鎌倉七口切通し 巨福呂坂上の尾根を泉ヶ谷へ |
尾根を西へさて、先程の平場の上の切通しから、旧巨福呂坂切通しの痕跡を離れて尾根をさらに西に、するとすぐに半分埋もれかけた矢倉があります。 と言ってもこの矢倉、まるでトンネルのように向こうが見えますが、反対側に回ろうにも崖っぷち。向う側は崩れた? 実はこの近くにもうひひとつ矢倉があるようですが、確認していません。そっちに道は無く、下手をすると崖を真っさかさまですので。 一つ目の切岸?切通し?尾根はすぐに南西に向きを変えます。この尾根が亀ヶ谷切通しの谷戸と、泉ヶ谷の谷戸との間の尾根です。円応寺上から禅居院上の尾根には道が見つかりませんでした。 その通り過ぎた処で上の方に半分埋まった石碑?を発見。昨日は見過ごしてそのまま行ったのですが今日は上に登ってみました。でも字があるのか無いのか、風化して判りません。 「亀ヶ谷坂周辺詳細分布調査報告書」と言うものがあるのですが、前後の堀切は書いてあるのですが、この石碑?についての記載は有りませんでした。気がつかなかったのかそれとも書く価値なしとの判断なのかは判りません。私だって2回目に気がついたのですから前者かも。 二つ目の切通しが、その向こうにまたもや、今度はもっとはっきりした切通し? 切岸?を見つけました。 その切通し? 切岸? から振り返ったところ。これは道でしょう。要するに切岸ではなくて切通し。鎌倉城史観の学者さん達はすぐに切岸ではないかと思って「敵が尾根伝いに来るのを防ぐ鎌倉城の遺構と思われる」なんて言うのですが、大抵は切通した道であることが多いように思います。 しかしこの道は何処へ行くんだろう。まっすぐ行くと亀ヶ谷切通しの亀ヶ谷(扇ヶ谷)側、多分扇ヶ谷鎌倉コートハウスのあたり? あそこの斜面は急で降りられるような処は考えにくいけど、と思いながらも行ってみることに。そうしたらなんと、ぐるっと回って、さっきの最初の「切岸のような、切通しのような。だいぶ埋まって」いる処、先の写真の反対側に出るではないですか。と言う訳でふたつとも道の為の切通しと判明。 こちらはその2つ目の小さな切通し(堀切)を越えて振り返った写真です。鎌倉時代の自然発生的な切通しはこれぐらいのものなんじゃなかったでしょうか。亀ヶ谷切通しも旧巨福呂坂切通しも。その後700年、800年と経って今の姿まで切り下げられてきたと。 こうした跡をみると初期の鎌倉の山越えは大体は尾根伝いではと言う考えに自信がついてきます。と言ってもこの小さな切通しが鎌倉時代からのものかどうかは判りませんが。鎌倉時代にしか人が住んでいなかった訳じゃないんですから。鎌倉時代と言うのは800年の中の140年に過ぎませんので。1/5以下ですね。 この道筋が明治15年6月の「神奈川県相模国鎌倉郡山之内村及上野村」にある中央尾根沿いの点線です。鎌倉時代の後期には現在巨福呂坂切通し旧道とされている聖天坂があったのかもしれませんが、まだ大きな土木工事の入っていない鎌倉初期にはこちらの道筋の方がより自然に思えます。現在の亀ヶ谷切通しと比べてもね。 ここを過ぎると次の泉ヶ谷多宝寺跡・覚賢塔はもう目と鼻の先です。 2007.2.17 追記 |