武士の発生と成立 石井進氏に始まる国衙軍制論 |
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石井進氏の「武士団とは何か」
ここでは先の安田元久氏と同じ、小学館『日本歴史7巻 院政と平氏』 と同じ年1974年に同じシリーズの後続として石井進氏が担当された『第12巻 中世武士団』 の「武士団とは何か」という章から見ていくことにします。
のっけから安田元久氏らの在地領主論に対する疑念が飛び出したのは、このページが、安田元久氏の在地領主論 VS 橋昌明氏の武士職能論の次ぎにあたるかという私の都合であって、決して石井進氏がそう書きだしている訳ではありません。 前のページでちょっとだけ引用した石井進氏の一行は実はこのページへの「韻」であった訳です。ここでは前後も含めてちゃんと引用しましょう。
どうも当時の歴史学会は西洋史での歴史の段階、「古代」から「封建制=農奴制」というステップから自由ではなかったようです。
かといって職能論に偏する訳でもなく・・・・
私は石井進氏いうところの「今後の検討」である下向井龍彦氏や橋昌明氏、そして元木泰雄氏らから読みはじめて、そのあとにこの石井進氏の論文を読むという逆のコースを辿った訳ですが、そうした私にとってはこの引用の最後の部分は実に新鮮であり、また現在の論争の問題点をも鋭く突いているのではないかとすら思ってしまします。 もうひとつ、石井進氏は武士の身分について述べておられ、その先にある国衙軍制論ははとても有名です。 国衙軍制が何故論点に石井進氏が『中世成立期軍制研究の一視点・・国衙を中心とする軍事力組織化について』を「史学雑誌」78編12号に発表したのは1969年12月のこと。その論文に若干加筆されたものが『鎌倉武士の実像−合戦と暮らしのおきて』の中の冒頭、「中世成立期の軍制 1.国衙軍制の実態」として収録されています。『鎌倉武士の実像』は現在文庫本になっていてとても買いやすい本なんですが、実は「専門書」なんですね。私は未だに消化不良です。 しかしその書の最後の章に、1983年の「国際アジア・北アメリカ人文科学会議」の発表された「中世武士とはなにか」が収録されいます。そこではここでのテーマ、国衙軍制論とその周辺のポイントが非常に簡潔にがまとめられています。『鎌倉武士の実像』を読むときは、最初にその最後を読んだ方が解りやすいかもしれません。 冒頭に参照した、小学館『日本歴史 第12巻 中世武士団』 の「武士団とは何か」という章でも、実は「地方の軍事制度と武士団」についての説明をされています。 何故「地方の軍事制度」が問題とされるのかと言うと、坂本賞三氏の前期王朝国家の中でも引用した、戸田芳実氏の対談での以下の発言に関係します。実は国衙軍制論では戸田芳実氏は石井進氏の先輩にあたるらしいのです。
これも既に引用したものですが、現在の武士職能論の最左派高橋昌明氏も『武士の成立 武士像の創出』で、
とおっしゃっているのは既に見たとおりです。 武士の発生源とその認知方法について、武士の発生源について現在は高橋昌明氏が一番熱心にまとめておられますが、後者の認知方法の問題を初めて意識的に取り上げたのは戸田芳実氏と石井進氏だと思います。その「武士」の認知が、地方においてはどのようになされていたのか、という問題がここで取り上げる国衙軍制論です。 ちなみに石井進氏の国衙軍制論、と言うか後で出てくる「館の者共」「国の者共」「地方豪族軍」の図式はこの関係、この周辺の本には必ずと言ってよいほど出てきます。 石井進氏の国衙軍制論ここでは石井進氏を中心に見ていきたいと思います。『鎌倉武士の実像』の冒頭、つまり「中世成立期の軍制 1.国衙軍制の実態」の書き出しはこう始まっています。
おことわりしておきますが、石井進氏も書かれているとおり、あくまで「地方においては」であり、中央とはしばらく切り離して考えていくことにします。 地方軍制の図式化石井進氏は『今昔物語集』巻第25の第9 「源頼信の朝臣、平忠恒(忠常)を責めたる語」にある平忠常の乱の前哨戦を例に、次ぎのような図式化を行いました。
最後の「地方軍制の変動の方向」は1983年の「中世武士とはなにか」の中のものですが、ほぼ12世紀中頃から頼朝挙兵の頃までと考えるとしっくりくるのではないでしょうか。それについては別に触れることにします。 「館の者共」上の図のa a’ と B の3種類ですが、実はこれは「軍」の構造だけではなく、当時の国衙の内容にまで踏み込んだ話しとなります。「庁(国衙)」と「(国司)館」がこの時代では同じ建物であること。これは既に「10世紀以降の国ノ人・館ノ人」のページの最後「建物としての「国庁(国衙)」と「国司館」 」で触れました。石井氏はこの図の中では「館の者共」は「京下りの側近・受領の郎党」と、国衙に詰めている「在庁官人・書生」の両方を含めてとらえられています。 尚、1969年段階の「国衙軍制の実態」p57の図には本当はa a’までは書かれていなくてこの2つは1983年の「中世武士とはなにか」の図に加えられたものですが、文章では1969年段階から両者を含むものとして説明されています。 「国の者共」それに対する「国の者共」は常時は国衙に詰めてはいないが、国司の命令で動員出来る国侍となるのでしょうか。やはり『今昔物語集』ですが、巻第25第5話の 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」にある「国の内の然るべき兵共」もそれにあたります。また「春記」にある1039年(長歴3)10月7日に三河守経相が京で死んだとき、「彼国宿人等並国侍等」が在京していて葬儀が終わったあと国に帰ったと言うこれまた有名な記載を紹介されています。 「国侍」については、この語の見える資料は実に少ないらしく、吾妻鏡1187年(文治3)4月23日の条にある「周防の国在庁官人等」の訴えで「何ぞ況や居住の在庁・書生・国侍等の家中を服仕せしめて、公役に勤仕せしめず」と、「国侍」が「在庁・書生」と併記されているのが見えるだけなんだそうです。 地方豪族軍そして地方豪族軍は国司(受領)とほぼ同等の位にある豪族です。例えばこの例での左衛門大夫平惟基(平維幹)は官職として左衛門府の官人(名目ですけど)、位階は従五位下で源頼信とほぼ同格の貴族です。源頼信は常陸国の受領ですから、平惟基にとって目上にはあたりますが、しかしそれは斜め上であって配下になっている訳ではありません。そこから地方豪族軍として常陸守(常陸介の軍」と並列におかれる訳です。 「国の者共」も多分平惟基と同じような地方豪族ではあるものの、国守・国衙の指揮下にあるものであるに対し、この図での地方豪族軍は国守と肩を並べるほどの大豪族で、国衙の指揮下には無いものです。『今昔物語集』巻第25の第9話の敵方、下総国の平忠常もこの地方豪族軍になりますね。 常陸国における平惟基は、実のところ国守(受領)を上回る勢力を全国の中でもちょっと異質かもしれません。それが常陸守のが国衙を通じて集めた2千人に対して、平惟基は3千騎という圧倒的な違いとして現れます。これは2対3ではありません。方や「人」、方や「騎」ですから普通に考えると騎馬武者1騎に対してその馬を引く従者(戦闘員とは限らない)が1〜2名はつくので平惟基は受領源頼信率いる国衙軍の少なくとも3倍はいたことになります。尚、比率についてはいつも参考にしますが人数については信用していません。 国(=地方)における武士さて、そのうちの国衙の「軍」について、国衙内の組織と、国内の武者の把握がどのように行われていたのかについて、石井進氏は以下の2つを述べています。 健児所(こんでいしょ)「平安時代の時代背景」の冒頭で「律令時代の軍制」で「徴兵制も事実上無くなり、実は律令時代の日本は(792年(延暦11)以降)常備軍を持たない変な国」になったと書きましたが、実はそれを正確に見ると、「一般公民を徴発する軍団制・兵士制から、軍事層のみに制度的武力を公認し、彼らを国衙など重要拠点に結番させる健児(こんでい)制への転化」(p29)だったと言います。と言っても古代の地方支配は国司の監督のもとで実質的には郡司・郡衙が担っていたので実際には、郡司子弟と一般公民の徴発であったものを、一般公民の徴発を止めて郡司子弟だけで国衙の防衛に従事させたと言うのが実態。その数は国の大小によって30〜200人程度とか。国衙の守衛ならそれで十分です。 ただその健児制の実態についてはあまり解らず、少なくとも石井進氏がこの論文を書いた頃には早くに廃滅したと考えられていたと考えられていたそうです。しかしその痕跡は鎌倉時代の末期にまで見られるそうです。 健児(こんでい)所関係の資料として石井進氏があげているのは以下の古文書です。
掌断片的ながらこれらの古文書から国衙内の「所」ようするに部署として健児所が重要な位置を占めており、それがまた「検非違所」や「検断」(警察・検察機構)と並列・連称される例が多いこと、それが国衙の収取(要するに武力を背景とした強制的・暴力的な税の取り立て)を行っていることに注目され、「健児所」が国衙在庁の軍事・警察機能の主な担い手であり、また国衙には「将門記」に見えるように大量の武器が貯蔵されていたはずだとされています。 国衙の「譜第図」「胡簗注文」と武士の公事この『今昔物語集』を例とした、先の図のような大がかりな動員はそう滅多にあるものではないので、平時の動員は
などであり、それが「武士」「兵(つわもの)」「武者(むしゃ)」の任務です。そして誰を武士と認識して動員したのかと言うと、国衙には武士の登録簿、台帳があったのだろうと言うことになります。 鎌倉幕府成立の当初、特に西国で一国内の武士や御家人の名簿を国衙に提出させたことがあります。しかしそれはすくなくとも鎌倉幕府以前の平安時代後期には行われていたことで、その傍証として
となると、武士が単なる在地領主が自然発生的に武装したものではなく、公的に武士としての公事(くし)を勤めるべく定められた家の者と言うことになりますね。 もっともこのプロセスは国衙が「弓箭の輩」を育てた訳でも養っている訳でもなく(課税軽減ぐらいはあったでしょうが)、既にある「弓箭の輩」を招集し、指揮下に置いたと言うことなのでそれほど強固なプロセスとは言えないと思います。 「家の子郎党」の「家の子」に対しては極めて絶対的な権力を持っていますが、「郎党」に至っては「終身雇用の正社員」もいれば、契約社員、嘱託、下請け企業(協力会社)までも居ると言う訳です。まあ建設業界の元請企業が受領だと思っていれば当たらずとも遠からずです。100人が働く建築現場で元請企業の社員(現場監督)は1/10ぐらいですかね。 「館の者」と「在庁官人・国人」余談ですが「館の者」と「在庁官人・国人」という分け方をするとこうも書けます。これは『城と館を掘る・読む−古代から中世へ』(佐藤信 五味文彦編:山川出版社)に収録されている鐘江宏之氏の「平安時代の国と館」にある図です。これについてはまた。
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