武士の発生と成立 下向井龍彦氏の「兵=武士」 |
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寛平・延喜の軍制の改革 武士第一号・延喜勲功者 平将門・天慶の乱 天慶勲功者 寛平・延喜の軍制の改革895年(寛平7)物部氏永を頭とする板東群盗が搬送中の官物の強奪を繰り返し、関東諸国の兵が討伐に向かうと足柄峠や碓氷峠を越境し他国へ逃走してしまいどうしようもありません。 こうした寛平・延喜の群盗蜂起の鎮圧過程で朝廷も先の国政改革と平行して軍制の改革も行います。
これが下向井説の国衙軍制の始まりです。ただし現存する資料のなかにぼんやりと浮かび上がってきたものの正体を推測するために無理矢理画像処理でコントラストを上げたみたいなところはあります。従って輪郭の位置は正確とは言えないかもしれません。 おまけに異論も出されています。その「異論」については後のページ(「橋昌明氏の国衙軍制論への態度」)で触れるることにしますが、仮に「王臣家人であろうが武勇に優れた者は誰であれ、国衙の動員に従うように義務づけた」というのがそのとおりだとしても、それが目論見通りに機能したのなら、そもそも将門の乱は単なる一族の中の私闘だけで終わったでしょう。 国衙を通じた武士の動員は、この時代にどれほど確たるものであったのかはちょっと疑問であり、何よりもそれでは将門が、対国衙の段階において、圧倒的な動員を果たし、数ヶ国の国衙を占拠した後には初期に動員した軍勢が四散した理由が説明出来ません。 武士第一号・延喜勲功者延喜元年がピークであったことからここではそれらの鎮圧に当たった武将を「延喜勲功者」と呼んでおくことにします。これらの討伐で名を上げたのが関東においては平氏の祖平高望、『古今物語集』、芥川龍之介の短編『芋粥』で有名な藤原利仁将軍、そして俵藤太こと藤原秀郷の3名ですが、下向井龍彦氏はそれぞれ前述の守を補佐する介兼押領使として任地に赴いたのではないかと推測されています。証拠は無いのですが。 藤原利仁藤原利仁は薨伝(文徳実録)に
と書かれた越前守藤原高房を祖父に、叔父には魚名流の中にあって初めて従三位中納言にまで昇進し藤原山蔭(孫娘は藤原道長の母)を持ち、越前の大富豪有仁の女婿で、「海路を飛ぶこと、翅在る人のごとし。以為へらく、神の人に化すか」(『尊卑分脈』)とまで言われた、まざに武勇に優れた王臣子孫。軍事貴族の先駆けとも言えるかもしれません。 高望王(平高望)高望王(平高望)も都で謀反を平定したその武勇を見込まれて上総介兼上総押領使(県警本部長?)として赴任したのではないかと。 藤原秀郷藤原秀郷は先の二人より後の平将門のライバルですが、尊卑分脈によると祖父藤原豊澤、父藤原村雄、そして秀郷自身も下野国衙の下級官僚(在庁官人:要するに富豪か?)の娘を母にもつことから代々下野国に根を下ろしていたように見えます。あるいはその実態は下野国の豪族だったのかもしれません。 しかしこの秀郷、お国自慢的なある説で927年(延長5)下野押領使(県警本部長?)になったとも言われるそうですが、しかしその前にも後にも犯人側で訴えられていました。 後は、929年には下野国衙は秀郷らの濫行(らんぎょう)を訴え、太政官府は下野国衙と隣国五カ国に秀郷の追討官符を出しますが秀郷らが追討された形跡はありません。こういうことは良くあるんです。隣国の国守からすれば下手に突っつくと自分の足下の大負名達まで王臣子孫達まで刺激して足をすくわれかねないと思ったのかもしれません。下向井龍彦氏の言う「追討官符」の軍制システムもその程度のものです。 ともかくこの当時の地方における国衙と王臣子孫、党、国衙が動員する軍事力(国の兵)との関係を象徴するような人物です。そして「勝てば官軍」の最初の実例であったかもしれません。平将門とも、後の平忠常とも本質的にはそんなに変わらない存在であったように思います。 この3人はある意味「最初の武士」と言っても良いと下向井龍彦は主張しますが、それぞれ後で大成したから名が残っているものの、延喜勲功者と言うだけでは「兵(つわもの)の家」と認知されるまでには至りませんでした。きっかけは作りましたがまだ「兵(つわもの)の家」、と言う概念(武士と言う職能)までは生まれなかったのです。「家」と言う概念自体が前期王朝時代までは希薄でしたし。 ある意味でその不満、あるいはそうした「兵(つわもの)」をきちんと遇しなかったことが「承平・天慶の乱」、つまり平将門、藤原純友の乱を引き起こしたとも言えます。少なくとも当時の為政者、藤原摂関家(当時は藤原忠平)はそう考えたようです。 天慶勲功者平将門・天慶の乱 は別にまとめました。そちらをご覧ください。 平将門、藤原純友の乱を「承平・天慶の乱」と呼びますが承平年間の平将門ははっきりと平家一門の内紛で朝廷もそのように扱っています。しかし平将門が常陸の国衙を襲って以降、相次いで西国では純友の乱が起こり、朝廷ではこれがえらい衝撃となり乱を平定したあとの政策にも影響を及ぼします。ちょうどこのあたりが武士と言う身分の成立にも関係してきます。 このあたりは講談社『日本の歴史』7巻『武士の成長と院政』の下向井龍彦教授の説を参考にしています。 平将門の乱の首謀者達はそれより前の寛平・延喜年間の東国での未曾有の反乱の勲功者の土着した子孫です。敵味方共にですが。また寛平・延喜年間の騒動の多くは(あまり資料は無いのですが)国司(受領・守や介)と郡司や在庁官人、負名(とりあえず富豪層)との抗争です。「駿馬の党」なんてのもそれですね。藤原利仁が名を上げたのもその征伐です。 純友の乱は同じ様な西国での争乱を鎮めた純友への恩賞の不手際がベースに有ります。それから起こった東と西、挟み撃ちの火の手に反省した朝廷は平将門、藤原純友の乱の功労者を任官、または昇進させて不満を抱かないようにし、加えて在京勤務させて直接コントロール出来るようにし、極力地方から引き剥がそうとします。天慶勲功者上位5人は
任官者は数十人に及んでいるそうです。ちなみに藤原秀郷、平貞盛、平公雅らがそれぞれの国の掾(じょう)になったのは平将門追討のために将門に組みしていない、あるいは敵対していた延喜勲功者の子孫(富豪層)を取り立てたものですからほとんど無位無冠からと同じです。平貞盛は六位ぐらいの官位ではあった様ですが。 源経基は平将門の時は逃げ帰って「いまだ兵(つわもの)道に練れず」と評されましたが、その後の藤原純友の乱では追討使次官として活躍したそうです。ここから源氏が武家となって行きます。 しかし清和であれ陽成であれ、天皇の孫にしては位が低すぎますね。なんか変 また、こうした過程を通じて朝廷が承平・天慶の乱の勲功者を貴族社会が認知したのが後の武士階級の始まりと言われています。また兵の家(つわもののいへ)もほぼここに固まります。 2008.01.04追記 |
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