奈良平安期の鎌倉   古代鎌倉の群落と道

弥生末・古墳時代から律令制時代

このサイトでは、「鎌倉初期は寒村だぞ!」 と書くことがたまに有りますが、まああそれは大方のイメージとの相対的なものです。特に鎌倉全域を城にしてしまうほどの軍事力も経済力も無いだろう! と言うことが言いたいのです。

そして今から見ると、あるいは人口が万の単位と言われる三代執権泰時以降と比べれば寒村だと思いますが、かといって少なくとも奈良時代にはその時代としては寒村だった訳ではありません。
そのあたりを鎌倉考古学研究所主任馬淵和雄氏のレポート(注)などを中心にちょいと見てみましょう。 

  • 注:「中世都市鎌倉の実像と境界」(2部−1)「中世都市鎌倉成立前史」

奈良時代以前の弥生時代中期〜後期には北鎌倉の台山一帯と、滑川沿いの大倉(八幡宮東、清泉中学あたり)、二階堂などにの集落の跡が見られるそうです、これが山側。人間が住みやすい場所と言うのはそんなに変わらないので律令時代 にもそのようなものであっただろうと。これはひとつの伏線ですね。その後の弥生末・古墳時代には海側にも集落跡が確認されます。由比ヶ浜中世集団墓地遺跡、長谷小路遺跡、逗子・葉山の長柄、桜山前方後円墳。古墳時代後期には更に広がります。

相模の国が初めて記録に見えるのは「戸塚区史」によると、「日本書紀」天武天皇4年(675年)10月20に日条だそうです。神奈川県立公文書館 平成16年度 第1回展示企画展示にはこうありました。

古代の神奈川神奈川県は、かつての相模国と武蔵国南部橘樹・都筑・久良岐三郡からなる。律令制度に基づく国郡制は大化改新によるとされるが、相模国は相模川流域の相武(さがむ)国造、酒匂川流域の師長(しなが)国造、鎌倉・三浦を支配した鎌倉別(わけ)の領域から構成された。また、武蔵三郡は無邪志(むさし)国造によって支配されていた。 

これも同じ「日本書紀」が根拠じゃないでしょうか? もう少し詳しい話はこちらにも、またこちら「神奈川の由来」には色んな関連引用が。
国造りの時代と言うのは律令制以前ですが、「鎌倉」と言う名前が出てきますね。国造の治める国は江戸時代の藩、鎌倉別(わけ)は天領みたいなもんでしょうか? これは後の鎌倉を理解する上でのひとつの伏線になるかもしれません。

律令制になった後の奈良時代、鎌倉の名は「万葉集」の東歌に「鎌倉山」「鎌倉の美奈瀬川」「鎌倉の見越崎」などと出てきて「正倉院文書」中の735年(天平7年)の「相模国封戸租交易」には,「鎌倉郡鎌倉郷のうち30戸分の田135町109歩の租の半分が、食封として高田王に与えられた」 とあるそうです。鎌倉郷は同時に郡の名にもなっており、後で書きますが郡衙跡は何と鎌倉市役所の隣です。たまたまでしょうが。

先に述べたように、そして下の図にも見られるように三浦半島から、あるいは直接海路で房総、常陸へと通じる重要な場所で、平安時代を通じてほぼ国司の支配下の国衙領であったらしいとも言われています。

奈良時代の道

その「万葉集」の奈良時代から平安初期の律令制の時代には鎌倉を東西に貫く、2本の道が想定されます。
北の道が北鎌倉(山内)の台山藤源治遺跡(北鎌倉女子学園の近く)から源氏山付近を通り寿福寺あたりに下り、鶴ヶ岡八幡南西角から大倉の集落(向荏柄遺跡)を抜け朝比奈峠山裾(鑪ヶ谷北遺跡)から六浦(当時はむつら)に抜ける道。その先は対岸の千葉県(下総、上総の国)です。

もう一本は腰越から海沿いに逗子の沼浜に抜ける旧東海道です。そのルートは鎌倉の東では名越(なごえ)を通ったのではないかとの説、名越でななく小坪坂から披露山公園展望台東の駐車場脇を通ったんではという説もありますが定かではありません。

旧東海道と言うのは645年に律令制における地方行政区分である「五幾七道(ごきしちどう)」が制定されてから771年の「五幾七道」制再編まで、当時は東海道は常陸の国までの国道として三浦半島を横切り横須賀市走水付近に出て走水海(はしりみずのうみ:現浦賀水道を渡って上総の国から常陸の国へ抜ける道です。東京へ抜ける道ではありません。何故って当時武蔵の国は東海道じゃなくて東山道だったんです。
それが奈良時代末期771年の「五幾七道」制再編で武蔵の国も東海道に編入され、それ以降東海道は相模原の台地を越えて東京の府中(武蔵の国の国府=県庁)への道になります。ちなみに武蔵の国は大雑把に東京・埼玉、でも東京湾側は横浜から金沢文庫までは武蔵国ですぐ隣の六浦は相模の国です。とはいえ鎌倉から房総半島に抜けるルートとしてそれ以降も重要なルートだったはずです。

鎌倉には奈良時代と言われる寺や神社は思いの外あります。それも771年の「五幾七道」制再編以前、東海道が鎌倉を抜けて横須賀の走水に抜けていたと思われる時期です。もっともそれらは全て伝承の世界であって、個々に見ていくとガラガラと崩れさってしまう危ういものなのですが。

  • 杉本寺(734年)は、旧東海道では無いでしょうが、奈良時代から六浦(むつら)道があったと連想させます。

奈良時代の寺を旧東海道沿い?に西から並べていくと、

  1. 海岸線の江ノ島との間、腰越には744年(天平16年)に行基が開いたと伝えらる満福寺があります。
  2. 極楽寺坂切り通しの入り口に鎌倉十井のひとつ「星月夜の井(ほしづきよのい)」という井戸があり、そこが星井寺天平(729-749年)年間、聖武(しょうむ)天皇の時代に杉本寺、岩殿寺と同じく行基によって創建されたとのことです。全国に国分寺を建てたのもこの聖武天皇です。
  3. 長谷寺も天平年間736年に藤原房前(ふささき)によって建てられたとのこと(あくまで伝承の世界とお断りしています)。
  4. 甘縄神社も藤原鎌足の玄孫で鎌倉の長者であったとされる染屋太郎太夫時忠が奈良時代初め平城京遷都の年(710年)に創建したとの伝承があります。染屋太郎太夫時忠は奈良の大仏を作った良弁の父とか。
  5. 名越(なごえ)に現在の辻薬師堂の前身、神亀年間(724〜729年)に建てられたと伝えられる医王山長善寺((廃寺:大町・名越)。
  6. 名越(なごえ)坂を越えて今の逗子に入ったところには岩殿寺がんでんじ 721年)があります。

で、この山側、海側の2つの道を南北につなげるのが鎌倉駅西口、御成門小学校から発掘(今小路西遺跡)された郡衙(当時の市役所?)でそこから紀伊国屋前を通り寿福寺前に至る今小路になります。この根拠はその郡衙がちょうど今小路に面しているからです。

もちろんそれらの伝承を信じる訳ではありません。伝承がどの程度信じられるものかは、それぞれのお寺の仏像を調べれば実感できます。というか、実感させられました。

ただ、奈良時代に由来する伝承が実に多いこと、本当に寺があれば、その痕跡がなんらかの伝承に残るはずだ、という逆の推測の範囲で見ていく必要があるでしょう。あったとはいえないけど、あった可能性はあると。上記の内の何分の1かは解りませんが。