武士の発生と成立 律令制とその崩壊 | ||||||||
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律令時代の軍制網野善彦らが編集した講談社『日本の歴史』の7巻「武士の成長と院政」を広島大学の下向井龍彦教授が担当していますが、冒頭に律令時代の軍制や治安法体系について説明されています。詳しくはそちらをご覧くさだい。ここは主題ではないので例によってえらい単純化して話を進めます。 律令制は原理的には班田(国勢調査)により戸籍を把握し、50戸を保(とりあえず村)それをまとめて里(郷)それをまとめて郡、その上に相模国とか武蔵国と言う国があると言うものです。そして良民(とりあえず農民)に均一に口分田を与え、税(租庸調)を徴収する。徴兵制は1戸から1名、年間60日の軍事訓練を受ける。ちなみに戸と言っても核家族1家とかではなくて平均30人ぐらいの大家族、または町内会の班ぐらいと思ってください。あくまで行政上の単位です。 さて軍隊が必要になったときはどうするかと言うと、それが地方なら国司(中央から来る県庁役人)が「国解」と言う国司から朝廷への報告書・上申書(今で言えば稟議起案のようなもの)を出して、朝廷の最高機関である太政官から「発兵勅符」(緊急動員令)をもらい、それによって各戸から兵を動員して事に当たると言うふうになります。そのやりとりの緊急時対策に早馬の駅が整備されています。国司(例えば陸奥守とかいわば知事)と言えども独断で徴兵することは出来ません。 もっともそれは一般公民を徴発する軍団制・兵士制から「軍事層のみに制度的武力を公認し、彼らを国衙など重要拠点に結番させる健児(こんでい)制への転化」(石井進『鎌倉武士の実像』p29)でもあり、全く全然武装をしていなかった訳ではありません。また、国司(と今の県庁に当たる国衙)は「百姓の弓馬に便なるもの」つまり武芸の出来るもの)を調査登録していたと言う説もあります。でも「百姓の弓馬に便なるもの」の「百姓」は今言われるお百姓さん=農民ではありません。時代により変わりますが、初期には各地の豪族である郡司の一族でしょう。 それにしても、電話も無線もインターネットも無い時代によくまあそれで治安が維持できたもんだと思いますが、・・・実は段々維持出来なくなっていったんですね。まあ治安よりも税修の落ち込みの方が大問題だったようですが。 口分田の崩壊しかしその8世紀末に常備軍を持たない変な国になった少し後の9世紀頃は律令制は生きていますが口分田の世界はとうに崩壊しています。「国司は律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と菅原道真や三善清行が天皇の上奏したのがだいたいこの頃です(だいたいですよ)。 (平安時代年表) 先に述べたように、律令制では税は人に対して課せられる。原理的には班田(国勢調査)により戸籍を把握するところから始まる。税は租庸調・雑徭(ぞうよう)からなり、租が田ごとにかかる地代だったのに対して、庸・調・雑徭(ぞうよう)は個人にかかる人頭税でした。
租がそれほど高率でないのは、稲作の生産性がそれほど高くなく、庸・調・雑徭(ぞうよう)の人頭税分が税の中心だったからで、これは主に成人男子(老人を除く)に対して課せられたのですが農民にとってはこれがとても負担で、それを逃れる為にあの手この手。後に「課役を免れる」とか出てくる場合の「課役」とは、この人頭税分と思っていれば当たらずとも遠からずです。 そもそも律令制税制の根幹をなす班田(国勢調査)は法律通り(6年に1回)に行われなくなり、800年(延暦19)を最後に全国一斉を止めて国司に任されます。902年(延喜2年)醍醐天皇の代に藤原時平は班田を命じ、実質的にこれが最後の班田となりますが、この班田が実際に一斉に実施されたことを証明する史料は無く、一部の国で行われたに過ぎないと思われています。 しかし国司が負う責任は、何十年前のものであろうが、班田(国勢調査)によって作成された「国図」に記された本田に対する賦課です。国司にとっては、在地の抵抗の強い班田を行っても、朝廷からのノルマが増えるだけ。公田が荒地に戻ってしまった分は不堪佃田(ふかんでんでん)の解(届け)を朝廷に出せばその2/3が減免される。だから班田なんて良いことなんか何も無いという訳でしょうか。不堪佃田の発生・増加は朝廷の収入減少となるので大問題。これは天皇に奏上(報告)されます。 延喜式で有名な延喜年間(901〜922)には、男が死んだら届けるが、男でも老人や女が死んでも届けない。すると口分田はもらえて租だけ課税されるが調・庸・雑徭からは逃れられると。更には女性は二重登録もあるとか。こうして戸籍上はえらい長寿で女がむちゃくちゃ多くて良く見ると、10歳以下の子供がほとんど居ないと言うことになってしまったようです。 更に901年の太政官の記録によると、播磨国の農民の過半数は六衛府(官庁)の舎人(とねり)ということになって課役を免れる(不課)ありさまと。そのほか「帳内」とか「資人」と言う親王や貴族に国から与えられる雑役係りを称したり、僧も課役を免れたことから三善清行の「意見封事一二箇条」によると、「天下の人民の2/3は剃髪している」と。まあ危機感を煽る為の誇張もちょっとありますから数字を真に受ける訳には行きませんが。 その三善清行の「意見封事一二箇条」にはこうあります。
備中国(岡山県)のある郷の課丁の推移、最初の「兵を徴集したら2万人にもなった」という下りは当時ですら伝説の世界ですから無視するにしても、天平神護年間(765-767)には課丁は1900余人だったのに貞観年間(859-877)の初め頃には70余人、三善清行が赴任した頃(893-897)には9人、911年にはその郷には課丁は一人も居なくなったと。最も顕著な例でしょうが、帳簿上では実数でしょう。 菅原道真や三善清行が「国司は律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と天皇の上奏したのは受領(国司)を経験し、あるいは聞いてその実態を知っていたからです。 ところで、この当時の農民は課役を逃れる為に、口分田を放棄して他へ行ったり、勝手に僧を名乗ったり、衛府(官庁)の舎人(とねり)を名乗ったりと、言ってみれば消極的、あるいは順法闘争的な手段に訴えただけでなく、ときとして実力行使に出ることすら。 『類聚三代格』に載る901年(昌泰4)の官符によると、昌泰年間に播磨国衙は、百姓達が群党をなして税を取り立てる収納使が出向くと「捕以陵礫」、捕らえてぶちのめしてぐらいの意味ですかね? そうして郡司を威圧して税を納めないと訴えています。 王臣子孫の「留住」中には国司(受領)自ら開拓・農業経営に乗り出すこともあります。
「定住し、墳墓まで造らせた」という部分にはかなり深い意味があります。「定住」は宅を構えたということで、その敷地(生活空間ぐらいで田畑をも含む)は私有権を認められます。更に「墳墓」の地も私有権を認められます。今のような一坪ぐらいの分譲墓地ではなくて、山丸ごとでも。つまり、「定住し、墳墓まで造らせた」という部分は律令制真っ盛りな中で私的領有を実現するための重要な要素なんです。そのあたりは戸田芳実『日本領主制成立史の研究』に詳しいです。 そしてこの藤原春継の子孫は猛勉強して京で出世の緒をつかみます。藤原菅根 に藤原元方、藤原保昌などがその直系です。 常陸介・中務大輔を務めた藤原春継は藤原南家巨勢麿流で従五位上が極位ですが、子藤原良尚は京で文書生の試験に合格して、今で言えばキャリア組として高級官僚の道を進み、後には従四位上左衛門督に。そしてその子供は藤原時平と共に菅原道真を陥しいれたとも言われる藤原菅根で文章博士・参議・勘解由次官・従四位上「尊卑分脈」には「才人歌人」と書かれています。 「留住」した王臣子孫の全てがこのように中央で帰り咲いた訳ではなく、むしろ例外かもしれませんが、いずれにせよ郡司などの手の出せる相手ではありません。国司の受領・上総介(親王任国なので介が受領、常陸も同様)だってなかなか手が出せる相手ではありません。自分と同格なんですから。さらには大納言元方が領有したとなっては。 この藻原荘。初期荘園でありながら平安時代末期まで続いた珍しい例として有名です。藻原荘は初期荘園であると同時に、寄進系荘園のはしりでもあります。何処に寄進したかというと興福寺です。 初期荘園初期荘園にはあまり触れたくはないのですが、奈良時代から荘園は藻原荘以外にも沢山あります。ただし、その段階から荘園がどんどん広がって、全国を覆い尽くした、と言うのはもはや過去の学説で、この初期の荘園と平安時代末期の荘園とは実はつながりが無いこと、また荘園が国に全く官物(租税)を納めず・・・、と言うものでは無かったと言うのが現在の定説になっています。 例えば「中世荘園の立荘と王家・摂関家」高橋一樹(元木泰雄編「院政の展開と内乱」p186 )などに学会での経緯が。 この段階の荘園には不輸祖(とりあえず非課税)の官省符荘と納税義務を負う輸祖荘園があります。ここでは、官省符荘について簡単に説明をしておきます。輸祖荘園についてはまた後で。 官省符荘8・9世紀の初期荘園の大半は官省符荘で、要するに朝廷が、特定の寺社の維持の為に荘田の所有と不輸祖の権利を公認・・・、というか、事実上そこから朝廷が得るはずの租庸調の祖を寺社の維持の為に使って良い、というようなものです。 しかし、周囲の公領の農民を雇って耕作させるということは、周囲の公領の農民を支配している国司や郡司や、あるいは富豪層などの協力が得られなければ不可能であり、臨時雇用の農民が調達できなければ、その田圃はすぐに荒れ地に戻ってしまいます。今の田圃とは違います。焼き畑農業での田畠をイメージすれば理解しやすいかと。こうして初期荘園の大半は、院政期の大規模荘園につながることなく消滅していったと考えられます。 『参語集二』:官省符云コトハ太政官ヨリ官符ヲ下シ民部省ヨリハ省符ヲ下問、彼ニ合、コレヲ云也 まとめただ、荘園制は私の手に余るので、ここでは平安時代の時代背景で述べた口分田と租庸調をベースに、国府−郡衙(郡司)が地方行政の基本、と言う9世紀以前の原則では行詰まった結果、その解消として田堵負名から私営田経営者の出現、そしてそれが初期の荘園と言う形にも表れたと理解し、それが郡司の衰退・郡衙の消滅のインフラだったと押さえておけば良いと思います。 2009.9.16-23 追記 | ||||||||
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