兵の家各流    藤原氏系「兵の家」

藤原氏系「兵の家」

ちょっと藤原氏系「兵の家系」を見てみましょう。奈良平安期の鎌倉の寺社の方の常連?藤原房前の子が真楯と魚名で、魚名系の利仁流、秀郷流が「兵の家」となります。利仁流は北陸・越前の武士の祖で、斉藤、林、そして義経・弁慶の勧進帳で有名な富樫氏もその流れです。
秀郷流に那珂氏まで出てきちゃいました。良いんでしょうか? あれは大中臣氏(鎌足の出身一族)かと思ったけど?
更に鎌倉市図書館で「続群書類従」を見つけました。・・・が、ホント、系図って当てにならないと痛感。「続群書類従」の家系図は江戸時代にあちこちから集めたものでどこからどう集めたのかは解りません。特に那須系図なんてむちゃくちゃですね。がしかし大体の傾向は読めるだろうとこちらもいい加減に編集したのがこの系図です。

まとめておいてなんですが、下の系図も信用しないでください。『尊卑分脈』はネットで国立国会図書館近代デジタルライブラリに吉川弘文館のものが公開されており[新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第4冊]に利仁流 が、第5冊に秀郷流 があります。

 
┬真楯 −内麿 −冬嗣 ┬良房 −基経 −忠平 師輔 兼家 道長 頼通 師通 忠実 頼長        
(小野宮流)  実頼 斉敏 実資
(公家姉小路) 師尹 済時 通任 師成 師季
為任 師通 通家(公光養子)
└魚名 鷲取・・高房 時長 利仁 ┬叙用 吉信 公範 範経 範明 康盛 能盛
則高 維幸 維重
├有頼 └貞守−能成−能直?
├国風 伝傳
└利宗
└藤成 −豊澤 −村雄 秀郷 千時
(奥州藤原氏)
千晴 千清 頼遠 頼遠 経清 清衡 基衡 秀衡
└千常 文脩 兼光 正頼

(下野・小山氏)

頼行 武行 ・・・・ 行光 小山政光

(常陸・下河辺氏)

下河辺行義

(籐性足利氏)

兼行 成行 成綱 足利家綱
行範 行高
貞光
女(公光妻、公清母)
文行 公行 (佐渡守:公光実父)

公光 公修 師清 師文 ・・・奥州佐藤兄弟

(紀伊佐藤:歌人西行)

公清 秀清 康清 義清(西行)
公俊
知郷

(山内首藤氏)

助清 資通 親清 義通 俊通
通清 蒲田正清

(相模の波多野氏)

経範 経秀 経遠 遠義

(近江の藤原:近藤氏)

修行 行景 景親 景頼 能成 大友能直

(六浦の那珂氏)

公通 通直 通資

色は:正四位 従四位 従五位上以上または受領任官です。範囲は源義朝が倒れる平治の乱までとしましたが一部はあまり厳密ではありません。
:は主にその右の者からの詳細系図で家系図の倉庫サイト該当ページへのリンクです。

官位

官位は五位からが一応貴族ですが、三位以上が「公卿」、四位五位が「諸大夫」、六位の職を長年努めて後年やっと従五位下になれるのが「侍」層です。平安時代には「武士=侍」ではなくて、この系図に現れるような領地を持ち、郎党を従える武士団の長(おさ)でも貴族社会では最下級、境目前後の「侍」層に過ぎなかったと言うことで、それが武士社会になった鎌倉時代には後であれば大名・旗本に相当する「御家人」が「侍」と呼ばれ、更に時代が下って「御家人」も崩壊した後、「三匹の侍」とか「七人の侍」になってしまいます。

元々は「侍」は「武士」のことでは無かったし、「侍」と言われた「武士」は実はとっても偉かったのです。そうは言ってもここで系図に出てくるような武士はそもそもその平安時代の「侍」以上の層なので、「諸大夫」クラスを色分けして示します。事実上「公卿」は居ません。ちなみに後の「公爵」とか「伯爵」のように世襲制ではありません。家の挌によって昇進が暗黙の了解を得ていただけです。

官位は受領(国司)以外の従五位下はここでは無視します。多すぎておまけに良く解らない。
1047年(永承2年)2月21日の『造興福寺記』 に藤原氏の氏長者頼通が藤原氏の氏寺である興福寺の修造の為に一門の四位五位の貴族に寄進を要請する名簿「藤氏諸大夫」がありますが、四位が35名、五位が331名にのぼります。1時点でもそれだけいるのですから2〜3世紀の間にとなればその10倍近くです。「兵(つわもの)」はその中の何分の一かでしょうが。

それに国司は地方の在地武士団にとっては最も切実な権力者であり位では同じ従五位下であっても受領(国司)層とそうでは無い者には天と地ほどの違いがあります。任期4〜5年ながらも受領(国司)になればその国の富のいくばくかを自分のものにすることが出来、国衙を通じてその国の在地武士団を配下に収めることが出来、更にその国に自分の私領を築くことも出来ます。うまくやればですが。

地方の在地武士団からすれば受領(国司)だけでも充分にエリートの武家貴族なのですが、それが四位ともなれば、これまもうトップクラス。その中でも正四位など本当にトップです。武家貴族にこれ以上はありません。平清盛がそれ以上になったのは単なる武家貴族ではなくて国政を牛耳ったからで、私の母方の祖先と思い込んでいた源三位頼政もその平清盛の力ですから事情が違います。

2つの藤原氏系「兵の家」

藤原氏系「兵の家」としては藤原利仁将軍の系統と藤原秀郷の系統がありますが中心はやはり、最大の天慶勲功者である藤原秀郷からの流れになります。

藤原秀郷流の概観

尊卑分脈によると祖父藤原豊澤、父藤原村雄、そして秀郷自身も下野国衙の下級官僚(在庁官人:要するに富豪か?)の娘を母にもつことから代々下野国に根を下ろしていたように見えます。
祖父藤原豊澤は下野権守の他、備前守従四位上、父藤原村雄は下野大掾の他従五位上河内守とも書いてありますが、従四位上とか出てくると私は「嘘臭い」と思ってしまいます。

安和の変での挫折

天慶の乱で将門を打ち、大出世をした秀郷でしたが、その後本人が京へ上った記録はありません。代わりに上京したのはその嫡子千晴です。藤原千晴は父秀郷以来の縁からか左大臣源高明に近侍し、康保四年(967)の村上天皇崩御の際、清和源氏の満仲とともに伊勢の鈴鹿関を固める固関使にに任じられ派遣されたとか。源満仲は病気を理由に役目を辞退していますが。
その後源満仲の密告による安和の変でいきなり失脚します。

鎮守府将軍の家系

京武者・武家貴族としての秀郷流藤原氏は千晴が安和の変でいきなり挫折したものの、そのまま撤退したわけではなく、弟の千常の子孫が中央の「兵の家」として進出します。

千常流では、秀郷から数えて5代に渡って鎮守府将軍に任じられ(「結城系図」によればですが)関東北部から奥州にかけて勢力を広げます。秀郷から4代目の兼光については、あまり史料は残っていないようですが、その子、孫、甥に受領任官が多く、京武者・軍事貴族としてそれなりの評価と地位はもっていたと見ても良いでしょう。

兼光系の挫折?と土着化

しかし、「平忠常の乱」で疑われたためか、京武者・軍事貴族として秀郷流藤原氏を代表するのは兼光の甥にして娘婿、相模守公光の方に受け継がれた様に見えます。源氏ではちょうど源頼信の頃です。

その後、この兼光系の子孫達は受領の選考に登ることはなく、国衙の在庁官人を兼ねながら北関東の各地に土着していったと見て良いと思います。頼朝挙兵時に北関東で大きな勢力を持っていた小山、藤性足利、下河辺(常陸)はこの兼光の子孫です。

京での嫡流相模守公光の系統

一方娘婿、相模守公光の系統は京武者として活躍し、その嫡流は佐藤氏を名乗り、摂関家に仕え、白河院時代には北面の武士を務めています。

ただし、軍事貴族としてはトップクラスとは言えず、当時トップクラスであった源頼義・義家の前九年、後三年の役に同盟軍、または「身近き郎党」として登場します。

2006.5.14追記


とりあえずメモとしてここに書いておきます。「武士の発生」と言うページにこうありました。

2.東夷 頼朝
・・・・武士の中には、俘囚出身であることが明らかな者もいた。かの西行法師すなわち佐藤憲清は、秀衡入道の一族なりと『吾妻鏡』に明記してある。義経の家来であった佐藤継信・忠信などもそうである。

佐藤憲清、秀衡入道、佐藤継信・忠信 が「一族」と言われるのは藤原秀郷の一族と言う意味です。だいぶ遠い親戚ですが。奥州藤原氏の祖藤原経清(亘理権太夫)は下級とは言え五位の貴族であり、当時の藤原本家(摂関家)の一族の台帳にも載っています。 『造興福寺記』での藤原経清 を参照してください。

いったいいつの文章なんだろうと思ったら割と最近ですね。H15.4.16とか。上をたどって行ったら「歴史と世間のウラのウラ」と言うサイトらしいですが。歴史に正面から向き合っている訳ではではないようです。2006.01.16記