鎌倉歴史地理の文献

以下は主に澤寿郎監修・著 鈴木棠三編著「鎌倉紀行編」  (東京美術 昭和51年発行)を参考とした。

沢庵和尚鎌倉巡礼記 (1633年)

品川東海寺の開山・沢庵和尚が寛永10年(1633年)に鎌倉五山に巡拝するため鎌倉を訪れたときの紀行文。ただし、書かれたのは鎌倉を訪れた直後ではなく、晩年と言われている。そのため鎌倉の荒廃も「為政者は寺に対してどうあるべきか」と言った主張の題材として鎌倉の寺院の荒廃を扱うという傾向があり、実質的な記述が希薄と言われる。

ただし、沢庵和尚は生前にこれを何度も書き写し、人に与え、また沢庵和尚没の15年後(1659年)に版木が起こされて一般に流布したため、鎌倉を認識させる上では非常に大きな影響を持った書物である。

沢庵和尚自筆のものは3つ残っており、それを渡す相手によって細かな点で相違がある。例えば漢文が不得意(私?)な人に与えたものには行間にかなを付けて読みやすくしているなどである。その自筆本の中でもっとも叮嚀なものは作家の大仏次郎氏が持っていたもので、大名の若殿か姫君に渡したものかと思われるような叮嚀にものとのこと。

 

玉舟和尚鎌倉記 (推定1642~1644年)

大徳寺185世玉舟和尚(大徹明應禅師)、書画骨董の世界では非常に有名であり、茶道各流とも関わりか深い。たとえば千宗旦の三男で表千家としては実質初代にあたる千宗左は玉舟和尚から江岑の号を授かり、またその推薦により紀州徳川家の茶頭となった。石州流として知られる片桐石州(石見守)は玉舟和尚から宗閑という居士号を与えられている。

その玉舟和尚の鎌倉記はこれも作家の大仏次郎氏が持っていたものが唯一であり、おそらくはそのことが歴史学者の目にとまる切欠になったのかもしれない。写本等は残されていない。

玉舟和尚が鎌倉を訪れたのはその記述の内容から三代将軍家光の治下、寛永19年〜21年(1642~1644年)の間と推定される。英勝寺が完成する直前である。また書かれたのはそれほど間を置かずにであったろうと見られている。

玉舟和尚鎌倉記の鎌倉史研究上における価値は、近世のものとしては時代的に古く(江戸初期)、その後鎌倉は観光地化されるが、それ以前の衰退した鎌倉の姿を見るまま、聞くままに文飾を加えずに記述しているところにある。また資料として実質的な記事が豊富な点で、その点では沢庵和尚鎌倉巡礼記をはるかに越え、歴史学上の資料としては高く評価されている。

金兼藁 (推定1659年)

こちらも「玉舟和尚鎌倉記」同様に写本は無く希書である。署名の「金兼」とは「鎌」の析字(せきじ:漢字を偏や旁、その他の字画によって分解するもので中国から伝わり漢学者のひとつのスタイル:別名「破字(はじ)」)。「藁」は「稿」と書くこともある。鎌倉における漢詩その他を書き留めた雑稿の意味。こちらも写本は伝わっておらず、世間に流布することのなかった希本である。

著者は明らかではないが江戸時代初期の儒学者・林羅山(1657年3月7日没)、その第四子林春徳の周辺の者。おそらくは林羅山の門人にして事務方、林家の家司、今流に言えば事務局長のような立場にあった者が、林羅山の突然の死、そしてその法事等の事後処理を終え、今で云えばちょうど定年の時期とも重なり、定年記念旅行のような感じで鎌倉に旅し、かなりの長期間に渡って滞在していたと思われる。本書は林春徳の蔵書であった。著者の主な目的は鎌倉においての漢詩であったろうが、歴史資料としての価値はその眞市詞書きであり、鈴木千歳氏の研究によれば鎌倉の地形、建物に関する記載では金兼藁ほど正確なものは無いとのことである。

 

鎌倉日記 (1674年)

黄門様こと水戸光圀が延宝2年(1674年)に鎌倉を訪れたときの記録。とは言え、単なる物見遊山で出かけた訳ではなく、『大日本史』の編纂作業の中で、鎌倉時代についての資料が少ないことを痛感し、いわば鎌倉現地学術調査団の団長のような形で鎌倉に赴いた。鎌倉日記はその調査報告書のようなものである。水戸光圀が書いた旅日記では決してなく、それを纏めたのは家臣吉弘元常らであることが巻末に記されている。

5月2日に金沢(現六浦)の瀬戸橋に着き、その日の夕刻に水戸藩が建てた英勝寺に到着し、そこでは江戸藩邸の近侍が先に到着してすべての用意を整えて出迎えている。その「すべての用意」の中には水戸光圀の身の回りのことだけではなく、主要な寺、それぞれの土地の長老にその土地の歴史について説明出来るように用意をしておけと通達することも含まれていた。

5月8日に英勝寺より帰路につき、藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ:時宗の総本山)により、神奈川宿に宿泊、9日に江戸の藩邸に戻った。鎌倉滞在は約1週間である。その間に自分では回れない処、例えば名越、川崎大師などは家臣を派遣して見学(調査)させている。

事実上の調査団と言っても、当然地理に明るい訳ではなく、また史実についても源平盛衰記や太平記などでの通り一遍な知識しかなかったであろうから、土地土地で古老・長老から受けた説明を分析することは出来ず、そのかま記録した傾向が見られる。逆に江戸初期には土地にはこう伝わっていたという読み方をすると的を射ていよう。