武士と武士団   私営田領主から開発領主へ

本論:「武士」と「武士団」
各論

平将門・「私営田領主」の時代

戦闘目的の為に組織された集団を「軍(いくさ)」と呼ぶ。後には「いくさ」は「戦」であるが、当時は「軍」を「いくさ」と呼んだらしい。律令体制下の軍団も当然ながら「軍(いくさ)」である。

しかし、ともに戦闘目的の為に組織された集団であっても、それぞれ異なった実態であり、律令体制下の軍団での組織形態は、国家組織の中でも公な上官と部下であり、平安時代に「兵(つわもの)」と呼ばれる者達が従える集団はそれとは異なる私的な結合である。そこで、戦後の歴史学者は後者を「武士団」と呼び、区別した。武士団という言葉が平安時代後期にあった訳ではない。

『将門記』は平将門の時代から、さほど離れてはいない時期に書かれた史料として、その信頼性については一定の評価を得ているが、そこに描かれた軍勢を見ていくことにする。

「新皇」を名乗った後の平将門の軍には、「副将軍」と「陣頭」が置かれた。副将軍には藤原玄茂(はるもち)、「一人当千」と言われる「兵」であるが、彼は常陸国の掾(他国なら介に相当)である。「陣頭」には多治経明、朝廷の所有する官牧、栗楢院・常羽御厩(くるすいん・いくはのみまや)の別当とされる。多治という性は平安下級貴族の一族であることを示している。彼らはそれぞれ常陸国衙や、官牧の御厩別当という、朝廷の末端組織での職をもち、おそらくは同時に藤原玄明のような、私営田経営でもあったと想像される。つまり、平将門と同ランクの同盟軍である。

『将門記』によれば、平将門は、「従類」「伴類」と呼ばれる従者を引き連れている。その構成は「歩兵(ふひょう)」「荷夫」(駈使)と「騎馬」からなる。 「上兵」とも言われる「乗馬の郎等(郎頭・郎党)」が、当然「歩兵(ふひょう)」よりも格上である。ここで「武士団」の原型となるものがあるとすれば、それは「彼ら「乗馬の郎等(郎頭・郎党)」であろうが、しかしそれは身分として区別はされておらず、一括して「伴類」としてくくられる。

ところで、平将門の叔父良兼は、平将門の「駈使」丈部(はせつかべ)子春丸に「協力すれば、荷夫の苦役をはぶき、乗馬の郎頭にしてやろう」と裏切らせ、奇襲の手引きをさせている。その丈部子春丸は、平将門の「石井の営所」から10kmほど離れたところに家を持つ農民で、平将門の「石井の営所」に炭などを納め、その「営所」の「宿営」(交替で主人の屋敷の警護に当たる役)を務める役を負っていた。

つまり、「営所」周辺の農民であり、平将門ら私営田経営は、それら自立した農民に、苗とする稲を貸し(私出挙:しすいこ)、収穫時に50%から最大100%ぐらいの料率で回収し。また、農民にかけられる税金をまとめて代納(これも貸付けで利息がつく場合も)すると同時に、その「営所」は、その地域の工場、農協、物流センターとなって、牛馬や、鋤、鍬などの農具、鉄製品などを農民に供給、または貸し与えるなど、地域産業の中心として、その近隣の農民、住民を支配していた。それらの農民が、平将門、あるいはそれと戦った平国香、平良兼、藤原秀郷、平貞盛らの兵力だった。

この時代には、自らも「従類」「伴類」を従えていた私営田経営者が、「血脈(ちのみち)」と言われる血縁関係、「因縁」と呼ばれる姻戚関係を中心に結びつき、また「同党」と呼ばれる同盟関係で行動を共にしていた。しかし彼らはそれぞれ独立した勢力、経済単位である。 (福田豊彦 1996年 『東国の兵乱ともののふたち』 p13)

1971年 『シンポジウム日本歴史5』での「平安時代の内乱と武士団」というテーマのシンポジウムでの議論はとても参考になるし、なにより面白い。

いずれにせよそのように、戦闘員と一般農民の区別がまだ生じていなかった為に、当時の関東の合戦は、敵の本拠地、「営所」を攻撃するだけでなく、「与力伴類の舎宅、員(かず)の如く焼き払う」という焦土戦術がとられた。これは、当時の関東では、土地はいくらでもあり、逆に耕地は不安定で毎年耕作される土地は極僅かであって、土地を奪っても何んにもならず、要は土地を耕す労働力の編成と、労働力である与力伴類にタイする求心力としての「資本」、農耕の拠点としての、宅、田屋(与力伴類の舎宅)が問題なのであって、敵を滅ぼすとは、それらにダメージを与えることが重要であったのである。

この状態は、平将門・天慶の乱(930-931年)から100年後の平忠常の乱(1028-1031年)においても変わらず、それが故に平忠常の乱では近隣数ヶ国が「亡国」となり、朝廷はその復興の為に4年間の官物を免除しなければならなかったほどである。

戦後第一世代の安田元久氏、そしてその弟子であるらしい、福田豊彦氏らは、このことを持って、この段階を、後の「武士団」と区別をする。

ただしこの状況は関東での話しであり、当時としては人口密度も高かった畿内においては状況は異なる。

「領地」を媒介とする「武士団」

平将門の頃も。平忠常の頃も、戦後第三四半期の学説では、「武士」の前段階である「兵」と呼ばれた。ここでの「武士」はあくまで、定義された学術用語である。現在ではその定義は否定されているが、そのかつての学説では、「武士」と「兵」の違いは、「領地」の支配形態にもとめられた。

どこからを「武士」と呼ぶかは別にして、特に関東でみていく限り、ちょうど12世紀初頭の頃に、地方経済と課税体系は大きな変貌を遂げているのは確かである。

もうすこし、具体的な例を挙げよう。例えば常陸大掾氏、千葉氏、上総氏の系図を見ると、その時期に兄弟子弟が、周辺の郷や、名(みょう)に分散して、その名の字を名乗る。ちょうどその頃に登場した三浦氏の場合は、家長・三浦大介義明の弟は岡崎を名乗り、その嫡男は佐那田(真田とも)を名乗る。義明の長男は杉本を名乗り、その長男は和田を名乗る。その広がりは必ずしも同心円にではなく、点が飛び飛びに広がっていくようである。

分家が広がり、それぞれの地の開拓を行い、それぞれが郎等を養い、事が起きれば宗家の元にはぜ参じる。「いざ鎌倉」の元祖、縮小版、と言ったらイメージが湧きやすいか。頼朝の挙兵直後の勢力はそうした三浦一族、千葉一族、上総介の一族、そして川越、畠山らの一族がベースであった。

農村の変容・私営田領主から開発領主へ

「私営田領主」という概念は、戦後第一世代の石母田正氏の『中世的世界の形成』により、学問的に定着された概念であり、福田豊彦氏はそれを「一口でいえば、広い土地を自分で直接経営する大土地所有者」とする。もちろん、「私営田領主」「私営田経営者」の説明がそれで済む訳ではないが、それに続く「在地領主」「開発領主」との対比においては、そのひとことが大きな特徴となる。

福田豊彦氏の説

以下は福田豊彦氏の説によるが、それに対して、後に鎌倉幕府の基盤となった「在地領主」は、佃、手作(てづくり)、門田(かどた)などという、直接耕作農地も持ってはいたが、大きな特徴は、基本的には農業経営から離れ、農民から「地子」・「加地子(かぢし)」などを取る、本格的な「領主」へと転化し、「私営田経営(領主)」とは根本的に異なった所領経営の方法をとった。

彼らは直接生産者である農民に対する強制力として、また、他の在地領主から、その所領を確保するための戦闘集団である「武士団」を組織した。しかしそれはかき集めた農民兵ではなく、また「傭兵」でもなくて、在地領主間で私的に結ばれた戦闘集団である。

その最小単位の構成員は、主(あるじ)とその家の子、郎等(郎従とも)である。大規模な領主は、兄弟子弟、縁者が周辺を開拓し、自身が小規模開拓領主となって、それらが一族で、あるいは地域で同盟して「武士団」となる。

平忠常の乱

その過程がもっともはっきりと測定できるのは、平忠常の乱で一端は亡国となった房総三国かもしれない。平忠常が抵抗を続けられなくなるほど、上総・下総両国は荒廃し、それによって2ヵ国〜3ヵ国に及ぶ「私営田領主」は姿を消した。、『左経記』には、かつて22,980町あった作田(見作ではないだろうが)が、最後の年には18町しかなかったというほどの荒廃が記されている。平忠常は源頼信の報告した通り、本当に病死したのかどうかは判らない。そういうことにして丸く収めた可能性もある。いずれにしても、平忠常の子らは生き残り罰せられることもなかった。しかし平忠常の追討焦土戦の影響で、亡国となった上総・下総両国において、一から開発の再スタートを切らなければなかった。

関東における大開拓時代は、上総、下総両国とそれ以外の国と、条件の違い、明確さの違い、若干のずれ込みとスピードの緩やかさなどはあっても、ほぼ同様に11世紀末から始まり、12世紀初頭よりそれが明確になるとされる。それを具体的に示すのは、10世紀の『和名抄』には見られない、新しい郡、郷の出現である。

大開発時代の「郡・郷」

開発領主が生まれる過程は、その地の有力者が、一族子弟のみならず、近隣の農民や、諸国から流入した浮浪人などを組織して、荒地の開拓を行い、その従事者を新しい村落に編成することに始まる(p72)。 新しく開拓した地、そしてその村落は開拓した者の私領となる。私領といってもその地の課税が免除される訳ではない。国衙は旧来の郡とは切り離した、別の、新しい徴税単位として、特別な命令書により、税を軽減し、開発領主の私領領有(経営権に近いか?)を認め、同時に開発領主がその地の納税義務を負うことになる。その特別な命令書(符)ということから、その地は「別符」と呼ばれ、また、徴税単位として「郷」と呼ばれる。(他の名称もあるがここでは話しを単純化する)

律令制での「郷」は、「国」が「郡」に分かれ、その郡が「郷」に分かれて、郡司がその郡全体の徴税を行うものであった。しかし、別府による「郷」は、「郡」の下の「郷」ではなく、独立した徴税単位として「郡」と並列するものである。また、従来の「郡」「郷」は、開発後の現状に合わせて分割される。そのことから、それらの「郡」「郷」の変遷を見ることによって、いつ頃に新しい開発が、それによる在地支配の変化があったか、を推測することができる。

そうして見ていくと、律令時代の「郡」「郷」に名の見えない新しい「郡」「郷」は、古いものでも12世紀初頭であり、それ以降にその出現が集中している。特に下総国においては、現在の茨城県に属する北部に律令時代の「郡」「郷」名が多く残るのに対し、現在の千葉県に属する、上総に近い部分には、律令時代の「郡」「郷」名はほとんど残らず、行政機構、徴税単位が再編成されている。その範囲はかつて平忠常の勢力下と思われ、執拗な追討焦土戦が行われたのであろうと推測できる。(p76)

ただし、先に述べたように、程度の差はあれ、同じような事象が関東一円にほぼ同時期に起こっている。そのことから、これは単に戦乱だけの問題ではなく、社会基盤、農民の生活基盤、生産基盤の発展、農村の変容という時代的、経済的発展の影響が、平忠常のの乱での焦土戦によって、旧来の、「私営田経営」が壊滅した上総・下総両国において顕著に表れたものと考えた方がよさそうである。

私営田経営者も、開発領主も、「武士」云々以前に、地域経済・民間経営の担い手である。従って、そうした地域経済の変容は、彼らの生態を根底から規程しているといってもよいかもしれない。

2009.09.05 字句修正