武士と武士団     「武士」の職能

本論:「武士」と「武士団」
各論

「兵」(つわもの)

平将門、藤原秀郷の時代、「武士」という呼び方は無かった。「文人」に対する「武人」、「文官」に対する「武官」と同じような使い訳で、「文士」に対する「武士」という、いわれ方が僅かに見れれる程度であり、当然それは後の「武士」につながるものではない。

では何と呼ばれていたのか。それは「兵(つわもの)」である。「つわもの」の語源は明らかではないが、竹内理三氏は、大槻文彦氏が『大言海』の中で「鍔物(つみはもの)の略にて、兵器、特に鍔(つば)あれば云うとぞ」と書いていることを紹介しながら、9世紀頃までは武器を指した言葉であることは間違いがない、としている。そして10世紀頃から「武者」と同義になると。

ちょうど、その10世紀頃に、「兵」(つわもの)と呼ばれる武人が、記録や伝承の上に姿を現す。9世紀には、地方において「群盗蜂起」、つまり、国衙と在地の郡司・豪族・富裕層とか、前任国司の子弟などを含む王臣子孫達との武力衝突が多発する。関東で有名なのは僦馬の党 (しゅうばのとう)である。

先の藤原利仁も、平将門の祖父の平望も、あるいはそれ以前に関東進出を果たしていた嵯峨源氏も、そうした「群盗蜂起」に対する治安維持の為に、京の貴族社会の中で、武勇に優れたものが、下向し、治安維持に当たったものと見られている。当時は「貴族」と別に「武士」が居た訳ではない。貴族の「卒伝」の中にそうした「武勇の士」は沢山出てくる。

一例を挙げると、850年卒の従四位下・興世朝臣書主(ふみぬし)は学問の家に生まれたが左兵衛大尉、左衛門大尉兼検非違使、右近衛将監なども歴任し、学問や音楽にも長じていたが「武芸の士」とも同様であった。和泉守として「治声頗聞」。ついで備前守を勤めて、任期がおわり、京に帰るとの噂が流れただけで、都への道のりの国々は穏やかになった。(盗賊がなりを潜めた)その他、枚挙にいとまがない。貴族は支配階級であり、当然「武」も備えていたと見るべきである。

『今昔物語集』 は、12世紀初頭ぐらいの成立とされているが、その中で、「武士」を語るときは、常に「兵(つわもの)」と呼ばれる。例えば平将門、平貞盛、その他「〜といふ兵(つわもの)あり」、または「兵(つわもの)の家にあらねども」凄い武勇の士で、というように書かれている。

「兵」(つわもの)の武芸

武士の武芸は、江戸時代以降は剣術のイメージであるが、剣術がもてはやされたのは、戦国時代が終わってからである。平安時代末期の武士や、戦の記述に、弓箭はあっても太刀は無く、それを言い表すものは「兵杖(ひょうじょう)」である。

時代は下るが、鎌倉時代の蒙古襲来の動員令に対する御家人の対応として『石清水文書』に以下の内容が残る。御家人としては最小クラスであろう。

 肥後御家人井芹弥二郎藤原秀重法師 法名西向 謹んで注進言上す
所領田数并びに人勢以下乗馬弓箭兵杖・・・
一、人勢弓箭兵杖乗馬の事
 ・・・嫡子越前房永秀 年六十五 弓箭兵杖在り。 
 同子 息弥五郎経秀年三十八 弓箭兵杖腹巻一領乗馬一疋。 親類又二郎秀南 年十九 
 弓箭兵杖所従二人。
一、孫二郎高秀 年満四十 弓箭兵杖腹巻一領乗馬一疋所従一人。
 右、御下知状に任せ、忠勤を可きなり、仍って粗注進状、言上件の如し
   建治二年壬二月七日

「腹巻」とあるのは軽装の鎧。尚、この時代に「腹巻」とあるのは、現在「胴丸」と言われる鎧であり、室町時代後期〜江戸時代初期頃までにその呼び方が取り違えられた(近藤好和氏の研究による)。「兵(つわもの)」は馬に乗り、弓箭・兵杖を帯び、あれば鎧を着る。「親類又二郎秀南 年十九」は「弓箭兵杖」はあっても、乗り馬も、鎧ももってはいないようである。

「郎等」

「兵」が一人で行動することはあり得ない。上記は極めて小規模な武士であるが、「家の子」「郎党」を従えている。その程度を最小単位として、近隣の者、利害が一致する者などとも連合して行動する。

あとでもう一度触れるが、平将門の時代に、平将門も、それと戦った側も、「従類」「伴類」と呼ばれる従者を引き連れている。その構成は「歩兵(ふひょう)」「荷夫」(駈使)と「騎馬」からなり、「乗馬の郎等(郎頭・郎党)」が、当然「歩兵(ふひょう)」よりも格上である。「従類」は平将門などの営所か、その周囲に住み、直接従属したいわば直轄部隊だろう。「伴類」は同盟軍的な存在だろう。

『今昔物語集』に、事実上の清和源氏の祖、源満仲が出家をしたときの話しが載っている。満仲は数百名の郎等を従えていたが、「年来仕ける親き郎等50余人」と、それほどでもない郎等が居る。そして、郎等にはその指図に従う若干名の「眷属」が居た。先の『石清水文書』に見える、「所従二人」「所従一人」がそれに相当するのだろう。

もちろん、源満仲が数百名の郎等を従えていたとは思えない。『今昔物語集』が書かれた12世紀初頭の「京武者」の姿が混じっている可能性があるにしても、その12世紀初頭においてすら信じられない数である。数自体は誇張があるだろう。

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『今昔物語集』巻25-12話に「源頼信の朝臣の男頼義、馬盗人を射殺したる語」がある。

源頼信は東国で名馬を持っているという者に乞うて、その名馬を手に入れた。頼義は、父親が名馬を手に入れたという噂を聞いて、「雨極く降」る中にもかかわず、そんなことものともせずに、ご機嫌伺いという名目で父の家に訪ねてきた。本音をお見通しの父親は、息子がまだ馬のことを言い出さないうちに、「今夜は暗くて何とも不見。朝見て心に付かば(気に入ったら)、速に取れ」と言う。喜んだ息子は、「然らば今夜は御宿居仕りて、朝見給へむ」と父の家に泊まった。
 その夜中、雨に紛れて馬盗人が馬を盗み出した。頼信はそれを聞いて、頼義に何も言わず「胡簗(やなぐい:弓矢の意味)を掻負いて」に馬盗人が逃げたと思われる方へ馬を走らせた。着の身着のままで寝ていた頼義も、その声を聞いて、父同様何も言わずに「胡簗を掻負いて」一人馬を出して追いかけた。

親は、我が子必ず追ひて来らむと思ひけり。子は、我が親は必ず追ひて前におはしぬらむと思ひて、それに遅れじと走らせつつ行きけるほどに・・・

と実に感動的なのだが。それはともかく、この話しの中にも、武士にとって、馬がどれだけ大切なものだったか、そしてここで東国というと、関東から陸奥でしょうが、それが名馬の産地であったことが覗える。

当時の馬は、今なら子供用のポニーぐらいの大きさで、並の馬では、甲冑を帯びた武者が乗ったりしたら、トロトロとしか動けない。馬の善し悪しは大きな馬、強い馬で、それは騎馬武者にとっては一番重要なことだった。

騎馬武者

前九年の役から平家物語の時代まで、武士の戦闘は騎馬武者の弓射が中心である。もちろん、『今昔物語集』巻第25第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」に、「騎馬の兵70人、徒歩の兵30人」とあるように、歩兵もいるが、歩兵の戦闘描写は見られない。基本的には弓射戦であり、騎馬での組み討ち、落馬後に刀を使う(落馬打物:太刀などによる戦いを打物という)。尚、騎馬武者は常に馬上で弓射を行っているのではなく、楯突戦では馬を下りて、楯に隠れて箭を射る。また、騎馬武者の弓射は、馳組戦、つまり馬を馳せながらの弓射戦と、馬静止射がある。後者は平家物語での那須の与一そシーンがそれである。

一騎討ちの例は実はそれほど多くはないが、基本的に、騎馬武者による弓射戦が戦闘の基本形態であり、個人戦がベースである。それが変化してくるのは、鎌倉時代も終わった南北朝時代『太平記』の時代である。

一般に、律令制での軍団は歩兵中心とのイメージが強いが、確かに国民皆兵性のような、1戸(行政上の単位、平均30人ぐらい)から1名、年間60日の軍事訓練を受けるという段階では歩兵の比率が高そうに思えるが、騎兵部隊も確認され、実際の軍事力はそちらが担っていたようである。

792年(延暦11)の軍団解消以降、軍事を担った「健児」も基本的には弓射騎兵である。騎馬武者が、中世武士の専売特許なのではなくて、騎馬武者が武力の中心という伝統は792年(延暦11)の軍団解消以前から、中世武士までの一貫したスタイルであり、変化はむしろ歩兵の方に現れ、弓射中心の歩兵から、中世前期の歩兵は弓箭をあまり持たなくなり、その武装は打物中心になってくるという変化がある。近藤好和氏は、更にそれが変化し始め、騎馬武者が打物をメインの武器としても使い始めたのは、南北朝時代とされる。尚、それ以降、「城郭」の構造も変わり始める。というのは近藤氏ではないが。

  • 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』(吉川弘文館 2004年)

「牧」と「武士」

僦馬の党は騎馬をベースとした武装集団である。それに対する「兵」もまた、騎馬武者であったろう。馬は「兵」にとって、無くてはならぬものであり、そのため「名馬」は武士の一番の財産であった。

「武士団」というと、普通映像としてイメージするのは、大河ドラマなどの戦国時代ベースのイメージだろうが、すくなくとも平安時代後期の武士団の実態は相当に異なる。動員数の実態もまたしかりである。鎌倉時代後期においてすら、小規模な御家人の動員力は、先の『石清水文書』に見られるように、「弓箭兵杖腹巻一領乗馬一疋」の騎馬武者は2騎、「弓箭兵杖」はあるが、乗馬も腹巻(軽装鎧)も無いのが2名、その他所従3名(馬や武者の身の回りの世話役でかいばを刈ったり兵糧を運んだりの非戦闘員)である。『平家物語』の有名人、平山武者所季重に、熊谷次郎直実もそのような武者であった。

戦闘に堪え得る乗馬、と鎧、そして馬を乗りこなしての騎射(弓)の訓練が出来る者とは、平安時代後期では、ごく一握りの特種技能集団でしかあり得なかったはずである。特に馬は馬でさえあれば良かった訳ではない。馬の中のごく一部がそれに堪えられたとすれば、それらごく一握りの特種技能集団が、何処に成立しえたかと考えれば、これは関東においては馬の牧場である「牧」が、一番条件を満たしている。

朝廷の武官は左右近衛、兵衛、衛門の六衛府を代表とするが、実は馬寮も武官の一部を構成し、信濃、関東に多くあった「牧」はその馬寮とつながっていた。

馬寮の所轄は「御牧(勅旨牧)」で、「官牧」と呼ばれる「諸国牧」は兵部省の管轄ではあったが、そこから献上された馬の管理は馬寮であり、馬寮は直属の牧の他、畿内の官牧にに管理を委託していた。結局は朝廷の馬の元締めである。

実際、関東の有力武士団は、朝廷の馬の放牧地「牧」の管理人が多かった。平将門も将門も長洲と大結馬牧の二つの官牧を地盤としていた。(*1)、 武蔵介源経基が将門の行動を謀反と京へ報告したとき、武蔵国の群盗追捕に動員されたのは、小野牧別当小野諸興、秩父牧別当藤原藤原惟条であった。これらの牧からは、後に武蔵七党といわれる武蔵国の武士団が起こる。横山党も小野牧から広がる。

勅旨牧としての秩父牧は秩父郡の秩父牧、石田牧から児玉郡の阿久原牧にまたがる勅旨牧で、平良文の孫の将恒(まさつね)が武蔵国秩父郡において平姓秩父氏を称し、その将恒とその子の武基はその「秩父別当」職を得ていたと伝えられる。ただしあくまで伝承であり、どこまで信用してよいかは解らない。というのはその伝承では武基は1031年(長元4)の源頼信による平忠常の追討に従い戦功をあげたと伝えられるからである。戦功などある訳が無い。源頼信が甲斐から出てはおらず、平忠常はその甲斐の源頼信の元に出頭して降伏したのだから。

武基孫とされる重綱は武蔵留守居所総検校・武蔵惣追捕使となったという。この平姓秩父氏から、河越・畠山・小山田・稲毛・江戸・葛西・豊島・渋谷などの吾妻鏡におなじみの開発領主=武士団が分かれた。
この平姓秩父氏が、秩父神社東方に妙見菩薩を祀ったことから秩父神社に妙見信仰が流入していったとされる。妙見信仰で有名なのは同じ良文流の千葉氏であるが、そちらでは祖先の平良文が父母の影響で妙見菩薩を深く信仰していたからだとする。しかし妙見菩薩は牛馬を飼育していた地方に共通して見られる。秩父神社も千葉氏も、平良文からではなく、ともに「牧」と深く関係していたことからの共通項と考えた方がよかろう。

望月牧の望月氏、頼朝の有力御家人、藤原秀郷流の直系を名乗る小山氏もまたそうである。また後で登場する千葉氏も、例えば『平家物語』の中で平山武者所季重が自分の馬は千葉氏から手に入れたものだと自慢したり、また鎌倉時代初期に、頼朝周辺に何度も献馬をするなど、名馬の保有で有名である。

源平の争乱の頃、関東の有名な武士として長井斎藤別当実盛、稲毛重成の父・小山田別当有重、川越重頼の父・葛貫別当能隆など、「別当」の肩書きが「庄司」の肩書きと同じぐらい多く見られる。五味文彦氏は『増補・吾妻鏡の方法』の中で(p266)その「別当」は何の別当であったのかということを問いかけ、1181年(養和元)7月20日条にある下文の宛所「下す 下総国御厩別当の所」を実例として国衙の御厩管理部門、または同様な「所」の役職としての「別当」ではないかとする。(同時に畠山庄司、三浦庄司なども畠山庄等が確認されていない以上、どうような国衙の所の役職である可能性もあるとする。)五味文彦は別当を国衙の御厩所に限定した訳ではないが、彼らの本拠地、家系、当時の状況を考えれば、そこのあげられた別当が、国衙の御厩所の別当である可能性はかなり高いと考えることも出来る。またその『吾妻鏡』の下文は下川辺庄司行平への貢馬の免除であり、下川辺庄司行平は「牧」を所有、あるいは管理していたことが察せられる。

また、京においても、馬に乗れるのは身分の高い貴族か、または武官である。朝廷の武官は左右近衛、兵衛、衛門の六衛府を代表とするが、実は馬寮も事実上武官の一部を構成している。そして、信濃、関東に多くあった「牧」はその馬寮が管理している。更に奥州からの献馬は貢ぎ物としては最高級品として扱われている。

関東における武士が、馬の生産地を背景にしていたとすれば、京の周辺ではどうだったか。例えば白河院の時代の北面の武士の代表選手、源季範、源季実、源近康ら文徳源氏は摂関家領河内国古志郡坂門牧を本拠とし、坂戸源氏と呼ばれたほどである。また、『尊卑分脈』2巻316ページによると、源頼信の郎等、藤原則経は、主人の命令によって、河内国坂門御牧の住人(この時代に住人というのはその地の開発領主の意味)藤原公則の養子になったとあるらしい(残念ながら国会図書館のデジタルライブラリーの中では316ページは確認出来なかったが)。御牧とあるので、坂門牧には朝廷の御牧と摂関家の牧が隣接していたのか、あるいは両方を兼ねていたのかもしれない。いずれにしても、「牧」と「武者」の関係をここにも見ることが出来る。

また、源義家の凋落の後、朝家の爪牙の第一人者となった平正盛は、近国(かつ大国・熟国)の国守を務めると同時に馬寮の右馬権頭であった。また、忠盛は白河院の御厩別当となり、白河院の御牧(とそこを拠点とする武士団)を統括した。加えて御厩別当は単なる放牧地の総括管理者であるだけでなく、行幸に際しては、「車後(くるまじり)」「後騎」といって、院の牛車の後ろを検非違使とともに騎馬で警護に当たる地位でもある。

その後、御厩別当は院庁における軍事貴族筆頭のポストとみなされるようになり、清盛にも引き継がれた。「牧」が「武者=騎馬武者」の拠点であり、優良な「牧」のほとんどが官牧(御牧)でありったときに、院庁の御厩別当となることは多くの武士団を公的に支配下に置き、更には私的にも従属させてゆく重要なポストであったことは疑いがない。

 

「武士団」の定義

さて、それでは「中世武士団」とはどういうものかというと、石井進氏が明確に書かれている。

中世武士団とはなんぞやという問いに対しては、弓射騎兵としての戦闘技術を特色とする武力組織であって、社会実態としては在地の土とむすびついた地方支配者 であるとみておき、それ以上の点については今後の検討にまつ、ということにしたい。
(小学館 『日本歴史7巻第12巻 中世武士団』 の「武士団とは何か」p236)

もうお一人登場願うと、佐藤進一氏がその著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論 1965年)の中で「武士は武芸をもって支配階級に仕える職能人もしくは職能集団である」 と規定している。ここでは「武士は」といっているが「職能人」だけでなく、「職能集団」も含むので「武士団」を含んで考えてもよい。「支配階級」は、平安時代においてはもちろん朝廷である。鎌倉時代では「将軍」と見られるが、「将軍」自体が「朝廷」に仕える立場という原則を崩さず、かつ、将軍に仕えない「非御家人」も「武家・侍」として認められているので、やはり「朝廷に仕える」が、建前としては維持されていると見てよい。

2007.12.28-2008.01.16