銭洗弁天お帰り編.1   鶴岡八幡宮の歴史

最近鎌倉は人力車が多くなりました。ここは八幡様からの帰りの人目当ての客引きポイント。でもこのお兄さん達(お姉さんも)結構勉強していて、お寺の前とか洋館とかでお客さんに説明をしてくれます。私は自転車で散歩をしていてそういう場面に出くわすと、さりげなく聞き耳をたてて、「う〜ん、そうだったのかぁ」と。(笑)

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11月は七五三の着物の母娘が多いですね。これは小津安二郎の映画の一コマ(大嘘)。 

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ところで現在は三の鳥居と呼ばれるあの鳥居は昔は一の鳥居と呼ばれていました。いつからでしょう、逆転したのは。

太鼓橋

その現在の三の鳥居、私にとっては一の鳥居のすぐ内側に太鼓橋があります。昔はここも通れたのですが、滑りそうで登るのは大変でしたね。そのせいか今では通行禁止。その両脇の朱塗りの橋を渡ります。

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太鼓橋がいつからあったのかは知りませんが、鎌倉時代には多分その位置の唯一の橋が赤く塗られていたことから赤橋と呼ばれ、この近くに屋敷を構えた北条氏の一流は赤橋氏と呼ばれています。

源平池と旗上弁天社

その太鼓橋の両側が源平池、そしてその源氏池の島には北条政子が平家の滅亡を祈願したとされる旗上弁天社があります。武の神・財運を授ける神・福徳開運芸能の福神ですね。今では鎌倉七福神のひとつに数えられ、その七福神めぐりでここを訪れる人も沢山。

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源平池は、伝承では北条政子が掘らせたとされ、源氏池には島が三つ、白い蓮を植え、平家池には島が四つ浮かび、赤い蓮を。島の数はそれぞれ産と死を表すとか。蓮の花の色は源氏平家の旗の色ですね。ただ、現在では赤い蓮は源氏池だけに咲き、平家池は白い蓮だけです。

源頼朝の挙兵に弁財天の霊験があったことに由来して、弁財天社を建立とされますが、吾妻鏡に出てくるのは池を作ったことだけで、弁財天がいつ出来たのかは解りません。

吾妻鏡1182年(養和2)4月24日
鶴岡若宮の辺の水田(弦巻田と号す)三町余り、耕作の儀を停められ、池に改めらる。専光・景義等これを奉行す。

国重要文化財の弁財天座像は鎌倉国宝館に寄託されていますが、あれは旗上弁天社に有ったのでしょうか、そうだとしてもそれはかなり後のことでしょうね。
と言うのはあの弁財天座像は1266年に造立されて鶴岡の舞楽院に安置したことが銘によって知られています。

文永二年(1265三月三日、年中行事の法会がおこなわれ、そのときの童舞を御所の蹴鞠をする庭で再演させた。・・・・童舞は九番であったが、この晴れの場で近衛将監(しょうげん)中原光氏は巧みに舞い、また賀殿の曲を奏して褒美の禄を与えられた。
光氏(1218〜1290)は建長五年(1253)八月十四日の神楽宮人を奏し(『弘安四年鶴岡八幡遷宮記』)、文永三年(1266)九月二十九日、木造裸形の弁財天坐像を鶴岡の舞楽院に安置した。その像底右足畳付の銘には「左近衛将監中原朝臣光氏」とある。また弘安四年(1281)十一月の遷宮のときには左近大夫将監の官で舞人の列に入ったり、陪従の役をつとめたりしている。陪従とは祭に神楽の管弦に従事する楽人をいう。
貫 達人 「隆弁」 『鶴岡八幡宮寺−鎌倉の廃寺』.平成8年.p149〜)

ですから弁財天としてではなく、もともとの弁才天つまり詩歌・音楽をつかさどる女神として造立されたものでしょう。舞楽院はそれを安置するのに相応しい場所です。その舞楽院が何処にあったのかはなんせ鎌倉時代のことですから全く判りません。(私には)

さて、明治の神仏分離でこの弁財天社も取り除かれてしまいます。弁財天て仏教なんですよね。なんか神様だから神社じゃないかって思いそうなんですが。
それが1956年(昭和31)に源氏池の中の島に再建され、更に文政年間の古図によって1980年現在のところに造替されました。周囲には源氏の二引きの白旗が沢山立っていて、源氏池の周りからのその景色はなかなかのものです。

現在ご祭神は、多紀理毘売命市寸嶋比売命多岐都比売命。 あれ? これって宗像三女神じゃありません? 

祖霊社

手水舎を左に曲がったこちらの祖霊社は頼朝が鶴岡八幡をここに移す前に、ここにあったお宮・・・、かと思ったらそれは間違いで昭和24年からのものとか。自分のご先祖様を合祀したければ社務所に申し込めば良いのだそうです、確か。

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丸山稲荷社

古くからの地主神で建久2年(1191)の本宮造営の際に現在の場所に遷ったのは丸山稲荷社の方でした。本殿向かって左側(西)になります。(写真は西奥の参道から)

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社殿は一間社造りの室町期の建物だそうで国の重要文化財に指定されているそうです。

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鶴岡八幡宮の歴史

治承4年(1180)頼朝が鎌倉に入って真っ先に取りかかったのがこの鶴岡八幡の造営で、由比の元八幡からこちらに移しました。頼朝が鎌倉に着いたのは10月6日ですが、政子を鎌倉に迎えた翌日、吾妻鏡の10月12日の条にはこうあります。

10月12日辛卯快晴
寅の刻、祖宗を崇めんが為、小林郷の北山を点じ宮廟を構え、鶴岡宮をこの所に遷し奉らる。専光坊を以て暫く別当職と為す。景義をして宮寺の事を執行せしむ。武衛この間潔斎し給う。
当宮御在所・本新両所の用捨、賢慮猶危きの間、神鑑に任せ、宝前に於いて自ら神鬮を取らしめ給い、当砌に治定しをはんぬ。然れども未だ花構の餝りに及ばず。先ず茅芝の営を作す。
本社は、後冷泉院の御宇、伊豫の守源の朝臣頼義勅定を奉り、安倍の貞任を征伐するの時、丹祈の旨有り。康平六年秋八月、潛かに石清水を勧請し、瑞籬を当国由比郷に建つ(今下若宮と号す)。永保元年二月、陸奥の守同朝臣義家修復を加う。今また小林郷に遷し奉り、頻繁の礼奠を致すと。

自分の館よりそれを優先しています。
かなり急ごしらえでしたからおそらく柱は伐採した木の皮を剥いただけか、あるいはそれすらしなかった仮屋のようなものだったかもしれません。その翌日には平家の小松少将平惟盛が数万の軍勢を率いて駿河国に迫ると言う緊迫した状況下でです。

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こんな感じでしょうか? これは2005年に手水舎の修復のときの仮舎ですが

たった4日後の吾妻鏡10月16日の条はこうです。有名な富士川の戦いの始まりですね。

10月16日乙未
武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて長日勤行を始めらる。所謂法華・仁王・最勝王等、国家を鎮護する三部妙典、その他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等なり。供僧これを奉仕す。相模の国桑原郷を以て御供料所と為す。
また今日駿河の国に進発せしめ給う。平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣、数万騎を率い、去る十三日、駿河の国手越の駅に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。今夜相模の国府六所宮に至り給う。

その頃の本殿がこの下拝殿のあたりです。本殿と言っても「茅芝の営」でしかありませんでしたが。そしてここを中心に鎌倉の都市計画を初めます。

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これは2005年の夏

鶴岡八幡の造営が、単なる宗教上の理由や先祖崇拝などではなく、軍事的に極度に緊迫した状況において、自軍の結束を固めるための優れて政治的な意味を持っていたと解することが出来るでしょう。

どうしてそれを急いだかというと、由比の鶴岡八幡は頼朝の祖先、源頼義が相模国を初め関東の武士を率いて奥州「前九年の役」を戦ったときに建てたもの。その鶴岡八幡を鎌倉の中心に据えなおし、「関東の武士はみな頼義以来の源氏の家人であるぞ、こに集まれ」と言う必死の演出です。権威は自分ではなく源頼義であり八幡太郎義家です。それを鶴岡八幡と言う形で板東武者の精神的支柱に祀りあげます。そして自分はその権威に一番近い者であると。

なんせ石橋山での負け戦で這々の体安房に逃れた自分を錦の御旗に、三浦氏、千葉氏、上総介平広常が主に房総半島で自分の対抗勢力、上総介広常に至っては自分の兄すらうち破った結果の彼らの勢力がその実体なのですから自分の足元の脆さを一番良く知っていたのは頼朝自身です。

頼朝の一連の演出はある意味実に効果があって、つい最近まで歴史学者すら惑わされてきたほどです。そのあたりは京大の元木泰雄氏が実に綿密に研究されています。と言う話題はこちらの方のテーマですが。 

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2001年4月の下拝殿での静の舞。白拍子の装束ですね。まだ小学生だった娘を肩車
してその娘が撮したものです。ちゃんと水平になっているのは画像修正。(笑)

鶴岡八幡宮・放生会

初めて放生会(ほうじょうえ)とその一環として流鏑馬が行われたとされるのは1187年のこと。

文献上は吾妻鏡 文治3年8月15日条が初見です。(「吾妻鏡」に見る流鏑馬はこちらに。)
その放生会は現在日を新暦に合わせて9月15日の前後3日間の例大祭として行われています。

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2007.9.16

改めて石清水八幡宮を勧請

建久2年(1191)の火災により社殿が灰燼に帰したとき、その焼け跡で頼朝は泣いたそうです。確か吾妻鏡にあったと思います。・・・・ 有りました。

3月6日甲寅
若宮火災の事、幕下殊に歎息し給う。仍って鶴岡に参り、纔に礎石を拝み、御涕泣か。
則ち別当坊に渡御し、新営の間の事を仰せ含めらると。戌の刻大地震(帝尺動く)。
頗る吉瑞なりと。

そしてすぐさま再興にかかります。

3月8日丙辰
若宮の仮宝殿造営の事始めなり。行政・頼平これを奉行す。幕下監臨し給うと。
3月13日辛酉快霽
夜に入り若宮の仮殿遷宮。別当法眼並びに供僧及び巫女・職掌等皆参る。随兵百余人、兼ねて宮の四面を固む。義盛・景時・盛長等これを奉行す。御出の間佐貫大夫御劔を役す。愛甲の三郎御調度を懸く。河匂の七郎御甲を着す。所雑色基繁・源判官代高重等松明を取り御前に候す。

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改めて石清水八幡宮を勧請し、そのとき本宮(上宮)としたのが現在のあの階段の上です。

4月26日癸卯天霽、風静まる
鶴岡若宮の上の地に、始めて八幡宮を勧請し奉らんが為、宝殿を営作せらる。今日上棟なり。奉行は行政と。幕下御参り。今日後藤兵衛の尉基清使節として上洛す。
11月21日丙寅天霽風静まる
鶴岡八幡宮並びに若宮及び末社等の遷宮なり。義盛・景時等、随兵を率い辻々並びに宮中を警衛す。その後幕下(御束帯・帯劔)御参宮。江間殿御劔を持ち御座の傍らに候ぜらる。朝光同じく参候す。すでに殿内に送り奉る。好方宮人の曲を唱う。頗る神感の瑞相有りと。

頼朝は自分が板東武者が担ぎ上げた御神輿だと一番良く知っていました。そればかりか自ら進んでみんなに担がせる御神輿として鶴岡八幡を作った。そして自分もそれに乗ったと。あれが頼朝だったからこそ鎌倉幕府はあそこまでなったのだと思います。息子達はダメでしたが。

そうそう、吾妻鏡の10月12日の条にもあるように、鶴岡八幡はそれから明治に至るまで鶴岡八幡宮寺です。

八幡とは

古くは「はちまん」ではなく「やはた」です。その八幡とは「焼き畑がなまった」とか「多くの旗を立てて祭るから」とか、諸説あるそうですが、後付の想像でしょう。あるいは知っていてもそれではまずかったか。例えば大神氏。

もっとも根拠が有るのは豊前国筑城郡綾幡郷にある矢幡八幡宮だそうです。つまり八幡は他の神社同様に地名だったと。矢幡八幡宮とはその意味では同義反復なんですが、そう言われ出したのは大神氏が応神天皇を持ち込んでから大分後のことではないでしょうか。

これは単に語呂合わせではなく、歴代の天皇は即位奉告の勅使を宇佐八幡宮に派遣していましたが、それを受けた宇佐八幡宮の宮司は末社であるはずの矢幡八幡宮に奉告の参拝をしたそうです。その矢幡八幡宮が元宮とすると符合します。

また八幡神は本来は女神のようです。

八幡神の歴史

先の放生会ですが、元々仏教のもので、天武天皇より676年に放生の勅が出され、天変地異や祭礼の際に放生を行なったことに始まるそうですが、八幡宮の元となる宇佐八幡宮での起源は720年(養老4年)に遡ります。

古事記が編集されていた最中、南九州で大和朝廷に従わなかった「隼人」が700年には川内国府を、大和では「日本書紀」が完成した年でもある720年には大隅国府を襲撃し反乱の烽火を上げます。大和朝廷は万葉集歌人として高名な大伴旅人が率いる大和朝廷軍が721年にこれを攻めて九州全域を支配下に置きます。

またこの戦いを契機に(またはその乱の発端となったのか)、4世紀後半の応神天皇を祭る大神(おおが)氏が宇佐の主導権を握り、宇佐八幡宮を中心に宇佐を支配していた辛島氏が完全に大和朝廷の元に従属するようになったそうです。その5年後、聖武天皇即位の翌年725年(神亀2)に官社として八幡宮が造立され、更に5年後の730年に官幣を受けて大和朝廷の神社となります。

その戦後、戦死した隼人の霊を弔うために、宇佐郡和向浜で蜷貝(にながい)を流す放生会を行ったのが最初とされます。仏教のものを何で神社で? と思われるでしょうが、その隼人の乱では宇佐氏の法蓮と言う僧が大和朝廷側で宇佐神軍を率いて活躍します。
宇佐八幡宮なのに僧とはこれ如何にと思われるでしょうが、それは昔は神仏混合だったから・・・
なんて言うのより更に昔からここでは仏教的色彩が強かったようです。

と言うのは宇佐八幡宮は大和朝廷が全国支配を完成する以前からの神社で、中心は朝鮮の新羅系渡来人秦氏族の辛島氏(豊国)の辛国息長姫が、山国の海国神と宇佐国の比盗_(口に羊:ひめのかみ)に取って代わる、または合体して比売大神(ひめおおかみ)になったと言われます。その当時の八幡神は原始八幡神として区別して研究されています。

現在、八幡神とは、応神天皇(誉田別命・ほむだわけのみこと)、神功皇后(息長帯比売命・おきながたらしひめのみこと)、比売大神(ひめおおかみ)の3神のことですが、神功皇后が併祀されたのは平安時代になってからとか。

応神天皇の名が記録に表れるのは隼人の乱の頃の古事記日本書紀ですから当然かたりべによる伝承の世界の天皇です。そもそも継体天皇以前は本当に血のつながりがあるのかさえ不明ですから。
八幡神と仏教・八幡大菩薩

原始八幡信仰が新羅系渡来人であれば、当初より仏教的色彩を備えていたことは不思議ではなく、「続日本記」には「八幡大神禰宜尼大神朝臣杜女」と禰宜 が尼であることが記されているそうです。言ってみれば神仏混合の走りみたいなものでしょうか。

そう言えば「南無八幡大菩薩」と言うその「菩薩 」は仏教ですよね。「八幡」は神なのに。
八幡神が大菩薩になったのは平安時代の初期の天応年間(781-782年)に「護国霊験威力神通大菩薩」とあるのが文献上の初見だそうですが(貫達人「鶴岡八幡宮」p14)
これは前奈良時代の749年(天平感宝1)に、聖武天皇光明皇后大仏建立の折に、この宇佐八幡はおそらくはその渡来系の鋳造技術をもって協力を申し出、それによって「八幡大菩薩」の称号を授けられ奈良に進出します。どうもその後反撃を食らったようですが。

その後、聖武天皇・光明皇后の子で女帝・称徳天皇のときが有名な道鏡に絡む宇佐八幡宮神託事件(769年)です。称徳天皇の死後、帝位についた白壁王の子が桓武天皇。奈良・平城京における仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国の長岡京、794年に改めて平安京への遷都を行った天皇ですね。平氏の始祖でもあり、また坂上田村麻呂征夷大将軍 として東北地方を侵略し蝦夷を服属させた天皇でもあります。神功皇后を併祀したのはその頃です。

石清水八幡宮寺

更にその孫の孫・清和天皇清和源氏の始祖)がわずか9歳で即位した翌859年に空海の弟子であった僧行教が宇佐神宮に参詣した折に八幡神(大菩薩)より「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けたと言うことで、翌860年に都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神として石清水八幡宮寺が造られ、伊勢神宮に次ぐ国家の宗廟(そうびょう)とされました。

元々仏教との融合の強かった八幡神(応神天皇)がとうとう仏僧によって京に連れ去られたと言う訳です。それまでは八幡神の神託はシャーマニズムの色彩を残して大神氏の巫女に降りるものでしたが、それが断ち切られて密教との結合が濃厚になります。
おらくは僧行教を宇佐神宮に派遣した清和天皇の外祖父で、後の藤原北家全盛の礎をつくった摂政藤原良房の意向でしょう。「続日本記」はこの藤原良房の監修です。

宮寺ですね。その石清水八幡での放生会は明治時代の神仏分離により廃止されます。

この「王城守護」が「朝家(朝廷)の爪牙」を自認する「兵の家(つわもののいえ)」、清和源氏が信仰する理由となります。源頼信が1046年(永承元)に願文(がんもん)を納めた写しが残っており、それには清和天皇からではなく、その子陽成天皇の子孫とあることから大論争を引き起こしています。

その源頼信の孫・源義家はここで元服したことから八幡太郎義家と呼ばれます。

若宮八幡

九州の宇佐八幡に始まり平安時代に近畿に進出して石清水八幡宮寺となり、その後源頼義の父、源頼信以来河内源氏の信仰するところとなりますが、源頼義が潛かに石清水を由比に勧請し、頼朝が現在の地に移したのは「若宮」です。 「若宮」は後白河法皇撰の今様集『梁塵秘抄』 に詠われるように「神」ではなく「神の家の小公達」です。

242:神分三十六首
神の家の小公達は、八幡の若宮熊野の若王子子守御前、比叡には山王十禅師、賀茂には片岡貴船の大明神。

これもその関係ですね。

259:(神分三十六首)
熊野の権現は、名草の浜にこそ降りたまへ、若の浦にしましませば、年はゆけども若王子。

「若宮」は平安時代の飢餓や疫病の蔓延とともに旧来の神社の中に庶民を救ってくれる神として登場したもので、多くは御霊信仰に基づく神であり、民衆やその後の御家人層の信仰を集めていました。仏に対する観音や菩薩みたいな感じですかね。
建久2年(1191)に改めて石清水八幡宮から勧請されたあとも若宮八幡と称されたようです。

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現在の若宮です。2006年の七夕のとき

大銀杏

三代将軍実朝はこの銀杏の木に隠れていた公暁に斬り殺されたと言う伝承は有名ですね。
でも、そのとき、この銀杏はまだ芽も出してはいません。その右に見えるのが若宮です。

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白旗神社

こちらの奧は本宮の東側に当たる白旗神社です。1200年に2代将軍源頼家が父頼朝を祭神として建立したんだそうです。後に3代将軍実朝も祀られたとか。

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拝殿は唐破風造りで明治20年の改修で、漆塗りの黒みがかった柱に金の飾りが施されたんだそうです。見た感じもっと最近の改修かと思ったけど漆を塗り直しているのでしょう。鶴岡八幡宮本殿より何か雰囲気があります。

鎌倉国宝館

その白旗神社から正面に源氏池の方に進み、流鏑馬の道へ出る手前左が鎌倉国宝館です。屋根か見えているのがそうです。(地図はこちら

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ここは是非とも立ち寄られることをお薦めします。私がお薦めするのは彫刻ですが特に辻薬師堂にあった十二神将です。
辻薬師堂は藤原の鎌足の玄孫、奈良の大仏を作った良弁(ろうべん)僧正の父染屋太郎太夫時定が幼子(後の良弁)が鷲にさらわれたとき、我が子の遺品のあった名越字御獄の地に建立供養したとの伝承のある医王山長善寺が移ったものです。

中心の薬師如来(訳詞瑠璃光如来または大医王仏)立像は、鎌倉に現存する数少ない平安仏の1体で「行基」の作と伝えられている。もちろん行基は奈良時代の人ですからそこの部分は伝承で、実体が平安仏と言う訳なのですが。
それを守る十二神将は一部は室町時代の後補ですが、それ以外は鎌倉時代のもので、かつ鎌倉で一番古い十二神将像です。十二神将像と言うと覚園寺ものも有名ですが、おそらくはこちらのものを手本に作られたのだろうと。しかし損傷が激しく鎌倉国宝館に移して修復を行ったものがこちらに保管されています。

ところで、その十二神将像、あのお顔は西洋人と思えば思いっきり納得します。それも地中海からラテン系に。当時中国の都にはインド人やらマルコポーロに限らずヨーロッパ系の人は沢山居たでしょうからもしかして日本にも?


さて、鎌倉国宝館を出て、流鏑馬の道を左に、そして鳥居を出て直ぐに右に曲がるとこの道です。左側の電信柱から向こうあたりが頼朝時代の政所と言われています。
バス通りを突っ切ってそのまま真っ直ぐ路地裏を進みましょう。(地図はこちら

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