武士の発生と成立  武士の在京勤務・北面の武士

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北面の武士は白河上皇以降、上皇・法皇の護衛の直轄の兵で花山天皇のとき、円融上皇の強い希望で武者所10人の弓箭携帯が花山天皇により認められた。これが武者所の始まりで、天皇に「滝口」として仕えた者が、その天皇が上皇になるとその上皇について「院の武者所」に移ったのだろうと。

白河法皇の頃、その武者所が、院の御所の北面を詰所としていたので「北面の武士」と・・・「北面」と言われだしてからの構成員は上・下に別れ、上(シャウ)は四位・五位の諸大夫層、下(カ、またはケ)は衛府・所司の允クラス、つまり侍階級です。上北面に詰めたのは、いわば院の直轄軍の司令官達と言えるでしょう。「北面の武士」と呼ぶ場合、どうやらこの北面上の間に詰めた者が中心なので、「北面の武士」でも上の間に詰めた者には誇るべき官職がありかつ五位以上の貴族です・・・

と書いたのは間違いでした。「院の武者所」と「北面」は別物で、更に「北面」は武士の詰所ではありません。北面とは、院御所の北面を詰所として、上皇の側にあって身辺の警衛、あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人を言い、上(シャウ)は殿上の2間が詰所ですから、院の殿上人。四位・五位の諸大夫層の廷臣が中心でしょう。五位以上ならこちら、ではなくてあくまで院昇殿を許された者ということかと。

「武士」が居たのは殿上ではなく、「下」(カ、またはケ)で御所の北の築地に沿う五間屋であり、こちらも「武士」だけではありません。院の下北面のメンバーは1119年(元永2)の晩秋から行われた白河院の熊野詣の供人から見ると、

  • 伊勢平氏の備前守平正盛(このとき正五位、この直後に鎮西平直澄追討の功で従四位下)
  • 石見守藤原守重(盛重とも) 良門流藤原氏で白河法皇の男色の相手の「御寵童」あがりとか
  • 平貞賢:惟茂流越後平氏 平維茂の孫で平繁兼の子、城貞成の従兄弟
  • 源季範:摂関家領河内国古志郡坂門牧を本拠とした文徳源氏(坂戸源氏)、源季実(すえざね)の父
  • 平盛兼:伊勢平氏盛兼流 平正度の子で平正衡の弟・平貞季の孫で父は盛兼
  • 源近康:文徳源氏(坂戸源氏)源季範の兄弟

1129年(大治4)年に白河法皇の死去のあと、鳥羽院・待賢門院に仕えたのは

  • 平忠盛 このとき正四位下で備前守
  • 平為俊:前駿河守 白河法皇の男色の相手の「御寵童」あがり
  • 藤原資盛:安芸守 藤原貞嗣流
  • 源佐遠(資遠(資道)):大夫尉 文徳源氏の源資遠(資道)
  • 藤原盛道(通):前述の石見守藤原守重の子
  • 平盛兼:検非違使
  • 源季範:前述の文徳源氏(坂戸源氏)、
  • 源近康(親安と記):前述の文徳源氏(坂戸源氏)

このほか

  • 清和源氏の源重時(鳥羽院北面四天王?)
  • 出家する前の西行、秀郷流の嫡流と思われる佐藤義清は平清盛と同年代
  • 朝家の守護源三位頼政も、彼が率いる嵯峨源氏渡辺党も代々「北面の武士」です。

当初は藤原氏の本拠地が院の北側にあったため、これに備える為に北面に配置されたと言う説もありますが違うでしょう。ただの想像かと。北面自体は武士の配置場所ではありません。北面の中の下北面のメンバーの中に武士もおり、それが北面の武士といわれたということです。

「保元物語」に見られるように院政期にも「滝口」が居ます、また「武者」と呼ばれる者もいますね。例えば滝口俊綱の父は山内首藤刑部丞俊通と呼ばれています。刑部丞は六位相当で、それでも滝口俊綱と呼ばれるより格上と。「滝口」も「武者」も官位は無かったが、しかし朝廷に仕える正式な武士と言うことなんでしょう。「武者」は武者所に詰めていた者なのでしょう。その武者所ですが、証拠は無いのですが「滝口」も正式には武者所かもしれません。

なお、『中右記』によると1118年(元永1)5月の山門大衆の強訴を鎮圧したときには,それら北面の武士らが自分の郎等を結集させて総勢千余人の軍勢となったと。