鎌倉七口切通し        稲村路

鎌倉時代に京の方面から鎌倉に来る人たちはほとんどが腰越経由して鎌倉入りしています。
腰越が鎌倉側が西の鎌倉の玄関であればその先は稲村路口、後には極楽寺坂口しかありえません。江戸時代に選定された鎌倉七口には入ってはいませんが、実は鎌倉時代前半にはここが最も重要な入口だったようです。その稲村路を当時の文献と、それに若干の現地調査も交えて見ていきましょう。

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平安時代末期 頼朝の旗揚げから鎌倉入り

「平家物語」の読み本系統である「源平盛衰記」には

源平盛衰記 21巻P514 大沼遇三浦事
八月二十三日には、石橋の合戦と兼て被触たれば、三浦は可参よし申たれば、其日衣笠が城より門出し、船に乗て三百騎沖懸りに漕せけるに、浪風荒くして叶はず。二十四日に陸より可参にて出立けるが、丸子川の洪水に、馬も人も難叶と聞て、其日も延引す。二十五日に和田小太郎義盛三百余騎にて、軍は日定あり、さのみ延引心元なし、打や/\とて鎌倉通に、腰越、稲村、八松原、大磯、小磯打過て、二日路を一日に、酒勾の宿に著。丸子河の洪水いまだへらざれば、渡す事不叶して、宿の西のはづれ、八木下と云所に陣を取。

腰越と稲村が逆ですが。

頼朝が鎌倉に入った数日後、北条政子が鎌倉入りするのに日が悪いからと1泊したのは稲瀬川、つまり現在の長谷寺と甘縄神社の間を流れる小川です。そこに致る道筋は書いてありませんが、おそらくこの時代には稲村崎路であろうと。

吾妻鏡1180年(治承四年) 10月11日 庚寅
卯の刻、御台所鎌倉に入御す。景義これを迎え奉る。去る夜伊豆の国阿岐戸郷より到着せしめ給うと雖も、日次宜しからざるに依って、稲瀬河の辺の民居に止宿し給うと

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このあたりでしょうか? 現在の稲瀬川はもう少し後ろになりますが。
ちなみに北条氏滅亡の直前、新田軍・浜の手の大将大館宗氏が戦って戦死したのも稲瀬川、正面の山は大館宗氏戦死のあと大館勢が立て籠もった霊山です。左が稲村路、右の尾根の切れ目が極楽寺坂です。

鎌倉・頼朝の時代

それから約10年後の1191年に頼朝の「二所参り」について記録に稲村崎が出てきます。

吾妻鏡 1191年 (建久2年)2月4日
前の右大将家二所御参り。辰の刻、横大路を西行、先ず鶴岡宮に御参り。御奉幣の後進発し給う。若宮大路を南行、稲村崎に至り 行列を整う。

だいぶ時代は下り、南北朝時代の史記「保歴間記」には1198年12月27日に

大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。

要するに頼朝の死ですね。吾妻鏡にはこの頃の記事はありません。それが暗殺説などを生む原因になってくるのですが。もちろんこれは作り話だと思いますが、ただそれ以前から例えば後で引用する[承久記」などにも該当する記述が見られることから、そういう言い伝えが広く伝わっていただろうこと。その頃の「相模川」からの帰りには稲村崎路を通ったであろうと思われていることは注意しておいて良いと思います。

他の記録ではこのように。

「神皇正統録」
相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。
承久記
相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。

 

「海道記」と宗尊親王鎌倉入りの経路

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13世紀の記録としてはこの2つでしょう。貞応二年(1223)の「海道記」にこう書かれているそうです。

片瀬川を渡りて、江尻の海汀(うみみぎわ)をすぐれば、江の中に一つの峰の孤山(江の島) あり。孤山に霊社あり。江尻の大明神と申す。感験ことにあらたにして‥‥。 

稲村と云う所有り、険しい岩が重なり横たわる狭い間を伝わり進むと、岩に当たって打ち上げる波が花のように散りかかる。( 総説編p188)

『吾妻鏡』建長4年(1252)の記事では第六代将軍宗尊親王が稲村ヶ崎経由(稲村路)で鎌倉入りしています。

吾妻鏡1252年(建長4年)4月1日 甲寅 天晴、風静まる
寅の一点親王関本の宿より御出で。未の一刻固瀬河の宿に着御す。御迎えの人々この所に参会す。小時立つ。・・・・
路次、稲村崎より由比浜鳥居の西を経て、下の馬橋に到る 。暫く御輿を扣え、前後の供奉人各々下馬す。中下馬橋を東行、小町口を経て相州の御亭に入御す(時に申の一点なり)。

その当時の西からの入口は稲村ヶ崎経由(稲村路)だったと考えるのが順当だと思います。それが不便だったので約80年もあとに極楽寺坂が開かれましたが、それも今我々が目にする極楽寺坂ではありません。成就院の門前に上がる階段道がそれに近いでしょう。

鎌倉幕府の最後では

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「梅松論」では、

五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。
高時の家人諏訪・長崎以下の輩命を捨て防ぎ戦ける程に、当日の浜の手の大将大館(=宗氏)稲瀬川において討取らる。その手引退て霊山の頂に陳を取る。同十八日より廿二日に到るまで、山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし。
さしも人の敬ひなつき富貴栄花なりし事、おそらくは上代にも有りがたくみえしかども、楽尽きて悲来る習ひ遁れがたくして、相摸守高時禅門、元弘三年(1333)五月廿二日葛西谷(かさいのやつ)において自害しける事悲しむべくも余りあり。一類も同じく数百人自害するこそあはれなれ。
爰に不思議なりしは、稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける。
然間に鎌倉は南の方は海にて三方は山なり。嶺続きに寄せ手の大勢陳を取りて麓におり下り。所々の在家に火を放ちしに、いづかたの風もみな鎌倉に吹き入りて、残所なくこそ焼き払はれける。天命に背く道理明らかなり。

太平記巻第十

稲村崎成干潟事 
去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。

明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。

誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。

この「梅松論」の「稲村崎の波打ち際。石高く道細くして」、「太平記」では「南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て」から、極楽寺坂が出来てからも「稲村路」はあったであろうこと、そして高柳先生はその「石高く道細くして」との記述や「海道記」の記述から「道は相当高い所を通っていたのではないかと思う。義貞は干潟を通ったのではあるまい。」と「鎌倉市史(総説編)」p188でおっしゃっています。波打ち際とは砂浜・岩場の磯ではなくて、岩場の斜面に道が作られていたのではないかと。

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ただし頂上ではないでしょう。「海道記」には「砕ける波が花のように散りかかる」とあるし、その上の仏法寺や「澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構え」られる高さと言うことにななると、少なくとも一部はこれぐらいの高さでしょうか?

奈良時代からここが古東海道であったと思われること、平安時代も10世紀頃までは鎌倉郡衙と国府とを繋ぐ道であったであろうことなどからそれはありそうな気がします。

とは言え1703年、1855年の大地震で霊山山(れいざんさん?)が海に向かって大きく崩れたとありますから、それに関東大震災もあるし、現状からはよく判りません。下の写真では右の山がその霊山です。鎌倉時代にはその斜面の際まで海であったろうと思います。

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高柳先生が「義貞は干潟を通ったのではあるまい」と思われたことについては、その後の研究で元弘3年5月22日、現在の暦では7月11日には、干潮は午前2時50分と午後2時半の、二回あったことが判っているそうです。誰かの本に詳しく書いてあったと思います。石井進先生のような気がしたんですが。

「その手引退て霊山の頂に陳を取る」は仏法寺のことです。この写真が仏法寺跡と思われる平場で、その下に当時の稲村路(古東海道)が通っていたとしたら、そこを通る軍兵はここから狙い撃ちですね。矢の他に石をゴロゴロとか。僅かに残る「軍忠状」からこの仏法寺(霊山寺とあるが)で激戦があったことが知られています。

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その少し上、北側の頂上付近のこの塚から多数の五輪塔などが発見されています。(下)

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参考:中世鎌倉の発掘 (1)仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって

また「鎌倉記憶帖」(S61)によると古老の話でしょうか、成就院墓地から霊山中腹を経て、金山、稲村方面に至る道が通行可能で極楽寺坂を登るより楽だったとか。まあ楽だったのはここ100年ぐらいの話で鎌倉時代から楽だったら「極楽寺坂は何なの!」って話になっちゃいますが。

2007.2.4 記

謝辞:吾妻鏡は こちらのサイトを参考にしました。とても助かっています。ありがとうございます。