武士の発生と成立 安田元久氏の「在地武士団の成長」 

安田元久氏はご存命であればもう90歳近いお歳。学習院大学の教授になられたのは1963年。もう45年も前のことです。石母田正氏よりほんのちょっとお若いけど、まあ同年代ですね。その安田元久氏が書かれた 講談社『日本歴史全集第7巻 院政と平氏』 (1974年)の中に「在地武士団の成長」と言う章があります。

在地領主的武士論

「在地領主的武士論」の本家本元とも言って良いのではないでしょうか。今でこそ「過去の学説」と人気は無いのですが、それでも現在に至るまでどのような道程を辿ってきたかを振り返ることも無駄ではないと思います。その「在地武士団の成長」は「中世的武士団の誕生」からはじまりその冒頭は・・・

戦闘の為の武力集団を一般に「武士団」と呼ぶならば、それは平将門の乱の例を見るまでもなく、既に10世紀には成立していた。そして11世紀の初めには、既に武装を専門とする人々が都にも定住していて、いわゆる「都の武者」が現れていた。しかし10世紀頃には、まだ武士という名称は一般的でなく、武力に優れた人々は「兵(つわもの)」という特殊な存在と見られていた。

う〜ん、のっけから・・・・
下向井龍彦氏が「将門を武士と言ったって良いじゃないか」と言ったり、高橋昌明氏がえらい「武士」と言う言葉にこだわるのはこういう先輩が居たからなんですか。「都の武者」は元木泰雄氏が「京武者」と言っているものですね。でも変ですねぇ、「武士は農民から生まれた」 とは書いていません。

10世紀ごろの・・・・、いずれも「名ある兵」として有名であるが、彼らの率いる武力には、まだ多分に古代的武力の特徴が有った。彼らの多くは所従、従者を持ち、戦闘に際しては千余の兵を集める事も出来たが、その兵力の大部分は同時に農民であって、農閑期にのみ動員しうる存在だったのである。

いや、それは戦国時代中期まで、織田信長の時代まで同じじゃないかと思うんですけど(後述)。まあ聞いてみましょう。

これに対して12世紀以降に地方各地に見られる在地の武力集団や、それらを組織した平忠盛や源義朝などの戦闘集団は、かなり発達した武力集団であって、その構成員は大部分が武士と呼ばれる戦闘専従者であった。それらの武士は地方各地に所領を持つ在地領主であったことにも特徴がある。・・・先に見た兵の場合、「名のある兵」は例外なく従者を持つか、兵が兵を従えると言う重層的な階層関係は無いのである。

えーっ! 
こんな高名な学者さんが『今昔物語集』を読んでいないとは思えません。いったい何が言いたいんでしょうか。もう少し大人しく聞いてみましょう。

この12世紀以降に見られる戦闘組織こそが、中世的な「武士団」の名に値するものと考えられる。この時代には都における武士の棟梁は言うまでもなく、また地方における豪族的領主などは、中小の在地領主層とのあいだに、所領の支配を媒介として、封建的な主従関係を作りだしつつあった。そしてそこに生まれたヒエラルヒーを基軸に、強い団結を持った戦闘組織が生まれた。これが中世的武士団の成立に外ならない。

・・・このように規定して、中世的武士団と古代的戦闘集団とを区別するとき、この後者から前者への発展が11世紀から12世紀にかけての時代、すなわち、白河・鳥羽院政期に著しかったと考えねばならない。そしてその時代は、これまでに見てきたとおり、まさに社会経済の発展と土地支配体制の新しい整備が進行した時代である。この社会構造の再編成と武士団の成立とが密接に関連しあうことは、十分に推察しうるであろう。

う〜ん、やっぱりそうですね。
「兵が兵を従えると言う重層的な階層関係」 は実は源頼信や、平維茂(これもち)余五将軍についても見られる話なんですが。それについて以下のようにおっしゃっています。

なぜならば彼らは10世紀末から11世紀初頭の人物であり、おそらくは、まだ「兵」の段階にある武力組織を持つに過ぎなかったはずであり、まだこうした武士団的ヒエラルヒーの整序は考えられないからである。『今昔物語集』の成立が12世紀初めであることを思えば、ここに典型的に示された武士団の構造は、むしろ12世紀初頭の姿であって、その時代の在地武士団の姿が、この説話に投影されていると見るのが正しいであろう。

やられた。
ただ、安田元久氏が指しているのは巻第19第4の「摂津守源満仲出家せる話」、平維茂については巻第25第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」で、それについての4〜5百とか千、三千という動員数については私も12世紀初頭の動員力としてすらも信用していないのですが、でも私が先にイメージしたのは平維茂の場合は巻第25第4の「平維茂が郎党、殺されたる語」の方です。

しかし「まだこうした武士団的ヒエラルヒーの整序は考えられない」 という根拠が何処に求められているのかということが気になりますね。そこまで言い切るにはそれなりの根拠があるのでしょう。

それについて安田元久氏は、

  • 例えば11世紀末の応徳年間に伊勢国川合庄に3町の名田を持った名主荒木田延能(のぶよし)が従類30余人を従えていたこと。(たった3町の名田で従類30余人は???ですが)
  • 1125年(天治2)に東大寺領の山城国賀茂庄が、隣接する右大臣家領山田庄の定使・藤原定元率いる弓箭(きゅうせん:弓矢)を帯びた80余名の住人によって襲われたこと、
  • そして有名な伊賀国黒田庄の悪党・源俊方の例。

を挙げています。それまではそれ一辺倒だった伝記や説話の世界から離れて「地」の古文書から論を立てようとされているのでしょうか。それ自身は文句の付けようがありません。

ただし、畿内の場合、西国の場合、東国の場合で状況は大きく違っていそうです。その中で安田元久氏が根拠としてあげたのは畿内のケースですね。東国では俘囚の影響もあったのか、9世紀の群盗蜂起で僦馬(しゅうば)の党などの、農民とは分離し、騎馬による機動力により平時には物流の担い手であり、また裏では群盗と言う騎馬武装集団があり、それを押さえる為に東国へ下向した平望らも、それらを殲滅したと言うより、むしろ睨みをきかせて彼らを配下に納めたようなところもあろうかと思います。ちょうど『将門記』に見られる「伴類」や「従類」がその後身であろうと。

伊賀国黒田庄の悪党と東国での辺境軍事貴族を中心とした武装騎馬集団とを一緒にすることは出来ないと思います。そのあたりは元木泰雄氏の『武士の成立』 p75-82あたりに詳しいです。

兵農未分離

先に(後述)と書いた件ですが、兵農未分離は先に書いた通り、戦国時代まであることなのですが、10世紀ごろの平将門の乱の頃の軍勢は本当に農民だったようです。
戦国時代には「武士であり農民である」状態でしたが、平将門の頃から平忠常の乱の頃までは、配下の伴類、つまり農民、漁民、樵夫(きこり)などの住民が軍勢の大半を占め、それが故に、「戦闘が終わったあとで敵の根拠地を掠奪して回り、農民の家々まで火を付けて焼いて引き上げ、敵方の所領を占領し支配しようとはしなかった」と言う「12世紀とは違った10世紀の合戦の特徴」(福田豊彦『東国の兵乱ともののふたち』p13 :吉川弘文館)だったようです。

福田豊彦氏に限らず「将門の乱」の研究は『将門記』に負うところが大きいのですが、その『将門記』が書かれた年代を11世紀初頭ぐらいとすると、その頃でも関東の戦は大きなものでも数十騎の従類(騎馬武者)と数百から千の農民だったのかもしれません。
それが為に平忠常の乱のあとの関東は疲弊し、乱の後に赴任した上総守藤原辰重の報告によると本来上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったと言います。

しかし将門の乱や平忠常の乱規模の抗争は東国でもまれであって、小規模な抗争では数十騎の従類(騎馬武者)が中心であれば良いので、そもそも人口も人口密度を低い東国では兵農未分離がどれほどの意味を持つのか若干疑問に思います。

安田元久氏の歴史観

安田元久氏が講談社『日本歴史全集第7巻 院政と平氏』 より2年前の1972年に、『文芸春秋臨時増刊・源氏と平家』に、「武士勢力の成長」という小論を書いたものが、『武士世界の序幕』(吉川弘文館 1982年)に収録されています。そこでは・・・

貴族的な律令体制を母胎としながら、その中で育った武士階級の代表者が、しだいに成長して貴族政権の内部に台頭し、やがて貴族政権内部での発言権を増大し、さらに貴族(公家)政権の存在をそのままに、武家独自の政権と支配体制を樹立し、ついには公家政権を事実上無力のものとしてしまうという経過をたどった。

という、石母田正氏と歩調を合わせた階級闘争史観をベースにしながら、武士の発生を次ぎのように述べています。

10〜11世紀にかけて、地方に広範に成長した在地領主が、自衛のための武力を養い、自衛組織として武士団を形成したことはいうまでもない。その武士団は、領主の族的結合を中核として結集された戦闘組織であり、はじめは個々に独立した小規模なものであったが、相互の闘争の繰り返しの間に、しだいにより強いものに統合されて大武士団へと成長していった。

更に2年前の1970年、『歴史読本』5月号にも「東国における武士団」という小論を書かれています(『武士世界の序幕』(収録)。『文芸春秋』と、『歴史読本』という、掲載誌の違いなのでしょうか、より生の声が聞こえてきます。そこでは、律令制における古代の軍団や、近代の軍隊は、同じ戦闘組織ではあっても「武士団」とは呼べないとして、こう述べます。

武士団とは、ある一定の時代に存在したところの、ひとつの構造的特質を有するものでなければならない。ある一定の時代に存在するということは、その一定の時代の時代の社会構造を背景とし、その社会構造の中に、自己を位置づけていることを意味する。

これ自体には、私はあまり(あまりですよ)異論は無いですが、でもこの先はどうでしょうか。

その武芸者が、ある一定の社会的・階級的特質を備えていることを条件として、そのような特質をもつものが、戦闘目的の為に組織されたとき、そこに「武士団」の成立を見ることができるのである。それならばここでいう社会的・階級的特質とは何であろうか。
それはいうまでもなく在地領主的性格をさすのである。在地領主とは、封建社会の形成において、地方の各地に実力をもって農民や土地の支配を作り出していった領主たちであり、しだいに、古代貴族達による支配機構を切りくずし、やがては封建社会の担い手となった階層である。
彼ら在地領主たちは古代的支配に抵抗するとともに、相互の間にも闘争を繰り返す。そうした動きのなかで、必然的に武力が要求され、武力をもって戦う間に、戦闘組織としての武士団が結集され、また領主相互の間に私的な主従関係も作りだされる。こうして武士階級がが生まれ、また、武士の社会が形成されるのである。

「封建社会の形成において、地方の各地に実力をもって農民や土地の支配を作り出し・・・古代貴族達による支配機構を切りくずし・・・」というあたり、石母田正氏の名著『中世的世界の形成』において描き出した、古代支配の象徴・東大寺の支配と戦った黒田の悪党を彷彿とさせますね。

いずれにしても、安田元久氏の、というより、石母田正氏、竹内理三氏、安田元久氏という壮々たるメンバーを旗手とした戦後初期の「武士論」が、「まず在地領主ありき」であったこと、そこに一番の力を込めていたことが、この一文から良くわかります。

更にいうなら、彼ら戦後第一世代の研究者達の一番の関心事は、「武士の時代」の最初の政権、鎌倉幕府は何故出来たか、その担い手たる武士とななにものであったかが本当の関心事で、その証明を発生順に辿ると、「まず在地領主ありき」、とおいて、そこから鎌倉幕府までの道筋を清々と論じた。そんな気がします。

一番の関心は「社会構造の再編成」?

石井進氏もおっしゃっていることですが、鎌倉御家人は開発領主であったと言う事実は確かに無視されてはならないし、安田元久氏らのアプローチによって「中世武士団の社会的実態が明らかにされた功績は極めて大きかった」と私も思います。更に踏み込めば、在地領主論の学者さんは鎌倉時代のインフラとしての武士団、そのインフラとしての社会(土地)制度の転換点「社会構造の再編成」に一番の関心があったのではないでしょうか。

「在地領主的武士論」は過去の学説ではあっても決して「愚かな誤り」では決して無いのかと。何故かと言うと、そこには本当に「社会経済の発展と土地支配体制の新しい整備が進行した時代」だと思うからです。

それを綺麗に説明することは私にはできませんが、例えば菅原道真が「国司は律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と改革を上奏した頃と同じぐらい大きな「社会経済の発展」と言うか「変質」があったのだと思います。

最初のそれは、第一段階の律令制の変質、あるいは農民の成長です。公営田、私営田とてそれが現れます。ただし、私営田が農民による、という訳ではありません。口分田方式と、租・庸・調では農民が逃げてしまってどうにもならない。そこで制度を緩和して・・・、というのが公営田、私営田です。その中で、農業経営に長けた者が私営田経営者、負名、大名田堵として成長してきます。

第二段階は、開発領主です。開発領主は、簡単にいってしまえば、国衙から一定の地域の新規開拓を請け負い、その見返りとして若干の無税の土地と、開拓した村落・田畠についての減税、その領有権を得るというものです。国衙からすれば、新規開拓地の税率は下げなければならないが、課税出来る田畠は増え、結果的に税収は増えるのでそれを奨励すると。(非常に乱暴なまとめ方ですが。)

「在地領主」というのはこの開発領主をさします。その「在地領主」の顕在化が、武士団の基盤ともなったと。それがあったから鎌倉幕府が・・・。とこう考えるのではないでしょうか。

そうした安田元久氏らの時代の研究者の、本当のテーマであったインフラの変質を理解出来ずに、表面だけを見ていると「源氏物語な平安貴族の腐敗堕落」と「新興勢力(武士)の台頭」。さらには「平家は京に居たので貴族の腐敗堕落が移ってしまった」「頼朝は京に行かずに鎌倉に幕府を立てたから貴族の腐敗堕落に巻き込まれず、新しい時代を開いた」「足利氏は京に行ったからまた腐敗堕落して弱体化した」「徳川は頼朝に習って江戸に幕府を築いたから300年も保った」とこうなってしまうのではないでしょうか。いや、私も高校生の頃にはそう思っていたのですが。

「在地領主的武士論」の頃の学者さん達は、あれこれ仮説を積み上げながら11世紀から12世紀、白河・鳥羽院政期の社会経済体制の大きな転換点を見つけた、それがもはや「前期」ではない「王朝国家体制」だったのではないでしょうか。彼らは全力を挙げてその発見を成し遂げたと。

そしてそれがもはや「発見」ではなくて「常識」「前提」にまでなったあとに、その過程で議論されていた周辺問題を個々に見直していたら「あれ? ここちょっとおかしくない?」となったのが「武士論」のその後の展開。私はそんな気がしてきました。

ただし、その後ろに見え隠れする階級闘争史観は、どうも歴史の事実をゆがめてしまうように思います。それを最初に指摘したのは、戸田芳実氏だったかもしれません。その戸田芳実氏や石井進氏が、国衙軍制論を展開し始めたのは、安田元久氏が1970年5月号の『歴史読本』に「東国における武士団」を発表したその僅か半年ぐらい前のことです。

2008.01.06追記