鎌倉七口切通し   六浦道と朝比奈切通し.1

朝比奈切通しは昭和、それも戦後の昭和31年10月に、すぐ北側の県道金沢・鎌倉線が開通るまでは東京湾側から鎌倉に入る現役の重要な道路であったようです。
切通しを考えるとき、鎌倉と言えば鎌倉時代、鎌倉幕府と言うイメージがとても強くなるのは当然と言えば当然ではありますが、しかし、鎌倉には鎌倉時代以降人が住んでいなかった訳ではないし、切通しも鎌倉時代から冷凍保存されていた訳ではありません。ここでは現在朝比奈切通しと言われる六浦道の山間部を判る範囲で時代順に見ていくことにします。

  • 頼朝の時代
      北条氏の時代(吾妻鏡)
      鎌倉幕府の最後から南北朝時代
      室町時代
  •  

    平安時代中期以前

    645年に律令制における地方行政区分である「五幾七道(ごきしちどう)」が制定されてから771年の「五幾七道」制再編まで、旧東海道と言うのは、江戸時代の東海道五十三次の様に相模国から武蔵の国に向かうのではなく、東京湾を越えて現在の千葉県である上総または安房国から下総、常陸の国(茨城県)までの道でした。武蔵の国は東海道ではなくて東山道だったのです。おそらくは現在の東京23区の半分近くは当時は海の中か、または入り組んだ河口の低湿地帯で、通行には適さなかったのでしょう。国府も現在の府中市・国分寺市あたりです。

    もうひとつは、奈良時代の昔から海上交通は思いの外発達していたように見えます。武蔵の国が入らない東海道は東京湾で海に分断されているのですから。もちろん、船と陸の道を織り交ぜながらでしょうが、それにしても海があるなら、陸の道なき道よりはなんぼかマシってことだったのかもしれません。

    その旧東海道ですが、推定ルートで有力なのは、鎌倉を通って三浦半島を横切り、横須賀市走水付近に出て走水海(はしりみずのうみ:現浦賀水道)で東京湾を渡って、上総の国から常陸の国へ抜けると言うルートです。あるいはそのまま海を常陸の国までと言うのもあったかもしれません。

    と言うことで、771年の「五幾七道」制再編後の平安時代でも上総国から相模国を通って京との交通は「更級日記」の任期を終えて京に戻る上総介(こちらは権介ではなくて守に相当する受領)の一家のように東京湾を陸伝いにまわることもあれば、奈良時代以来の東京湾を船で渡るルートも使われていたのではないかと思います。

    しかし、鎌倉から上総の国に行くのは横須賀市走水へ行くより、六浦に出た方が近道ですよね。もちろん走水の方が海を渡る距離は短いのですが、ろくな道路もない山道を尾根を沢山超える走水よりはひとつだけ超えて後は船、と言うのも捨てがたかろうと。それに道はひとつしかあってはいけないなどと言うこともなかろうと思います。

    そう考えると、鎌倉から六浦に抜ける道はかなり昔から有ったのかもしれません。ただしあくまで想像で、証拠となるものは何もありません。杉本寺が寺伝のように本当に奈良時代の創建と言う証拠が見つかれば別ですが。

    現在の、鎌倉から六浦・金沢文庫に抜ける車道県道金沢・鎌倉線を、光触寺を超えた先で、十二所神社前の信号から東へ分岐する道があります。滑川もここで吉沢川と太刀洗川の二つの流れに分かれます。その太刀洗川沿いの道が朝比奈切通へ向う旧道六浦道です。(正確には鎌倉時代中期まで「六連(むつら)」ですがここでは「六浦」に統一します。)

    その旧道、しばらく行くと人家も途絶え、なかなか良い雰囲気があります。その谷間はどのようにして出来たのでしょうか。川の浸食? しかしその断崖絶壁の上の方に矢倉群が横一列に掘られているのです。通常の矢倉はほぼ鎌倉時代後半に埋葬の為に掘られたものですが、あの断崖絶壁の上の方ではロッククライミングでもしない限り墓参りも出来ません。川の浸食だとしたら鎌倉時代なんかよりずっと昔の弥生時代とか? 太刀洗川のあんなちょろちょろ川で、鎌倉時代からのたった数百年でそこまで浸食するとも思えません。あるいは名越切通し近くの大切岸のように大量の鎌倉石が削り出された後なのかもしれませが、良く解りません。

    どうもこの矢倉郡は私の知識の中で納まりが悪いのです。この矢倉群に関する調査報告書が無いか探してみたのですが、調査報告書には見つかりませんでした。でも「鎌倉市史・考古編」に出ていて中は掻き出されていてほとんど何も残っていない。一部に五輪塔の残骸があったとのこと。

    根拠の薄弱な私の感想に過ぎませんが、これはいわゆる埋葬地としての鎌倉時代の矢倉では無いのではないかと。一定の地層に的を絞って掘ったように思えます。

    となるとそれは砂鉄? 奈良時代からの北部鎌倉郡、現在の横浜市栄区に鍛冶ヶ谷と言う地名があり古代に遡ると思われる深田製鉄遺構があります。また鎌倉の鎌は鉄、または鉄製品を表しているとも言われていること、更にはここが「鑪ヶ谷」(たたらがや)と呼ばれていることから、ありえない話では無かろうと。「鑪」(たたら)は「鈩」とも「多々良」とも書きますが、鉄を製錬するときに使うく「ふいご」のことです。古代の製鉄には無くてはならないものであることから、製鉄技術全体をたたらと呼び、更には製鉄が行われた場所に「たたら」と言う地名が残ります。

    ネット上でこの近くで鎌倉時代に中世を代表する製鉄が行われていたと言う断片的な記述を見つけたのですがその詳細は判りません。少なくとも「鎌倉市史・考古編」にはそのような記述はありません。またここを流れる大刀洗川の下流で工事に伴う発掘調査(鑪ヶ谷北遺跡)が行われていますがその調査報告書には製鉄の痕跡は出ていなかったと思います。

    ただ、鑪ヶ谷北遺跡は14世紀前後の遺構と言われていますが、下層からは縄文時代の土器も発掘されており、かなり古くからこのあたりに人は住んでいたようです。鎌倉時代に製鉄が行われていたのならそのスタートは奈良時代と言うことだって、とか色々考えるのですが、結局はさっぱり解りません。

    縄文時代の土器と言えば、ここから朝比奈峠を越えた向こう側、六浦大道でも縄文時代の土器が発掘されています。

    平安時代後期

    平安時代後期になると、六浦道があったと推定できる状況証拠がポツポツと現れ始めます。

    頼朝は1180年に鎌倉に入り、まずは鶴岡八幡宮寺を現在の舞殿のあたりに、次にその東の大倉の地に自分の館を築きます。ちょうど現在の清泉小学校のあたりです。しかしそのすぐ東には12世紀の初めから荏柄天神社があり、さらに六浦道の東に行くと大倉観音堂(現在の杉本寺)がありました。『吾妻鏡』文治五(1189)年に大倉観音堂の火災の記述があります。記録自体は頼朝がの鎌倉入りから9年後ですが、その9年の間にできたとは思えず、寺伝のように奈良時代かはともかく、行基作という伝承のある十一面観音像が平安時代と見られることからも、少なくとも平安時代後半にはここに有ったとするのが妥当だと思います。

    常福寺の阿弥陀三尊像

    一方切通しの向こう側、六浦の大道には江戸時代の末まで常福寺と言う称名寺の末寺があり、その本尊・阿弥陀三尊像が現在は宝樹院に客仏として安置されています。その常福寺の阿弥陀三尊像はこれまた行基作という伝承が有りましたが、様式その他から平安時代後半から鎌倉時代初期であろうと見られていました。

    しかし1991年に阿弥陀三尊像の解体修理が行われたときに、その中から体内文書が発見されます。それは称名寺の初代長老審海が書いた修理願文で、実はこの体内文書から称名寺の由来も判ったのですが、その冒頭に仏像建立時の棟札の内容が書き写してありました。
    それによると、常福寺は1147年に内蔵武直とその妻卜部氏、および源氏を大旦那として10人の僧により阿弥陀堂として建立されたと。 (金沢区制五十周年記念事業実行委員会編 「図説かなざわの歴史」発行2001年より)

    内蔵武直は元は内蔵寮(くらのつかさ)の下級役人の家と思われ、平安時代中期以降には彼ら中央の下級役人は、中央省庁の機能低下と収入減から、下級ながらも有能な役人は、その実務能力を買われて受領(現地に赴任する守)のスタッフ、地方の国衙(こくが:国府・今で言う県庁)の役人としてスカウトされ、ボスの任期切れとともに帰ってくることもあれば、現地で土地やら権益を手に入れて帰ってこないこともよくありました。

    常福寺(阿弥陀堂)建立の丁度100年前の1047年に相模国の小目(しょうさかん)と言う役職に内蔵氏の名が見えるとか。また何年だったか忘れましたが伊豆守に内蔵氏の名を見たことがあります。更に大磯の高麗寺に伝わった1288年(弘安11)鋳造の梵鐘には高麗寺の大旦那として内蔵光綱と言う名が記されているなど、どうも内蔵氏は当時の相模国衙(国府)の実務官僚で、その家は鎌倉時代まで続いた有力者であったようです。

    六浦は律令制では武蔵国なのですが、相模国六浦と出てくることも多く、相模国の東の出口として相模国衙の支配下にあったと見られています。

    常福寺(阿弥陀堂)建立から120年前には上総国を中心に平忠常の乱があり、その追討使として選ばれたのが父の代から鎌倉を拠点としていた検非違使右衛門尉平直方です。

    平直方が選ばれたのは検非違使であったことに加え、父平維時が、常陸介や上総介(ともに受領)を勤めたことがあり、現地に人脈があったこと、上総国のほぼ対岸、鎌倉を拠点としていたと言う地の利があったろうと言われています。検非違使は京の都の警察署長のようなもので、地方で争乱が起きると派遣される機動隊の隊長ともなります。在京勤務ですが、当時の軍事貴族は地方にも経済基盤となる拠点を持っています。

    平忠常の乱では、相模国の東の兵站基地鎌倉と、現朝比奈を超えて六浦、そこから対岸の上総・下総・安房の国、場合によっては更に常陸国へというルートがフルに発揮されたのではないでしょうか。

    しかし平直方の忠常追討は成功せず、しびれを切らした朝廷は源頼光の弟、源頼信を甲斐守に任じて忠常追討を命じます。そこから先が源氏と鎌倉の縁となります。と言うのは戦わずして平忠常を降伏させた源頼信の子頼義に平直方は娘を嫁がせ、娘と一緒に鎌倉の館と領地を婿の源頼義に譲ったと「尊卑分脈」にあります。そうして生まれたのが八幡太郎源義家です。頼朝の父義朝が鎌倉に館を構えたのは「先祖伝来の我が家の土地だ」と言う訳です。

    ところで常福寺の「内蔵武直とその妻卜部氏、および源氏を大旦那」と言うその源氏って? 

    頼朝の父義朝の頃

    頼朝の父義朝は少年の頃に関東に下って上総介常澄の養君として育ち、上総曹司(上総に居る源氏の御曹司?)と呼ばれていました。そして1143年(康治2)千葉介常重と下総守藤原親通との相馬御厨を巡っての内紛に介入(相馬御厨の強奪 )します。ちなみに上総介常澄と千葉介常重はともに平忠常の子孫です。

    1144年(天養元)年9月に、義朝が上総曹司と呼ばれたこと、先祖から伝授したと言って鎌倉之楯(タチ=館)に住んでいたこと、そして相模国衙の田所目代(不在の守の代官で税務責任者)散位源朝臣頼清他、在庁官人・三浦氏や中村氏を従えて藤沢の大庭の荘(御厨:みくりや)に侵入したことが「天養記(官宣旨案:太政官の判決の下書きで第一級の史料)」により今に知られます。
    (参考:「高柳光寿「鎌倉市史・総説編」p33 詳細は 大庭御厨の濫妨 )

    その義朝の行為は、京にいて現地には赴任していない相模守にはどうすることも出来ないと。つまり相模守よりも強い権門、おそらく摂関家か院近臣をバックにしていたのでしょう。相模守藤原頼憲自身も摂関家の藤原忠実とも結ぶ鳥羽院近臣です。予め打ち合わせ済みだったのかと。大庭御厨の濫妨が相模国衙の在庁官人にして摂関家の荘園の庄司三浦氏や中村氏らを動員してなされた事を考えるとそう見るのが妥当かと思います。

    ちなみに、上総介常澄はこれも摂関家領菅生(すごう)荘の荘官だったようです。義朝が千葉介常重と下総守藤原親通との相馬御厨を巡っての内紛に介入した1143年に義朝の父、源為義は摂関家の藤原頼長に名簿(みょうぶ)を差し出し、臣従の礼をとっています。(参考:「保元・平時の乱を読み直す」 元木泰雄 p51)

    1145年にはまた下総国の千葉介常胤の相馬郡を勝手にと言うか押さえつけてと言うか、伊勢内宮外宮に寄進します。大庭御厨の濫妨の方はその伊勢宮の御厨を「認めない!」と言って軍勢を率いて押し入ったんですが。「去年はご免なさいね、あれはでかい顔してる大庭一族を懲らしめたんで、そちらさんに敵対するつもりは無かったんですよ、お詫びのしるしに相馬郡をあげるから」と人のものをあげてしまったと? 人のものをと言うのは、その翌年には今度は千葉介常胤が同じ相馬郡を伊勢内宮に寄進してそちらが認められているからです。

    「吾妻鏡」には吾妻鏡1180年9月9日条で、千葉介常胤が頼朝の挙兵に「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりて・・」と言ったなどと、代々源氏の忠信と言うような書き方をしていますが、そりゃ嘘ですね。千葉介常胤にとっては頼朝の父、源義朝はとんでもない野郎です。地上げのヤクザなんぞ、それに比べたら可愛いもんよと千葉介常胤は言うかもしれませんね。

    千葉介常胤も大庭景親もなんとかその領地を維持しましたが、そのかわり源義朝の傘下に入ったのか、保元の乱では千葉介常胤も大庭景親も上総広常も義朝に動員されて上京して戦っています。それが義朝の目的だったのかもしれませんが。この頃の軍事貴族にとって一番の関心事は武力を蓄えて権門(その最大は鳥羽院と摂関家)の爪牙として売り込むことです。

    義朝の父、為義は若い頃、鳥羽院に検非違使として起用され、院近臣の藤原忠清の娘を妻合わされるなどして機会を与えられましたが度重なる不祥事で信頼を失い、摂関家藤原忠実の爪牙となります。

    義朝はその院近臣の藤原中清の娘との間に生まれたことから、父為義を通じて関東の摂関家領の荘官らと縁を持ち、一方では院近臣を外祖父に持つことから鳥羽院近臣にも接近し、鳥羽院の愛妾で近衛天皇の国母・美福門院(従兄弟に多数の鳥羽院大規模荘園を成立させた藤原家成)の乳母夫(めのと)の息子藤原親弘が1152年に相模守となって以降、急速に鳥羽院近臣と結んでいきます。そして1153年には鳥羽院系の知行国と思われる下野の受領・下野守に任じられ、同時に叙爵し、一生受領に成れなかったばかりか、たびたび検非違使も首になった父為義を越えます。

    いずれにせよ1140年代の源義朝は上総・下総と相模国鎌倉と、東京湾を股にかけて行ったりきたりで事件を起こしまくっていますね。1147年と言うとちょうどその義朝の嫡男・頼朝が生まれた年ですが、その時点で義朝は三浦義明の娘との間に1141年長男の悪源太義平、1143年には相模西部の波多野氏の娘との間に次男朝長をもうけ、鎌倉を本拠として相模国衙を実質支配し、上総・下総と相模国鎌倉の間だけでなく、京との間も行ったり来たりしていたはずです。

    長くなりましたが、こうした当時の状況を考えると、常福寺の仏像から発見された修理願文に見える「源氏」とは南関東での源氏の御曹司・義朝のことでは? と考えるといろんな点で符合してきます。つまり1147年当時、「鎌倉之楯(タチ=館)」に居て相模国衙の在庁官人らを自分の郎党に組み込み、国衙自体を実質支配していた真っ最中の源義朝が六浦(当時は六連)をも実質支配していたと。

    頼朝が鎌倉を選んだ理由には源頼義・義家の由来の地であること、父義朝が一時期館を構えた地であることがあります。その父義朝の郎党で、房総半島が本拠地の上総介平広常の館が、現在の朝比奈切通しの近く、果樹園の方に有ったと言います。もっとも私はそれが江戸初期の「新編鎌倉志」以前の文献にも出ているのかどうか、つまりホントかどうかは知りません。最近かなり怪しんでいますが。

    上総介広常は「平治物語巻之二 待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事」に頼朝の兄の悪源太義平の騎馬武者として登場します。

    義朝是をみて、「悪源太はなきか。信頼といふ大臆病人が、待賢門をはや破られつるぞや。あの敵追出せ。」との給ければ、「承候」とてかけられけり。つゞく兵には、鎌田兵衛、後藤兵衛、佐々木源三、三浦荒次郎、須藤刑部、長井斎藤別当、岡部六弥太、猪俣小平六、熊谷次郎、波多野次郎、平山武者所、金子十郎、足立右馬允、上総介八郎、関次郎、片切小八郎大夫、已上十七騎、くつばみをならべて馳向ひ・・・

    「上総介八郎」と言うのがそうですが、正確には「上総権介常澄の子・八郎」でしょう。

    那珂氏と六浦

    鎌倉開幕府以前の六浦の資料はほとんど無かったらしいのですが、どうも網野善彦が京都府福知山の桐村家に伝わる「大中臣氏略系図」に、常陸国北部の那珂湊を本拠として上総国衙にも進出し、何らかのポストを持っていた上総介頼継(権介でしょうが)の孫、上総中五実経(上総権介の家、大中臣の五郎ぐらいの意味?)が、1157年に保元の乱の戦功により源義朝から「相州六連庄を賜る云々」と書かれているのをで見つけたそうです。私は「図説・かなざわの歴史」でこれを見つけました。以前から六浦(六連)を義朝が支配していた状況証拠になるかもしれません。その系図がどれぐらい史料批判に堪えられるかによりますが。

    尚、網野善彦の「里の国の中世」(平凡社)によれば那珂氏は滅んだ訳ではなく六浦は和田義盛に譲ったものの有力な御家人であり京都守護職にまでなっています。

    当時の軍事貴族(源義朝)の重要な役割のひとつは物流ルートの確保と支配ですから、常陸・両総からの人と物の流通ルートを東京湾を船で六浦に、そして現在の朝比奈周辺を超えて鎌倉の義朝の館へと言うルートがあった、またその物流のルート六浦道は、義朝以前からあったと考えるのが自然だと思います。

    2007.07.11〜20 再編集
    2008.07.17 追記