鎌倉七口切通し 六浦道と朝比奈切通し.4 |
平安時代以前 鎌倉時代から室町時代 江戸時代から昭和 朝比奈切通の伝承の世界 伝承の世界・朝比奈の名ところで鎌倉時代には「朝比奈切通し」と言う呼び名はありません。それはそうでしょう、この名は和田義盛の三男、朝夷奈三郎義秀が由来なんですから。
朝夷奈三郎義秀は和田一族が滅んだ和田合戦で猛将ぶりを発揮し、当時は若者だった北条泰時や足利義氏と切りむすび、最後は行方が分からなくなったことから田谷の洞窟に潜んでいたとか、500 騎の兵と 6隻の船で安房に逃亡したとか(ぶらり金沢散歩 史跡・朝比奈切通し−歴史・伝説・民話を歩く−)伝えられる人物です。 しかし500 騎も兵を引き連れていたのなら和田氏の圧倒的勝利で終わったはずなんですが。こなみにこの小さな滝は三郎の滝と言う名がついています。付けられたのは江戸時代だと思います。 「鎌倉七口」と言う「名数」について記述した最も古い文献は『玉舟和尚鎌倉記』(推定1642〜1644年)ですが、ここでは七口の全てを「坂」と記述されていて、朝比奈切通に該当する坂は「峠坂」で「金沢口」としています。 朝比奈切通という名前が初めて登場するのは『金兼藁』(推定1659年)に著者が鎌倉に来て滞留遊覧したときの記述です。この頃、鎌倉はすでに有名な観光地であり『金兼藁』の著者も、勤めを引退して言わば定年退職記念旅行のような感じで鎌倉を訪れたと推定されています。その段階では現地の伝承として朝夷奈三郎義秀が担ぎだされていたのでしょう。 何故か? 切通しとしての立派さは一番なのに名前が「峠坂」じゃ名数七口の中で他に負けちゃう(観光客が喜ばない、呼べない)からじゃないですかね。 「あの猛将朝夷奈三郎義秀が和田合戦で敗れて引くときに、名刀○○でエイッ!と尾根を断ち切って500騎の武者を引き連れて逃れていったんですよ旦那。」 なんてまるでモーゼの十戒の海が割れるシーンみたいなことを言われれば「おお、それは見ねばなるまい♪」とらるかえあでしょう。まあ地元民にすれは嘘でもいいから他人に自慢できるような由来が欲しいものですからね。他が「極楽寺坂」や「化粧坂」なのに「峠坂」じゃぁねぇ。(笑) もうすこし真面目に言えば、『金兼藁』は漢詩を綴ったノートであり、鎌倉史上引き合いに出されるのはその漢詩についての状況説明である詞書きであることに注意しておく必要があります。従ってその場所のロマンには敏感に反応するのでしょう。ただしその時代にもそうとしか言われなかった訳ではないことはその『金兼藁』に「またいわく、金沢切通し(原文は漢文)」と書かれていることでも分かります。 その『金兼藁』の特徴は、その記述が伝聞ではなく、本人が直に見たままであるようで、検証できる範囲では実に正確であるようです。従ってこれは江戸時代初期の光景として信じてよいのでしょう。
でもそうすると両崖高十丈って、明治以降なら30m、大昔なら18m。う〜ん、ですねぇ。ひょっとして両岸の尾根までの高さ? 良く判りません。 尚、ここから海側は横浜市金沢区朝比奈町で、朝比奈インターチェンジも有名ですが、江戸時代は峠村、明治22年から大字(おおあざ)峠、朝比奈町となったのは昭和11年からのことです。朝夷奈三郎義秀の朝夷奈とは安房の国朝夷郡朝夷がを領していたのだろうと言われています。 もうひとつの伝承の世界・大刀洗川さて、上総介平広常(ほんとは「廣常」ですがここでは「広常」に統一)の館がこの朝比奈切通しの近くにあったらしいと言うことを先に触れましたが、上総介平広常は、頼朝の鎌倉入りから3年後には寿永2年(1183年)の12月に頼朝の命によって梶原景時に暗殺されます。鎌倉側から先の「三郎の滝」までの道沿の小さな川は、梶原景時が血刀を洗ったと言うので太刀洗川と言う名前になっています。
その上総介平広常が殺された状況は吾妻鏡には書いてありません。と言うか1183 年の記述自体が非常に少ない。上総介平広常が頼朝の命によって梶原景時により殺されたことは京の公家の記録により今に知られています。上総介平広常が殺されたのは1183年(寿永2)12月22日の事とか。 奥富敬之氏の「鎌倉古戦場を歩く」には「幕府の営中で」暗殺し、その後「梶原勢数百騎」が「六浦路の東端に」ある広常の館を急襲し一子小権介良常と郎党達を打ったとありますが、その根拠は何にとっているのでしょうか。暗殺場所は吾妻鏡壽永3年1月1日の条かもしれませんがその後は? 梶原勢がこの地の上総介平広常の館を襲わないと大刀洗川が説明出来ないからからと言うことでしょうか。 小権介良常は広常と同じ日に、「被殺於鎌倉」と『続群書類従』 第六輯上 系図部 p159収録の「千葉系図」には有りますが、それ以外の記述は知られていないはずです。 私が不勉強なだけかもしれませんが、この本は俗説の塊で歴史書とは思えません。小説だと言うならこれでも良いですが。それならそうとちゃんと宣言してほしいです。尚、奥富敬之氏はこの時代を専門とする歴史学ですが「梶原勢数百騎」と言うだけでも「平家物語」や「太平記」の世界ですね。 上総権介広常の誅殺さて、吾妻鏡に出てくるのは翌年のこの記述です。
上総介平広常は頼朝に対する謀反の疑いを直接の理由として殺され、その所領は千葉介常胤、和田義盛らに下された後に、上記の一件で謀反の疑いは晴れ、囚人となっていた者は釈放されたが、所領はすでに分配された後だったので元には戻らなかったと。もっともこれは予定の行動であったろうと言うのが大方の見方です。 さて、吾妻鏡はその事件よりもだいぶ後に様々な資料を元に編集されたものなので、その陰謀誅殺事件を前提に解釈がなされています。その吾妻鏡を前提に世間で言われるのは上総介平広常は千葉介常胤の様な源家に対する忠君の士ではなかったと。 頼朝が石橋山の合戦に敗れて小舟で安房(千葉館山あたり)に渡ったのは1180年の8月29日のことですが、その後を吾妻鏡で見ていくと。
引用の最後の部分は有名な鎌倉城説のひとつの根拠になっていきます。
平家物語でも何でも、当時のものは故事来歴に当てはめて語るのが教養の証し、かつ読む者に説得力となると言う訳でここでは平将門の故事を踏んでいますね。 広常が内心どう思ったかなど本人にしか分からないことです。また広常は上総権介と書かれていますがそれは後のこと、当時惣領である上総権介は広常ではなくその兄の常茂で平家に仕えて京に居ます。 9月13日から約1週間で本来の上総権介(新介)で常茂に暗殺されて惣領の地位を奪われた長兄常景の嫡男である伊北庄司常仲と手を組んで上総国内の常茂勢の掃討やその他上総国内全域に渡る上総介一族を取りまとめて二万騎(あり得ませんが)と言われる大軍を率いて頼朝に合流します。その段階でも平家方で三浦一族にとっては仇敵の長狭常伴などが残っていますから上総の国も上総権介の肩書きも最初から広常のものだった訳ではありません。 頼朝挙兵を好機と平家に直接仕える兄常茂の勢力を叩きつぶし、他の平家側勢力もおそらくは打ち破っての上総の国武士団の集結でしょうから「形勢高喚の相無くば、直にこれを討ち取り、平家に献ずべして」はあり得ません。 源頼朝が初めて京に上洛し、権大納言・右近衛大将となったのは1190年の事ですが、「愚管抄」(巻六)には上洛した頼朝が後白河法王にこう語ったと記されています。
謀反の疑いは最初から口実で、こちらが本音でしょう。頼朝が鎌倉入りした直後の富士川の戦いで平家側寄せ手が敗走したあと、更に軍を進めようとした頼朝に対して強烈に反対してまずは関東をと佐竹攻めに向かわせたのはこの上総権介広常ら(あとは千葉介常胤に三浦介義澄)です。 実際に関東はまだとても安定している状態とは言えなかったのはその後の藤性足利氏や志田義広の乱を見ても判ります。上総権介、千葉介一族にとっての宿敵は遠い西国の平家などより自分の領地を脅かし続けた国主藤原氏と常陸の佐竹氏ですから。 上総権介広常の誅殺事件は先に述べたように寿永2年12月のことです。 寿永2年と言えば頼朝の鎌倉政権にとっては重大な転換点にあたります。 それまでの頼朝は平治の乱以降は無官の罪人で、関東の御家人に対しては以仁王の平家追討の「令旨(りょうじ)」を掲げて平家が立てた天皇を認めず、年号も養和(ようわ治承5年7月14日 改元 )や養和2年5月27日改元 の寿永(じゅえい)を用いず、以仁王の挙兵時点の「治承(じしょう : ちしょう)」を用いていました。謂わば地方独立国家です。脆弱ではありましたが。 この寿永2年当時、平家は西国に逃れて、京は反平家で源氏の木曽義仲が(内実はもろいものながら)抑え、関東で頼朝に牙を剥いた叔父志田義広(源義広)や行家までが合流し、鎌倉政権は極めて危うい立場に立たされていました。 それが寿永二年十月宣旨と同時に、配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に復帰し、謀叛人の立場から脱却します。そしてその寿永二年十月宣旨は東国における頼朝の朝廷の元での公式な権力、後の守護・地頭制の萌芽とも言うべき内容になっています。頼朝がおそらくは京から来た大江広元らと後白河法皇をじらしつつ必死の外交交渉でやっと勝ち取ったものです。 しかし、それに対して「何条朝家(朝廷)の事をのみ見苦しく思うぞ」、つまり朝廷など天下国家などどうでもよい、関東で自分たちの領地が維持出来て平家や朝廷の介入が阻止出来ればそれで良いとする雰囲気が御家人の中に根強く、その筆頭というか、面と向かって公言して憚らなかったのが上総権介広常だったのでしょう。謀反などより自分を神輿に担いでいる関東の御家人達のそうした雰囲気を打ち砕かなければ頼朝にとって明日は無いと言う状態で上総権介広常の誅殺が行われ、それによってやっと関東勢の西国攻めが固まります。 ですからこれは違います。
そしてそれまでは500騎(京の公家の伝聞)ほどで尾張あたりに留まっていた源範頼・義経軍はおそらくは関東からの兵力増強を受けて数万騎(ほんとか?)の大軍で京に攻め登り、源氏の代表を争った木曽義仲を打ち破るのがその約1ヶ月後の1月20日です。頼朝の勝利は壇ノ浦での平家の滅亡よりもこのときだったように思います。
2007.07.11〜8.18 再編集 |