鎌倉七口切通し 六浦道と朝比奈切通し.2 |
平安時代以前 鎌倉時代から室町時代 江戸時代から昭和 朝比奈切通の伝承の世界 頼朝の時代頼朝の時代にはもうひとつ十二所の明王院から浄妙寺の間に上総介の親戚でこちらは頼朝の信頼厚かったと吾妻鏡に書かれる千葉介常胤の館が有ったと言います。これも房総半島の豪族=御家人。そこに館を建てたのは頼朝の鎌倉入り以降でしょうが、そのことからも現在の千葉県、当時は上総の国、下総の国、安房の国から東京湾を船で渡って六浦(金沢文庫の隣)から鎌倉に入るルートが鎌倉時代も北条泰時の時代、1240年よりも前の頼朝の時代(1180年)でも重要なルートであったようです。 ただし、その道は現在の朝比奈切通しではなくその南側の尾根沿いのルートだったろうと思われます。久木から熊野神社に抜ける尾根伝いの池子ルート後半ですね。 鎌倉と六浦のちょうど境あたりに熊野神社があります。位置は切通しの南側の尾根(権現山)の反対側。権現山と言う名前もこの熊野神社とセットでしょう。そしてその縁起は頼朝が朝比奈道の守り神として勧請、その後北条泰時が社殿を建立したと伝えられます。伝承ですから確たる証拠ではありませんが。 現在のハイキングコースはちょうどこのお社の背後を通っていますが、頼朝以前から頼朝の頃までは六浦道は現在の切通しではなく、この熊野神社の前を通っていたのでしょうか。他にも道は有りますが。 そしてこのやぐらのあたりを? もっともこのお社は何度も建て替えられ、元禄8年(江戸時代)に地頭加藤太郎左衛門尉が再建、安永及び嘉永年間に再度修築されるなどしており、多少は位置が変っているかもしれません。 北条氏の時代(吾妻鏡に見る六浦道)頼朝の時代は六浦はおそらく和田義盛、またはその一族の領地だったと思われます。というのは和田合戦(1213年)の後に六浦は2代執権北条義時のものとなり(このとき山内荘も)、義時の死後、北条泰時の弟に当たる北条実泰(1208-1263年)がこの地を相続しています。 1230年(寛喜2)3月に将軍頼経が三崎磯山の桜見物を志した時も、この六浦津から船出したことが「吾妻鏡」に記されているほどで、道が無かった訳ではありません。
そして六浦道のこの切通しは吾妻鏡によると1240年(仁治元年)11月、幕府で造道が決定され翌年4月工事が着手されたそうです。
「鎌倉と六浦津との中間に始めて道路に」とあることからこの工事で初めて鎌倉と六浦の間に道が出来たとする見方もあるようですが、次の記事にもあるように、この工事についての沙汰は複数回あり、「始めて」とは工事について最初の「議定」と言うところでは無いでしょうか。 もうひとつは「縄を曳き丈尺を打ちて」によって、それまでの道とは違うルートで新しい道を作ったとも読めます。実際に今の切通し部分は、尾根を切り通して初めて道になると言うような地形です。「旧道はもっと南の尾根」と誰しも思うのはあそこは切通していなければ何が悲しゅうてそんな処をと思うようなルートだからです。割り当てられた御家人達も何が悲しゅうてこんな山中で土木工事をとやる気がしなかったんでしょうね。
この工事を視察に来た執権北条泰時がみずから先頭に立ち自分の馬で土を運んだりしたパフォーマンスで志気を盛り上げたとか。
それから10年後、孫の5代執権北条時頼は改修工事の沙汰を出します。台風やら土砂崩れなどで相当に埋まってしまっていたのでしょう。だから昔の道は尾根伝いが多かったんですが。
吾妻鏡に登場するのは工事の記録は上記の4件の記述だけですが、そうは言ってもこれは切通し関係の記述では最大です。
軍事面?先にふれたこの地の領主・北条実泰は1235年頃に27歳の若さで突然出家していますので、1240年当時には実泰の子北条実時(1224-1276年)の所領です。しかし当時はわずかに16歳。小さい頃から非常に聡明だったらしく、北条泰時にも可愛がられ、18歳のときに泰時の孫で執権侯補者であった北条経時の師友に抜擢されています。それだけにおそらく北条実時は鎌倉中に住まい、後には京の六波羅にも。この六浦には代官と郎党が居たぐらいではないでしょうか。 しかし切通しはよく軍事的防衛のためとか言われますが、軍事的防衛面では山中の切通しよりも、鎌倉の東への玄関口六浦に居た北条実時の郎党の方がよっぽど大きな意味を持ちます。 当時の中下層の武士は職業軍人ではなくて平時には庄屋か豪農、出来上がった領地から年貢を吸い上げるのではなくて、御家人と言えども一所懸命に田畑の開拓をして、自らが生み出した富と土地を保障(御恩)してもらう、更に租税の一部を免除してもらうために主に「奉公」するんですから田畑が無ければ兵は養えません。 武士が禄をもらって生きていた江戸時代とは違うのですから鎌倉中にはそれほど多くの武士が居た訳ではありません。多くの御家人は鎌倉出仕の折に使う宿館を持っていましたが、北条・三浦・安達などはむしろ例外で、関東であっても御家人は通常領地にあって領国経営を行っています。鎌倉の館に居るのは留守番、兼領地の御家人(主人)への連絡係ぐらいでしょう。その御家人が鎌倉に出仕しているときも、数騎から十数騎と言う処でしょう。事が起これば領地から家の子郎党を呼び寄せます。北条氏は和田の乱以降、奈良時代から良田で有名な山内荘、そして良田ではないけど交通の要所六浦を領地として押さえ、即座に兵を動員出来る状態を作っています。 北条泰時、北条時頼がはっきりと命じて整備したのは、この六浦道と山内道です。それは北条一族の領地への道であって、その軍事目的に注目するのなら、それは北条一族の近隣の兵を素早く鎌倉中に移動させる為です。 もしも東から攻めてきたとしたら、六浦に北条氏の一軍が居ることが一番の防衛です。なんせその外には東京湾と言うこれ以上はない大きな堀が有るのですから。次にその六浦の北条氏(金沢氏)が破れてしまって、鎌倉中の軍勢で第二防衛ラインをひくとしたら? 朝比奈切通しの平場でしょうかね? でも切通しが出来る前の旧道を回って挟み撃ちされたら一巻の終わりです。そちらに「防衛遺構」は何もありません。わたしが守るなら後に実例のある杉本寺のあたりですかね。ここなら間道や、あるいは久木・逗子方面から来たとしても挟み撃ちなどと言う目には遭いません。実際にこの地には所謂杉本城の他にも相当大きな武士の館と思われる遺構が発掘されています。(参考:「中世の道を探る」藤原良章編 P176 杉本寺周辺遺構) 物流面次に本来の機能と思われる物流面を見てみましょう。 六浦は平安時代以前から重要な物流の拠点だったろうとは先に述べた通りですが、しかしそれが大きく栄えたのはこの切通しを含む六浦道が本格的に整備された1240〜1250年以降であることは吾妻鏡に見た通りです。ちょうどその頃、3代執権北条泰時から5代執権北条時頼の頃は、鎌倉の人口が急成長した時代であり、食糧、材木は元より、焚き木すら房総半島などからの輸入品だったみたいです。 その物流を支えたのがこの朝比奈切通しを含む六浦道と、材木座の和賀江港、そして甘縄のあたりの前浜(前浜と言う名は複数の場所で使われているようです)、そして山内道だったのではないかと。その中で塩に関してはこの六浦道がメインであったことは六浦に良質の塩田があったらしいこと、そして塩舐め地蔵の伝承などからも推察できます。 新編相模国風土記稿によると、
もっともその伝承自体はいつの話なのかは判りませんが、北条氏の時代の鎌倉の人口(少なくとも万人の単位)を考えるとかなりの量がここを超えて鎌倉に運ばれたのでしょう。 さて、それ以前から道は有ったはずなのに、何故執権北条泰時は尾根を切り通してまで新道を作ったのでしょうか。これは想像に過ぎませんが、旧道と思われる尾根道は、馬を引いて通れはするものの自然の地形をなぞった細い道です。それも右へ曲がり、左へまがり、登り下りの繰り返し。人の往来、運ぶ物資の急増からとてもそれではやってられないと、荷駄を運ぶ馬がすれ違える道幅、直線的な道が必要になったと言うことではないでしょうか。今なら4車線のバイパスですね。 そうした物流の急成長の中で六浦は栄えていきます。実時はのちに六浦に称名寺を開き、金沢文庫を建て、吾妻鏡はそこで編纂されました。 しかし5代執権北条時頼の命じた工事ですべてが解決した訳ではなく、金沢文庫に残る記録には極楽寺の忍性の推薦で六浦(現在は金沢文庫)の称名寺の長老となった審海(西大寺・叡尊の高弟)の日記だったかに、この間大雨が降って鎌倉への六浦道が通れなくなって難義なことだとかあったようです。 どこで読んだのか忘れてしまいましたが、「六浦」をその当時は「むつら」と読んだらしいと言うのはその奈良からやってきた審海の文書にわざわざ(ムツラ)と読みがふってあったことからだったと思います。審海がここの長老となったのは1267年(文永4年)の事ですから5代執権北条時頼が命じた工事から20年前後あとの事となりますね。 鎌倉幕府の最後と南北朝時代鎌倉幕府の最後の時ですが、新田義貞の旗揚げとともに先の千葉氏も反北条になって鎌倉に進撃し、鶴見で六浦を領していた北条一族の金沢貞将を破りますが、この朝比奈口には来ないで新田本隊と合流して西から鎌倉を攻めています。別にここが難攻不落だったからじゃなくて本隊に合流したかったんだと思いますが。 「梅松論」では、
「太平記」では
余談ですがこの金沢武蔵守貞将の最期は「太平記」に壮烈に描かれていて「当家も他家も推双て感ぜぬ者も無りけり」、涙なしには語れないと。 外からこの道を通って鎌倉を攻めた唯一の記録はそれから4年後、南北朝時代の1337年(建武4)12月にです。義良親王を奉じて陸奥守として奥羽を掌握していた北畠顕家が、後醍醐天皇の命により北条時行、新田義興らも含めた軍を率いて上洛する途中、足利義詮の守る鎌倉を攻めたときです。 ただしその戦いはここの切通しではなく、北畠顕家勢の一隊は、切通しを通って鎌倉に入り、現在杉本寺のあたり、杉本城で鎌倉方との戦いになり足利義詮方の斯波三郎家長以下300余人が篭って討ち死にしました。(「鶴岡八幡宮社務記録」) ところでこの北畠顕家、南北朝時代の武将として有名ですが、公家です。上杉氏もそうでしたが。鎌倉時代の後でも「武士」と言う階級は今思われるほど確たるものではなかったんですね。 朝比奈砦?ところでこの少し手前の朝比奈切通しの鎌倉側出口のあたりで「朝比奈砦かも」と言うことから発掘調査が行われました。 しかし、砦を証明するようなものは何も出てこなくて、有ったのは埋葬場です。でっかい瓶を埋めてそこに火葬したお骨をどんどん入れていたようです。すぐ近くの鑪ヶ谷北遺跡調査報告書でもおなじようなものです。調査報告書は下のように「朝比奈砦」ですが。内容からすると「朝比奈砦じゃありませんでした報告書」です。だいたい「朝比奈砦」って話はいったいどこから出てきたんでしょうか。 室町時代称名寺の末寺、六浦の常福寺の阿弥陀三尊像のことは先に触れましたが、その常福寺は室町時代には、ここ六浦道を朝比奈切通しを超え、鎌倉へ往来する荷主から関料(通行料)を徴収する役目を持った重要な寺だったようです。(「図説かなざわの歴史」より) 具体的には1422年(応永29)の金沢文庫古文書の中に、称名寺造営の費用にあてるため、常福寺門前に関所を設けたことが記されているそうです。通行税は通行人が二文、荷駄が三文とか。室町時代にも鎌倉・六浦間の往来がそうとうあったことが分かります。 ただ、何で関料が取れたのでしょうか? 確かに峠の反対側、鎌倉にも荏柄天神社の関取場がありますがそれはもっと後の時代で重ならないでしょう。 上杉禅秀の乱が1416年(応永23)。それから鎌倉公方周辺はきな臭くなり、1422年はその6年後です。足利持氏も常福寺、称名寺の庇護どころでは無くなり、その減額の代わりに関料徴収を認めた、そしてそもそもが六浦道山間部は称名寺が補修等の維持管理していたから関料(通行料)が取れたと言うことはないでしょうか? 常福寺の本山称名寺は忍性の居た極楽寺とともに鎌倉における真言律宗の拠点です。そして真言律宗は北条氏の手厚い保護を受けますが、同時に下層民を地盤として、非人や石工とかその他の職能民を組織化しており、全国で橋を架けたり井戸を掘ったり、道を造ったりしています。 例えば、和賀江港は最初は往阿弥陀仏と言う念仏僧が3代執権北条泰時の頃の1232年(貞永1)7月12日に幕府に願い出て、8月9日に竣工したものです。念仏僧の集団は和賀江の築港。称名寺などの大寺の建立。そして大仏造立までの土木工事を手がけていますが、叡尊・忍性らが鎌倉を訪れたことによってそれらの地盤は真言律宗に吸収されていきます。その後忍性の極楽寺は和賀江港の管理を任され、津料(港湾使用料)を取る権利を認められてたことが鎌倉幕府滅亡後の足利尊氏書状(安堵状?)により知られています。足利尊氏は「忍性菩薩の例によって」と。 参考:高柳光寿「鎌倉市史・総説編」p290 その同じ真言律宗の拠点称名寺の末寺が鎌倉へ通じる六浦道を通過する荷主から関料(通行料)を徴収する役目を持っていたと言うことは、称名寺が真言律宗となって以降、この切通しの維持は律宗が組織した人夫・職能民によって改修が行われていたのではないでしょうか。 称名寺が鎌倉幕府の滅亡により、金沢(かねさわ)北条氏と言う大旦那を失ってもまだその広大な寺域を維持していたのは、鎌倉に居た足利公方にとって、土木職能集団の組織者として重要な役割を認められていたからと思えてなりません。大道山常福寺は足利持氏の祈願所だったようです。そして1455年の享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が下総国古河に移るとともに鎌倉は主を失い関東における政治経済の中心ではなくなります。以降、称名寺だけでなくほとんどの鎌倉の寺院が衰退していきます。おそらくこの六浦、そして六浦道も。 2007.07.11〜18 再編集 |