鎌倉七口切通し           大手中路

 大手中路・永福寺から野七里へ 

上道、中道、下道と言うのは固有名詞ではありません。また、鎌倉7口と言われだしたのは江戸時代からです。7口と言うのは京七口の語呂合わせでしょう。大仏坂は怪しげだけど、鎌倉7口に数えられていない小坪坂も鎌倉時代、あるいはそれ以前からあったかもしれません。
もうひとつ。おそらく頼朝以前からあり、頼朝もそれを重視し、かつ少なくとも鎌倉幕府滅亡のときまで関所があり武士が詰めていたと言われる道があります。そう言っている研究者は藤原良章氏おひとりだけで、それも正確には「もしかして」ですが。

藤原良章氏編『中世の道をさぐる』(高志書院) 2部「中世の道探訪」

奥州攻めの鎌倉の3軍

さて、ことの発端は1189年の奥州攻め。頼朝の軍は鎌倉から3方向に軍を進めます。

吾妻鏡 1189年 (文治5年)7月17日
 奥州に御下向有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手に相分けたるべしてへり。所謂東海道の大将軍は千葉介常胤・八田右衛門尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具し、宇太・行方を経、岩城・岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡りて参会すべきなり。北陸道の大将軍比企籐四郎能員・宇佐美平次實政は、下道を経て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種関に出て、合戦を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山次郎重忠たるべきの由これを召し仰す。

よく、上道、中道、下道と言いますが、『吾妻鏡』のこの条に出てくるのは「下道を経て」だけです。それもその軍は比企能員(よしかず) 、宇佐見実政(確か中村一族だと)率いる北陸道軍で、上野国の御家人を動員して越後から出羽に進みます。そのルートは一般に言う「上つ道」でしょう。鎌倉時代に鎌倉中から武蔵府中に抜ける道が武蔵大路と呼ばれて、気和飛坂(化粧坂)を越えたと推定されますので、おそらくはそのルートと考えておいて大きな間違いはないかと。

東海道軍は千葉常胤が下総、八田知家が常陸の御家人を率いて、おそらくは六浦口から東京湾沿いと藤原良章氏は推定されます。

問題はその次です、畠山重忠を先陣とする頼朝本隊。これが何処を通ったかと言うと吾妻鏡文治5年7月17日の条に「二品者大手自中j路」 とあります。「二品」とは官位の二位の唐名で、頼朝のことを指します。頼朝は1185年に従二位、奥州攻めの年1189に正二位になっています。

永福寺と二階堂釘貫役所


永福寺跡

さて、藤原良章氏は頼朝の中央軍が「中路」というのはその通りとして、それに「大手」と付いていることに注目します。 「大手」とは城などの正面です。江戸城の正門が大手門、その外の街が大手町です。さて鎌倉・頼朝にとっての大手が何処なのか。そこで藤原良章氏が着目されたのが永福寺(ようふくじ)です。

吾妻鏡 1189年 (文治5年) 12月9日
・・・・今日永福寺の事始めなり。奥州に於いて泰衡管領の精舎を覧せしめ、当寺華構の懇府を企てらる。且つは数万の怨霊を宥め、且つは三有の苦果を救わんが為なり。抑も彼の梵閣等宇を並べるの中、二階大堂(大長寿院と号す)有り。専らこれを模せらるるに依って、別して二階堂と号すか。

この永福寺は奥州攻めの後、頼朝が攻め亡ぼした義経や奥州藤原氏の怨霊を恐れて建てたものです。 何故永福寺(ようふくじ)があの場所なのか。

その時代、悪霊や亡霊は人間と同じように道をつたってやってくると信じられていました。だから道祖神は道端に建てられているのです。古来から神社や寺も道に面して建てられています。

すると奥州の亡霊がやってくる道はどこか、それは奥州攻めの本隊が通った道でその道を守る為に永福寺を建てたと言う藤原良章氏の推理はかなり説得力があります。つまり畠山重忠を先陣とする頼朝本隊は永福寺跡の前を通ったのではないかと。そして永福寺跡のある二階堂には、その位置は特定出来ないにしても関所が在ったと。
これは「石川光隆着到状」と言うのがあって陸奥の国の武士であったが「軍忠を抜きんずるにより手負い仕り・・・7月15日参上を企て、二階堂釘貫役所(一種の関所:注)に勤仕するところなり」とあるそうです。また「鎌倉遺文」の中に鎌倉幕府が滅んだ年、元弘3年10月に「政綱警固覆勘状」と言うのがあって「二階堂三辻役所警固の事、・・・」とあるそうです。まず同じところだろうと。

あのあたりで関所と言えば二階堂(永福寺跡)から南へ真っ直ぐ現在の鎌倉宮の脇を通り荏柄神社の参道を横切り、六浦道に出たあたりに後北条氏(戦国時代)の關取場跡がありますが、ここは二階堂とは言いません。
吾妻鏡には1231年(寛喜3年)と1252年(建長3年)に「二階堂大路」と言う道が出てきますが、それは従来言われていた永福寺への道ではなくて永福寺に守られて、その前を通り、永福寺の端の三筋(根拠無し、私の想像)にあったゲートウエイ(釘貫役所)を通って天園・鎌倉霊園方面に到る道ではなかったかと。
すると永福寺はファイアウォール釘貫役所をすり抜けてきたHTTPパケットに隠れるハッカーさんの(目に見えない亡霊)不正侵入を防御する為のIDS? う〜ん、こう考えると思いっきり納得できるで御座います。

注: 『和製漢字の小辞典』4画 39【椚】
「クギヌキ」は『旺文社古語辞典』などに「【釘貫】門・柵の一種。柱を立てならべて横に貫を通した簡単なもの。町の入り口にたてた木戸」とある。

寛喜3年1月14日条 「大倉観音堂西辺下山入道家消失。依余焔唐橋中将亭、丼故左京兆旧宅、及二階堂大路両方人屋等焼・・」
建長3年10月7日条 「天睛、薬師堂谷焼亡。延二階堂大路」 (あ〜漢文て打ちにくい!)

もうひとつ藤原良章氏が着目されているのは「東光寺」です。「東光寺」と言う名を持つ寺がいわば幹線道路の傍にあり、確証は無いもののそれが中世に遡る道を示す手がかりになりはしないだろうかとされます。その東光寺は鎌倉ではちょうどこの二階堂大路の側ら、現在の鎌倉宮の位置にありました。それらのひとつひとつ単独では確たる証拠となりうるものではないのですが、それらが重なってくると「これはもしかして・・・」と思えてもきます。

藤原良章氏の論文によれば明治時代の地形図に村道で馬や牛(駄獣)が十分通れる小道より上のクラスの道が記載されているそうです。その地図のページも本に載っているんですが、本の印刷では正確にトレースが出来ません。ただ、永福寺跡から当時の尾根に登る道は現在のハイキングコースではなく、その途中から東に回る地元民にしか知られていない道の方ではないかと思います。ハイキングコースの方は馬で通るのはちときついところがあるので。

そこでその明治15年の地形図(フランス式2万分の1地図)を国土地理院から入手しました。日本で初めてヨーロッパの近代的な測量法で作成されたものです。これ以前には正確な地形図は存在しないため、鎌倉の地理史を研究される方は必ずこの明治15年の地図を使います。現在の2万5千分の1地図では宅地造成やら道路や鉄道でまったく地形が変わってしまっているところもありますが、この明治15年の地図では、横須賀線はおろか、東海道線すらまだ出来ていない時代。近代化以前の江戸時代末期の地形、道と思ってまず間違いはありません。

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もっとも普通に見ていると、どちらも点線の道にしか見えないのですが、拡大してみると・・・・、やっぱりその道が実線の道より格上の、実線と点線の2本で書かれた道になっています。あの道が? ほんとかよ! いや、私の想像は当たってはいたのですが、しかし現状では点線の道ぐらいです。

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後の中道は亀ヶ谷坂、巨福呂坂から山内(北鎌倉)、大船の離山(うちから大船駅に行く道だ・笑)・日限地蔵(ひぎりじぞう)・柏尾・東戸塚を経て大池公園への道ですが、頼朝当時は亀ヶ谷坂、巨福呂坂は軍馬が通れるほどとは思えず、こちらの二階堂大路こそが武蔵の国を通過して東山道に抜ける道と言うのも在りそうに思えます。確かにあそこも切通しです。そしてもしそうであれば、その道は当然頼朝が切り開いた道などではなく、それこそ大伴家持の頃から相模の国(鎌倉)を中継基地とした大和朝廷奥州支配の軍事政治道路だったのかもしれません。そして頼朝が1180年に大軍を率いて鎌倉に入ったのは稲村道ではなくてこの大手中道だったのかも、とまで思えてきます。

ここまでが藤原良章氏が『中世の道をさぐる』(高志書院)に「中世の道探訪」として論述されているところです。この説のちょっと弱いところは尾根を越えた先はどこなの? ってことです。

野七里

藤原良章氏は円海山方面に抜けたのではないかと。地形的にはそれは十分ありそうです。と言うか、私はよくそのルートを走っています。人の居ないときにですが。そのルートは今はハイキングコースとなっています。しかしその円海山ルートを、奥州攻めの3軍のどれかが通ったとしたら、それは頼朝の「大手中路」本隊よりも、下総・常陸を本拠地とする千葉常胤や八田知家らの東海道軍の方が可能性は高くなるのではないかと。六浦から船ならばともかく、鶴見経由で陸を行くのならですが。

大手中路が二階堂大路の先からつながっていたとしたら、その道が何処に通じていたのかを解くカギのひとつは「野七里」ではないかと私は思います。七里と言うと七里ヶ浜ですが、あれは「浜七里」と言って鶴ヶ岡八幡を起点にして海側の七里、腰越までです。その腰越が鎌倉(頼朝にとって)の精神的結界です。もう一方が「野七里」でその位置は永福寺跡から天園方面に山を登り、現在の横浜霊園から下った上郷にその地名があります。そのルートが頼朝時代の主要道路(大道、大路)でなければ、そこに七里の結界を定める謂われがありません。七里の結界というと空海の高野山が有名ですね。

敬って十方諸仏、両部大曼荼羅海会の衆、五類の諸天および国中の天神地祇、ならびに此の山中の地・水・火・風・空の諸鬼等に白さく。 諸々の悪鬼神等、みなことごとく我が結界のところ七里の外に出て去れ、正法を護らん善神鬼等の我が仏法の中に利益あらん者は意に従って住せよ。( 『空海の夢』ノート

似たようなものに四角四境祭がありますね。こちらは陰陽道ベースですが。

「浜七里」の外側が腰越です。義経が鎌倉に入れてもらえず、腰越状を書いて懇願したというまさにその腰越ですね。日蓮が首を切られそうになったのもこの腰越。実際に切られた人も沢山居ます。桐生の六郎もそうですが。

吾妻鏡 養和元年9月16日 (その実寿永二年(1183)かと)
桐生の六郎 俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。

ところで今ではリンク切れになったページに、数年前の歴史雑誌にある「“七里”ケ浜の真意」のという記事があったとのことです。

鎌倉と隣接する横浜市栄区に「野七里」という地名がある。地図で見ると、鶴岡八幡宮を中心に北東に野七里、南西に七里ケ浜がある。・・・二カ所は明らかに鬼門の艮(うしとら=北東)と裏鬼門の坤(ひつじさる=南西)の方角に位置する。つまり二つの七里は仏説の「七里結界」(魔障を防ぐ境界)を想定した「野七里」と「浜七里」の名残なのだ・・・

と言うのを投稿したのは小上馬さんじゃないでしょうか? 私は小上馬さんが同じ様なことをNC誌に書いているのを読んだことがあります。

で、お会いしたときに聞いてみました。野七里が鎌倉を起点としたという何らかの証拠があるのかと。残念ながらそれは無いそうです。

証菩提寺への道

もうひとつ、上郷に、源頼朝建立といわれる証菩提寺 があります。その門前にある栄区役所の案内板によると、この証菩提寺は、石橋山の戦いのさなか頼朝を逃がすために俣野景久と戦い、戦死した三浦一族の若武者・佐那田与一忠義の供養のためにこの寺を建て、合わせて忠義の霊に鎌倉の鬼門(災難の来る方角)を守ってもらう意味もあり、1189年に完成したとか。

この証菩提寺、元々は阿弥陀仏の漢訳の無量寿を寺号としていたそうですが、佐那田忠義の父で、三浦義明の弟にあたる岡崎義実がこの地に住んでいたのでしょうか。その死後、岡崎義実の法名証菩提から、証菩提寺と呼ばれるようになったとあります。『吾妻鏡』での登場は1215年(健保3)5月12日条に「将軍家(実朝)、証菩提寺に参らしめたまう。これ密議なりと云々」とあるのが初出。次ぎが1250年(建長2)4月16日条で、ここでその由来が記されます。

1250年(建長2)4月16日条
山内の証菩提寺の住持申す当寺修理のこと、清左衛門尉満定奉行として、今日その沙汰有り。早く損色を召し、土木の功を成すべきの由、仰せ出さる。これ右大将家(頼朝)の御時、佐那田の余一義忠が菩提を資けんがために、建久八年(1197年)建立の後、雨露相侵すと雖も、未だこの式に能わずと云々。

ここで、お寺の古文書と合わなくなっちゃうんですね。ただし「佐那田の余一義忠が菩提を資(たす)けんがために」は「佐那田の余一義忠の菩提を弔って岡崎義実が堂を建てていたが、頼朝が自分の命の恩人である余一のその菩提を助けるために」とも読めます。つまりそこで既に菩提が弔われていたと。そしてその建久八年(1197年)に頼朝が建立した建物が老朽化して「雨露相侵」が激しいから修理をすることになったと。

しかし「忠義の霊に鎌倉の鬼門(災難の来る方角)を守ってもらう意味」は『吾妻鏡』にではなく、お寺の古文書、あるいは鐘の銘文あたりかなのでしょう。残念ながらその出典まではしらべられません。しかし、おそらくは江戸時代からの道を示しているであろう明治初期の地図、永福寺の位置づけ、鎌倉末期における釘貫役所(関所)の存在、そして野七里、この証菩提寺から、それをつなぐ道を推定できるのではないかと思います。

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もうひとつ。証菩提寺のあたりからも北へ武蔵の国に抜けられたはずですが、いたち川沿いに柏尾川まで行き、そこから北へ道を想定してみた理由は、奥州からの帰りに頼朝は田谷の洞窟のある山が見える場所を通っているからです。これですね。目の前を通ったのか、遠くに眺めたのかは解りませんが。

1189年(文治5)9月28日条
御路次の間、一青山を臨ましめ給う。その号を尋ねらるるの処、田谷の窟なりと。これ田村麿・利仁等の将軍、綸命を奉り征夷の時、賊主悪路王並びに赤頭等、寨を構えるの岩室なり。その巖洞の前途、北に至り十余日、外浜に隣るなり。坂上将軍この窟の前に於いて九間四面の精舎を建立す。鞍馬寺を模せしめ、多聞天像を安置し西光寺と号し、水田を寄付す。寄文に云く、東は北上河を限り、南は岩井河を限り、西は象王岩屋を限り、北は牛木長峰を限るてえり。東西三十余里・南北二十余里と云々。

その先は戸塚、そして畠山重忠が死んだ武蔵国二俣川をとりあえず想定してみます。

今泉不動への道

二階堂から鎌倉の外へ出る道をもうひとつ推測することが出来ます。明治初期には牛馬が通れる道(軍馬に騎乗して通れる道)として記載されています。途中までは同じ道ですが、ちょうど天園のお茶屋さんの西側から、現在のゴルフ場を通り、今泉不動・称名寺に抜ける道筋です。

寺伝によれば、今泉不動の草創は弘仁9年(818年)頃で、弘法大師が・・・、というのは例によって例のごとしで信用はできませんが、「建久3年(1192年)頼朝が征夷大将軍 に就任の年「上野村白山社家系中納言法師の弟子寂心法師」が寺を開き、密教に属し 頼朝も深く信仰していた。(称名寺の縁起)」あたりは・・・、もしかするとありそうに思います。

そこからちょっと下流に白山神社があります。鎌倉国宝館の同名のパンフレットのp52にこう書かれています。

鎌倉時代以前の作例には杉本寺十一面観音像・証菩提寺阿弥陀三尊・白山神社毘沙門天像などがある。

証菩提寺の阿弥陀三尊はよそからもってきたもの。白山神社毘沙門天像と言うのは「兜跋毘沙門天立像」で、頼朝が鞍馬寺から請来したと伝えられています。ただし真偽のほどは不明。

ところで、上の地形図を見ると、普通の人はこんな山の中になんで道がと思うかもしれません。それも尾根筋に。確かに現在では道は谷筋を通っています。しかしそれは土木工事が発達したこと。またその谷筋に現在では多くの民家があるからです。そこにほとんど人手が入っていないとしたら? ハイキングコースを考えてください。尾根道は案外多いのです。尾根は案外安定しています。崖崩れで道が塞がれるということは尾根道にはありません。しかし谷筋ではしょっちゅう。おまけに谷筋は斜面か湿地。ですから先にあげた明治15年6月測量のフランス式地図でも尾根沿いの道の方が多いのです。

もうひとつは、道になりやすい地形とは、標高ではなく、斜面の斜度です。私が亀ヶ谷坂に疑問をもっているのはその斜度。今では相当に切通していますが、それでもかなりの傾斜。あの頂上まで登ったとしたら、そうとう道が迂回していなければ、馬に俵を乗せて登るなど至難の業に見えます。そういう点で、この二階堂から北の道は比較的なだらかに上り下り出来るのです。もっとも現在では宅地開発にゴルフ場で、明治15年の道をそのまま辿ることは不可能ですが。

山内道路

ところで『吾妻鏡』に出てくる七口関連の工事の記事は1240年 (仁治元年) 10月 10日条の「山内道路」と、1250年 (建長2年)6月3日条の「山内并六浦等道路」です。この「山内道路」がいったいどのルートのことなのかははっきりしません。一般的には「巨福呂坂切通」と見る説が有力ですが、これは1250年 (建長2年)の方が北条時頼の指示であり、その直後に建長寺の工事が始まっているためでしょう。

それについては既に「亀ヶ谷坂切通」「巨福呂坂切通」「粟船山常楽寺」に書きましたが、ポイントは、それが北条泰時の別業(おそらく常楽寺近辺)から、後には北条時頼の山内亭(明月院近辺)からの鎌倉中への道だということです。そしてそれ以前は「これ嶮難の間、往還の煩い有るに依ってなり」(吾妻鏡 1240年(仁治1年)10月19日条)という状態で、とても頼朝の奥州攻め本体が通ったとは思えません。北条泰時の別業は先の地図に泰時館と書き入れておきました。実際には常楽寺の位置ですが。北条泰時がそこに別業を設けて以降、山内路(巨福呂坂、または亀ヶ谷坂)が発展して山内荘からのメインルートとなったとしても、頼朝の時代にそこが山内荘からのメインルートであったとはとても考えにくいのです。

そうそう、こういう問題で誤解を招きやすいのは、現在山内というと円覚寺近辺の地名ですが、平安時代末期から鎌倉時代にかけての山内は鎌倉の尾根の外側で、北は武蔵国の境まで、つまり今の戸塚までも含んだ広大なエリアを指します。また、巨福呂=小袋谷は建長寺のあたりだけではなく、建長寺から大船駅、柏尾川までのエリアのことです。

2005.1.30記  2008.07.01-07更新