鎌倉七口切通し 化粧坂切通し |
化粧坂の名の由来名の由来は様々。平家の大将の首を化粧して首実検したからという説、この辺に遊女がいたからという説、険しい坂が変じたという説、坂の上が商取引が盛んで「気和飛坂」、木が多いので「木生え坂」など。「吾妻鏡」と言っても「国史大系」「島津家本」には「気和飛坂」ですが、北条本では「乗和飛坂」なんだそうです。元はひとつなんですが、現存する吾妻鏡はすべて写本か、写本の写本なんで。
化粧坂と書かれている文献は江戸時代以降が多いようで、しかし「太平記」にも「粧坂」と書かれています。 建長3年(1251)に既に気和飛坂山上が市として賑わっていたとすれば、かつ、ここが路として整備されたとの記事が無いことを積極的に評価すれば、3つの切通しの中でここが最も古く、頼朝の鎌倉入り以前の奈良時代から鎌倉郡北部の租税(稲)を鎌倉郡衛に運んだ道筋と想像することもできます。であれば当時は上道も中道も下道も、すべてこの坂から出たのかもしれません。 気和飛坂口の先鎌倉古道によると、この坂を越えるのが「上つ道」とか。化粧坂を越えて梶原・深沢・村岡・柄沢・俣野で旧東海道を横切り下飯田・上飯田・瀬谷・町田へ。しかしこれは時代によって異なるのではと思います。 具体的には仁治元年(1240)建長2年(1250)に山内路(巨福呂坂切通し(こぶくろ)なのか亀ヶ谷坂切通し(かめがやつ)なのかは不明)整備される前と後では。更に本当に「梶原・深沢」ルートだったのか。実はこれはどうも疑問に思うのです。 土木工事の進んだ現在ならともかく、あの当時は尾根の上を道にした方が合理的だからです。山中の古道は谷の川沿いを通ることは比較的少ないです。これは山歩きをする人なら解るでしょうがハイキングコースを考えてみてください。案外尾根道が多いのです。谷の下の方の道は大雨や台風、そうでなくとも日常的な落石で道が道で無くなってしまうのです。
山間に畑や田圃のある、例えば信州などでも旧道や古い集落は山並みの麓、田畑より山側にあります。これはそれより平地の中央、川の近くは川の氾濫、湿地であるためにこれまた道を作るには相当の労力を必要とすること、そして川の氾濫ではまた道普請が必要です。人口密度が高ければ利便性の為にはその都度の道普請も必死に行うでしょうが、そうでなければ使用不能になります。 そういう目で地形図を見ると例えば北条政村の常磐邸は大仏坂口鎌倉時代の根拠に使われることもあるようですが、あそこから尾根に上がればそれは佐助稲荷、銭洗い弁天裏の尾根で化粧坂につながります。化粧坂から大仏ハイキングコースに入り、佐助稲荷の手前で右に曲がる山道です。その道筋は別にハイキングコースとして作られた訳ではなく、明治15年の地図にも載っています。(下参照) また、頼朝以前の鎌倉にも書きましたが奈良時代以前の弥生時代中期〜後期には北鎌倉の台山一帯には集落があるようです。その幾つかは現在の北鎌倉女子高の周辺で発掘されています。078台山藤源治遺跡などです。山ノ内配水場から瓜が谷の上のほぼ尾根沿いに北鎌倉十王堂橋の方へ、そしてその北鎌倉女子高へ抜ける道、更に尾根伝いに山崎小学校に抜ける道があります。車道ではないですが。 そうした人間が住みやすい場所、田畑を開墾した場所はよほどの農耕技術の革新か、平野の開墾が進まない限り継承されるものです。後の鎌倉道ほどでは無いにせよ、周辺住民の通路としての道はあっただろうと考えるのも証拠は十分ではないにせよまあ自然なのでは? と思います。
この地図は国土地理院の「明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図」4枚をPC上で張り合わせて道をなぞったものです。今から125年前、横須賀線はおろかまだ東海道線すら走ってはいません。首都東京はともかく、ここ鎌倉は江戸時代末期の状態と同一視しても良いでしょう。鎌倉の人口は鎌倉時代よりもずっと少ないはずです。鎌倉の外側旧山内荘は2〜3倍は多いかもしれませんが、現在と比べれば。たとえば山内荘の一部横浜市栄区は平成2年には12万人を越えていますが明治9年の人口はわずかに3,837人です。 その状態でもこれだけの道があり、その道の1/3はメインかどうかは別にして鎌倉時代から使われていたはずです。宅地開発によって消滅した場合を除き、多くの道は今も通れます。よく見て頂くとここでも尾根道が多いことに気がつかれるはずです。 それらを踏まえると、化粧坂から葛原岡、そして瓜が谷へ降りる途中から西へ山ノ内配水場の前を通り、鎌倉中央公園の上か中を抜け、洲埼・水道山方面に抜ける道を考えた方が理にかなっていると思います(洲埼方面に伸びる半透明のオレンジ:現在略車道)、これは地形からです。
それはともかく1333年、この切通しはその洲埼の戦いの後(だと思う)新田義貞軍が主力を投入して攻めあぐねたところで天然の要害であることは確かです。時代は下って応永23年(1416年)年の上杉禅秀の乱でも主戦場となったとか。石碑にはこうあります。
「梅松論」の記述「梅松論」は貞和五年(1349年)頃から源威集(嘉慶年間1387-1389)に至る過程で成立と推測され資料的価値は「太平記」よりも高いとされています。目的としては源威集と同様に足利幕府の正当性とその賛美のようです。
その次の章で極楽寺・稲村ケ崎となります。高柳先生は「下道は巨福呂坂道と諸家が一致している。そして中道も化粧坂道ということに諸家が一致している。それでは武蔵路はどこかと言うのである。(p191)」「・・・「梅松論」に中道と言っているものを従来の研究者は化粧坂口としているけれども、これはこの大仏坂道ではないかと思う。(p189)」と新説を出されています。新説と言っても昭和43年(1968年)のことですが。 その前提は三つの道を鎌倉から出発する際の出口と想定されています。確かにそうすると巨福呂坂と化粧坂の間の武蔵路は亀ヶ谷坂? これは確かに変ですね。出た途端に巨福呂坂と同じ山内路です。と言うか、巨福呂坂と言った場合、円覚寺の前あたりから坂の頂上までの長い間を指し、決して建長寺から先の巨福呂坂切通しひとつを指すものではないと思います。亀ヶ谷坂も含むと考えてよいでしょう。 武蔵路は武蔵大路の先、あるいは武蔵大路そのものと考えればそれは化粧坂を出なければならない。 しかしこれは違うと思います。その前提は三つの道を鎌倉から出発する際の出口と想定されていますがそれだから解決がつかなくなるのではないでしょうか。 それに、この「上道、中道、下道」は確定した固有名詞ではないでしょう。例えば吾妻鏡文治5年7月17日の条では通常「上道」と言われる道を「下道 」と書いています。
これは向かう先が奥州だからでしょう。奥州攻めの3軍の中央が「大手中路」、武蔵国から下野国の宇都宮、そして白河の関を越えて攻め登ります。東海道が53次であるのは江戸時代のこと。古くは太平洋側の道(国)で相模から安房、上総・下総・常陸国です。北陸道は越後国から奥州を攻め、そこに行くのに「下道」を通っておそらく武蔵国府中から国分寺、そして上野国から越後国に抜けたと。一番遠回りだから「下道」なんでしょうか。 実は私も文治5年の「大手中路」を鎌倉からの出口として考えていたことはあるのですが、鎌倉の出口にばかり目を取られていると訳が分からなくなります。と言うと「大手中路」説が危うくなってしまってそれはそれで困るのですが、まあしょうがありません。 太平記の記述「梅松論」の三つの道と戦った場所は時間的に同時では無いと思います。それは同時代に少なくとも前半は書かれていた「太平記」での鎌倉攻めを合わせて考える必要があります。 分陪・関戸に合戦の後
と言う状況で鎌倉の戦いになります。
つまり「下の道の大将は武蔵守(金沢)貞将むかふ処に」と、「武蔵路は相摸守守時、すさき(洲埼)千代塚 において」は同時に発令されたものではなく、分倍河原のの敗退と、「下道」鶴見での金沢貞将の敗退を受けての布陣が赤橋盛時の武蔵路・洲埼、陸奥守貞通・金沢左近将監の中道・化粧坂、そして大仏陸奥守貞直が極楽寺、となるのではないでしょうか。 あるいは、主力北条軍が「上道」の分倍河原で迎え撃つと同時に「中道」に陸奥守貞通が、「下道」に金沢貞将が出撃したが、「上道」の主力軍、、「下道」軍金沢貞将が敗退したので「中道」軍は山内路、化粧坂まで後退して防衛に当たったのかもしれません。「太平記」は脚色が多そうだし軍勢の数なんか2桁ぐらい違うんじゃと思うんですが、でもこの時間差は納得できます。 また「下道」の大将は武蔵守金沢貞将。金沢北条氏は六浦・金沢文庫です。鎌倉の出口は六浦道・朝比奈切通しもありますよね。六浦は今でこそ神奈川県ですが当時は武蔵国、鶴見もそうです。出口にこだわるとそちらでも良さそうな気はしますがしかしいずれにせよ前日以前の話です。 また武蔵道は「武蔵路」で検索するとすぐに出てきますが「東山道武蔵路」の相模国側のこと、所謂「上道」と解釈すべきではないでしょうか(ピッタリと一致ではないでしょうが)。「上道=武蔵道」に対する堅めとして赤橋盛時が洲埼を固めた。北条貞通と福将金沢越後左近太夫将監は山内荘の北からの道「中道」に備えたが、「上道=武蔵道」から村岡・藤沢・片瀬の方に新田軍の主力が来たので洲埼の後詰の意味もあり化粧坂に引いて防衛線を引いた。そう解釈すれは何の問題も無いように思います。 そして「梅松論」と「太平記」を両方合わせても大仏切通しは出てこない。大仏近辺に屋敷を構えた大仏(北条)貞直は出てくるけど、大仏貞直は極楽寺と稲村路を守っている。この頃、鎌倉時代末期には長谷のあたりも民家が密集していたようですから、大仏切通しも地域の物流の為に多少は整備されていた可能性はありますが、鎌倉外からはさほど注目されるほどのものではなかったのだろうと思います。 もうひとつ、「梅松論」は鎌倉側から書いているのではありません。攻める側でおまけに寄せ集めで統制など期待出来ない新田勢が敵の動静を正確に把握できる訳は無いし、かつ七口議論で書いているのでもありません。これを陣を構え戦をした処までの道と解釈したらどうなるでしょうか。
そんなにおかしくは無いような気がします。 梅松論」は脚色は少なそうだけど、細部の検証に耐えるほどではないでしょう。もちろんあれこれ考えられると言うひとつの例に過ぎません。大体「梅松論」の作者も「太平記」の作者も足利尊氏の近くのもので現地に居た者ではないはずです。足利氏周辺が伝え聞いた記録を何十年も後に戦記ものにしたものしか我々には考える材料が無いというだけです。 葛原岡大堀割これが葛原岡大堀割です。右の切岸の風化の状態は名越の大切岸と同じ程度ですね。
しかし本当に防衛施設であったのかどうかは異論もあるところです。
平成12年にこの右側で発掘調査が行われましたが少なくともここからは何も発見されていません。ちなみに鎌倉北条氏が滅んだのは1333年、14世紀前半です。ここの上に通路として土が盛られる前、ここはいわいる「地獄谷(埋葬地)」だったのでしょう。 ここに限らず「地獄谷(埋葬地)」と言うとすぐに刑場とイメージされますが、そんなところを人が通るかいと思われるかもしれませんが、当時の庶民感覚は今とは全く違います。吾妻鏡にもどこだったか忘れましたが「鎌倉中においては死体を道に捨ててはならない」と御触れが出ているほどです。つまりよく捨てられていたと。これは京においても同じでした。荼毘にふしたのはそれだけ余裕のあった人たちです。刑場であれ埋葬地であれそれはそこに道があり、「鎌倉中」の境界の外側だったからと言う方に注意をする必要があるでしょう。 この大堀割の東側は海蔵寺です。また西側、瓜ケ谷には市指定遺跡の矢倉群があります。 この大堀割は人を通さない防衛遺構どころか、河野眞知郎氏がおっしゃるように、底が海蔵寺側から瓜ケ谷経由鎌倉駅位置に抜ける道だったのかもしれません。 「鎌倉城史観」の学会的経緯はともかく、近年それにまつわる発掘調査に力が入っている背景には「古都鎌倉の世界遺産登録」と言うことがあります。そしてそれをアピールするキーワードに「城塞都市「鎌倉」の防御施設と見られる中世の土木遺産といわれ、国の指定史跡ともなっている「名越切通し」、「大切岸」のある逗子も鎌倉と一体となって、「世界遺産」に登録されるよう積極的に運動を推し進め・・・」と言うのがあるのですが、「古都鎌倉の世界遺産登録」には諸手をあげて賛成はしても、そのためにあるいは主観(ロマン)や願望で歴史をゆがめるのは如何なものか、と私は思います。 2007.02.24追記 まだまだ書きかけ |