鎌倉の雪 2006.01.22 雪の浄妙寺とその歴史

稲荷山浄妙寺の歴史

正式には稲荷山浄妙寺。足利義兼が1188年(文治4)に開基し、初めは極楽寺と言ったそうです。開山は退耕行勇律師(たいこうぎょうゆう 1163〜1241)。正式には稲荷山浄妙廣利禅寺。臨済宗建長寺派です。稲荷山については後ほど。

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足利義兼と1188年(文治4)

源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。(寺の略史)

足利義兼について知っている範囲でまとめておきましょう。あまり知られてはいませんが、足利には藤原秀郷流の関東における嫡流、藤性足利氏と、後に足利尊氏を出す源氏の一門の足利氏があります。「足利」は地名で、「氏」ではありませんので。

源義国に始まる足利氏は源氏の各流・河内源氏・源義国をご参考に。足利義兼は尊氏の祖先にあたります。

足利義兼の父足利義康はその父義国(八幡太郎源義家の子)と同様、鳥羽法皇の北面の武士として仕え左衛門尉に、そして保元の乱(1156)では、後白河天皇方として平清盛三百騎、源義朝二百騎、と並んで百余騎を率いて戦い、その功によって昇殿を許され、従五位下検非違使に叙任した関東武士団にとっては格の違う名門です。又、頼朝の父、源義朝と同様に熱田大宮司季範の娘(孫娘)を妻として、足利義兼を生ませました。

従って頼朝にとって足利義兼は、父方では遠い親戚でも母方では従兄弟に当たり、更に頼朝の妻政子の妹を妻にたことから義理の弟にともなり、義兼は源氏一門、頼朝の「門葉」として幕府において頼朝の一族に次ぐ高い席次を与えられています。寺の略史にある「源頼朝の忠臣」は格下げですね。

その足利義兼がこの浄妙寺の前身、極楽寺を創建した1188年とは義経追討の院宣旨が下った年、そして頼朝の奥州攻め、奥州藤原氏滅亡の前年に当たります。

しかし、鎌倉幕府初期の、ある種の権力闘争で、頼朝の兄弟や甲斐源氏が粛正されていく中で足利義兼も頼朝に匹敵する名門なるが故に極めて危ない立場にあり、それ故に後年足利義兼は気がふれた真似をしたり出家したりしています。

その後も足利氏は鎌倉幕府の別格の名門で、かつ北条得宗家と姻戚関係にあり和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北条義時(法名得宗)・泰時父子の覇業達成に貢献しながらも、源義家の子源義国の嫡流(新田は庶流)と言う名門なるが故に、常に反北条得宗家の陰謀に巻き込まれるリスクを背負っていました。

4代足利泰氏の突然の出家、報国寺に関係する6代足利家時の突然の自害などにもそうした背景が見え隠れします。その足利家時の子で足利尊氏の父にあたるのが、この浄妙寺の中興開基とされる足利貞氏です。

開山の退耕行勇律師

一方、開山の行勇律師ですが、初めは真言密教を学び、1181年(養和元)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺の別当を経て足利義兼によってこのお寺の開山住持に迎えられました。

その後、1199年(正治元)に臨済宗(禅宗)を(お茶も)日本に伝えた栄西が鎌倉に来ると、その門に入って臨済宗を修め、栄西没後は寿福寺二世住持となったそうです。
「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望をあつめ、源頼朝そして政子、実朝もあつく帰依したとか。
更に実朝が暗殺のされた翌日、実朝の御台所が出家する際にはその戒師も努めています。
吾妻鏡に「辰の刻、御台所落餝せしめ御う。荘厳房律師行勇御戒師たり」と。

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そういう経緯から当初は真言宗の寺院でしたが、足利義兼の子義氏の頃に建長寺開山の蘭溪道隆の弟子月峯了然が住持となったときからこのお寺は臨済宗となり正嘉年間(1257〜1259年)に浄妙寺と改名したそうです。足利義兼の子義氏は北条政子の甥に当たります。

もっとも「臨済宗となり」には注釈が必要で、当時の東国には建長寺以前には臨済宗の寺はありませんでした。栄西が居た寿福寺にしてもメインは真言密教です。

当時の寺院は大学・大学院のようなものでその選択講座みたいな形で禅宗の「学説」を学んでいます。言ってみれば「お寺大学」で基本となる真言密教を学び、その後、同じ「お寺大学」の大学院博士課程で臨済宗の学説を専攻するようなものです。当時の東国の臨済宗の僧はそうした過程を辿っています。ですからこの浄妙寺についても「真言宗のお寺が臨済宗に乗っ取られちゃった!」なんてものではありません。「真言宗のお寺が総合大学として臨済宗も内に含んでいたが、後に臨済宗の単科大学となった」ぐらいの意味だと思います。

日本最初の臨済宗の専門大学建長寺の創建は建長五年(1253)11月、最明寺が康元元年(1256)、それが禅興寺(福源山禅興久昌禅寺)となったのが文永5年(1268)、円覚寺創建が弘安5年(1282)です。そういう流れの中でこの正嘉年間(1257〜1259年)と言う時代を考える必要があります。日本の臨済宗の聡明期ですね。

歴代の住持には約翁徳倹(やくおうとっけん)、高峰顕日(こうほうけんにち)、竺仙梵僊(じくせんぼんせん)、天岸慧広(てんがんえこう:仏乗禅師)など名僧が多く務めています。

  • 約翁徳倹(やくおうとっけん:1244-1320)建長寺15世住持です。建長寺龍峰院がその塔頭です。鎌倉の路傍に捨てられていたのを拾われたとか。建長寺開山の蘭渓道隆に師事し、明月院の前身である禅興寺、京都の南禅寺、建長寺の住持も務めています。
  • 高峰顕日(こうほうけんにち:1241−1316)は、後嵯峨天皇の第二皇子で兀庵普寧(ごったんふねい)、円覚寺開山の無学祖元の法を継ぎ法衣と法語を授かったと言います。この浄妙寺、そのあと浄智寺の住持を務め、その後建長寺の14世住持を勤めました。建長寺の正統院(しょうとういん)がその塔頭です。和歌にも秀で、冷泉為相(ためすけ)とも親交があり「仏国禅師和歌集」を残しています。門下には夢窓疎石などがおり、関東における禅林の主流を形成しました。諡号は仏国禅師、仏国応供広済国師です。
  • 竺仙梵僊(じくせんぼんせん、1292−1348)は鎌倉時代末期に中国の元から来日した臨済宗(楊枝流)の僧で、この浄妙寺のあと、浄智寺、南禅寺、建長寺の住持となっています。
  • 天岸慧広は報国寺の歴史にも登場しますね。

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今年、2006年の1月21日の雪の翌日にこの浄妙寺にも行ってみました。木の上の雪はもう溶けかかっていましたが、黄梅が綺麗でした。

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足利尊氏の父、中興開基の足利貞氏が死去したのは59歳で1331年9月5日と言います。法名は浄妙寺殿義観。没後この浄妙寺に葬られたと言われ、本堂裏にその墓と伝えられる明徳3年銘の宝篋印塔があります。

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でも明徳3年とは1392年、北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が退位して南北朝統一がなされた年です。足利貞氏には曾孫に当たる三代将軍足利義満の頃です。明徳3年銘の宝篋印は室町幕府三代将軍足利義満、あるいは当時の第二代関東公方足利氏満が建てたものでしょうか。

本尊釈迦如来は14世紀作と見られていますが、それが足利貞氏死去のときなのか、あるいは明徳3年銘の宝篋印塔と同時期なのか、おそらくそのいずれかではないでしょうか。それだけの余裕と言う意味では後者の可能性の方が大きいかな?

室町時代・戦国時代の浄妙寺

1386年(至徳3)室町幕府の三代将軍足利義満が五山の制を定め鎌倉五山第五位となった頃からその宝篋印塔が作られた頃には七堂伽藍が完備し、23の塔頭を備える大寺院だったそうですが、大旦那である室町幕府、関東公方の弱体化によってこのお寺も衰退したのではないでしょうか、このお寺に限りませんが。

 その後小田原城主北条氏康(1515〜71)より寺領2貫300文の寄進を受け、更に時が経ち徳川家康より4貫300文に加増されたとのことですが、なんか少なくありません?

江戸時代の浄妙寺

1632年(寛永10)塔頭は徳源庵・直心庵の2つ。『浄妙寺末寺帳』によれば光明院・直心庵・禅昌庵の3つ。『新編相模風土記稿』によれば、仏殿、法堂、経堂、方丈、書院、寝堂、庫院、鐘楼、惣門、山門、中門、外門・、寂堂、稲荷社、祖塔、直心庵、禅昌庵などけっこう大伽藍であったようですが、他の寺院同様、たび重なる災害そして関東大震災の被害は大きかったようです。

彫刻は木像退耕行勇坐像、木像荒神立像、伝藤原鎌足侍像、足利尊氏自画自賛の紙本淡彩地蔵菩薩像などがあるそうですが、見たことはありません。

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現在は総門、1756年(宝暦6)に再建されたと伝える本堂、客殿、庫裏、からなり、本堂左手に枯山水の庭園をもつ茶室喜泉庵があります。

浄妙寺の茶室喜泉庵

喜泉庵は、天正年間(1573年〜1592年)に建てられたもので、現在の茶室は平成3年に復興したものだそうです。

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浄妙寺の稲荷社

ただのお稲荷さんではありません。鎌倉の名の由来にも関係する古い伝承をもつ稲荷社です。でもこの話しは長くなりそうなのでまた改めて。

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とりあえずこれでもご覧ください。

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浄妙寺境内にある旧貴族院議員の洋館

現在は石釜ガーデンテラスになっている洋館です。ここもたまたま見つけました。
「何でお寺の境内にこんなレストランが!」ととても不思議で、そのミスマッチが面白くて、私は「境内レストラン」と呼んで場所も教えずに自転車仲間の鎌倉オフのネタにしていたりしたのですが、ここが貴族院議員の邸宅だったと聞いたのはこの石釜ガーデンテラスのお店の方からです。
貴族院議員と言うと伯爵以上の華族が終身議員で中心だったと思います。侯爵以上はあまり居ない。加賀百万石の前田家クラスが侯爵です。となるとどちらかの伯爵家が浄妙寺境内の一部を譲り受けて屋敷を建てたのでしょう。大正11年のことだそうです。

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その後、持ち主は転々とし、一時は鎌倉市の所有になったものを浄妙寺が譲り受けたと聞いています。メモもとらない立ち話ですからあいまいな記憶ですが。そこに石釜(ペチカ?)があったので、これを改造してパンを焼こうと言うことになったとか。そして2階は文化的な催しなどに使うつもり(または使っている)とかおっしゃっていたような。
「プロが始めた訳ではないので最初は旨くいかなかったけど、みんなで苦労して工夫してやっと美味しいパンが焼けるようになった」
と言うようなことをおっしゃっていたと思います。実際に現在もパンを焼いているのは若い女性で職人さんみたいな方はいらっしゃいませんでした。いやそう聞いたのも何年か前なのであまり正確ではないですが。私も単に「この建物って何んなんですか?」って乗りで会計をしながら聞いただけだし。

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以来、私の迎賓館(笑)として利用させてもらっています。それにしても前日の雪が降っているとき、あるいはこの22日でも雪の溶けていない朝の頃はもっと綺麗だったろうなぁ。

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これを書くのにこちらのサイトを確認したら。

 この春から<アフタヌーンテイー>がスタートいたします。
 ガーデンテラスは、大正11年に建てられた洋館ですが、その2階の部屋を使い英国スタイルに
 石窯らしさを加えて、午後のひとときを楽しくお過ごし頂く為の準備を進めております。 
 詳細は、近日中にホームページでご報告いたします。

とか。2階はまだ私は見せて頂いたことがありません。楽しみですね。   2006.04.08 記


1階の内部とお料理の模様はこちら「浄妙寺・境内レストラン」をご覧下さい。
他の季節は浄妙寺と石釜ガーデンテラスindexからどうぞ