(鎌倉城資料)  吾妻鏡での城・館 1180-1185年

吾妻鏡1180年(治承4)

 

4月27日 北條館

高倉宮の令旨、今日前の武衛将軍伊豆の国北條館に到着す。八條院の蔵人行家持ち来たる所なり。武衛水干を装束し、先ず男山の方を遙拝し奉るの後、謹んでこれを披閲せしめ給う。
侍中は、甲斐・信濃両国の源氏等に相触れんが為、則ち首途すと。武衛は前の右衛門の督信頼(平治の乱)が縁坐として、去る永暦元年三月十一日、当国に配すの後、歎きて二十年の春秋を送り、愁えて四八余の星霜を積むなり。
・・・爰に上野の介平の直方朝臣五代の孫、北條の四郎時政主は当国の豪傑なり。武衛を以て聟君と為し、専ら無二の忠節を顕わす。茲に因って、最前に彼の主を招き、令旨を披かしめ給う。

有名な一節ですね。北條時政が頼朝と一緒に高倉宮の令旨を見ると言う形で北条氏が頼朝と一緒に主人公になります。吾妻鏡ですから。ところでこの時期、館は単なる屋敷とは違い、何らかの公的な場所である場合に使われます。

これより以前は守の住まう屋敷が国庁(国府の役所)とは別の行政の場として「館」と称されます。それが在庁官人の登場とともに有力在庁官人、郡司の屋敷もその支配地の行政の場と言う意味で「館」と呼ばれるようになります。北条館も後に出てくる山木兼隆の館も伊豆国の目代(守の代理人・代官)、あるいは在庁官人の館です。

5月16日 城外の狼藉

今朝、廷尉等猶宮の御所を圍む。天井を破り板敷を放ち、求め奉ると雖も見え給わず。 而るに宮の御息の若宮(八條院の女房三位の局、盛章女の腹)八條院に御坐すの間、 池中納言(頼盛)、入道相国の使いとして、精兵を率い八條御所に参り、若宮を取り 奉り六波羅に帰る。この間洛中騒動す。城外の狼藉、勝計うべからずと。

これは京の外と言う意味。京=城、中国での都=城(都全体を城壁で囲む)の呼び名を真似たもの。従ってこので問題にする「城」とは意味が異なるので以降この手は省略。

5月23日 三井寺の衆徒等城を構え

「城を構え」はこのあと沢山事例が出てきますが、極めて一時的なものであることが読み取れます。

三井寺の衆徒等城を構え溝を深くす。平家を追討すべきの由、これを僉議すと。

 

5月27日

官兵等宇治の御室戸を焼き払う。これ三井寺の衆徒城郭を構うに依ってなり。同日、国々の源氏並びに興福・園城両寺の衆徒中、件の令旨に応ずるの輩、悉く以て攻撃せらるべきの旨、仙洞に於いてその沙汰有りと。

 

8月4日 山木兼隆の館

散位平の兼隆(前の廷尉、山木判官と号す)は、伊豆の国の流人なり。父和泉の守信兼が訴えに依って、当国山木郷に配す。漸く年序を歴るの後、平相国禅閤の権を仮り、威を郡郷に燿かす。これ本より平家一流の氏族たるに依ってなり。
然る間、且つは国敵として、且つは私の意趣を挿ましめ給うが故、先ず試みに兼隆を誅せらるべきなり。
而るに件の居所は要害の地たり。前途後路、共に以て人馬を煩わしむべきの間、彼の地形を図絵せしめ、その意を得んが為、兼日密々に邦道を遣わさる。
邦道は洛陽放遊の客なり。因縁有って、盛長挙し申すに依って武衛に侯す。而るに事の次いでを求め、兼隆が館 に向かい、酒宴・郢曲の際、兼隆入興す。
数日逗留するの間、思いの如く山川村里に至るまで、悉く以て図絵せしめをはんぬ。今日帰参す。武衛北條殿を閑所に招き、彼の絵図を中に置き、軍士の競い赴くべきの道路、進退用意有るべきの所、皆以て指南せしめ給う。凡そ画図の躰を見るに、正にその境を莅むが如しと。

「件の居所は要害の地たり」の「件の居所」は8月17日条では「兼隆が館」と書かれています。
ここでは「要害」が「館」ではなくて、自然の「要害」=攻めにくい場所の中に「館」があると言う分脈です。
それとは別に、「要害」が「自然の要害」の中に設けられた施設とも読める例が同年9月29日条の「大井要害」です。

8月17日

北條殿以下、兼隆が館の前天満坂の辺に進み矢石を発つ。而るに兼隆が郎従多く以て三島社の神事を拝さんが為参詣す。その後黄瀬川の宿に至り留まり逍遙す。然れども残留する所の壮士等、死を争い挑戦す。

 

源平盛衰記 第二十 八牧夜討事

八牧には折節勢こそ無りけれ。よき者共の有りけるは、伊豆国、島田宿にて遊ばんとて、十余人出ぬ。
残者共十人計には過ざりけり。そも俄事にて物具著にも及ばず、大肩脱にて櫓より落し矢に散々に射る、其中に河内国住人関屋八郎と名乗て、射ける矢ぞ物にも強くあたり、あだ矢も無りける。
定綱兄弟命を捨て責詰責詰戦けれ共、館は究竟の城也、追入追出し戦ければ、午角の軍にて勝負なし。・・・

時政城の内の構様をば知ず、門より外に櫓あり、兵共櫓より下し矢に射る、櫓の前は大堀也、橋を引たれば入事叶はず、互に堀を隔て遠矢に射れば、宵より今まで勝負なし、

一当当て見べし、健ならん楯突を一人たび候へ、其外楯二三枚橋に渡さんとて取聚て、弓の替弦を以て筏に組堀に打入て、北条が雑色に源藤次と云男に楯つかせて歩立に成り、州崎相具し、長刀をば下人に持せ、寄手の弓征矢乞取て、堀を渡り城内に進入、櫓の下にたゝずみたり。
櫓に有ける者共も、宵より軍に疲ぬ、矢種も尽にければ、或落或内に入てなかりけり。
門の戸を押開て攻入けるに、箭面に立たりける者三人大庭に射倒し、加藤次佐殿の雑色に下知しけるは、心苦思召つるに、先櫓と門とに火をさせと云ければ、雑色下知に依て火を差てげり。

「館」は「門」より外に「櫓」、櫓の前は「大堀」で、「橋を引たれば入事叶はず」で、実際に山木判官の館がそうであったかはどうかはともかく、これが書かれた時代の武士の館の光景でしょう。事あるときには「城」となると。と言っても常時20人ほどが詰めているぐらいのものです。それでも北条氏の家の子郎党+α 80余人が攻めても手こずった構えです。

8月23日

今日寅の刻、武衛、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率い、相模の国石橋山に陣し給う。この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。中四郎惟重これを持つ。又頼隆白幣を上箭に付け、御後に候す。
爰に同国住人大庭の三郎景親・俣野の五郎景久・・・以下、平家被官の輩、三千余騎の精兵を率い、同じく石橋山の辺に在り。両陣の際一つの谷を隔つなり
景親が士卒の中、飯田の五郎家義志を武衛に通じ奉るに依って、馳参せんと擬すと雖も、景親が従軍道路に列なるの間、意ならず彼の陣に在り。
また伊東の二郎祐親法師三百余騎を率い、武衛の陣の後山に宿し、これを襲い奉らんと欲す。三浦の輩は、晩天に及ぶに依って、丸子河の辺に宿す。郎従等を遣わし景親が党類の家屋を焼失す。その烟半天に聳え、景親等遙かにこれを見て、三浦の輩の所為の由を知りをはんぬ。
相議して云く、今日すでに黄昏に臨むと雖も、合戦を遂ぐべし。明日を期せば、三浦の衆馳せ加わり、定めて衰敗し難きかの由群議す。事訖わり、数千の強兵武衛の陣に襲攻す。而るに源家の従兵を計るに、彼の大軍に比べ難しと雖も、皆旧好を重んずるに依って、ただ致死を乞う。然る間真田の余一義忠並びに武藤の三郎、及び郎従豊三家康等命を殞す。
景親いよいよ勝ちに乗る。暁天に至り、武衛椙山の中に逃れしめ給う。時に疾風心を悩まし、暴雨身を労る。景親これを追い奉り、矢石を発つの処、家義景親が陣中に相交わりながら、武衛を遁し奉らんが為、我が衆六騎を引き分け景親に戦う。この隙を以て椙山に入らしめ給うと。

石橋山の合戦の吾妻鏡での記述ですが、ここで「景親が党類の家屋を焼失す」と党類の家は「家屋」と書かれ館とは書かれません。

もうひとつ、「陣」ですが、吾妻鏡、と「平家物語」の読み本系統である「源平盛衰記」で比較してみましょう。吾妻鏡では「相模の国石橋山に陣し給う。」で、そこに陣取るのが当初よりの計画とは思えません。

石橋合戦事「源平盛衰記」

たまたまそこを越えるときに大庭景親の3千の兵に囲まれて、陣を構えたところで「源平盛衰記」でも「上の山の腰に垣楯をかき、下の大道を切塞で引籠る」と言うだけのことです。しかしそれさえも「源平盛衰記」では「城」と表現されています。

八月廿二日には、兵衛佐北条佐々木を先として、伊豆相模二箇国の住人同意の輩、三百余騎を引具して、早川尻に陣を取。早川党進出て、爰は軍場には悪く侍り、湯本の方より敵山を越て、後を打囲、中に取籠られなば、ゆゝしき大事なり。
更に一人も難遁と申ければ、其より米噛石橋と云所に移て陣を取、上の山の腰に垣楯をかき、下の大道を切塞で引籠る。
此事角と聞えければ、大場三郎景親は、武蔵相模の勢を招相従輩、舎弟俣野五郎景尚、長尾新五、同新六、八木下五郎、漢揚五郎以下、鎌倉党は一人も不漏、・・・宗徒の者共三百余騎、家子郎等相具して三千余騎也。
同廿三日の辰時には、大場三郎景親大将軍として、三千余騎を相具して、石橋の城に押寄、谷を前に隔て、海を後に当て陣を取、落日西山に傾て、其日も既に暮なんとす。
稲毛三郎重成進出て、日既に晩ぬ、夜軍は敵御方不見分、去ば明日を期すべきやらんと申ければ、大場申けるは、明日を相待ならば、敵に大勢付重て、輙く難攻落、後には三浦の者共馳来也、両方を禦ん事、ゆゝしき大事也、道狭して足立悪き城なれば、小勢におはする時、佐殿を追落して、明日は一向三浦に向て勝負すべきと申す。(源平盛衰記 )

 

8月27日「源平盛衰記」小坪合戦事 

畠山は・・・矢一射ずは平家の聞えも恐あり、和田が言も咎めたし、打立者共と下知しければ、成清は仰の旨透間なし、急げ殿原とて、五百余騎、物の具かため馬にのり、打や早めとて追ければ、同小坪の坂口にて追付たり。
・・・三浦三百余騎、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並て引へたり
小太郎伯父の別当に云けるは、其には東地に懸りて、あふすりに垣楯かきて待給へ、かしこは究竟の小城なり、敵左右なく寄がたし、義盛は平に下て戦はんに、敵よわらば両方より差はさみ中に取籠て、畠山をうたんにいと安し、若又御方弱らば、義盛もあふすりに引籠て、一所にて軍せんと云。
別当然べきとて百騎を引分て、後のあふすりに陣を取て左右を見る。畠山次郎は五百余騎にて、由井浜、稲瀬河の耳に陣を取て、赤旗天に耀けり。
和田小太郎は、白旗さゝせて二百余騎、小坪の峠より打下り、進め者共とて渚へ向て歩せ出づ。爰に畠山、横山党に弥太郎と云者を使にて、和田小太郎が許へ云けるは、・・・半沢が角云は、畠山が云にこそ、人の穏便を存ぜんに、勝に乗に及ばずとて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。
軍既に和平して各帰りちらんとする処に、和田小太郎義茂が許へ、兄の小太郎人を馳て、小坪に軍始れり、急ぎ馳よと和平以前に云遣たりければ、小次郎はいさゝか少用ありて、鎌倉に立寄たりけるが、是を聞驚騒ぎて馬に打乗り、懸坂を馳越て、名越にて浦を見れば、四五百騎が程打囲て見えけり。小次郎片手矢はげて鞭をうつ。小太郎は小坪坂の上にて軍和平したれば、畠山に不可向と云ふ心にて、手々に招けれ共、角とは争か知べきなれば、急と云ぞと心得て、をめきてかく。
畠山は軍和平しぬる上はとて馬より下、稲瀬川に馬の足涼して休居たりけるに、小次郎が馳を見て、和平は搦手の廻るを待けるを知ずして、たばかられにけり、安からずとて馬に打乗、小次郎に向て散々に蒐。小次郎は主従八騎にて、寄つ返つ/\火出程こそ戦けれ。敵六騎切落し、五騎に手負せて暫休けるを、小太郎は、小次郎うたすな、始に手をひらきて招けば知ざるにこそ、大なる物にて招けとて、四五十人手々に唐笠にて招けるを、弥深入して戦へと云にこそと心得て、暫気をやすめ、又馳入てぞ戦ける。
今は叶はじ、小次郎うたすなつゞけ者共とて、和田小太郎二百余騎にて小坪坂を打下り・・・去程にあふすりの城固めたる三浦の別当義澄、爰にて待つも心苦し、小坪の戦きびしげなり、つゞけ者共とて、道は狭し、二騎三騎づつ打下けるが、遥に続て見えければ、畠山是を見て、三浦の勢計にはなかりけり、一定安房上総下総の勢が、一に成と覚えたり、大勢に被取籠なば、ゆゝしき大事、いざや落ちなんとて五騎十騎引つれ/\落行けり。(源平盛衰記 )

鎌倉史では「犬懸坂」の道で有名な一節ですが、よく見たらここでもたまたま通りがかっただけ場所を「城」としています。予め構築されていたものではありません。

8月24日 衣笠城

武衛椙山内堀口の辺に陣し給う。大庭の三郎景親三千余騎を相率い重ねて競走す。
・・・・
三浦の輩城を出て丸子河の辺に来たり 。去る夜より暁天を相待ち、参向せんと欲するの処、合戦すでに敗北するの間、慮外に馳せ帰る。その路次由比浜に於いて、畠山の次郎重忠と数刻挑戦す。多々良の三郎重春並びに郎従石井の五郎等命を殞す。また重忠が郎従五十余輩梟首するの間、重忠退去す。義澄以下また三浦に帰る。この間上総権の介廣常が弟金田の小大夫頼次、七十余騎を率い義澄に加わると。

後で出てくるように、この段階では「城郭」は構えられていません。戦時における武士の拠点が「城」と言われています。

8月26日

武蔵の国畠山の次郎重忠、且つは平氏の重恩に報ぜんが為、且つは由比浦の会稽を雪がんが為、三浦の輩を襲わんと欲す。仍って当国の党々を相具し来会すべきの由、河越の太郎重頼に触れ遣わす。これ重頼は秩父家に於いて次男の流れたりと雖も、家督を相継ぎ、彼の党等を従うに依って、この儀に及ぶと。
江戸の太郎重長同じくこれに與す。今日卯の刻、この事三浦に風聞するの間、一族悉く以て当所衣笠城に引き籠もり、各々陣を張る
東の木戸口(大手)は次郎義澄・十郎義連、西の木戸口は和田の太郎義盛・金田の大夫頼次、中の陣は長江の太郎義景・大多和の三郎義久等なり。
辰の刻に及び、河越の太郎重頼・中山の次郎重實・江戸の太郎重長・金子・村山の輩已下数千騎攻め来たる。義澄等相戦うと雖も、昨今両日の合戦に力疲れ矢尽き、半更に臨み城を捨て逃げ去る。義明を相具せんと欲するに、義明云く、吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり。盍ぞこれを喜ばざらんや。
保つ所すでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと。義澄以下涕泣度を失うと雖も、命に任せなまじいに以て離散しをはんぬ。

衣笠城は常に「城」であったのではなく、戦時だから「城」と呼ばれたよ言うのがこの時代の「城」です。つまり「陣を構えた」「立て籠もった」となったらそこが「城」と呼ばれます。義明が一人で残ってと言うのは美談として伝えられますが、「人生50年」よりずっと昔のこの時代に80歳前後ですから、死に場所は先祖伝来のこの地、そして先祖代々崇拝したこの山と言うのは十分理解出来ます。

文中から読み取れるのはその山に至のに木戸口が2つ有ったと言う程度のもの。ただし逃げるだけなら土地の者なら四方八方と言うことでしょう。

もうひとつ、三浦氏の縄張りは三浦半島だけではありません。石高で言えば鎌倉の西や、現在の千葉県の領地の方がよほど多かったはずで、三浦一族は海によって勢力を高めたとも言えるかと。

「源平盛衰記」 第二十二 衣笠合戦事

こちらは要害の地ではありません。三浦一族の本拠地として、名誉(と信仰)の為に選ばれています。これはこの時代の「城」のひとつの正確を良く表しています。三浦義明は自分の死に場所、一族の死に場所として衣笠にこだわっています。戦闘の為の損得ではありません。

金砂山も鳥坂山もそうですが、ここ衣笠山も経塚なども造られた山岳信仰の聖地であり(中沢克昭氏p195)、そうした神聖な空間に立て籠もり、死に場所とすることが当時の武士の名誉にかなったものであり、それを精神的な支えにして戦ったようです。特に高齢の三浦義明は。

・・・さても大介云けるは、敵は一定明日寄べし、佐殿よも討れ給はじ、急ぎ衣笠に引籠て軍せよ、敵こはくとも散々に蒐破て、今一度佐殿尋奉べし、難遁は討死をせよといへば、義盛申けるは、衣笠は馬の足立よき所なれば、寄手の為には便あり、忽に追落されなん奴田の城は、三方は石山高して馬も人も通ひ難き悪所也、一方は海口に道を一つ開たれば、よき者一二百人あらば、縦敵何万騎寄たり共輙く責落すべからずと申。

大介重て申、奴田と云は僅の小所、人是を不知、衣笠こそ聞えたる城よ、三浦の者共は小坪の軍に打勝て、軈衣笠に引籠て、散々に戦て討死しけりといはば、嗚呼さる名誉の城あり、其はよき所也など人も沙汰すべし、奴田城にて討死といはば、奴田とはどこぞ、未知といはれん事面目なし、只衣笠に籠れ急げ急げと云。
義盛が云けるは、奴田も三浦も皆御領内也、就中軍と申は身を全して敵に物を思はせ、日数をへて戦ふこそ面白けれ、衣笠に籠たり共、やがて追落されなば無下に云甲斐なし、能々御計候べしといへば、大介腹を立て、やをれ義盛よ、今は日本国を敵に受たり、身を全せんと思とも何日何月か有べき、縦命生べく共、人のいはんずる事は、三浦こそ一旦命を延んとて、さしもの名所を閣て、奴田城に籠たりけれと沙汰せん事も口惜し、若又百人が中に一人なりとも生残て、佐殿世に立給ひたらん時、父や祖父が骸所とて知行せんにも、衣笠こそ知たけれ、軍と云は所にはよらず、手がら謀に依べし、荒野の中にて戦とも、能くあひしらはば不可負、石の櫃に籠たり共、悪く戦ならば難叶、命惜くば軍なせそ、などや己は物には覚ぬ、且は父の命也、老者の云言は験あり、義明は只一人也とも衣笠にて討死せん、敵よせずば干死にも彼にてこそ死なめと、大に嗔り云ければ力及ばず、孫引連て衣笠城に籠にけり

事が起きてから城郭が構えられたのは本拠地衣笠でも同じことだったようです。正確に言うと、この「源平盛衰記」か、その元ネタがか書かれた時代、鎌倉時代かそれ以降なのか、ともかくその時点ではそういうものだったと言うことが判ります。

上総介弘経が弟に金田大夫と云者は、義明が聟なりければ、七十余騎を引率して同城に籠にけり。
都合勢僅に四百五十三騎ぞ有ける、大介は敵寄るならば暇あるまじ、先静なる時よくよく兵糧つかふべしとて、酒肴椀飯舁居て是を勧む。さて下知しけることは、弓したゝかに射者は、家の子も侍も舎人草刈に至まで汰置、弓は一人して二張三張、矢は四腰五腰も用意せよ、弓え射ざらん者は、七八人も十人も又四五人も徒党して、好々の杖共を支度せよ、木戸を三重にこしらふべし、敵は軍の法なれば、定て追手搦手二手にわけて寄べし。追手の方には道を造れ、広さ七八尺に不可過、道広ければ大勢くつばみを並て押寄れば、城の中に隙なくして防えず、馬二匹ばかり通る程に造れ、道の片方は沼なれば兎角するに及ばず、片方には大堀をほれ、道をば三重に掘切て、一の堀には橋を広くわたせ、中堀には細橋を渡せ、二の堀には逆茂木を引、堀ごとに掻楯を構へ櫓をかけ、弓よく射者共は甲を著ざれ、腹巻腹当筒丸などを著て、矢倉に上て敵の冑の胸板を差詰て射よ、又歩走の者共は角きはりをこしらへ置、杖打の奴原は、西の方の小竹の中に籠り居よ、小竹の中より造道へ向て細道を造れ、敵一の橋を打渡て二の橋まで寄るならば、角きはりを以て馬の太腹を射よ、射られて駻るならば、冑武者左右の堀と沼とへはね落されて、おきんおきんとせん処を、小竹の中より杖打の奴原つと出て、杖の前そろへておこしも立ず能者をば打殺せ、駈武者共をば死ぬる程に打成して、生殺にして■行せよ、其こそ軍の目醒なれ、各不覚すなとぞ下知したる。

廿七日の小坪軍の後、中一日ありて廿九日の早朝、河越又太郎、江戸太郎、畠山庄司次郎等大将軍として、・・・三千余騎、衣笠の城へ発向す。
追手は河越、搦手は畠山、二手に分て推寄つゝ、時の音三箇度合てためらふ処に、綴の一党、当家の軍将三人まで小坪の軍に討れて不安思ければ、二百余騎先陣に進て、木戸口近く攻寄たり。城の内には本より支度の事也、掻楯の上精兵共、一騎々々を主付て差詰々々射ける矢に、馬共いさせてはね落されて深田に落入、あがらんあがらんとしける処を、小竹の中より杖打の冠者原、鼻を並て細道よりつと出て、打殺差殺て、乗替郎等多く討れて、生る者は少く死る者は多かりければ、綴党も不叶して引退く。
金子十郎家忠と名乗て、一門引具し三百余騎、入替々々戦ける中に、人は退ども家忠は不退、敵は替ども十郎は替らず、一の木戸口打破り、二の木戸口打破て、死生不知にして攻たりける。
城中よりも散々に是を射る。甲冑に矢の立事廿一、折懸々々責入つゝ更に退事なかりけり。城の中より提子に酒を入て、杯もたせて出しけり。
城の中より大介、家忠が許へ申送けるは、今日の合戦に、武蔵相模の人々多く見え給へ共、貴辺の振舞ことに目を驚し侍り、老後の見物今日にあり、今は定てつかれ給ぬらん、此酒飲給て、今ひときは興ある様に軍し給へ、と云遣したりければ、家忠甲振仰弓杖つき、杯取三度飲て、此酒のみ侍て力付ぬ、城をば只今責落奉べし、其意を得給へとて使をば返してけり。
軍陣に酒を送は法也、戦場に酒を請は礼也、義明之所為と云、家忠之作法と云、興あり感ありとぞ皆人申ける。

 

9月9日条 千葉介常胤の「要害の地」

盛長千葉より帰参す。申して云く、・・・。常胤が心中領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりてえり。その後盃酒有り。次いで当時の御居所指せる要害の地に非ず。また御曩跡に非ず。速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い、御迎えの為参向すべきの由これを申す。

「鎌倉城」の根拠とされる一文。ただしこれは鎌倉全域のことを指すんだろうか。

そうではないでしょう。と言うのはこの時点での頼朝勢は千葉介を加えても500程度。その後を期待しても実質千?2千? そんな大軍は当時の武士は見たことが無いはずです。中央での保元・平治の乱でも両軍合わせてですらそんなには居ません。それでは鎌倉全体は広すぎます。

9月10日

甲斐の国の源氏武田の太郎信義・一條の次郎忠頼以下、石橋合戦の事を聞き、武衛を尋ね奉り、駿河の国に参向せんと欲す。而るに平氏の方人等信濃の国に在りと。仍って先ず彼の国に発向す。
・・・平氏の方人管の冠者伊那郡大田切郷の城に襲い到る。冠者これを聞き、未だ戦わずして火を館に放ち、自殺するの間、各々根上河原に陣す。

手勢の兵も備えもそれほどもものでは無かったと言えるでしょう。それでも戦時には「城」と書かれますが、実態は小規模な「館」です。山木館と同じようなものでしょう。

9月29日 大井要害

従い奉る所の軍兵、当参二万七千余騎なり。・・・而るに江戸の太郎重長景親に與せしむに依って、今に不参の間、試みに昨日御書を遣わさると雖も、猶追討宜しかるべきの趣沙汰有り。
中四郎惟重を葛西の三郎清重が許に遣わさる。大井要害を見るべきの由、偽って重長を誘引せしめ、討ち進らすべきの旨仰せらるる所なり。江戸・葛西、一族たりと雖も、清重貳を存ぜざるに依って此の如しと。

「件の居所は要害の地たり」「件の居所」8月4日条では「要害」「館」ではなくて、自然の要害=攻めにくい場所の中に「館」があると言う分脈でしたが、こちらでは「要害」「自然の要害」の中に設けられた施設とも読めます。

  • この大井要害は大井川とも呼ばれた現在の江戸川筋を指しており、その地域は低湿地帯であり、陣を構えるに適した高台は、唯一柴又八幡神社古墳であり、ここが「大井要害」ではないかと、谷口栄氏は推定しています。(「吾妻鏡辞典」p197 鎌倉武士と城館)

9月30日 新田義重の寺尾館(城)

新田大炊の助源義重入道(法名上西)、東国未だ一揆せざるの時に臨み、故陸奥の守が嫡孫を以て、自立の志を挟むの間、武衛御書を遣わすと雖も、返報に能わず。上野の国寺尾城に引き籠もり軍兵を聚む。また足利の太郎俊綱平家の方人として、同国府中の民居を焼き払う。これ源家に属く輩居住せしむが故なり。

平時の「館」が、有事に兵を結集させると「城」と呼ばれる代表例です。

12月22日

新田大炊の助入道上西、召しに依って参上す。而るに左右無く鎌倉中に入るべからざるの旨、仰せ遣わさるの間、山内の辺に逗留す。これ軍士等を招き聚め、上野の国寺尾館に引き籠もるの由風聞す。籐九郎盛長に仰せ、これを召されをはんぬ。上西陳じ申して云く、心中更に異儀を存ぜずと雖も、国土闘戦有るの時、輙く出城し難きの由、家人等諫めを加うに依って、猶予するの処、今すでにこの命に預かる。大いに恐れ思うと。

  

11月4日 佐竹攻め・金砂城

関東においてもっとも城らしい記述があるのがこの佐竹氏の金砂城です。

武衛常陸の国府に着き給う。
佐竹は権威境外に及び、郎従国中に満つ。然れば楚忽の儀莫く、熟々計策有って、誅罰を加えらるべきの由、常胤・廣常・義澄・實平以下宿老の類、群儀を凝らす。
先ず彼の輩の存案を度らんが為、縁者を以て上総の介廣常を遣わす。案内せらるの処、太郎義政は、即ち参るべきの由を申す。冠者秀義は、その従兵義政を軼す。
また父四郎隆義は平家方に在り。旁々思慮在って、左右無く参上すべからずと称し、常陸の国金砂城に引き込もる
然れども義政は、廣常が誘引に依って、大矢橋の辺に参るの間、武衛件の家人等を外に退け、その主一人を橋の中央に招き、廣常をしてこれを誅せしむ。太だ速やかなり。従軍或いは傾首帰伏し、或いは戦足逃走す。
その後秀義を攻撃せんが為、軍兵を遣わさる。所謂下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥の次郎實平・和田の太郎義盛・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷の次郎直實・平山武者所季重以下の輩なり。数千の強兵を相率い競い至る。
佐竹の冠者金砂に於いて城壁を築き、要害を固む。兼ねて以て防戦の儀を構え、敢えて心を揺さず。
干戈を動かし矢石を発つ。彼の城郭は高嶺に構うなり。御方の軍兵は麓の渓谷を進む。故に両方の在所、すでに天地の如し。然る間、城より飛び来たる矢石、多く以て御方の壮士に中たる。
御方より射る所の矢は、太だ山岳の上に覃び難し。また岩石路を塞ぎ、人馬共に行歩を失う。茲に因って軍士徒に心府を費やし兵法に迷う。然りと雖も退却すること能わず。
なまじいに以て箭を挟み相窺うの間、日すでに西に入り、月また東に出ると。

ただし、翌日の記述から、それが恒星の山城のような、周囲360度に対して守りを構えるようなものではなく、登ってくる道に対して斜面の上に「逆茂木を引き掻楯構へ」て「矢石」を放ち、戦うと言ったものだと思います。だから「城の後に廻り、時の声を作す」で落ちたと。

11月5日

寅の刻、實平・宗遠等、使者を武衛に進す。申して云く、佐竹が構う所の寨、人力の敗るべきに非ず。その内籠もる所の兵は、また一を以て千に当たらずと云うこと莫し。
能く賢慮を廻さるべしてえり。これに依って老軍等の意見を召さるるに及ぶ。廣常申して云く、秀義が叔父佐竹蔵人と云う者有り。知謀人に勝れ、欲心世に越えるなり。
賞を行わるべきの旨恩約有らば、定めて秀義滅亡の計を加うるかてえり。これに依ってその儀を許容せしめ給う。然れば則ち廣常を侍中の許に遣わさる。侍中廣常の来臨を喜び、衣を倒しまにこれに相逢う。廣常云く、近日東国の親疎、武衛に帰往し奉らずと云うこと莫し。而るに秀義主独り怨敵たり。太だ拠所無き事なり。骨肉と雖も客何ぞ彼の不義に與せしめんや。早く武衛に参り、秀義を討ち取り、件の遺跡を領掌せしむべしてえり。侍中忽ち和順す。本より案内者たるの間、廣常を相具し、金砂の城の後に廻り、時の声を作す。その声殆ど城郭に響く。これ図らざる所なり。仍って秀義及び郎従等防禦の術を忘れ、周章横行す。廣常いよいよ力を得て、攻戦するの間、逃亡すと。秀義跡を暗ますと。

似たような例は吾妻鏡1189年(文治5)8月10日条でも見られます。また1201年5月14日条でも。
ですから予め「城」を設計して、などと言うものでは無いと。
また衣笠山も鳥坂山もそうですが、ここ金砂山も山岳修験と密接に関係していたようで(中沢克昭氏p195)、そうした神聖な空間に立て籠もることで単純に言えば「神の御加護」と、とまでは言わないにしても精神的な支えにして戦ったようです。

11月6日

丑の刻、廣常秀義逃亡の跡に入り、城壁を焼き払う。その後軍兵等を方々の道路に分ち遣わす。秀義主を捜し求むるの処、深山に入り、奥州花園城に赴くの由風聞すと。

 吾妻鏡1182年(養和2:改元・寿永1)6月5日条では 「佐汰毛(佐竹)の四郎、常陸の国奥郡花園山に楯籠り」とあり、「楯籠り」=「城」とも、「あった城に立て籠もった」とも読めます。しかし前者でしょう。

「廣常秀義逃亡の跡に入り、城壁を焼き払う」は、そうした敵の精神的支柱を焼き払うと言う意味があったと解釈出来ます。それによってやっと勝ちが確定するとも言えるでしょうか。

11月7日

廣常以下士卒、御旅館に帰参す。合戦の次第及び秀義逐電・城郭放火等の事を申す
軍兵の中、熊谷の次郎直實・平山武者所季重殊に勲功有り。所々に於いて先登に進む。
先登し更に身命を顧みず、多く凶徒の首を獲る。仍ってその賞傍輩に抽んずべきの旨、直に仰せ下さると。また佐竹蔵人参上し、門下に候すべきの由望み申す。即ち許容せしめ給う。功有るが故なり。

今日、志太三郎先生義廣・十郎蔵人行家等、国府に参り謁し申すと。

 

12月1日

左兵衛の督平の知盛卿数千の官兵を卒い、近江の国に下向す。而るに源氏山本前の兵衛の尉義経・同弟柏木の冠者義兼等合戦す。義経以下、命を棄て身を忘れ挑戦すと雖も、知盛卿多勢の計を以て、放火し彼等の館並びに郎従宅を焼き廻るの間、義経・義兼度を失い逃亡す。これ去る八月、東国に於いて源家義兵を挙げるの由、伝聞するの以降、近国に卜居すと雖も、偏に関東一味の儀を存じ、頻りに平相国禅閤の威を忽緒するの故、今この攻めに及ぶと。

ここでも山本兵衛尉義経の「館」は「館」とも「城」とも呼ばれます。また郎従は「宅」で「館」とは区別されているのが解ります。「館」は単純に言えば「お館さま」と呼ばれるに相応しい主人、長(おさ)の館と言うことになりますね。

12月10日(玉葉にも記載)

山本兵衛の尉義経鎌倉に参着す。土肥の次郎を以て案内を啓して云く、日来志を関東に運すの由、平家の聴に達す。事に触れ阿党を成すの刻、去る一日、遂に城郭を攻め落とさるるの間、素意に任せ参上す。
彼の凶徒を追討するの日、必ず一方の先登を奉るべしてえり。最前の参向尤も神妙なり。今に於いては、関東祇候を聴さるべきの旨仰せらると。この義経は、刑部の丞義光より以降、五代の跡を相継ぎ、弓馬の両芸、人の聴す所なり。

 

12月12日 新亭に入御す

亥の刻、前の武衛新造の御亭に御移徙の儀有り。景義の奉行として、去る十月事始め有り。大倉郷に営作せしむなり。
時剋に、上総権の介廣常が宅より、新亭に入御す。
寝殿に入御の後、御共の輩侍所(十八箇間)に参り、二行に対座す。義盛その中央に候し、着到すと。
凡そ出仕の者二百十一人と。また御家人等、同じく宿館を構う。爾より以降、東国皆その有道を見て、推して鎌倉の主と為す。所辺鄙にて海人・野叟の外、素より卜居の類これ少し。正にこの時に当たり、閭巷の路を直し、村里の号を授く。しかのみならず家屋甍を並べ、門扉軒を輾ると。

 

12月22日 9月30日 新田義重の寺尾館(城)に併記

 

吾妻鏡1181年(治承5年:養和元年)

閏2月17日 要害を構えんと

安田の三郎義定、義盛・忠綱・親光・祐茂・義清、並びに遠江の国の住人横地の太郎長重・勝間田の平三成長等を相卒い、当国浜松庄橋本の辺に到る。これ前の武衛の仰せに依ってなり。この所要害たるの間、平氏の襲来を相待つべきが故なり。

 

3月13日

安田の三郎が使者武藤五、遠江の国より鎌倉に参着す。申して云く、御代官として当国を守護せしめ、平氏の襲来を相待つ。
就中命を請け橋本に向かい、要害を構えんと欲するの間、人夫を召すの処、浅羽庄司宗信・相良の三郎等、事に於いて蔑如を成し合力を致さず。剰え義定地下に居るの時、件の両人、乗馬ながらその前を打ち通りをはんぬ。これすでに野心を存ずる者なり。随って彼等一族当時多く平家に属く。速やかに刑罰を加えらるべきかと。

 

吾妻鏡1182年(養和2:改元・寿永1)

 

6月5日

熊谷の次郎直實は、朝夕恪勤の忠を励むのみならず、去る治承四年佐竹の冠者を追討するの時、殊に勲功を施す。
その武勇を感ぜしめ給うに依って、武蔵の国の旧領等、直光の押領を停止し、領掌すべきの由仰せ下さる。而るに直實、この間在国す。今日参上せしめ、件の下文を賜うと。

下す武蔵の国大里郡熊谷の次郎平の直實定補する所の所領の事
右件の所、且つは先祖相伝なり。而るを久下権の守直光押領の事を停止し、直實を以て地頭の職として成しをはんぬ。
その故何なれば、佐汰毛(佐竹)の四郎、常陸の国奥郡花園山に楯籠り、鎌倉より責め御しめ給うの時、その日の御合戦に、直實万人に勝れ前懸けし、一陣を懸け壊し、一人当千の高名を顕わす。
その勧賞として、件の熊谷郷地頭職に成しをはんぬ。子々孫々、永代他の妨げ有るべからず。故に下す。百姓等宜しく承知すべし。敢えて遺失すべからず。
治承六年五月三十日

吾妻鏡1180年(治承4)11月6日条では 「奥州花園城に赴くの由風聞すと。」とあります。
「楯籠り」=「城」とも、「あった城に立て籠もった」とも読めます。

9月28日 城郭を構う

越後の国城の四郎永用、越後の国小河庄赤谷に於いて城郭を構う。剰え妙見大菩薩を崇め奉り、源家を呪詛し奉るの由、その聞こえ有り。

 

吾妻鏡1183年(寿永2)

4月27日

平家の軍兵火打城にせめ寄せたり。城の有様いかにして落すべしともみえざりければ、十万余騎の勢向への山に宿して、徒に日を送る程に、源氏の大将軍齊明威儀師、平家の勢十万余騎に及べり、かなはじとや思ひけん、忽に変ずる心有て、我城をぞせめさせける。(中略)源氏の軍兵火打城を追落されて、加賀の国へと引退く。

 

5月2日

(加賀の国)林六郎光明並びに富樫太郎が城郭二ヶ所を打破られて、次第にせめ入る由、官兵国々より早馬を立て申ければ、都には嘉罵けり。平家は白山の一橋を引てぞ籠りける。

 

9月中旬

その日は蘆屋の津といふ所にとどまり給ふ。都より福原に通ひ給ふ時聞き給し里の名なれば、いづれの里の名よりもなつかしくて、今さらあはれぞまさりける。きかい高麗の方へも渡らばやとはおぼせども、浪風心に叶はねば、山鹿の兵籐次秀遠に伴て山鹿城にぞ籠りたまふ。その後、四国の方へおもむき給ふ。

 

吾妻鏡1184年(寿永3:改元・元暦1) 一ノ谷の戦い

2月4日 城郭を構え

平家日来西海・山陰両道の軍士数万騎を相従え、城郭を摂津と播磨の境一谷に構え各々群集す。

 

2月7日

寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。爰に武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。・・・・
しかのみならず城郭は石巖高く聳えて駒の蹄通い難く、澗谷深幽にして人跡すでに絶ゆ。九郎主三浦の十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越(此の山は猪・鹿・兎・狐の外、不通の険阻なり)より攻戦せらるの間、商量を失い敗走す。或いは馬に策ち一谷の館を出る。或いは船に棹さし四国の地に赴く。・・・・

 

9月19日

平氏一族、去る二月摂津の国一谷の要害を破らるるの後、西海に至り彼の国々を掠虜す。而るにこれを攻め襲われんが為、軍兵を発遣せられをはんぬ。

 

12月25日

鹿島社神主中臣の親廣・親盛等、召しに依って参上す。
今日営中に参り、金銀の禄物を賜う。剩え当社御寄進の地、永く地頭の非法を停止し、一向に神主管領せしむべきの旨仰せ含めらる。
これ日来御願書を捧げ、丹祈を抽んじ給うの処、去る春の比、厳重の神変を現わし給うの後、義仲朝臣伏誅し、平内府また一谷の城郭を出て、敗北し四国に赴きをはんぬ。いよいよ御信心を催すに依って、今この儀に及ぶと。

 

12月7日 城郭を構え

平氏左馬の頭行盛朝臣五百余騎の軍兵を引卒し、城郭を備前兒島に構うの間、佐々木の三郎盛綱武衛の御使として、これを責め落とさんが為行き向かうと雖も、更に波濤を凌ぎ難きの間、浜の干潟に轡を案ずるの処、行盛朝臣頻りにこれを招く。仍って盛綱武意を励まし、乗船を尋ねるに能わず。乗馬しながら藤戸の海路(三町余)を渡す。
相具する所の郎従六騎なり。所謂志賀の九郎・熊谷の四郎・高山の三郎・與野の太郎・橘三・橘五等なり。遂に向岸に着かしめ、行盛を追い落すと。

 

吾妻鏡1185年(元暦2年:改元・文治1) 

2月16日 屋島

関東の軍兵、平氏を追討せんが為讃岐の国に赴く。廷尉義経先陣として、今日酉の刻纜を解く。大蔵卿泰経朝臣彼の行粧を見るべしと称し、昨日より廷尉の旅館に到る。
而るに卿諫めて云く、泰経兵法を知らずと雖も、推量の覃ぶ所、大将軍たる者、未だ必ず一陣を競わざるか。先ず次将を遣わさるべきやてえり。廷尉云く、殊に存念有り。
一陣に於いて命を棄てんと欲すと。則ち以て進発す。尤も精兵と謂うべきか。平家は陣を両所に結ぶ。前の内府讃岐の国屋嶋を以て城郭と為す
新中納言知盛九国の官兵を相具し、門司関を固む。彦島を以て営に定め、追討使を相待つと。

 

2月18日

廷尉(義経のこと)昨日渡部より渡海せんと欲するの処、・・・卯の刻阿波の国椿浦に着く(常の行程三箇日なり)。則ち百五十余騎を率い上陸す。当国の住人近藤七親家を召し仕承と為し、屋嶋に発向す。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成良弟)を攻めるの処、良遠城を辞し逐電すと

 


 謝辞:吾妻鏡は こちらのサイトを参考にしています。とても助かっています。ありがとうございます。