鎌倉七口切通し     極楽寺坂切通し


 本日のお散歩・紫陽花もそろそろ 04.05.29

鎌倉初期には有りませんでした。頼朝の鎌倉入り直後の政子の鎌倉入りも、ずっと後の6代将軍に迎えられた宗尊親王もみんな稲村ヶ崎の海岸ぺりを歩いていたのかもしれません。あるいは獣道のような山道を通ったのか。

極楽寺の忍性

その後、1259年(正元元年)に極楽寺開山の忍性が、片瀬、腰越、七里ヶ浜から、甘縄(現在の長谷)に抜ける道(今の切通し)を開いたとか。以来この極楽寺坂が鎌倉中への主要幹線として使われ、稲村ヶ崎の海岸ぺりは使われなくなったのでしょう。ここを通せんぼされた新田義貞以外はね。

ところで、忍性の極楽寺開山当時ここは地獄谷でした。要するに庶民の埋葬地です。鎌倉の中には墓を作ってはいけなかったし、矢倉なんか掘るのは上流階級だけです。建長寺も地獄谷ですね。

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『とはずがたり』

鎌倉時代後期1289年の紀行文『とはずがたり』では作者(それとも主人公?)の久我の大納言源雅忠の娘二条が鎌倉に入る部分で

明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方をみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、階などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。
 由比の浜といふところへ出でてみれば、大きなる鳥居あり。若宮の御社はるかにみえ給へば、他の氏よりはとかや誓ひ給ふなるに、契りありてこそさるべき家にと生れけめに、いかなる報いならんと思ふほどに、まことや、父の生所を祈誓申したりし折、「今生の果報にかゆる」と承りしかば、恨み申すにてはなけれども、袖をひろげんをも嘆くべからず。

とあるらしいです。もちろん極楽寺坂を化粧坂と間違えているんですが、あるいは『とはずがたり』は自伝ではなくて自伝風の小説つまり作者は二条ではないのかもしれません。いずれにせよ京にいた公家に知られていた鎌倉の坂の入り口(稲村口は除き)は化粧坂だけが知られていたとも言えるでしょう。 

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ところでこの『とはずがたり』は鎌倉を含む後半は紀行文ですが、京にいた頃の前半は、んもう性文学と呼んでよろしいでしょう。(*^,^*)

・・・ただうち臥したるままにてあるに、そひ臥し給ひて、さまざま承りつくすも、いまやいかがとのみ覚ゆれば、なき世なりせばといひぬべきにうちそへて、思ひ消えなん夕煙、一かたにいつしかなびきぬと知られんも、あまり色なくやなど思ひわづらひて、つゆの御いらへも聞えさせぬほどに、今宵はうたて情なくのみあたり給ひて、薄き衣はいたくほころびてけるにや、残る方なくなりゆくにも、世にありあけの名さへうらめしき心地して、

相手は6代将軍宗尊親王の弟にあたる後深草天皇なんですが「薄き衣(きぬ)はいたくほころびてけるにや、残る方なくなりゆくにも」なんて貴方、現代語訳してみなはれ、生唾ゴックン、あ、いやその・・・・。

ところでこの『とはずがたり』は大岡信の脚本で実相寺監督作品の「あさき夢みし」と言う映画になりました。だいぶ昔、と言うか30年も前の話だけど。ほとんど映画を見ない私もこれは見ていて当時は「あさきゆめみし」じゃないじゃないか! タイトルをパクッただけじゃん! と憤慨したのですが、あとから考えてみると「あさきゆめみし」じゃなくてこの『とはずがたり』をわりと忠実に映画化したものだったんですね。私は源氏物語だと思って見に行ったんだと思います。それに大岡信だし、ATG(アートシアターギルド)だし。映像はとっても綺麗だったですが映画としては何となく重みが無くて、当時何となく日本人離れした美人の代表格みたいな素人くさい主演女優を見せる映画って感じでした。誰だっけと検索してみたらジェネット八田でした。

とはずがたり』サイトについては転載されている作家の永井路子と冨倉徳次郎教授の対談『歴史のヒロインたち』での冨倉教授の指摘は面白いし、田中貴子助教授の『日本古典への招待』も面白いです。

で『とはずがたり』には6代将軍宗尊親王の子の7代将軍惟康親王が都に返されるシーンが出てくるんですが、いくら飾り物の将軍とはいえ、北条もひでーことするなー! まるで罪人あつかいじゃないかい。

えらい脱線しましたが、『とはずがたり』で上記の極楽寺坂から鎌倉に入る前の夜は江ノ島に泊まったそうです。ところがその宿と言うのが宿なんかじゃなくて岩屈なんです、アウトドアですね〜。誰が書いたにせよ伝聞にせよ、当時は本当にそうだったんだろうと思います。このあたりも江戸時代的イメージで考えちゃダメよ! ってとこですね。まあ尼だったんだからお寺に泊めてもらえば良かったじゃないかとも思いますが。

『とはずがたり』関係でもうひとつ。中世鎌倉の研究をまとめた「中世都市鎌倉の実像と境界」と言う本があるんですが、その監修者でもある五味文彦先生が「総括・鎌倉の中心性と境界性」と言う論文の中で、

極楽寺から鎌倉に入ったとあるので、本来はそこが化粧坂と呼ばれていた可能性があることになる。鎌倉に西から入る場合は、多くは稲村ヶ崎、極楽寺から入っており、政子も稲瀬川のほとりに泊まって(野宿?)鎌倉に入っている。そうすると極楽寺もかつて化粧坂と言われていた可能性は大いにあろう。

なんて書いていらっしゃいますが、『とはずがたり』が事実関係を間違えているのはここだけじゃ無ようです。五味代先生は石井進先生が「境界の場の呼称として各地域に残っていることを民俗(学)的な事例を引きながら指摘した。」と言うこと、そして極楽寺坂もまた地獄谷と呼ばれる埋葬の場であったことの方に重きを置いて書いていらっしゃるのですが。この場合は『とはずがたり』が事実関係を間違えているのか、それとも当時はほんとうにそう言う呼ばれ方をしていたのか、どちらにも確たる証拠はありません。

現代の我々は「化粧坂」を地名、固有名詞として使っていますが、当時の地名は今ほどに固有名詞化はしていないようです。「化粧坂」の本来の意味が「身だしなみを整えること」であれば「ここからが鎌倉、町中、ネクタイは曲がってないよね?」と言うような意味で、「境界の場の呼称」として「化粧坂」と通称されていた。後に極楽寺坂と呼ばれる方が多くなりそちらが定着したのかもしれません。そして源氏山の方の「化粧坂」だけが今に伝わったと。(2006.5.22追記)

関東大震災

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極楽寺坂・成就院の紫陽花

さて、切り通しですが江戸時代とは全く違う鎌倉時代は現在の道より高く、成就院の門前を通っていましたが、江戸時代以降に掘り下げ幅を広げたとのことです。

化粧坂(極楽寺坂の間違い)といふ山を越えて、鎌倉の方をみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、階などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる

と言うのは成就院の山門からの眺めと完全に一致しますね。今でもビューポイントです。極楽寺切通しが「切通し」になったのはこの1世紀程度のこと、鎌倉時代もそのあともここは「極楽寺坂」だったのでしょう。

ところでここにも鎌倉町青年團の石碑があります。

此所往古疊山ナリシヲ 極樂寺開山忍性菩薩疏鑿シテ一條ノ路ヲ開キシト云フ 即チ極樂寺切通ト唱フルハ是ナリ 元弘三年ノ鎌倉討入リニ際シ大館次郎宗氏 江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ 大佛陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ将トシテ此所ヲ堅メ相戰フ
 昭和七年三月建  鎌倉町青年團   鎌倉史跡碑事典

関東大震災で崩れてちょうど通りがかったサーカスの一団が押しつぶされたとか。その後の改修工事が今の状態らしいです。