武士の発生と成立  川尻秋生氏の「武門の成立」

面白い武士論を見つけました。吉川弘文館・日本の時代史6 加藤友康編 『摂関政治と王朝文化』の中の川尻秋生氏の「武門の成立」 です。川尻秋生氏はここに着目されています。

「将門の乱は古代(平安時代は中世でなく古代)はおろか中世に降っても、都の貴族たちの記憶に再生産し続けられた大事件であった。

確かにそうですね。ほとんど同時に起きた西国の藤原純友の乱と比べてなんと将門伝説の多いことか。京で晒されていた首が空を飛んで関東に戻りここに落ちたとか、将門塚もいくつあることやら。その祟りも並々ならぬものがあります。
物語に藤原純友と平将門が同時に出てきても将門が主役、純友はそれをそそのかした方ですね。比叡山頂から京の都を二人で眺めながら一緒に天下を獲ろうと話したとか。

将門の乱は何年もに渡りますが、大事件と認識されたのは将門が「新皇」を名乗ったのが京に伝わってからです。純友との最大の違いもそこでしょう。朝廷・公家社会を根底からひっくり返される恐怖と言うのは長い歴史の中でもそのときしか無いのではないでしょうか。鎌倉幕府とて朝廷をひっくり返そうとした訳ではありません。

現在ではその伝承は関東に集中していますが、将門の乱以降の京では、960年に (961とも)平将門の子が入京するとの噂が広まり、その捜索の為に源満仲が動員されたりしています。
安和の変のときも「禁中の騒動、ほとんど天慶の大乱の如し」と天下を揺るがす大事件は必ずと言って良いほど将門の乱を引き合いに出しています。大火があったら将門の残党の仕業ではないかとか、ほとんど朝家・公家の深層心理に遺伝子として組み込まれてしまったかのような。

遺伝子として組み込まれたその恐怖と、その最大の危機を「武」によって取り除いた天慶勲功者の代表として代々記憶に刻まれたのが藤原秀郷平貞盛源経基だったのだろうと思います。そしてその藤原秀郷、平貞盛、源経基らの子孫にとっては、それをアピールすることが自身の出世の有力な手がかりだったのではないかと。こうした「兵(つわもの)の家を継ぎたる者」が「武人」ではない「武士」と考えることが出来ないでしょうか。

そう考えると、規模的には同じと思える将門の乱の鎮圧者と、純友の乱の鎮圧者と、おそらく武勇は同じであったろうに、後々の代の武士の名門としては将門の乱の鎮圧者の方が圧倒的に優位にたったことも納得出来る気がします。つまり極論するなら将門の「新皇」宣言が「武士」を生んだ と。
これは高橋昌明氏の「武士を武士として認知したのは王権である」と言う主張にも沿いながら、その「王権」の「深層心理」、「トラウマ」「将門の新皇宣言」ではなかったのかと思い出しました。いや、
もちろん暴論でそれだけではありませんが。

また、その観点から見ると、平将門、藤原秀郷平貞盛源経基は「武士の家」の根拠ではあってもいまだ「武士」ではなく、その子孫が「武士の始まり」だったと見ることが出来ます。
もちろんこれは「武士」を「武勇ある者」とは別の定義で考えています。「武士」を「家業」として見ています。「武士」を「武の家を継ぐ」、つまり「イエ」の成立と結びついた段階から、と考えると、奈良時代の将軍、武人とは区別された、後の「武士の統領」、鎌倉幕府のインフラである御家人層の「イエ」の出発点として理解することが出来るのではないでしょうか。 

もちろん「イエの成立」も「武士の成立」も、「何年を境に」などと明確な線引きが出来るようなものではありません。
ただ、藤原秀郷平貞盛源経基ら天慶勲功者とそれ以前の藤原利仁将軍らの子孫が、左右・衛門尉、検非違使、から受領へと言うコースが確定し出した段階では、確実に「武士の家」が意識されていたと言って良いでしょう。


ところで、このページのタイトルは「川尻秋生氏の『武門の成立』」 ですが、その実「川尻秋生氏の『武門の成立』を読みながら考えたこと」ぐらいのところです。川尻秋生氏はより多くのことを論じられていますのでぜひそちらをお読みください。