4.寝殿の内装(室礼) |
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寝殿の内装(室礼)建物の内部に壁や間仕切りは少ない。初期には空間を区切るのに帷(からびら)類、布の壁代(かべしろ)つまりカーテンや、御簾(みす)と呼ばれる簾(すだれ)を用いた。その後の建具の発達により、次第に現在の襖やショウジで仕切られるようになるが、仏事を含む儀式の場合にはそれを撤去して帷類や御簾に変えている。室町時代に到っても、壁代や御簾、そして大和絵の描かれた屏風こそが寝殿の正式な室礼(しつらえ)と認識されていた。 御簾(みす)下の二つの画像は法隆寺・聖霊院の御簾である。簾(すだれ)の高級品と思えばその効果が理解しやすい。暗い中からは明るい外が見えるが、外から中は見えない。 現在なら窓に簾を降ろしても、夜になれば外から丸見えになるが、寝殿造の時代に電灯は無い。 几帳・壁代(かべしろ)几帳(きちょう)几帳(きちょう)と壁代(かべしろ)は布のカーテンである。帷(反物)を何枚か横に縫い合わせる。ただし上から下まで全て縫うのではなく、中間は縫わずに、布を押し開けばその隙間から向こう側が見えるようになっている。例えば12世紀中頃成立の『年中行事絵巻』巻3「闘鶏」では主人家族の男は、寝殿東三間の御簾を巻き上げてあげて見物し、西の二間には御簾を下ろし、その内側に几帳が建てられている。そこを良く見ると、主人の家族なのか女房達なのか、4人の女性が几帳の中程を開いて闘鶏を見物している(年中行事絵巻、p.18上段)。
几帳(きちょう)は持ち運び可能な台付きの低いカーテンである。その構造は土居(つちい)と いう四角い木の台に2本の丸柱を立て、横木を渡し、それに帷を紐で吊す。夏は生絹 (すずし) 、冬は練り絹を用いた。御簾の内側に立てるのは四尺几帳で、四尺とは土居(つちい)からの高さである。6尺の帷(とばり)5幅を綴じあわす。表は朽木形文(雲のような、朽ちた木の形を文様化したもの)を常とする。裏と紐は平絹である(関根正直1925、pp.8-9)。三尺几帳の場合は帷5幅で、主人の御座の傍らなどに用いる。座っていれば高三尺で十分隠れる。 壁代(かべしろ)壁代(かべしろ)は几帳から台と柱を取って、内法長押(うちのりなげし)に取り付けたようなカーテンである。もちろん約3mの柱間を覆うのだから横幅も丈も几帳に使うものよりかなり大きい。『類聚雑要抄』巻第四には「壁代此定ニテ、七幅長九尺八寸也」とある(類聚雑要抄、p.596)。壁代は通常取り付ける高さより約2尺長い。通常御簾の内側は四尺几帳だが、冬場は寒気を避けるために壁代に変える。壁代は綾絹製で併仕立。表は朽木形文などの模様で裏は白地である。御簾を巻き上げるときは壁代も巻き上げるのを常とし、そのときは木端(こはし)という薄い板を芯にいれて共に巻き上げ野筋で結ぶ。野筋とは帷に垂れ下がっている絹の紐である。几帳にも着いている。その内側にまた几帳を立てた(小泉和子1979、p.23)。
軟障(ぜじょう)と幔(まん)軟障(ぜじょう)と幔(まん)もカーテンの一種である。壁代や几帳は外が覗けるようになっているが、軟障は完全に縫い合わせて視界を遮り、覗けないようになっている。室内で使うのが軟障で、高級品は大和絵が描かれたりする。屋外で使うのが幔(まん)で、絵はなく太い鮮やかな縦縞である。『年中行事絵巻』巻五「内宴」に描かれる綾綺殿(りょうきでん)の場面に両方が描かれている(年中行事絵巻、p.28下段)。 障子現在障子というと桟に和紙が貼られ、緩やかな光の差し込むものを云う。しかし寝殿造の時代の初期においては、障子とは「さえぎるもの」「ふさぐもの」の意味で(迎井夏樹1973、p.70)、建具一般をさす。『建築大辞典』には「@平安時代に現れた障屏具の総称。〔そうじ〕ともいう」とある(建築大辞典、pp.719-720)。「障屏具」とは仕切りに使われ る可動式装置の総称。「障子」の「障」には「さえぎる」という意味、「子」とは「小さな道具」という意味がある。つまり「障子」とは文字の通り「さえぎる道具」である。『日本史広辞典』には「屋内の間と間の隔てに立てて人目を防ぐもの。もとは板戸、襖、明障子、衝立、屏風などの総称」とある(日本史広辞典、p.1081)。屏風も「さえぎる道具」という意味で障子なのだが、歴史も古く、格も高いので障子と言われることは少ない。その障子の発達はそのまま寝殿造の発達でもあり、また書院造への道でもある。 衝立「障子は木の骨組みに布や紙を貼った室内用の間仕切りパネル」(小泉和子2015、p.40)と考えるとその歴史は古い。木の骨組みに布や紙を貼ったものだけでなく木枠付きの板もある。「障子」が「さえぎる道具」であるなら衝立も当然含む。例えば内裏清涼殿にある「年中行事障子」はパネルに足の付いた衝立であるし、「賢聖障子」は紫宸殿の母屋と北庇との間に填められた間仕切りである。衝立障子は奈良時代からすでにある。天平宝字5年(761)の「法隆寺縁起井資財帳」には、橘夫人の奉納したものの中に「障子一枚」があり、高さ七尺・広さ三尺五寸、表が紫綾で、裏が繰(うすいあい色の絹)とある(高橋康夫1985、p.23)。 遣戸障子遣戸は現在の襖の原型であり、国産で大陸には無い。記録上は10世紀末頃を初見とする(川本重雄1987、p.75)。なお、舞良戸(まいらど)なども遣戸なのだが、すでに述べたのでここでは室内に限る。 平安時代以降の絵巻には現在の襖の原型を含む多くの障子が描かれるが、絵巻物自体が12世紀以降である。それ以前については文献史料しかないが、物語を見ると『竹取物語』、『伊勢物語』、『土佐日記』には現在の襖のような遣戸は出てこない。『宇津保物語』には壁代は出てくるがやはり遣戸は出てこず、10世紀末頃とされる『落窪物語』に始めて「中隔ての障子をあけたまふに」と襖のような遣戸が出てくる(むしゃのこうじ2002、pp.49-50)。『源氏物語』にも出てくる。平安時代も末、12世紀頃には、内裏や寝殿の儀式のときの室礼の指図に「ショウシ」あるいは「障子」と書かれるものが多くあり、それらは引き違いの戸記号で書かれる(例えば東三条殿侍廊)。 現在の襖や障子の上下の桶の幅は襖や障子の幅より狭く、それで二枚の襖などが開いたときにはきちんと重なるが、この工夫はいつからのものかは判らない。平安時代から鎌倉時代の遣戸はそうはなっておらず、桶は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来る。そのため遣戸を閉じたときに重なる部分に方立を立ててその隙間を埋める。実例は法隆寺・聖霊院(高橋康夫1985、p.93)と、絵巻では『春日権現験記絵』にある(春日権現験記絵、下、p.6下段、p.7上段)。 押障子内裏の紫宸殿で母屋と北庇を仕切る「賢聖障子」がもっとも有名であり、柱間に填めて間仕切りにする。取り外し可能なパネルであり、現に紫宸殿では儀式のあるときだけ填めている(高橋康夫1985、p.28)。推定13世紀末の『枕草子絵巻』には柱間に填めた押障子の一部に引き違いの襖のような遣戸障子が組み込まれている(枕草子絵巻、p.47)。 副障子日本絵巻物集成,7 『松崎天神縁起、信貴山縁起』、雄山閣 1935、p.80 副障子とは壁に添える装飾用のパネルのことだが、絵巻には腰の高さの低い副障子が描かれ、それが常居所(じょういじょう:主人の居間)を表す。画像は『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間だが、有忠の背後にあるのが副障子である(松崎天神縁起、p.53下段)。絵巻での初出は平安時代(12世紀前半)の『源氏物語絵巻』「宿木」段の清涼殿朝餉間(あさがれいのま)(源氏物語絵巻、pp.30-31)だろうと太田博太郎は云う()。12世紀半ば過ぎの『病草子』「不眠症の女」にも副障子(そえしょうじ)は描かれている(病草紙、p.**)。鎌倉時代の絵巻では『法然上人絵伝』(法然上人絵伝、上・p.**下段)などにも描かれている。周囲に軟錦(ぜんきん)が貼られ、高級なものでは大和絵が描いてある。『病草子』「不眠症の女」は主人の部屋ではなく侍女の部屋のためか、大和絵ではなく唐紙である。また『春日権現験記絵』の紀伊寺主の屋敷には更に格の低い、軟錦は張られているが無地の副障子が出てくる(春日権現験記絵、下、p.13上段)。 鳥居障子上の左側の襖状のものが鴨居の上まで含めて鳥居障子である。 鳥居障子は推定13世紀末の『枕草子絵巻』にその姿が描かれている(枕草子絵詞、p.44)。寝殿造は今の襖や障子を前提とした建築物ではないので、内法長押(うちのりなげし)の位置が高い。例えば寝殿造の工法を伝える西明寺の例では柱の芯々で9.4尺(2.84m)。柱と柱の間の開口部は2.5m、内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)もある(日本建築史図集2011、p.112)。その高さは東三条殿など最上級の摂関家の寝殿造でも同じで、現在の和風住宅の鴨居(約6尺)より約二尺(60cm)高いことになる。 その内法長押の位置が鴨居であったら襖は今より幅があるだけでなく、高さまで2尺も高くなってしまう。当時は大工道具も未発達。カンナ(平鉋)もない時代なので、遣戸障子も今日から考えると実に武骨で大変重い建具であり滑りも悪い。今の襖なら指一本でも明けられるが、絵巻には遣戸障子を開けるための4〜50cmほどのひもが描かれている(枕草子絵詞、p.44、p.47)。また、現存する初期書院造、二条城大広間や園城寺の光浄院客殿の帳代構の襖にも同様に紐がつけられている。どれだけ重かったかがそれだけでも解る。 そのため日常生活にふさわしい遣戸障子、今でいう襖を収めるには、建物の一部である内法長押よりも下の位置に鴨居を取り付ける。小泉和子によると、内法長押の下一尺ほどのところに入れるという(小泉和子2015、p.40)。それでも襖は今より一尺あまり高い。そして鴨居と内法長押の間はやはり障子、つまりパネルを填める。当時こうした形式の障子を神社の鳥居の形に似ていることから、鳥居障子と呼んだ。 『台記』仁平4年(1154)10月21日条には東三条殿で開かれたかれた因明講仏事の室礼が記されているが、そこには東対西庇南第三間北側の鳥居障子を 外し、母屋塗籠の妻戸の上と、その鳥居障子を外した部分に御簾を懸けるとある(川本重雄2012、pp.180-181)。現在では障子や襖は建物ではなく建具だが、鴨居や敷居は建物の一部である。しかし寝殿造においては、鴨居の上の、今なら塗り壁の部分も障子である。敷居や鴨居もその上のパネルも含めて取り外し可能な建具の一部である。鳥居障子について川本重雄はこう云う。
杉障子(板障子)遣戸障子が現在の襖であるとは限らないのがこの杉障子である。まず杉であるが、檜と同様に真っ直ぐな木で上質なものは縦に割りやすい。今なら製材機で簡 単に板が作れるが、平安・鎌倉時代にそんなものは無く、それどころか大木を縦に切る大鋸すら日本に伝わるのは室町時代である。従って寝殿造の時代には板は 割って作り、仕上げは槍鉋で 削る。それで幅広の板まで作っている。なお木材は杉だけとは限らず、杉障子も含 めて板障子とも呼ばれるが、杉障子という用語が良くでてくることから杉を使う場合が多かったと思われる。なお、内裏・紫宸殿の「賢聖障子」も板のパネルに絹を張り、その上に絵を描いたものである(高橋康夫1985、p.27)。『慕帰絵詞』には建物の外周に杉戸が使われており、その杉戸には草木た鳥、あるいは馬が描かれている(慕帰絵詞、p.11、p.30)。 『類聚雑要抄』にある室礼12世紀前半の『類聚雑要抄』巻第二に東三条殿の指図がある(類聚雑要抄、p.555)。寝殿母屋と南庇にかけての室礼(しつらえ)である。「帳」とあるのが帳台(後述)で母屋に置かれている。その南正面の庇に御座がしつらえられている。 「類聚雑要抄・巻2」 『群書類従26』 続群書類従完成会 1929、p.555 にある東三条殿の指図 東三条殿なので母屋は六間、その内塗籠が二間で、残る四間(梁行二間)とその南の庇(梁行一間)が主人のスペースとして一体化して使われている。庇の南面、簀子縁側には几帳が置かれる。母屋と南の庇の間の隔ては指図には省略されているが、文中に「母屋の簾、四尺几帳の高さに巻き上げる。鉤あり、おのおの壁代を懸ける(読み下しは川本重雄)(川本重雄1998、p.168)」とある。昼間は開放され御簾が巻き上げられている。 残る三面は押障子と鳥居障子で仕切っている。北の庇との間は押障子と鳥居障子はほぼ交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処である。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いていたが、ここでは鳥居障子がその役目を果たしている。先に述べたように鳥居障子の開口部は遣戸障子、要するに襖になっている。 母屋に置かれた「帳」の東(右)に棟分戸と書かれているのが塗籠の妻戸で、それが閉じられて前に屏風が置かれている。「帳」の西(左)ははめ殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿では、この位置には漆喰の白壁がある(年中行事絵巻、p.22下段、p.24上段)。南の庇は両側を鳥居障子で仕切っている。塗籠以外には壁が無いという寝殿も、決してただのオープンスペースではなく、実際にはこうした取り外し可能、移動可能な建具で仕切られている。 六波羅泉殿の障子多くの障子が史料上登場するのは平清盛の六波羅泉殿である(山槐記、治承2年11月12日条)。画像の範囲だけでも「ヤリト(遣戸)」、「シトミ(蔀)」「カウシ(格子)」「「カヘ(壁)」「スキシヤウシ(杉障子)」「シヤウシ(障子)」「アカリシヤウシ(明障子)」「トリイシヤウシ(鳥居障子)」などが出てくる。なお、「カウシ(格子)」と「シトミ(蔀)」が同時に出てくるが、格子状でない蔀が使はれていたのかどかはわからない。 史料大成19 『山槐記一』、内外書籍、1935、治承2年11月 p.162 子持障子鎌倉時代以降、蔀や舞良戸の内側に現在の障子に似た明障子がセットで用いられることが多くなるが、鉋が未発達で上下の溝を掘ることが大変だったために、ひとつの溝に二枚、三枚の明障子を填めることがある。これを子持障子という。太い桶に二枚の障子をいれると、召合わせ、つまり重なっていない方の端がガタガタしてしまうので、召合わせの縦框はそのままにして柱側の縦框をほぼ溝幅に合わせて作る。こうすると、明障子は外れることなく、引き違うことができる(高橋康夫1985、pp.103-104)。三枚のケースは奈良の十輪院の本堂正面にある。この場合は両側の障子は桶の外側、真ん中の障子は桶の内側で、両側の障子の柱側の縦框を溝幅に合わせる。真ん中の障子は左右どちらも桶の半分の幅である。そして通常はその左右に心張り棒を入れて真ん中の障子を外から開けられないようにしている。開けられるのは真ん中の障子だけで、そのときはどちらかの心張り棒を外し、そちらに開く。 奈良・十輪院の子持障子。外側は蔀である。 畳み、円座畳みは蓆を重ねて綴じたものであり、現在のもののように固くしまったものではなく、柔らかく弾力があった(小泉和子2015、p.45)。大きさは『延喜式』によると一位は6尺×4尺、二位は5尺×4尺、三位は4.6尺×4尺、四位から六位は4尺×3.6尺と大小様々だったようだが(太田博太郎1972、pp.120-121)、200年ほど後の『類聚雑要抄』には高麗畳の寸法に「長七尺五寸弘三尺五寸」とある(類聚雑要抄、巻4、p.596)。いずれにせよこの縦横比率は畳みの敷き詰めを想定していない。 畳みの種類で多いのは高麗縁と紫縁で、高麗には大紋高麗と小紋高麗があり、大紋高麗は親王・摂関・大臣。小紋高麗は大臣でない公卿。紫縁が殿上人である。最上級は繧繝縁(うんげんべり、うげんべり)だが、それが使えるのは天皇・皇后・上皇、神仏像と限られており、紫縁より下には黄縁とか縁なしなどもある。平安時代には畳みは単体で敷かれるか、せいぜいが二行対座ぐらいなので、この縁の種類でそこに座る者の位が表せた。しかし室町時代に畳みが敷き詰められるようになると畳みの側面が見えず、縁では位が表せなくなる。そこから出来たのが書院造の上段とも云われる。 重ねて綴じていない蓆も沢山使われ、儀式のときなどは床一面に蓆を敷き、その上に畳みを置いた。また儀式に限られるが高貴な者の通路として庭に敷かれることもある。例えば「亀山院御灌頂記」にはにこうある(続群書類従26上、p.312)。
円座は藺(い)、菅(すげ)などの葉を丸く組み、渦巻状にして縫いとじた円形の敷物である。菅円座が最高級とされた(小泉和子2015、p.49)。 塗籠、帳、帳代、帳代構、納戸塗籠田辺泰、『日本住宅史』(1935年) p.38より 「家屋文鏡」にあるテラス付きの家だと壁で囲われた夜の居所(寝室)と、昼間の居所であるテラスが王のスペース、そして臣下は地面と推定される。内裏で云うなら「夜御殿」(よるのおとど)と「昼御座」(ひのおまし)である。その形は延喜式に定められた大嘗祭(だいじょうさい)の大嘗宮にも見られる。その「夜御殿」と「昼御座」が母屋であり、それを庇で囲んだものが初期の寝殿である。その壁で囲われた、寝殿造の中では唯一部屋らしい部屋が塗籠と呼ばれる。防犯上ももっとも安全な場である。『源氏物語』にもタ霧が無理やり入ってきたため、落葉の宮が塗籍に避けた場面があるが、内側から鍵がかけられる。
内裏の清涼殿でも天皇は「夜の御殿」(よるのおとど)、つまり塗籠に寝ていたが、『長秋記』によると、堀河天皇までは塗籠に寝ていたが鳥羽天皇、崇徳天皇は塗籠に寝なかったとある。
帳『群書類従第26』収録の「類聚雑要抄」に永久3年(1115)7月21日に当時左大臣だった藤原忠実が東三条殿を相続し、そこに移ったときの寝殿の指図がある(類聚雑要抄、pp.540-541.)。その指図には本来寝室のはずの塗籠には何も室礼はなく、帳(ちょう)は母屋中央に設置されている。その脇には昼御座(ひのおまし)、南の庇にも御座がしつらえられている。 「類聚雑要抄巻第二」 『群書類従26』 1929、移徙・寝殿 帳とはL形の土居の上に柱を立て、上は絹張りの格子で覆い、周囲には帷子を垂らしたものである。天皇、皇后の場合は浜床という台を置くので、天蓋付きのベッドのようなものだが、一般には中に敷くのは畳み二枚と薄い敷き布団である。
「類聚雑要抄・巻4」 『群書類従26』 続群書類従完成会 1929、帳の図、p.582、p.583 障子帳(帳代)それから半世紀後の応保元年(1161年)12月。『山槐記』に二条天皇の中宮・藤原育子入内のときの飛香舎(ひ ぎょうしゃ:通称「藤壺」)の室礼がある。それによると母屋四間に帳台、同庇に昼御座を設置してはいるが、それは中宮としての格式を示す形式的なも ので、実際の生活の場は西端二間で、そちらに常御所(つねのごしょ)がある。そしてその入り口に脇障子が設えられている。これが障子帳である。 史料大成19 『山槐記一』、内外書籍、1935、p.232 『民経記』寛喜3年(1231)4月9日条によると、御所修理では若宮の寝所として、北面の「東向帳代」を北向きに改造している。この「帳代」は「帳台」の宛字ではなく「帳の代り」という意味で障子帳である。『民経記』の記載でみると、向きを改造したというのだから、移動できる障子帳ではなくて、固定されたものということになる(太田博太郎1972 p.148)。 押障子で紹介した『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間(松崎天神縁起、p.53下段)の、画像では右上の、有忠の妻の背後に見えるのが障子帳である。室内に単独で立てられたものではなく、既に建物に組み込まれている。黒い柱二本は漆塗りである。先に見た『枕草子絵巻』の鳥居障子の鴨居もやはり黒塗りだった。その二本の黒い柱の間に帷(とばり:カーテン)が下りる。二本の黒い柱の外側に細長い脇障子が填めてある。袖壁ともいう。入り口の敷居は床より1段高くなっている。妻が畳みの上で横になっているがその部分が寝室ではない。これは寝ているのではなく、寝室の外の居間で夫婦がくつろいでいる図である。妻は寝そべって歌を書いている。寝室は背後の障子帳の帷(とばり)の中である。 このように絵巻などに出てくる寝所の図に出てくる狭い小壁・脇障子は、固定された障子帳で、それを装飾化したものが書院造の帳台構であるという説を昭和25年(1950)に島田武彦が論文にし、現在ではそれが定説となっている(太田博太郎1972 p.149)。 その後の塗籠と納戸ただしその頃から誰も塗籠を寝室として使わなかったという訳ではなく、庶民住宅でも13世紀の『古今著聞集』にはこんな記述がある。
中世も南北朝の頃、観応2年(1351).の『慕帰絵詞』(ぼきえし)にも塗籠、または納戸構が出てくる(慕帰絵詞、p.70下段)。東三条殿の塗籠のように大きくはなく、立派な妻戸も無い。しかし蹴破ればすぐに侵入出来る襖などではなく、塗壁や板壁に囲まれ、小さな遣戸には中から環貫が掛かるようになっており、中の広さは四畳ぐらいで畳みが敷き詰められ、塗壁の下には副障子が張られ、守り刀と枕が描かれている。
塗籠は最も閉ざされたスペースで、元々金庫室と寝室を兼ねていた。塗籠から出て母屋に設置した帳(ちょう)に寝るようになっても、その帳が徐々に変化して、障子に囲まれた帳代(障子帳)となり、寝殿等の建具による間仕切りが進むにつれ、その帳代(障子帳)も間仕切りのひとつとして建物に作り付けになってゆく。一方で金庫室としての塗籠も完全に消える訳ではない。『高嗣記』嘉禎3年(1237) 正月14日条に見る近衛殿の小型の寝殿では、母屋を棟分戸で南北に仕切っているが、東側に「御帳」と「塗籠」が南北に並んでいる。「御帳」とあるのが作り付けになった障子帳である。 島田武彦「法住寺殿寝殿の北面御所について」(昭和26年11月)で の復原図より作成 『満済准后日記』には足利義教の寝殿に金庫室としての塗籠が「御小袖間」として出てくる。
「御小袖間」の小袖というのは着物の小袖ではなくて鎧兜のことである。「ク々ロ」というのは簡単に言うと鍵である。塗籠なのだが、云ってみれば宝物金庫室としての厳重な納戸である。その隣室には金庫室のガードマンとして武士がつめていたらしい(川上貢1967、pp.367-368)。ただしこの段階では元の塗籠「御小袖間」は母屋の東西どちらかの奥ではなく、母屋の北側、棟分戸の北に位置している。
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