武士と武士団 武士の身分・侍と武士 |
|
本論:「武士」と「武士団」各論「侍」
竹内理三の『日本の歴史6 武士の登場』の中の、「武者の家」の書き出しである。字は「侍女」の「侍」である。「侍女 - Wikipedia」を見ると、「侍女(じじょ)は、貴族などに仕えて雑用や身の回りの世話をする女性。腰元。」 関連項目は「メイド」とある。女性でないだけで、意味はその通りである。 もうひとつ、「侍従」という言葉もある。これを調べてみると、「侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す」と。更に「日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味する」と。 「侍」とは、「侍女」や「侍従」の中に本来の意味が残っている。 余談だが、平安時代には上級貴族に仕える者であるが、それより大昔の『日本書紀』の時代には、「侍者(さぶらいびと)」とういのがある。大宝律令の頃にも重い病のもの、90歳以上の者には、「侍人」が付けられた。いわば介護のホームヘルパーである。なかなか福祉国家だったようである。少なくとも建前は。 「武士」と「侍」「侍」と「武士」でどっちが偉いかと、時代劇好きな人に聞いても、多分「武士」の方が偉いと答えるかもしれない。「三匹の侍」「七人の侍」、黒沢明の映画だが、ほとんどよれよれ、足軽か、下手すりゃ家出百姓まで含んでいた。城中で裃を着けているのは「武士」と呼ぶには問題は無いが、「侍」と呼ぶには抵抗がある。素浪人は「おさむらいさん」だろう。 ところが、鎌倉時代には「侍」はとても偉い。二本差しなだけでは「武士」ではあっても「侍」ではない。侍は頼朝などの将軍に直に仕える「御家人」クラスを差す。室町時代においても、足利一門に直接従う武士を「侍」と呼び、たとえその主人が守護職であろうとも、将軍の家来の家来はどんなに偉くとも、武士ではあっても、「侍」ではなかった。 石井進氏は図や表で説明するのがとっても好きで、おかげで判りにくい関係が私などにも、誤解無くとても良く理解出来る。 ただし、ここではあくまで鎌倉幕府にとっての「侍」であることを先にお断りしておく。公家と僧侶は鎌倉幕府の支配下には無い。農民とかその他の自営の一般庶民を凡下・平民・甲乙人と呼び、それに隷属的な奴婢・雑人が居た。その中で「武家」といわれるものが、一般にいう「武士」のことであり、それは「侍」と「郎従・郎党」とに分かれる。 「郎従・郎党」は武士ではあっても主人をもつ者、「侍」はその主人であり、通常は小なりといえども所領を持つ。鎌倉幕府の基本法とも言える、御成敗式目では、この表にあげた身分によって、異なった刑罰を科していた。例えば侍は所領を没収、郎党の場合は禁錮とか。そして、『沙汰未練書』には次ぎのような解説がなされていた。
「貴族」に奉仕する身分が「侍」であったが、武士の世界では、「貴族である将軍」に奉仕する武士が「侍」であったのであり、摂関家などに奉仕する下級貴族や、下級官人と比べれば、大勢の郎党を従え、領地を持ち、裕福ではあったが、「侍」という意味そのものは代わりはない。その基準をそのまま江戸時代に当てはめれば、「侍」は、大名と、直参旗本だけ、ということになる。実際には少し拡大されたが、それでも武士の中でも偉い家臣であることには変わりはなかった。 「貴族」と「侍」『平家物語』を読んだ人は、清盛の父、忠盛が殿上人となったとき、侍身分を蔑んだ公卿たちによる闇討ちが企てられた話しは有名。その「侍身分」を、通常は「武士」だから、「貴族」ではないから、と解釈し、新興「武士」階級と、旧勢力「貴族」の階級対立の現れととらえるのが、世間では一般的である。 学者の世界でも「新興「武士」階級と、旧勢力「貴族」の階級対立」との歴史観は第二次大戦直後に、それまでの皇国史観から解き放たれた当時の先進的な研究者の学説に始まり、いまでもまだ一部では払拭しきれていない。しかし、学者は「侍身分」=「武士」などとは言わない。 平安時代後期に台頭してきた伊勢平氏庶流・平正盛が「侍階級」だったのであり、「侍」が「武士」を表す階級用語ではないことは、学者にとってはあまりにも当たり前のことである。 では平安時代後期に「侍」階級とはなんだったのか。「侍女 - Wikipedia」の説明から「女」を除くとそのまま当てはまる。すなわち「侍は、貴族などに仕えて雑用や身の回りの世話をするもの」 。「貴族」には種類ある。「貴」と「通貴」である。「貴」は三位以上の公卿、であり。「通貴」はそれへ通じる「四位・五位」の位を指す。従って、前述の「貴族などに仕えて」を、「貴」・公卿と置きかえれはそのまま「侍」階級となる。 貴族に関連する家柄は、3種類に分けられ、一番上が「公卿」の家柄、次ぎが「諸大夫」の家柄、そして「侍」階層となる。「侍」階層の判りやすい例は『今昔物語集』巻26-第17話「利仁の将軍若き時、京より敦賀に五位を将て行きたる話」で、芥川龍之介の小説『芋粥』の題材になった。 『芋粥』に見る「侍」平安時代中期に、藤原利仁という貴族が居た。その祖父、藤原高房は受領級の中級貴族であり、『文徳実録』仁寿二年(852)二月に、以下のような「薨伝」が残る。
叔父の藤原山蔭は、魚名流の中にあって初めて従三位中納言にまで昇進した有名人で、その孫娘である時姫は藤原兼家の妻となって道隆、道兼、道長とそして詮子を生んでいる。 藤原利仁は、若いころ関白(藤原基経か)の屋敷に仕えていた。あるとき、関白の屋敷の公卿の宴会のあと、後片付けをした「侍」(諸家格勤の者)が、余り物の山芋の粥を啜りながら「山芋の粥を飽きるほど食べてみたいものだ」とつぶやくところから話しは始まる。残り物を啜っていたのは「侍」として長らく奉公してやっと叙爵に預かった「五位の侍」である。関白の屋敷の内に部屋をもらってそこに住んでいた。どうやら妻子も居なかったらしい。 利仁はその頃まだ若く、その侍を「大夫(たいふ)殿」と呼んでいるので、おそらく青侍、七位かせいぜい六位ぐらいだったのだろう。「五位の侍」は「武士」ではない。藤原利仁はその頃は若く、「貴族予備軍」ではあっても、貴族(五位以上)ではなく、「侍」であったが、敦賀の豪族有仁の婿となって、敦賀に大きな屋敷と領地を持っていた。婿入り先の領地だが、当時は婿入り婚であってそうして地方の地盤を得る。地方の豪族はそれにより中央と官人とのパイプを得る。 そういう利仁は、「五位の侍」に、「東山のあたりで風呂を沸かしたので入りに行きましょう」と騙して馬に乗せ、そのまま敦賀の家に連れて行ってしまう。そして大量に山芋の粥を作らせたところ、五位の侍は、山と積まれた山芋と、五右衛門風呂のような大鍋の芋の粥を、見ただけで飽き飽きして食べられなかったという話。 その後、利仁は『尊卑分脈』によると、911(延喜11)年に上野介、その後上総介、武蔵守など東国の国司を歴任し、延喜15年(915)、鎮守府将軍となる。 『尊卑分脈』にの載っている「鞍馬寺縁起」によると、当時下野国の高坐山(高蔵山)の麓に蔵宗・蔵安を先鋒として盗賊が千人ほど集まり、関東から都へ送るものを奪ってしまう。そこで、それらを退治するために朝廷は藤原利仁を派遣、「遂に凶徒を切て馘を献ず。これによつて名威天下に振ひ武略海外にかまびすし」とヒーローになる。藤原氏系の武士の家は藤原秀郷の系統が有名だが、この藤原利仁の系統を名乗る武士も多い。 利仁の家柄は、平安時代後期の感覚で計ると「受領」「諸大夫」の家柄であり、決して「侍」階級とは言えない。しかし、この話しの中だけでも、摂関家や宮家などに長年仕えて、中年を過ぎて五位という貴族の末端に連なり、しかしその生活は決して豊かではない、という本来の「侍」の姿と、利仁のような、中流貴族の子弟が、若い頃は下級貴族より下の「侍」身分ながら、地方の豪族の婿となって、下級貴族にとっては夢のような冨と郎党を手に入れ、それを足がかりに地方に勢力を伸ばして、後に軍事貴族となっていく様が見てとれる。「武士」と「侍」が見事に交差した逸話である。 おそらく武家平氏の祖、平望もこのような形で、関東に下り、既に常陸国に地盤を固めていた嵯峨源氏の婿となって、あるいは息子達を婿に入れてその地盤を引き継ぎ、勢力を広げていったものと思われる。 藤原利仁は、平将門よりも前の世代、平望とはおおよそ同世代であり、『尊卑分脈』を信じるならば、平望の十数年後に、上総介となっている。
|
|