったんだろう。同じポーズをとっているので、それは間違いない。併せて、朝祐が辻ノ薬師像の修理もやったので
はないか。とすると、後補の像は朝祐の新造かなという気がしますね。
堂内には復元像が安置されています。本物は鎌倉国宝館で拝見出来ます。
十二神将そのものについて、及び鎌倉辻薬師堂像についても触れている記事をもうひとつ見つけました。それがなんと川崎市教育委員会の「川崎の文化財」サイトです。
元来十二神将は十二支とは無関係であったが、平安時代中頃から両者は関係付けられ始め、中世には一般的になった。しかし、十二支をいずれの神将に当てるかについては必ずしも一定していない。 形状の上から本像の類例を県内に求めると、鎌倉辻薬師堂像が最も近い。後世に多くの模像が造られた鎌倉覚園寺像は、辻薬師堂像と近く、それを模したと推定されているが、本像の方が辻薬師堂像により忠実である。県下の十二神将像の多くが図像的には辻薬師堂像に遡ると考えられているだけに、後述のように覚園寺像より制作年代の上る本像の存在は系統を考える上で非常に興味深い。
鎌倉時代の作とされる辻薬師堂像や応永8〜18年(1401〜11)作の覚園寺像と比べると、辻薬師堂像は見事なプロポーション、力強い自然な動き、たくましい肉付けや表情などに鎌倉時代の作風をよく示し、本像を遡ることは間違いない。一方、覚園寺像は動きにバランスを失ったところがあり、袖や袴の彫り、表情などに誇張が目立ち、本像の落ち着いた表現よりは下ると考えられる。またこれは、応永22年(1415)に修理が行われたこととも矛盾せず、本像の制作を南北朝時代としても差し支えないものと思われ、中世のまとまりある十二神将像の一例として県内でも評価されよう。
凄いですね〜、辻薬師堂十二神将像は相模の国の十二神将のルーツみたいです。まてよ? 川崎市って武蔵の国じゃないかい。関東の十二神将のルーツなんでしょうか?
ところでその辻薬師堂十二神将像は冒頭の説明書きには
現在市立鎌倉国宝館に十二神将像二体のみ展示されているが他の像は損傷著しく修理を要する為全仏像を拝観出来るのは早くても10年後と思われる
と、う〜ん、10年後か、まてよ、これ何年に書かれたんだ? えっ平成6年5月18日? 11年前じゃない、もう出来てるころだな。と言うので国宝館に行ってきました。有りました。でも修理が完了した十二神将像は7体だけでしたね。残念ながら撮影禁止です。
上の写真は辻薬師堂に置かれているご本尊と2体の十二神将像ですが平成6年に東京国立博物館内東芸修理室にて造像された復元像で、浄光明寺住職でもある大三輪龍彦導師によって入魂されたそうです。ちなみに正面ガラス戸左の小さい穴からお賽銭を入れると20秒間電気がつきます。その間にスローシャッターで撮ったもの。いや〜、何回もお賽銭を入れたので100円玉の他に10円玉も遣っちゃいました。(;^_^A
アセアセ…
おそらくはかなりの広さであったろう長善寺跡に残されたていた石厨子でしょうか? どれぐらい古いものなのかは私には解りません。
余談
ところでわたしにとって十二神将と言うと塚本邦雄の『十二神将変』で確か「銀花」に連載されていたのを読んだんだと思います。それから単行本を買って以降一時期塚本邦雄にのめり込んでいました。
その塚本邦雄から耽美派の同族?「黒衣の短歌史」の中井英夫へ。短歌的には新古今最左派ですね。それも読み終えて本が無くなっちゃって久生十蘭へ。全集に含まれなかった『紀ノ上一族』『黄金遁走曲』『巴里の雨』も全部そろえました。そしてその同時代の夢野久作。誰だったかの(もしかしたら中井英夫だったかも?)久生十蘭論でそこに至る系譜として泉鏡花が上げられていたのが泉鏡花全集に手を出したきっかけだったと思います。 文学少女で秀才な中学時代からのガールフレンド(*)に「泉鏡花って知ってる?」と脳天気に言って呆れられました。まさか高校の教科書に出ていたとは。私はマイナーな経路を辿って鏡花に行き着いたんで、鏡花って忘れ去られたマイナーな大衆小説家と思ってた。(;^_^A
アセアセ… でも彼女に久生十蘭は読んでないと言われて「勝った!(^o^)/」と思いました。(笑)
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考えてみたら彼女とは10年以上の付き合いだったんですね。中3のときから・・・、ゲッ! うちの娘の歳じゃないか!(;^_^A アセアセ… ■山頭火は彼女に教えてもらいました。一時期毎月和紙の葉書に山頭火の俳句だけ書いたのが届いて。
で結末ですか?
彼女の結婚のときロイアルドルトンのティーカップセットを送ったのがボーンチャイナとの。そのお返しに某迎賓館のワイングラスを貰ったのがクリスタルグラスとの。それをもらうので最後に会ったときにレストランでラ・ターシェの71年を開けたのがブルゴーニュワインとの付き合いの始まりです。 ■ ん?・・・、わっ!今は凄い値段ですね。
まあ、そんな訳で私個人の中では十二神将って変な思い入れが有るんですよね。十二神将の方からすれば「なんじゃそりゃ!」だと思うんですが。(笑) そんな訳で市立鎌倉国宝館に辻薬師堂の十二神将を見に行ったときはなぜか忘れていた塚本邦雄を思い出してしまいました。「これがあの・・・」と。
ところでその修理の終わった7体の十二神将を見ていたら、ん? これは・・・・ あのお顔は西洋人と思えば思いっきり納得します。ふとそう思ってまた7体を見て回ったんですが、う〜ん、居る居る、こういう顔の人! それも地中海からラテン系に! 運慶の仁王像などは日本人の顔なんですが。しかし長安とか中国の都にはインド人やらマルコポーロに限らずヨーロッパ系の人は沢山居たでしょうけど、鎌倉時代の日本の仏師はインド人やらヨーロッパ系の人の顔なんか見たことあるんでしょうか? なんか不思議ですね。
まあ、嘘だと思ったら一度鎌倉国宝館に行ってみてください。そう言う目で見ると唸ると思いますよ。ホントだって。
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