鎌倉七口切通し 大仏坂切通し |
ここは如何にも古道と言う趣が有って好きなところです。私はアプローチが自転車なので最初はそのまま担いで行きましたが、2度目からは入口に自転車を置いて、徒歩で往復しています。歩いて往復してもそれほど時間はかからない距離です。 大仏切通しの歴史この大仏切通しの歴史ですが、朝比奈、亀ケ谷坂、巨福呂坂の切通しと同じ年代頃と言う説もありますが、それはそれら記録に出てくる他の切通しと多分ここも同じ頃に、という想像の域を出るものではありません。 文献上の初出は「新編鎌倉志」でそこに鎌倉七口として初めて登場しました。「新編鎌倉志」は江戸時代初期に水戸光圀が編纂させた鎌倉のガイドブックで、鎌倉七口や鎌倉十橋などはこの「新編鎌倉志」によって選定されたものです。 その「新編鎌倉志」にはここ大仏切通しは「古へは深沢切通とも唱へけるといえり」とあり、ここで「切通し」とあるので、江戸初期までにはそう言えるものがあったと言うことになります。 現在の大仏坂切通しは如何にも古道らしい、鎌倉時代にあってもおかしくないような趣があり、私もとても好きなところですが、しかし現状から鎌倉時代の姿をうかがい知ることはできません。 この大仏坂切通しについて確実と思われるのは、現在我々が見る姿は実際には明治12年(1879年)から翌年にかけて工事されたものだと言うことです。 鎌倉市の市制三十周年記念に発行された「図説鎌倉回顧」に有島生馬が明治十八年の大仏切通の様子を述べていて、そこにはこうあるそうです。
今はとても人力車が走ったとは思えない状態ですが、その後の関東大震災などで岩が崩れたり、また雨で土が流されて岩が剥き出しになったりしたのでしょう。 そのときに「5丁(545m)の山道を3丈(9m)切り下げて」と言うなら元の道をそのまま切り下げたのではないでしょう。山の中、と言ってもこの程度の里山の話ですが、斜面の中腹の道は大雨や台風での倒壊、そこまでいかなくとも少しづつ雨のたびに落ちてくる土砂ですぐに通れなくなります。だからハイキングコースでも尾根伝いが多いですね。 現在のルートの中心部はその尾根から僅かに2mの処を通っています。その尾根を歩いてみました。 考古学者の赤星直忠氏と言えば鎌倉城史観の大御所、と言うか多分発端ではないかと思いますが、その赤星氏も「鎌倉市史・考古編」p177で「この切通しも当時のものではなく、江戸時代以降に手を加えて次第に低いものにしたものである」と述べています。もっとも平場は「防衛軍が陣する地点」とも書いていますけど。 私はこの大仏切通しの旧称深沢道は平安末期からあったのだろうとは思う様になりましたが、しかし「七口」がイメージするような鎌倉時代の鎌倉を代表する主要な入口ではなかったろうと思います。 「新編鎌倉志」と桐生六郎さて「新編鎌倉志」の記述ですが、こういうものです。
これがこの後「武蔵大路」をめぐって大変な混乱を引き起こしているようです。私も参戦しちゃいましょう。 と言っても長くなるので武蔵大路についてはこちら にページを分けました。 私はこの「新編鎌倉志」の記述は、寿福寺の前のあたりの道を鎌倉時代に武蔵大路と呼んでいたこと、大仏坂切通しが深沢に通じていたことから、「そういえば吾妻鏡に桐生六郎が深沢を経て腰越に向ったと書いてあるね。ここを通ったのかしらん」と軽く書いているだけだと思います。で断定している訳ではありません。少なくとも私にはそう読めます。
鎌倉時代初期の玄関は?私が「鎌倉時代の鎌倉を代表する主要な入口ではなかったろうと」思う理由ですが、鎌倉時代初期から中期までの範囲の鎌倉を考えてみるとこうなります。。 京の方面から鎌倉に来る人たちはほとんどが腰越経由して鎌倉入りしています。 注意しなければいけないのは現在の鎌倉の町並みは忘れて、鎌倉時代の屋敷、町屋がどこにあったかです。中心は幕府と政所。それらは若宮大路の東側小町大路に門を向けて固まっています。それを踏まえて人の動き、物流を考えてみる必要があると思います。 赤い丸●は大倉幕府(頼朝の御所)、その後の宇都宮・若宮御所と政所、赤い三角▲は町屋(商店街)、黄色い三角▲は下馬橋の3つです。鶴岡八幡宮寺の正門ともなる赤橋、二の鳥居、現在の下馬交差点で、この3つを結ぶのが若宮大路・段蔓です。当時の段蔓はそこまであります。白い丸〇は大きな有力者の館と大きな寺などです。実は大倉のあたりはもっと沢山あるのですが、見にくくなるので省略しました。 上の図からは、化粧坂が他国、特に武蔵国から梶原、深沢、洲埼、常楽寺などの山の内を経由する入り口であれば、大仏切通しは出る幕が無いように見えます。もちろんこの図の東側の六浦路も東京湾を隔てた対岸、下総・上総国との交通では重要だったとは思いますが。海路も実は大きな位置を占めていて、和賀江の様子は貞応二年(1223)の『海道記』にこう書かれているそうです。
またの図の米町のあたりまで荷を運ぶ小舟が入っていたようです。米町の西隣に夷堂(現本覚寺)がありますが、夷神はこの時代漁業海運関係の神です。ただしこちらは確実な資料ではありませんが十分に考えられることだと思います。 三代執権北条泰時の時代に鎌倉の人口は膨れあがり、また北条得宗家(本家)の私領への別業(私邸)、私寺との関係もあって13世紀中ごろに道の拡張工事がなされますが、それは山内道と六浦路です。そしてそれより遅れて京方面との交通では極楽寺坂です。それぞれにその重要性はよく理解できます。名越と小坪口、そしてこの大仏切通し(深沢切通し)が出てこないのも同じ(逆の)理由で理解できます。 深沢の範囲・大仏も深沢ではここに道は無かったのかと言うと、これもまた否定できません。遠方からの通路ではなく、ローカルな通路としてなら鎌倉時代からあったろうと言う根拠を最近知りました。山道はあっただろうと言う根拠はなんと、長谷の大仏は深沢だったのです。これには参りました。
「鎌倉市史(総説編)」で高柳先生が触れていので、慌てて「鎌倉の地名由来辞典」を見たら深沢郷は台から山崎、梶原、寺分(てらぶん)、常盤(常葉)、長谷、笛田、津地域と推定と。となると思い起こされるのは御霊神社の鎌倉権五郎景政ですね。大庭御厨を開発しました。大庭御厨は大雑把には藤沢あたりです。
鎌倉権五郎景政の一族は梶原、大庭、長尾、俣野と鎌倉から西北に境川の先までを開拓した在地領主です。尾根で隔てた両側が同じ地名ならその両側を結ぶ山道はあったはずです。 余談ですが吾妻鏡の「相模の国深澤里の大仏堂」と言う言い方はこの時代、現在の長谷一帯はまだ鎌倉中とは認識されていなかったのだろうと高柳先生は指摘されています。 梅松論の中道「鎌倉市史(総説編)」で高柳光寿先生が「梅松論」の記述に触れて「中道」は大仏坂道ではないかとおっしゃっています。「梅松論」は貞和五年(1349年)頃から源威集(嘉慶年間1387-1389)に至る過程で成立と推測され資料的価値は「太平記」よりも高いとされています。目的としては源威集と同様に足利幕府の正当性とその賛美のようです。
その次の章で極楽寺・稲村ケ崎となります。高柳先生は「下道は巨福呂坂道と諸家が一致している。そして中道も化粧坂道ということに諸家が一致している。それでは武蔵路はどこかと言うのである。(p191)」「・・・「梅松論」に中道と言っているものを従来の研究者は化粧坂口としているけれども、これはこの大仏坂道ではないかと思う。(p189)」と新説を出されています。新説と言っても昭和43年(1968年)のことですが。 しかしこれは違うと思います。その前提は三つの道を鎌倉から出発する際の出口と想定されていますがそれだから解決がつかなくなるのではないでしょうか。 また武蔵道は「東山道武蔵路」から相模国府への道をベースにした所謂「上道」だと思います。「上道=武蔵道」に対する堅めとして赤橋盛時が洲埼を固めた。北条貞通と福将金沢越後左近太夫将監は山内荘の北からの道「中道」に備えたが、「上道=武蔵道」から村岡・藤沢・片瀬の方に新田軍の主力が来たので洲埼の後詰の意味もあり化粧坂に引いて防衛線を引いた。そう解釈すれは何の問題も無いように思います。 そして「梅松論」と「太平記」を両方合わせても大仏切通しは出てこない。大仏近辺に屋敷を構えた大仏(北条)貞直は出てくるけど、大仏貞直は極楽寺と稲村路を守っている。この頃、鎌倉時代末期には長谷のあたりも民家が密集していたようですから、大仏切通しも地域の物流の為に多少は整備されていた可能性はありますが、鎌倉外からはさほど注目されるほどのものではなかったのだろうと思います。 これについての議論は「化粧坂」の方に移動しましたのでそちらでご覧ください。
宴曲抄ところで面白いものを見つけました。 ここからが本題。「善光寺修行」は鎌倉から信州の善光寺までの道のりを歌ったものですが、当時、鎌倉後期の上つ道のルートが良く見てとれます。で、その出発が
由井の浜(鎌倉・由比ヶ浜)、常葉山(鎌倉・常磐山)、叢(くさむら)小萱(をかや)(村岡:藤沢市宮前:深沢から柏尾川を渡ったあたり)、ながら沢辺(柄沢:藤沢市あれ?こんなとこ通るの?)、干飯たうべし(境川の飯田牧場あたり)、・・・・ 実はもしかしてこれが「鎌倉時代から大仏坂主要ルート」説の裏付けになるかと思って地形図を見ながら調べ、実際に行ってみたのですが、と言うのは極楽寺を出発点にするならそれが自然と思えて。でもまたしても確証得られずでした。こりゃ、鎌倉時代の古文書でも見つからない限り迷宮入りですね。だいたい七口なんて鎌倉時代には言っていないし、江戸時代のそれもそもそも奈良・平城京の七口の語呂合わせらしいし。 2007.02.02追記 まだまだ書きかけ |