兵の家各流・平氏  貞盛・維衡流(伊勢平氏)

伊勢平氏(not平家)

平維衡

国香−貞盛−維衡−(子:正輔、正度)

藤原道長・藤原実資・藤原顕光の郎等

  • 伊豆守 佐渡守 『尊卑分脈』のみだが可能性は高い
  • 996年11月以降 一条天皇が藤原顕光娘の女御元子の為に焼亡していた堀川院を平維衡に修造させる
  • 前下野守 998年(長徳4)以前 『権記』長徳4年12月14日条 (後記)
  • 伊勢守 1006年(寛弘3)1月28日 2ヶ月たたない3月19日解任 『御堂関白記』
  • 上野介 1006年(寛弘3)〜
  • 1009年(寛弘6) 馬10匹 朝廷に献上
  • 1010年(寛弘7) 馬10匹 翌年 鞍具つき馬11匹を道長に献上
  • 前備前守(寛仁4以前)『左経記』寛仁4年5月26日条
  • 常陸介 1020年(寛仁4〜治安4)『小右記』12月3日条
    その前あたりが源頼信か。
  • 1025年(万寿2)『小右記』12月18日条 で後任の藤原信通が、前司維衡以往の常陸国内作田は僅かに300町で「人民飢餓」「国いよいよ亡弊」と赴任当時を報告。

『尊卑分脈』では、帯刀/上野常陸介(従四位上)/伊予 陸奥 出羽 伊豆 下野 佐渡守

 

藤原行成の日記『権記』 998年(長徳四年)十二月の記事にある、下野守維衡と散位致頼(良兼の孫。国香の弟良茂の孫とも)が伊勢国の神郡で私合戦
当時右大弁だった藤原行成が藤原道長に相談した政務上の問題のひとつで、行成は道長に、伊勢神宮司と国司に命じて二人を京に追い上らせるべきだ、と言上。朝廷は二人に召喚状を出し検非違使の庁に出頭させ詰問。合戦で有利だった致頼は非を認めず一方維衡は過状(詫び状)を提出し長保元年(999年)十二月、致頼が位をはく奪されて隠岐に流されたのに対し、維衡は位をそのままに淡路への移配。間もなく許されて京に戻り、その三年後には致頼も召還されて元の五位に復す。

『今昔物語集』によると、伊勢国で武芸を競い合っていた両者を中傷する者がいたことから合戦が始まったという。文庫本には収録されていない。

中世の説話集「十訓抄」には優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼と並んで挙げられている。 ウィキペディア 桓武平氏の系譜3

平正清(正輔)

国香−貞盛−維衡−正清−(子:正家、貞弘)−資盛−敦盛−有盛

忠常の乱のとき安房守に任じられるが赴任出来ず。

長元3(1030)年3月27日には安房守・藤原光業が忠常に追われ、国司・公権の象徴である国府の印鑑をも庁府に残したまま京都へ戻ってきた。このため朝廷は29日、平維時(上総介)の従兄弟にあたる平正輔を新たに安房守としたが、正輔は忠常を追討するには金がかかるとして五百石を要求。朝廷はこれを断るが正輔も引かず、頼通も正輔の要求を認めざるをえなかった。千葉介の歴史

争いはそれぞれの息子である正輔、致経へと受け継がれ。ちょうど房総で平忠常の乱があり安房国を追われた国司に代わって正輔が安房守に任ぜられたが、致経の妨害を受けたため赴任することができず、伊勢国内で合戦を続ける。
致経との合戦が朝廷での心証を悪くしたものか、正輔は伊勢平氏の本流からはずれ、正度の系統が台頭してきます。 桓武平氏の系譜3

平正清(正済)

正五位下・出羽守(尊卑分脈)

平貞弘

正五位下・出羽守(尊卑分脈)

平正家

従五位下・信濃守(尊卑分脈)

平敦盛

従五位下・薩摩守(尊卑分脈)

平有盛

従五位下・武蔵守(尊卑分脈)

平正度

国香−貞盛−維衡−正度 (子:惟盛、正衡、貞季)

『尊卑分脈』では、斎宮助、諸陵助、常陸介、出羽守、越前守、従四位下、帯刀長

「尊卑分脈」のこのあたりの記載は疑問が多い(橋氏)。この時代は貴族の日記があまり残っておらず、確認出来るのは越前守が最終官だったことのみです。

正度は越前守になっており、子息の維盛・季衡・正衡らも、検非違使を経て受領に任ぜられ、中央では南都北嶺の強訴鎮圧に活躍しています。同時に、伊勢はもちろん伊賀や尾張まで勢力をのばし、おのおのが国内の地名を名乗り、本拠地における勢力基盤を強固にしていました。そして、在地の人々との主従関係をテコに、伊勢平氏の武士団を形成していったのです。
 とはいえ、この頃はすでに前九年の役・後三年の役を制した源頼義やその息子の義家が圧倒的な武名をはせており、伊勢平氏などは源氏の影に隠れた存在でしかありませんでした。義家が「天下第一武勇之士」とたたえられ、諸国の百姓から貴族並みに荘園の寄進を受けていたのに対し、平氏一族は内裏へ乱入した熊野先達を捕らえたり、盗賊を追捕して位を上げるといったことが関の山でした。 桓武平氏の系譜3

「諸国の百姓から貴族並みに荘園の寄進を受けていたのに対し」は違います(元木泰雄)。それ以外はその通りでしょうね。

 

平惟盛

国香−貞盛−維衡−正度惟盛−(子:宗盛、貞度、盛基)
駿河守・従五位下(尊卑分脈)

平宗盛

国香−貞盛−維衡−正度惟盛−宗盛
上総介・従五位下(尊卑分脈)

平貞度

国香−貞盛−維衡−正度惟盛−貞度−盛房−業房−業兼−業光
従五位下(尊卑分脈)

平業房

相模守、木工頭、左衛門佐・正五位下(尊卑分脈)
妻:従二位高階栄子
ちょっと色違い。高階栄子との子業兼は治部卿従三位、教成は中納言正二位(藤原実教卿為子と注記あり) 

平盛基

国香−貞盛−維衡−正度惟盛−盛基(子:盛時、貞時)
帯刀長、信濃守・従五位下(尊卑分脈)

平盛時

国香−貞盛−維衡−正度惟盛−盛基−盛時−正時
伊予守(尊卑分脈)

平正時

伊予守(尊卑分脈)

平貞時

国香−貞盛−維衡−正度惟盛−盛基−貞時
美作守(尊卑分脈)

平正衡

国香−貞盛−維衡−正度−正衡−正盛忠盛清盛

「尊卑分脈」では検非違使、出羽守。これは『本朝世紀』1099年(康和1)1月23日の除目にあるので確か。

 しかし、この頃、前九年の役・後三年の役を制した源頼義やその息子の義家が圧倒的な武名をはせており、伊勢平氏などは源氏の影に隠れた存在でしか無かった。義家が「天下第一武勇之士」とたたえられ、諸国の土豪から貴族並みに荘園の寄進を受けていたのに対し、平氏一族は内裏へ乱入した熊野先達を捕らえたり、盗賊を追捕して位を上げるといったことが関の山だった。 桓武平氏の系譜3

 

正衡も兄弟の駿河守維盛や下総守季衡と同様、出羽の国守を務め たほか、検非違使として京の治安維持や御所の警備に当たる。 桓武平氏の系譜4

 

平維繁(,惟繁,惟重)

[父、平正弘]伊勢平氏
康治元年(1142)検非違使左衛門尉。久安7年(1151)1/7、従五位下。仁平2年(1152)崇徳院御所に押入った源満義を捕縛。(右衛門大夫)保元元年(1156)7月、保元の乱に崇徳上皇方で判官代。散位。敗戦。7/30、大江山辺で源義康により斬首 平家方人物辞典