武士と武士団 党的武士団 |
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本論:「武士」と「武士団」各論党だいぶゆるやかな団結と言えば、「党」と呼ばれる武士団もある。例えば鎌倉党、武蔵七党、摂津の渡辺党、九州の松浦党、また、紀州の湯浅党などが知られる。 例えば三浦党などという場合には一族、血縁の集団のイメージが強いが、通常は長(おさ)は居てもそれは主人ではなく、一定の地域、経済単位に基づく協同組合、あるいは同盟に似た性格のものが多い。武蔵七党は完全に地域連合の性格が強い。 渡辺党摂津の渡辺党も源頼政が率いることもあったが、必ずしも摂津源氏の武士団ではなく、伝承の世界の渡辺綱(実在性は疑問)の後裔を名乗る嵯峨源氏の渡辺氏と、後の文覚(もんがく)こと藤原式家流の遠藤盛遠など、後藤氏の連合体である。 『尊卑分脈』によると、渡辺綱は、『今昔物語集』で、平良文と一騎打ちをした嵯峨源氏の源充の子とされ、義父の仁明源氏敦の妻の兄である摂津源氏の源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭とよく言われるが、頼光四天王の内3人は『今昔物語集』には、巻28の2話「頼光郎等共、紫野見物語」他に出てくるが、渡辺綱の名は無い。渡辺綱が登場するのは鎌倉時代中記の『古今著聞集』からであり、主に室町時代に鬼退治の話しなどが作られていく。 河内にある皇室領の大江御厨を統轄し、京都では内裏で天皇の警護に就く滝口武者を世襲し、左右衛門尉、左右兵衛尉など中央の官職を有していた。文覚の父、遠藤茂遠は左近将監であったと伝える。 また、渡辺党は瀬戸内と京の間の水運の拠点で淀川を南北に渡る渡し場、難波江の渡口(渡辺津とも)を拠点として、摂津国住吉の浜(住之江の浜)で行われる天皇の清めの儀式(八十嶋祭)などにもに従事するとともに、海に通じ、漁夫や船夫たちを支配して瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になる。保元の乱に、源省、源授、源連、源興、源競らの名が見える。 松浦党九州の松浦党は、1067年(延久1)に摂津渡辺党の源久(みなもとのひさし)が下向して九州の肥前国の宇野御厨の検校、つまり御厨の荘官として治安維持を司り、松浦、彼杵郡及び壱岐の田およそ2,230町を領有して梶谷に住み、松浦を名乗ったとされる。次いで検非違使に補され、従五位に叙され、太夫判官と称して松浦郡、彼杵郡の一部及び壱岐郡を治めたとされる。ただしそう記しているのは江戸時代に作られた『松浦家世伝(まつらかせいでん)』である。 その『松浦家世伝』では「嵯峨天皇―源融―昇―仕―充―(渡辺)綱―泰―源久」とするが、渡辺綱自体が後世の創作と思われるので、これも南北朝時代以降に作られた伝承であろう。そもそも、松浦党関係の系図はバラバラであり、すべての系図に一致していることは、直が久の嫡子であることと、後世東松浦郡に勢をのばした家々がすべてそこから分かれた一族となっている点だけである。そのことから、自出は不明ながらも、源久がこの地に勢力を張り、その子らが広がっていったことだけは確かなのかもしれない。 源久が下向したとされる頃より約半世紀前、1019年の「刀伊の入寇」(といのにゅうこう)という事件があり、太宰府権帥藤原隆家などにより撃退されたが、『小右記』には、その記述の中に源知(みなもとのしる)が見える。
このことにより、嵯峨源氏か仁明源氏などの一字名源氏が、官人として九州にも進出していたことは確かであろう。しかし松浦各家の伝承には源知は出てこない。 嵯峨源氏、海運という線から、摂津渡辺党内の嵯峨源氏との何らかの関係は否定できないが、しかし後世の伝承以外にはそれを語るものはない。そもそも「小右記」の時代、つまり11世紀に渡辺党が存在していた可能性は低い。 「青方文書」(あおかたもんじょ)には、源久の長男である源直(みなもとのなおし)が、源平争乱の前に、清(きよし)、囲(かこう)、披(ひらく)、連(つらの)などに領地を分けたことが記録されている。面白いことに、源直(なおし)の妻は中国人蘇船頭の後家で、後に大名となる平戸松浦氏はその後家との間に生まれ子の子孫である。もっとも蘇船頭の後家がやはり中国人とは限らないが。中国人蘇船頭の後家を娶り、その連れ子も養子とすることによって、宋の海運勢力との結合をも想像させる。 実際には、同族の子孫が各地に広がったというより、各地の土豪、海賊が地域的に連合して松浦党と呼ばれ、後世にそれぞれが松浦の名字を名乗り、源久を始祖とする系図を作りあげていったのかもしれない。元々は松浦党ではなかった近隣の一族も、例えば筑前怡土(いと)庄の中村氏が、「松浦一族中村孫四郎栄永」と、固有の姓の上に党名を付けていたものが、やがては固有の姓を消して、松浦氏を名乗るようになるなどしている。 なお、この松浦党が対外的に比較的まとまって行動したのは鎌倉中期以降、南北朝の頃であり、その背景には商品流通の発達に伴う、漁業の協同化、海賊(倭寇)としての松浦党の活動強化があると言われる。尚、海賊(倭寇)はいわいる海賊行為も働くが、一方では流通(密貿易)の担い手でもある。また、同族の子孫が各地に広がったとしても、そこには広大な農地などなく、それこそ津々浦々に分散して生業を海に求めなければならなかったという環境が、惣領支配が生まれ難かった要因であろう。 外から見れば松浦党と呼ばれるこの集団も、その内においては下松浦、上松浦のグループに分かれ、そのそれぞれがまた小さな浦や島を単位とした一家の集合体である。とはいえ、ここにあげた他の党とことなり、松浦党が団結することは極めてまれであり、南北朝時代に九州探題今川了俊の働きかけによって最初の下松浦党の一揆団結が行われるが、上松浦が一体となって行動した事例は確認されていない。実は松浦党と見なされる彼らが、みずから松浦党と名乗った文書は一通も残っていないのである。確かに『平家物語』(巻第11 鶏合壇浦合戦)には松浦党が登場する。
それらは、松浦地方の複数の小さな武士団達のことを、『源平盛衰記』や『平家物語』などの軍記もの、その他の記録文書の著者達が、一括して松浦党と書いたことがその語の発生であつたと推察されている。 南北朝時代に、松浦党は南朝側、北朝側にそれぞれ分かれて戦ったり、いわいる「かり武者」的側面があったのか、室町幕府は、松浦に対して疑いの目を向けていたらしく、そこで下松浦党一揆(百姓一揆とは別に、同族の武士などが共通の利害関係に基づいて政治的・軍事的に団結して進退をともにすることも一揆という)は、1373年(応安6・文中2)、1384年(永徳4)、1388年(嘉慶2)、1393年(明徳4)の前後4回にわたって血盟書(契諾状)を作り、足利氏に忠勤を誓って領地を保全することができた。先に、「南北朝時代に九州探題今川了俊の働きかけによって最初の下松浦党の一揆団結が行われるが」と書いたのがそれである。このときの署名の順番はクジ引によって決たという。 それより前の1346年(貞和2)にも、上松浦の何人かの武士が、度々足利方について戦った恩賞として、肥前国河副庄の配分をうけたことがある。そのときも彼らはクジ引で河副庄配分の場所を決めている。要するに内部での調整は不可能、クジ引で決めるしかないという訳だ。ここまで書いてきて、この松浦党を、ほんとうに「党」と呼んでよいものか、いささか疑問にすら思えてくる。 これらは、外部から「松浦党」と呼ばれる武士団の一揆(協同組合)が相互に対等であったことを示す象徴的な例である。しかし一揆の事例は下松浦の面々についてであり、上松浦の一揆的団結については信憑性のある事例、資料は見あたらない。 その下松浦の血盟書(契諾状)で、もっとも古い1373年(応安6・文中2)の内容は、以下の五ヶ条に要約される。
しかし、いずれにしてもこの九州の松浦党も、摂津渡辺党も、東国を中心に見られる開発領主型の武士団とはいささか趣は異なる。 (江迎町の歴史概要・松浦党、松浦史 唐津市史第三編中世 他) 湯浅党湯浅党は、平安中期以降、紀伊国有田川下流の湯浅を本拠とした武士団である。一族の祖とされる湯浅宗重は、平治の乱のときに、熊野参詣の途中であった平清盛を助けて、無事に帰洛を実現させた事で知られる。 この宗重の父と推定される「湯浅之住人」藤原宗永なるものが、康和元年(1099)のころにいたことが『粉河寺縁起』にみえる。藤原秀郷流とされるが、信憑性は疑問である。 鎌倉幕府成立後、宗重は湯浅荘その他を安堵されて御家人となり、紀ノ川流域にまで所領を拡大した。しかし惣領家の統制力が比較的弱く、同族的結合を中心に周辺の異族(姻族)をも含めた共和的結合であった。 また湯浅一族のなかから明恵が出た。父は伊藤氏であるが平姓を名乗った平重国。母が湯浅宗重の娘である。父は佐藤姓を名乗った秀郷流藤原氏の藤原公清(通家)の曾孫基景が伊勢に居住して伊藤氏を名乗った一族であるが、その伊藤氏は源平合戦のころ平家に属し、多くの「武勇の士」を出している。中でも伊藤忠清(平忠清)とその子悪七兵衛景清が知られている。 湯浅党の団結はこの明恵上人に対する信仰で固められたといい、湯浅宗重の孫にして嫡流の景基は湯浅庄内に明恵上人のための1231年(寛喜3)に施無畏寺を建てたが、そのとき、湯浅宗重以下湯浅党の49人が寄進状に連署し、そのなかで、もし申し合わせに背く者があれば「一家同心、而速可放其氏也」とある。
以下に連署が続くが、その署名には湯浅氏の本性・藤原の他に、散位源宗衡、前刑部丞橘資重、源明、源佳、紀良孝、源宗幸、右衛門尉源至、左衛門尉橘資信などの名が見える。源明、源佳、源至らは嵯峨源氏か。施無畏寺蔵の崎山家文書での系図には、湯浅宗重の七女が(源)親との間に生んだのが明とあるので、それが源明とすると、この湯浅党には嵯峨源氏の一族も、更に紀氏なども含まれていたことが解る。 湯浅党の主な構成員としては、嫡流の湯浅氏をはじめ得田・丹生図・芳養・糸我・石垣・保田の諸氏があり、女子が嫁いだ崎山・藤並などが知られる。ただし、残念ながらそれらは「名字」であり、先の嵯峨源氏、紀氏らがどれに当たるのかは(私には)解らない。これらの家はそれぞれ在田郡内の同名の諸荘の地頭職を伝領していった。つまり、湯浅党という緩い共同体は構成するものの、それぞれは独立した御家人でもあるということで、このあたりは松浦党、渡辺党にも共通する。 1289年(正応2)に、在京奉公の賞として田殿庄下方地頭職が宛がわれた際の将軍家教書には「湯浅人々中」とあり、湯浅党を構成する領主達がそれぞれかなり強い独立性をもっていたことの表れであろう。これらのことから、湯浅党は、地域的にかたまりやすく、しかも惣領権があまり強くない場合に形成される同族を中心としながら、他の氏族の小領主も結集した、初期の「党的武士団」の代表例とされる。 隅田党隅田党も同じ紀州の墨田庄にある石清水八幡の別宮・隅田八幡を中心として、隅田庄の20数人の小規模領主(名主ぐらい?)が党的な団結を行ったものである。1418年(応永25)11月付けの文書には「25人の地頭」と、そのそれぞれが地頭であることが示されている。 隅田党の活動は、湯浅党よりも後の建武の新政から南北朝時代にかけて著しい。隅田氏が最初に記録に登場するのは、1119年(元永2)の、藤原忠延の隅田庄の下司としての補任であり、以降、下司職、公文、隅田八幡俗別当職を世襲し、その庶流がひろがってゆく。しかし隅田党にはやはり、藤原忠延の系統以外の藤原氏、源、橘氏などが混じっている。 南北朝時代に、本来源姓の土屋忠政は、ちょうど松浦党の中村氏が、「松浦一族中村孫四郎栄永」と、固有の姓の上に党名を付けたと同じように、「隅田土屋孫八郎」と名乗り、そして室町時代に入ると、固有の姓を省き、隅田の一族として名字を同じくし、団結を強めていく。この隅田党の惣領は、隅田家の惣領を継ぐのではなく、石清水八幡の別宮・隅田八幡の「社家のことを毎事沙汰仕る」と、隅田八幡を中心とした党の結合であったことがよく解る。 実際に、党の盟主は相伝ではなく、1426年(応永33)には一族は各月交替で世話人を出し、下知状も「隅田一族中」という宛名で出されたりしている。 党的武士団以上の多くは豊田武氏の『武士団と村落』(吉川弘文館 1963年)を参考としたが、豊田武氏は「党の共通の性格」を以下の4点にまとめている。
尚、豊田武氏は湯浅党、松浦党は同族結合、隅田党はひとつの氏が中心となりながらも、数氏が鎮守を中心として地域連合を成すものとされるが、私には湯浅党と隅田党の違いは、さほど大きなものではないようにも見える。むしろ、渡辺党や、松浦党などのように、「海」に関わるひとつの職能」と「武士という職能」が結合していることに注目したい。豊田武氏の上記のまとめは「党」についてであるので、私の視点はそもそも別の問題なのだが、関東で言えば、三浦氏は、開発領主という側面ももちろんありながら、それ以上に海との関わり、つまり海運という視点がかなり強そうに感じるからである。 2008.01.21-24 |
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