「武士」と「武士団」 (前編) |
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「武士団」とは日本中世史での学術用語から始まり、主に12世紀の平安時代末期から、鎌倉時代、南北朝時代を中心に室町時代までの武士の集団を指す。中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもあるが、「武士」は中世から近世(江戸時代)までを対象とし、また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」ではその郎党も含めた社会的実態が問題とされる。 「武士」「武士団」という言葉古代では戦闘目的の為に組織された集団を「軍(いくさ)」と呼ぶ。後には「いくさ」は「戦」であるが、当時は「軍」を「いくさ」と呼んだらしい。律令体制下の軍団も当然ながら「軍(いくさ)」である。 しかし、律令体制下の軍団と武士団は、ともに戦闘目的の為に組織された集団であっても、それぞれ異なった実態である。律令体制下の軍団での組織形態は、国家の組織の中での公な上官と部下であるに対し、平安時代に「兵(つわもの)」と呼ばれる者達が従える集団は私的な結合である。そこで、戦後の歴史学者は後者を「武士団」と呼び区別した。武士団という言葉が平安時代後期にあった訳ではない。 そもそも、「武士」という言葉自体が平安時代から常用されていたのかというとそうでもない。「武者」という言葉なら平安時代中期の『高山寺本古往来』の、有名な「松影是雖武者子孫(松影はまことに武者の子孫なりと雖も)」という下りにも出てくるが。『今昔物語集』はちょうどその12世紀初頭の成立といわれるが、呼ばれ方は「兵(つわもの)」「豪の者」である。源平の争乱の時代、つまり12世紀末でも、「武者」「弓箭の輩」が多く、「武士」と出てくるのは希であった。 戦後初期の第一線の中世史の研究者が「武士」を問題とするとき、その対象は鎌倉幕府成立の基盤としてとらえられた「武士団」であり、それが中世的な在地支配の形態とセットで、「中世の成立」と不可分なものとして研究されてきた経緯がある。その戦後初期の武士在地領主論では、武士を武士団と同義ととらえている。 いずれにしても、「武士団」の時代は平安時代後期から、室町時代までであり、その境はあいまいながらも、少なくとも近世、江戸時代については「武士」ではあっても「武士団」として語られることはない。日本の「中世」における武士の存在形態が、「武士団」と言い直してもよいと思う。 武士論の遷移 2008.04.03追記武士在地領主論戦後の中世研究史を振り返ると、石母田正氏の『中世的世界の形成』に始まる第一世代での武士・武士団論は在地領主に主眼を置いたものだった。「武士在地領主論」と呼ばれるものがそれである。その代表的な論客はである安田元久氏は、1970年の『東国における武士団』という小論でこう述べる。
安田元久氏ら、戦後初期の「武士論」は「まず在地領主ありき」であり、そして古代貴族に対立する階級としてとらえていたことがこの一文から良くわかる。 在地領主論への疑問・異論それに対して、佐藤進一氏は1965 年の『南北朝の動乱』 の中で次ぎのように述べた。
この一文は、武士論を正面から展開する中でのものではなく、南北朝時代に武士の家が敵味方に分裂したことに関して書かれた中の一文ではあるが、その後の武士・武士団研究に大きなインパクトを与えた。 尚、佐藤は1949年当時から、中世社会の身分構造に触れて、武士とは「武芸すなわち武技」を特技とした戦士集団であると述べていたそうである。 一方、戸田芳実氏は石母田正氏や安田元久氏らの、武士階級は農村から権門など古代階級を打ち破る階級として生まれるとする見解に対して、武士は初めから農民と対立する支配者側であったと主張する。
そして1974年初稿の『初期中世武士の職能と諸役』において『北山抄』や『愚味記』の紙背文書を資料としながらこう述べる。
1969年12月の法制史研究会総会で戸田芳実は『国衙軍制の形成過程』を発表、そこで述べた「地方軍事貴族(*5)」または「辺境軍事貴族(*6) 」という概念、そして「国衙軍制」への着目はその後の武士論に大きな影響を与えた。 その同じ研究会で石井進も『院政期の国衙軍制 (*7) 』を発表する。 その石井進は『日本歴史第12 中世武士団』 の中で、有名な国衙軍と地方豪族軍の図式化を行いながら、次ぎのように述べる。
それらの学説は「武士職能論」と呼ばれ、その後橋昌明氏がラディカルな論客として登場する。ただしそれらの分類は決して絶対的なものではない。例えば石井進氏の国衙軍制論を発展させるとして、「国衙軍制論」を中心に武士を論ずる下向井龍彦氏は「武士職能論」を激しく批判する。 (*9*10) 武士職能論橋昌明氏は、1975年の『伊勢平氏の成立と展開』 (*11) において、伊勢において抗争を繰り返した平致頼・致経と平維衡らが、公的には諸衛府の官人、私的には高貴な貴族の「侍」、世間的には一種の傭兵隊長であったことを資料に基づき詳細に明らかにしてこう評した。
高橋氏はその武士論の前提として、身分を公家・武家(*13)・寺社を権門の職能分類としれ例外として、それ以外を「出生身分」と「職業身分」にまず分ける。「出生身分」とは「イヘ」(*14)の社会的格付け、公家に仕える下級貴族、諸大夫(四位、五位)とその予備軍、そういう意味での侍階級(六位から五位)とか、官位に繋がらない百姓(農民には限らない)層という区分に対応する。 そして職業身分は、平安時代後期の上層階級での社会的分業が、「イヘ」への職能として固定し、その文士、例えば 陰陽の家とかいう形で「芸能」が家業が固定され、官職までが世襲されるようになる段階で、武士という職業身分の類型が生まれるとする。(*15)そこから『今昔物語集』でよく言われる「兵(つわもの)の家」「家ヲ継ギタル兵(つわもの)」がそれにあたる。 その整理を前提に高橋氏はこう言い切る。
それは橋昌明氏が述べているのが、「武士」という職能の発生論だからであって、橋昌明氏は、「武士」の存在の2つの側面、平安時代後期における社会的背景も、十分に承知している。
ただし、高橋氏が、そう述べたのは1999年になって、他の研究者からの相次ぐ批判・誤解への回答「諸氏の批判に応える」の中においてである。 武士職能論以降それより以前に、『将門の乱の評価をめぐって』という1971年当時の橋氏の主張を、上横手雅敬氏は1972年に、『シンポジウム日本歴史5』 の基調レポートにおいてこう紹介された。
高橋氏が、「彼らの経済的基盤」は「ここでは中心的な問題ではない」というその「ここ」、つまり「武士職能の発生論」ではなくて、「武士」という存在全体、高橋氏がいうところの「存在の真の根拠」を理解しようとするときには、在地領主としての存在も無視する訳にはいかない。上横手雅敬氏は、先の記述に続けて、こう書かれている。
その後の1980年代以降では、義江彰夫氏、関幸彦氏、元木泰雄氏その他の方が、それら両論の成果を発展させるべく、それぞれの視点から積極的に論を展開されている。そうした流れのを踏まえた上で最近はあまり論じられることの少なくなった「武士団」をもういちど振り返ってみることが重要だと思う。
「武士団」の前史「兵」(つわもの)平将門、藤原秀郷の時代、「武士」という呼び方は無かった。「文人」に対する「武人」、「文官」に対する「武官」と同じような使い訳で、「文士」に対する「武士」といういわれ方は奈良・平安時代初期にも僅かに見れれたが、職能としてはともかくとして、それは後の「武士」につながるものではない。 平安時代、我々が一般に「武士」と認識している者達は「兵(つわもの)」と呼ばれた。『今昔物語集』 は、12世紀初頭ぐらいの成立とされているが、その中で、「武士」を語るときは、常に「兵(つわもの)」と呼ばれる。例えば平将門、平貞盛、その他「〜といふ兵(つわもの)あり」、または「兵(つわもの)の家にあらねども」凄い武勇の士で、というように書かれている。 「つわもの」の語源は明らかではないが、竹内理三氏(*1)は、大槻文彦氏が『大言海』の中で「鍔物(つみはもの)の略にて、兵器、特に鍔(つば)あれば云うとぞ」と書かれていることを紹介しながら、9世紀頃までは武器を指した言葉であることは間違いがなく、10世紀頃から「武者」と同義になる、とされる。ちょうど、その10世紀頃に、「兵」(つわもの)と呼ばれる武人が、記録や伝承の上に姿を現す。
辺境軍事貴族それに先立つ9世紀には、地方においては国衙と在地の郡司・豪族・富裕層、あるいは前任国司の子弟などを含む王臣子孫達との武力衝突が多発する。また「群盗蜂起」も多発し、関東では寛平・延喜東国の乱、僦馬の党(しゅうばのとう)が有名である。 先の藤原利仁も、平将門の祖父の平望も、あるいはそれ以前に関東進出を果たしていた嵯峨源氏も、そうした「群盗蜂起」に対する治安維持の為に、京の貴族社会の中で、武勇に優れたものが、下向し、治安維持に当たったものと見られている。当時は「貴族」と別に「武士」が居た訳ではない。貴族は支配階級であり、支配階級たる貴族は本来「武」を兼ね備えており、平安時代初期の貴族の「卒伝」の中にも、そうした「武勇の士」は沢山出てくる。(*1) また、「諸国兵士」と並び称せられる「諸家兵士」があるように武力も組織し「威猛之具」としていた。(*2)
10世紀初頭の地方社会経済その10世紀初頭の地方社会経済に目を転じると、旧来の郡司の勢力が弱体化しはじめると同時に、王臣子孫も含めた新興勢力・有力農業経営者が台頭を始める。それら私営田経営者、そして弱体化し始めたとはいえ、いまだ一定の勢力を保つ郡司と、強化された国守・国衙の権力との利害対立が顕在化していく。 その利害対立は、京の都の近国においては藤原元命に対する「尾張国郡司百姓等解文」で有名な国司苛政上訴として現れるが、多くは武力による衝突までにはならずに調整が図られる。しかし、京より遠い東国においては、朝廷やら、貴族間における調停などの調整は期待出来ない。そして、その多くは京の貴族の縁者である私営田経営者と、郡司層と国衙の利害対立は、あるいは私営田経営者同士の対立は、往々にして実力行使として爆発する。 良い例が、後に平将門を倒して英雄となる藤原秀郷である。915年(延喜15)2月、上野国で上毛野(かみつけぬの)基宗、貞並らに大掾藤原連江(つらえ)らが加わる反受領闘争があり、受領藤原厚載(あつのり)が殺される。この事件に隣国下野の住人藤原秀郷も荷担していたのか、太政官府は下野国衙に秀郷とその党18人の配流を命令する。更に929年には下野国衙は秀郷らの濫行(らんぎょう)を訴え、太政官府は下野国衙と隣国五カ国に秀郷の追討官符を出すが秀郷らが追討された形跡はない。平将門が叔父らと抗争を始める僅か2年前のことである。 (*1)
武士の職能騎馬武者前九年の役から平家物語の時代まで、武士の戦闘は騎馬武者の弓射が中心である。もちろん、『今昔物語集』巻第25第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」に、「騎馬の兵70人、徒歩の兵30人」とあるように、歩兵もいるが、歩兵の戦闘描写は見られない。基本的には弓射戦であり、騎馬での組み討ち、落馬後に刀を使う。 (*1) 一騎討ちの例は実はそれほど多くはないとされる(*2)が、基本的に、騎馬武者による弓射戦が戦闘の基本形態であり、個人戦がベースである。それが変化してくるのは、鎌倉時代も終わった南北朝時代、『太平記』の時代である。
律令制の軍団武士論研究には「在地領主論」と「職能論」という2つの流れがあることは述べたが、職能、特にその技能(弓馬)に着目すれば、律令制下の軍制から中世武士までの連続性がかなり明らかになってきている。 (*1) 一般に、律令制での軍団は歩兵中心とのイメージが強いが、確かに国民皆兵性のような、1戸(行政上の単位、平均30人ぐらい)から1名、年間60日の軍事訓練を受けるという段階では歩兵の比率が高そうに思えるが、騎兵部隊も確認され、軍事力の中核はそちらが担っていたようである。 792年(延暦11)の軍団解消以降、軍事を担った「健児」も基本的には弓射騎兵である(*1)。軍団解消は、軍団歩兵の解消であって、上兵である騎兵は、人数としては縮小されながらも諸国においては「健児制」として継承されたとも言える。騎馬武者が、中世武士の専売特許なのではなくて、弓射騎兵が武力の中心という伝統は律令軍団から、中世武士までの一貫したスタイルである。
特種技能集団・弓射騎兵戦闘に堪え得る乗馬、と鎧、そして馬を乗りこなしての騎射(弓)の訓練が出来る者とは、平安時代後期では、ごく一握りの特種技能集団でしかあり得なかったはずである。佐藤進一氏は『南北朝の動乱』においてこう書かれる。
その条件は「兵の家」が生まれる以前でも同じであったはずである。また、「棟梁」級の武士を追えば、確かに天慶の勲功者につながる「武者の家」「兵の家」の者だが、「武士団」を追えば、必ずしもそればかりではない。例えば、南北朝時代に武蔵七党と呼ばれた小武士団には、明らかに「兵の家」の出身と言えるものばかりではない。 平安・鎌倉時代の武士は「武芸を特業とする職能集団」であり、その「武芸の中心は騎馬と射技(弓)」(*2)であった。僦馬の党は騎馬をベースとした機動力を最大限に発揮した武装集団であり、それに対する「兵(つわもの)」もまた騎馬武者であったろう。馬は「兵」が「兵」たるための第一の条件であり、そのため「名馬」は武士の一番の財産であった。
「牧」と「武士」平安時代の武士の必要条件が騎馬と射技であったが、特に馬は馬でさえあれば良かった訳ではない。だから武士は先を争って良馬を求めた。馬の中のごく一部がそれに堪えられたとすれば、それらごく一握りの特種技能集団が成立しうるのは何処だろうか。これは、関東においてはそもそもが馬の牧場である「牧」が一番条件を満たしている。十世紀始めの「延喜式」には、全国の牧が定められているが、牧の数は信濃、上野、武蔵とに集中している。勿論奥州が当時最大の産地であったが。 朝廷の武官は左右近衛、兵衛、衛門の六衛府を代表とするが、実は馬寮も武官の一部を構成し、信濃、関東に多くあった「牧」はその馬寮とつながっていた。(*2) 馬寮の所轄は「御牧(勅旨牧)」で、「官牧」と呼ばれる「諸国牧」は兵部省の管轄ではあったが、そこから献上された馬の管理は馬寮であり、馬寮は直属の牧の他、畿内の官牧にに管理を委託していた。結局は朝廷の馬の元締めである。 実際、関東の有力武士団は、朝廷の馬の放牧地「牧」の管理人が多かった。平将門も将門も長洲と大結馬牧の二つの官牧を地盤としていた。(*1)、 武蔵介源経基が将門の行動を謀反と京へ報告したとき、武蔵国の群盗追捕に動員されたのは、小野牧別当小野諸興、秩父牧別当藤原藤原惟条であった。これらの牧からは、後に武蔵七党といわれる武蔵国の武士団が起こる。 秩父牧は秩父郡(石田牧)から児玉郡の一部(阿久原牧)にまたがる勅旨牧で、平良文の孫の将恒(まさつね)が武蔵国秩父郡において平姓秩父氏を称し、その将恒とその子の武基はその「秩父別当」職を得ていたと伝えられる。ただしあくまで伝承であり、どこまで信用してよいかは解らない。 武基の孫とされる重綱は武蔵留守居所総検校・武蔵惣追捕使となったという。この平姓秩父氏から、河越・畠山・小山田・稲毛・江戸・葛西・豊島・渋谷などの吾妻鏡におなじみの開発領主=武士団が分かれた。 頼朝の有力御家人、藤原秀郷流の直系を名乗る小山氏もまたそうである。また後で登場する千葉氏も、例えば『平家物語』の中で平山武者所季重が自分の馬は千葉氏から手に入れたものだと自慢したり、また鎌倉時代初期に、頼朝周辺に何度も献馬をするなど、名馬の保有で有名であり、良質な「牧」を管理していたと思われる。 平姓秩父氏が、秩父神社東方に妙見菩薩を祀ったことから秩父神社に妙見信仰が流入していったとされる。妙見信仰で有名なのは同じ良文流の千葉氏であるが、そちらでは祖先の平良文が父母の影響で妙見菩薩を深く信仰していたからだとする。しかし妙見菩薩は牛馬を飼育していた地方に共通して見られる。秩父神社も千葉氏も、平良文からではなく、ともに「牧」と深く関係していたことからの共通項と考えた方がよかろう。 関東における武士が、馬の生産地を背景にしていたとすれば、京の周辺ではどうだったか。例えば白河院の時代の北面の武士の代表選手、源季範、源季実、源近康ら文徳源氏は摂関家領河内国古志郡坂門牧を本拠とし、坂戸源氏と呼ばれた。(*3) また源頼信の郎等・藤原則経は、主人の命令によって、河内国坂門御牧の住人・藤原公則の養子になったとある(*4)。この時代に「住人」というのはその地の開発領主の意味である。また、「御牧」とあるので、坂門牧には朝廷の御牧と摂関家の牧が隣接していたのか、あるいは両方を兼ねていたのかもしれない。いずれにしても、「牧」と「武者・武士」の関係をここにも見ることが出来る。 源義家の凋落の後、朝家の爪牙の第一人者となった平正盛は、近国(かつ大国・熟国)の国守を務めると同時に馬寮の右馬権頭であった。また、忠盛は白河院の御厩別当となり、白河院の御牧と、そこを拠点とする武士団を統括した。御厩別当は単なる放牧地の総括管理者であるだけでなく、行幸に際しては、「車後(くるまじり)」「後騎」といって、院の牛車の後ろを検非違使とともに騎馬で警護に当たる地位でもある。 (*5) その後、御厩別当は院庁における軍事貴族筆頭のポストとみなされるようになり、清盛にも引き継がれた。「牧」が「武者=騎馬武者」の拠点であり、優良な「牧」のほとんどが官牧・御牧であったときに、院庁の御厩別当となることは多くの武士団を公的に支配下に置き、更には私的にも従属させてゆく重要なポストであったことは疑いがない。
「武士」の認定郎党ではなく、侍としての「武士」の認定は、なによりもまず、武官であることだろう。平将門の乱以降は、その平将門を滅ぼした天慶勲功者、藤原秀郷、平貞盛、平公雅、そして源経基の子孫達が、「朝家の爪牙」となっていったが、その彼らが兵(つわもの)として認識されるには、一定のプロセスが必要であった。個人としてはまずは武官の地位を得ることだろう。近衛府、兵衛府は形骸化し、実際には衛門府と、左衛門尉が兼任する検非違使、馬寮、そして滝口、武者所、院政期においては北面下臈(いわゆる北面の武士)である。 家系としての「兵の家」の形成では、忘れてはならないのが、10世紀後半に、現役武官ではないのに、「朝家の爪牙」として動員がかかったことである。「大索(おおあなくり)」「盗索(ぬすびとあなくり)」と呼ばれ「武勇に堪えたる五位巳下」として天慶勲功者の子孫達が招集される。(*1) 『扶桑略記』960年(天徳4)10月2日条に、平将門の子が入京したとの噂に対して次ぎのような措置が取られた。
つまり、本来その任にあたる検非違使とは別に、天皇から、武官以外には禁止されていた弓箭を帯びての招集を受け、その任務の間、馬寮より官馬が支給される。こうして朝廷は市中にその「武威」をアピールして治安維持を行う。それらの家系は、その後の時代には「兵の家」として定着してゆく。「大索(おおあなくり)」は結果的には官職によらず「武」を担う、「兵の家」の最初の認定式であったとも言える。 その「兵の家」が定着していくのは、ちょうど藤原道長の時代からであり、「武」に限らず、貴族社会全般に「家格」と「家業」が固定化の方向へ向かう流れの中での出来事である。それは、京の治安維持に必要な武力が、旧来の武官や、随身だけでは間に合わなくなり、平将門の乱での「朝家の爪牙」の役を果たした「兵の家」が、「家業」として、「武」を請け負いはじめるということでもあった。 『今昔物語集』巻19第4話「摂津守満仲出家せる語」の出だしは次のようなものである。
源満仲は、安和の変などの印象から、藤原氏本流に臣従していたイメージが強いが、天皇を始めとして臣、公卿などに必要に応じて起用されていた、つまり支配階級全体に奉仕する傭兵部隊としての色彩がここから感じられる。 「家業」として「武」を請け負う彼らは、それを全うするために、自分自身の武力として家の子・郎党を養う。摂津守源満仲の多田荘は、まさにそのような兵站基地であり、かつ家の子・郎党の軍事訓練(狩り)の舞台でもあった。この段階での彼らは在京の官人、あるいは受領であるとともに、ひとつの「武士団」の長でもあった。 ただし、この段階での「武士団」は、それぞれの単位ではさほど多いものではない。『今昔物語集』の「摂津守満仲出家せる語」には500との数もあるが、それは『今昔物語集』が書かれた12世紀初めの段階での当時最大の都の武士団の印象を元にした誇張・文飾だとされる。 それほど多いものではないという理由は、当時必要とされた武力は、京の治安維持、要人の護衛、受領として赴任する際に引き連れ、在庁官人を押さえる程度のものであり、大規模な争乱などほとんど無かったこと。及び、京においては他の軍事貴族(京武者)と同盟し、あるいは盟主として、彼らを郎党ともしていた為である。「兵」の需要はあったが、さりとてそれはそれほど大きなものではなかったともいえる。
地方での「武士」の認定一方、地方での「武士」の認定としては、戸田芳実氏(*1)や、石井進氏(*2)(*3) の国衙軍制論がこの問題に鋭く切り込んでいる。しかし、地方に本拠を置く軍事貴族も、中央の有力貴族に名簿(みょうぶ)を差し出し、私的な主従関係を結んで、多くの場合は直接京に出向いて奉仕し(それが「侍」であるが)、その推挙により武官の官職を得ている。石井進氏の国衙軍制論の図にある地方豪族軍の左衛門大夫平惟基、前上総介平忠常らはそうした存在であった。平惟基は『小右記』の藤原実資に、平忠常は藤原教通に臣従している。そして彼らの軍事動員数は国司軍を圧倒的に上回る。 国司直属軍−「館の者共」(国司の私的従者+在庁官人)と異なり、「国の兵共」は、「譜第図」「胡簗注文」などの台帳に記載され、国司主催の狩りや、一宮での流鏑馬など、必要に応じて招集される程度のものであり(*4)、自分自身の直接的利害に関わらなければ、命を懸けて戦ったりはしない。その後の源平の争乱時にも、彼らは「かり武者」であり、戦闘の中核部隊ではなかった。
2008.01.05
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