武士と武士団      「武士団」の結合

本論:「武士」と「武士団」
各論

「兵」の時代の「武士団」の結合度

武士、または武士団の結合度は、「忠君孝親」江戸時代に儒教から輸入された武士道とは全く無縁であるのはもちろん、それとは同じように無縁であった戦国時代のイメージからもほど遠く、極めて緩やかなものであった。

これには2面性がある。例えば源満仲の拠点は摂津国の多田荘であり、源満仲はそこで狩りなどを通じて家人の軍事訓練を行っている。そこに住む家人に対しては、源満仲は生殺与奪の権をもっており、『今昔物語集』巻19-4にも「我が心に違う者有れば、虫などを殺すように殺しつ、少し宜しと思う罪には手足を切る」と、出家した我が子に嘆かれている。

しかしそれは、関東の御家人で云えば「堀の内」での、家長の絶対的権力であり、これは武士に限った話しではない。

例えば永原慶二氏の 『日本中世の社会と国家』 には「「家」権力と中世国家」と題してこう書かれている。

「後深草院女房の日記『とはずがたり』によると、その女房が1302 (乾元元)年厳島詣の帰路、海が荒れたため、先の船中で知った備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊めてもらったが、主人が毎日男女の人々に呵責を加えるのにおどろき、程近い江田に住む和知氏の兄の家に移った。和知氏は「年来の下人に逃げられ、兄がこれを取った」と怒り、兄弟喧嘩にまでなったが、たまたま下ってきた地頭広沢与三入道に救われたという事実がある。かりそめに宿泊した貴族の女房を、「下人」というのはまことに乱暴な話としかみえないが、いったんその家に泊った者はその家の内部にあるかぎり主人の「家」権力=家父長権に包摂される、というのが当時の考え方であったから、和知氏の主張もあながち無法ではないのである。

 在地領主層の「家」世界はこのように、屋敷地・「住郷」といった空間とともに、その「家」的人間関係の一切を包みこんでいる自律的世界である。いうまでもなく、在地領主層自体は中世国家の権力基盤を構成する地方支配層であるが、かれ自身の直接的存立基盤は中世国家の「公」権が立ち入ることのできない世界となっている。」

貴族でも同じようにしていた。『今昔物語集』巻第一九第七話に「丹後守保昌朝臣の郎党、母の鹿となりたるを射て出家せる話」がある。そしてその保昌は「弓箭をもって身の荘(かざり)」としていた郎党に

何ぞ汝あながちにこれを辞する。若し明日の狩りに不参ずは、速やかに汝が頸(くび)を可召(めすべき)也

つまり「命令通りに来なかったら即刻首を落とすぞ!」と怒っている。藤原保昌は武士の家ではないが、「尊卑分脈」(第3冊7/58)にも「勇士武略之長名人也」とあり、武士とあまり変わらない貴族である。

武士とは何の関係もない中級貴族の蔵人藤原範基が、右大臣藤原実資に「もってのほかのことだ、範基が武芸を好むことは万人が許さないことである。彼は父母ともに武者種胤(子孫)ではない!」、と日記に書かれた。それは彼が自分で家人を斬り殺したからである。人に命じて殺したのなら問題は無かった。

それとは別に、互いに独立して家を構える者同士の場合は、上下関係はあっても、「同盟」に近いものがある。いわば、主人会社の終身雇用の社員ではなくて、契約に基づく協力会社、下請け企業である。あるいは、共同組合のような場合もあったかもしれない。いや、あった。下請け企業が複数の元請け企業の元で仕事をもらうのは当たり前であり、当時の武士団の上下関係もまたそのようなものであった。

これを「家人」・「家礼(けらい)」と区別することがある。もちろん当時、そうした用語の区別が確定していた訳ではないが、例えばこのような例がある。

吾妻鏡 1180年(治承四年)10月19日条
・・・その後加々美の次郎長清参着す。・・・この間兄弟共知盛卿に属き京都に在り。而るに八月以後、頻りに関東下向の志有り。仍って事を老母の病痾に寄せ、身の暇を申すと雖も許されず。爰に高橋判官盛綱、鷹装束の為招請するの次いでに、世上の雑事を談話す。その便を得て、下向を許されざる事を愁う。盛綱これを聞き、持仏堂の方に向かい手を合わせ、殆ど慚愧して云く、当家の運この時に因るものか。源氏の人々に於いては、家礼猶怖畏せらるべし。矧やまた下国を抑留す如き事、頗る服仕の家人に似たり。 則ち短札を送るべしと称し、状を彼の知盛卿に献りて云く、加々美下向の事、早く左右を仰せらるべきかと。卿盛綱の状を翻し裏に返報有り。その詞に云く、加々美甲州に下向の事、聞こし食され候いをはんぬ。但し兵革連続の時、遠向尤も御本懐に背く。急ぎ帰洛すべきの由、相触れしめ給うべきの趣候所なりと。

要するに、平家を見限った甲斐源氏の加々美長清が、老母の病を口実に関東に帰ろうと考え、それを平知盛(清盛の四男)に申し出たところ許しては貰えなかったが、高橋判官平盛綱はその真意に気づきながらも、「家人のように抑留すべきでない」と平知盛(清盛の四男)に口添えをしてくれて、やっと平知盛の許しを得たという話し。もちろん加々美長清は富士川の合戦で、頼朝のもとに馳せ参じる。

ここでは「家人」は会社に完全に従属する終身雇用の正社員のようなもの。「家礼(けらい)」は、いわば下請け協力企業であり、従属関係も双方の利害の一致に基づく契約関係であることが解る。ちなみにこの加々美長清は小笠原流弓馬の祖である。

よく例として出されるのが、『今昔物語集』巻25の10「頼信の言に依りて平貞道人の頭を切る事」である。源頼光の郎等、平貞道(貞通)が酒宴の席で頼信に、ある「兵」が無礼であるから首を取ってこいと云われて、頼信には名簿(みょうぶ)を差し出した訳でもないのだから、と最初は云うことをきかなかったという話しがある。源頼光同様に頼信にも名簿(みょうぶ)を差し出しているならまだしもと。つまり複数の主人に名簿(みょうぶ)を差し出して臣従することも当たり前のことであり、「兵」の世界だけでなく、当時の貴族社会一般にごく普通のことであった。

また、名簿(みょうぶ)を差し出すことによって得られる対価が何であるかによってもその結合後は変化するのは当然である。平安時代も末期とならない限り、「兵」の世界において、領地の安堵などは得られるべくもない。例えば源頼信はおろか、源頼光でさえそれを出来る立場にはない。これは源義家とて同じである。領地の安堵は国衙の在庁官人となるか、あるいは権門に荘園として寄進するかである。それとて確実ではないが。

平安時代の貴族も京武士も、戦国武将や江戸時代の大名とは異なり、基本的にはサラリーマンである。官位の上昇が自分の栄達である。せいぜいが重役の息子とか、重役の娘と結婚して出世が早まった。派閥に加わって部長への道が開けた、とか、小説やマンガによくある話しとさほど変わらない。もうすこし派手ではあるが。

院政以前においては、摂政の嫡男であっても、それだけで摂政となれた訳でも、権勢が誇れた訳でもない。当時はまだ「イヘ」(「家」が未成熟な前段階)が未確立であり、天皇の外戚となって初めて権力を握れるという「みうち」の時代である。

 

「血縁」による「武士団」の結合

「ミウチ」から「イヘ」へ、そして「因縁」

江戸時代の武士のように、先祖代々同じ主人から「禄」を貰って一家が成り立っているのなら、主従関係による結合が主になるかもしれないが、それでさえ儒教精神の注入・洗脳による補完を必要とした。平安時代末期、それこそ12世紀中頃の武士団の結合はどうだったのかというと、一番強い結束力はやはり「血縁」だったようである。

しかし、封建時代の幕開けなんだからそりゃそうだろうと思うかもしれないが、そういう先入観は一旦捨て去った上で、「血縁」を考える必要はある。平安時代中期までは現在想像されるような「家」という概念は実はあまり無かった。これは天皇家から貴族社会に至るまでそうだった。そこでの「血縁」は、「家」ではなく、嫁と夫、親と子、そして孫という血縁であって、よく「イヘ」と「ミウチ」という言い方をされる。摂関時代は「ミウチ」の世界であり、それ故に摂関家自体が、天皇の「ミウチ」になった者が摂関となるのであり、嫡男などという概念は無いと考えた方がよい。例えば摂関家の礎を築いたといわれる藤原基経から、最盛期の藤原道長までの間を見ると、そのことが良く解ると思う。

「イヘ」の概念が生まれるのは、白河法皇の院政時代から徐々にである。「武士団」の時代はその院政時代以降であり、その意味では「家」による結合、継承は徐々に強まってはいたが、しかし武士に限らず、後の世の「嫡流」、「本家」というような「父系家族制度」の概念に捕らわれるとこの時代の歴史を見誤る。そのために「家」とは書かずにその前段階という意味を込めて「イヘ」と表記する。

親子の関係なら、子は親に絶対服従だが、兄弟となると互いにライバルな要素が強くなる。実は「父系家族制度」と「女系家族制度」が混在していたのが平安時代と考えておいた方が良いと思う。良い例は有名なたいらの平将門の乱である。そもそもの発端は、平将門の叔父達の「嫁ぎ先」「婿入り先」であって、それによって、平将門の叔父達は関東、特に常陸国、両総、武蔵などに地盤を築いたと見られ、その「婿入り先」同士の利害対立が、平将門と叔父、従兄弟同士の抗争に結びついていった形跡がある。

家督・嫡流

院政期に徐々に「イヘ」の概念が固まってゆくが、現在の我々が思い描く武士の家は、江戸時代の家のイメージが強い。例えば大名の加賀前田家(もっとちいさな大名でも同じだが)江戸時代300年を通じて家督を継いだ者が代々100万石のお殿様だった。しかしそうなるのは、室町時代に荘園の影が薄れ、領主の一円支配が強くなって以降のことである。そうした、主に江戸時代以降の家督のイメージを引きづったまま、平安時代の武士、特に京武者を見ようとすると足を取られる。

家督・嫡流は発端としては「家」の財産が「職」(しき)として固定化されそれを継承するところから始まる。平安時代後期からは、地方においては例えば荘園の下司職、郡司や、郷司の職がその領地の根拠であるような場合、その「職」を引き継ぐことによって、家督・嫡流が形成されるが、一方で兄弟がそれぞれの地で開拓を進め、新たに名(みょう)を形つくる場合には、国衙との関係においては対等になる。

また、京においては親、妻方の義親の後ろ盾で、官職に就くが、その出世については支配しているのは嫡男ではない。家督・嫡流を強調しだしたのは源頼朝からではないだろうか。頼朝ほ自己の正当性、威厳付けを必死に演出しなければならなかった。源頼朝の父義朝が源家の家督を継いでいた、いや、廃嫡されていたとかよく議論されるが、その時代に「家督」なる概念が存在しただろうか。仮にあったとして、義朝の父為義の家督にどれほどの意味があっただろうか、為義が摂関家家政機構のなかである程度の職を得ていたとしても、それは藤原頼長の意志ひとつでどうとでもなるものであり、現に為義の摂津の旅邸は藤原頼長の命で破壊されている。保元の乱の時点での源義朝と、源(足利)義康は対等な立場での大将同士であり、鳥羽院やその近臣にとって、源義朝が義家の嫡流だからというようなことを考えたとはとても思えない。あくまで、武力としての利用価値で源義朝が取り立てられたとみるべきだろう。そう思われて困るのはその遺児頼朝だけである。

中世においては、惣領制に基づいた「分割相続」が一般的であり、いわいる嫡男により単独相続の出現は、一般的には鎌倉時代末から、南北朝時代にかけて登場する。もっとも早い例は1234年(天福2)に常陸大掾氏の一族・烟田(かまた)秀幹が、その相伝の所領4ヶ村を、嫡子朝秀への継がせた譲状(「鎌倉遺文」4193 )である (関幸彦 『武士の誕生』 p16-18)。 ただし、この時代でも、所領というものは、根本私領たる屋敷地とそれに付随する門田、そしてその外側に対しては地頭職による支配権利であり、この職は、同じ土地に対して複数の職が重層的に設定されている。例えば荘園においては本所・預所・下司というのも職の体系であり、地頭職もそのひとつである。年貢の全てが領主の手に渡った訳ではない。惣領制においても、他の勢力に対しては一族一門で団結はしても、それぞれの領地経営は独立している。それほど 確固たるものではない。ずっと時代の下がった鎌倉時代後期においてさえ、北条氏の嫡流と見なされる得宗家は、北条庶流の領地に支配力を持ったかと言えば、実は持ってはいなかった。得宗家も北条庶流もそれぞれ独立した家政機構を持ち、所領を支配している。

佐藤進一は得宗が一門を支配下において、専制体制を築いたとしたが、秋山哲雄は若狭国守護職の研究によって、これを否定している。(『北条氏権力と都市鎌倉』(2006年 p206)

12世紀に入ると、「父系家族」の色彩は強くなるが、「子は親に絶対服従」に近いものがあると同時に、婚姻による義父と婿もまた強い絆とみなされている。関東の開発領主の連合は、婚姻関係によって維持されていた形跡が極めて強い。

『曽我物語』に見る開発領主の姻戚関係

『曽我物語』によると、曽我兄弟の母の叔父は加納介宗茂であり、母は曽我兄弟の父、河津祐通と結婚する前に伊豆守源仲綱の目代左衛門尉仲成(なかしげ)なる者との間に1男1女をもうけ、その娘が二宮朝忠に嫁いでいる。母の姉の一人は和田義盛に嫁ぎ、別の姉の娘(姪)は渋谷重国に嫁ぐ。

一方、父河津祐通の姉は三浦義澄に嫁ぎ、別の姉は敵となった工藤祐経に嫁いだが、その父(曾我兄弟には祖父)伊東祐親(すけちか)と工藤祐経が対立したことで父から離縁させられ、中村党の土肥実平の子、遠平と再婚させられた。もうひとりの姉(八重姫)は流人時代の源頼朝と出来て、子まで産んだが、平家に臣従していた父伊東祐親に見つかり、その頼朝との間の子(千鶴)は殺され、彼女は江馬次郎と結婚させられた。

別の姉は三浦義明の弟、岡崎義実に嫁ぐ。そして別の姉の娘は波多野能常に嫁いだ。更にもう一人は北条時政の先妻で北条政子や北条義時を生んでいるはず。ついでに曾我兄弟の父河津祐通の烏帽子親は土肥実平である。

『曽我物語』(真字本:まなぼん)自体は、鎌倉時代後期(『吾妻鏡』編集と同時期との説も)の物語ではあるが、真字本は、流布本系とは異なり、伊豆や相模の地理については非常に正確であり、こうした一族の血縁関係についてもかなりの信憑性があると考えられる。そしてそれを見ると、大庭御厨の濫妨での大庭一族包囲網のほとんどが伊豆国衙の在庁官人、加納介一族、伊東一族となんらかの姻戚関係を結んでいることが判る。

『曽我物語』の書き出しは、1176年(安元2)に、武蔵、相模、伊豆、駿河の武士達、総勢500騎が伊東荘の開発領主・伊東祐親の招待で大がかりな巻き狩りを行う為に集まり、その余興の相撲から端を発して、大庭一族の俣野景久に組する側と、河津祐通に組する側に分かれてあわや戦闘という事態となるところを、年長者の大庭景能と土肥実平が間に入ってやっと和解するというところから始まる。

まるで大庭御厨をめぐった過去の対立の再燃みたいなシーンに思えてしまう。大庭御厨の濫妨の件は、『吾妻鏡』には無く、伊勢神宮側の資料から発見されたもので、大庭氏も三浦氏も、土肥氏も滅んだ後の『曽我物語』が書かれた頃にはおそらく誰も知らなかった事件であるはずだ。

三浦一族の外戚

『源平盛衰記』には上総介広常の弟、金田大夫頼次は三浦義明の聟であり、衣笠合戦のときに70騎を率いて三浦一族に合流したとある。攻めた側の畠山重忠は三浦義明の外孫であり、それ故に由比ヶ浜では一旦和睦が整い、畠山重忠は引き上げようとした処、そうと知らない和田義盛の弟が急襲して合戦となり、その報復のために一族の河越重頼、江戸重長らと衣笠を攻め、三浦義明が戦死した。畠山重忠は三浦義明の外孫であるにもかかわらずと、三浦一族の恨みを買った。

その三浦一族が宝治合戦で滅亡したとき、大江広元の息子毛利季光は、第5代執権北条時頼の元に駆けつけようとしたが、三浦泰村の妹であった妻に懇願されて、三浦氏側に付き、最後は法華堂で息子らと共に自刃した。

開発領主や御家人の婚姻は、後の世なら政略結婚といわれそうだが、なんとなくニュアンスが違う。政略結婚のイメージはそれこそ織田信長の妹、お市の方の運命のように、イザとなったらそんなもん! という単なる道具だが、この時代の結婚は、本当に相手の一族と血縁を結ぶというイメージが強い。程度問題としても、その差はなかなか大きなもののように感じる。

しかしそれも、内か外かの違いはあれ、いずれにしても親子の関係においてであり、兄弟から従兄弟となると、これはもう他人の始まりであり、源義家、源義綱兄弟の、源義光と源義国の叔父甥の常陸合戦だけではなく、千葉氏や上総介一族においても、従兄弟・兄弟での抗争、首の取り合いは普通に起こっている。

常陸大掾氏にしても、枝分かれした各家は決して一枚岩ではなく、家督を継ぐには嫡男だけ、「田分け」はしないというのは、新規開拓の余地が少なくなり、互いに領地が地続きになって、これ以上分けたら零細化の一途という段階になってからである。平安時代後期の関東は、まだまだ未開の土地が沢山あった。従って、12世紀の大開拓時代に、武士と武士団の階層化が出来上がったといっても、それはまだ、だいぶゆるやかな階層化と団結であったと言える。先の烟田(かまた)氏は、常陸大掾氏の分流のひとつ、鹿島氏の一族であり、南北朝時代の戦乱においても、鹿島氏と行動を共にしていることが、残された軍忠状に見られる。しかし、その一方において、烟田氏自身も鎌倉幕府に直に仕える御家人・地頭(1278年(弘安1)11月3日「関東下知状」・鎌倉遺文1345)であった。 

2007.12.28
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