武士と武士団 在庁官人と寄進系荘園 |
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本論:「武士」と「武士団」各論
開発領主の重層的結合現在、会社といっても一商店、町工場から、一部上場企業まで様々あるが、その企業同様に、開発領主にも様々な規模がある。「侍」としての「武士」には、「平家物語」の「一ノ谷の合戦」で先陣争いを演じた、平山武者所季重や、武蔵の国の住人熊谷次郎直実とその子・小次郎直家のように、自分自身とその子弟の他は乗馬の郎等を持たない者もいる。もっとも彼らが、馬の世話をする所従(事実上非戦闘員)を除けば、たった一人、あるいは親子二人だけであつたのは、関東から京、西国への遠征の為であり、自分の本拠地での動員力ならもう少しは動員できただろうが。 それと同様な武蔵の国の住人、河原太郎・次郎の兄弟が、「大名は自ら手を下さなくても、家来の手柄を名誉とすることができるが、われらのようなものは自分で手を下さなくてはどうしようもない。」といったとされる(『平家物語』)。本当に河原兄弟がそう言ったかどうかは別にして、個人経営の武士の立場はそういうものだったのだろう。 平山武者所季重も、熊谷次郎直実も、そして河原太郎・次郎の兄弟も、主人を持たない独立した武者であり、前二者は平山季重が武者所を名乗るように、朝廷や公卿に仕える「侍」であったが、おそらく彼らは国衙直轄の小さな郷の領主であったのだろう。 後に頼朝の元では同じ御家人と呼ばれはしても、下川辺庄司行平、葛西重清、畠山庄司重忠などは、大規模寄進荘園の領主である。そして千葉介常胤、上総介常広、三浦介義澄、小山大掾朝政などは、国衙の在庁官人でもあり、それを足がかりに、複数の郡、別符の郷、荘園にまたがる領主である。福田富彦氏は、後者をひとつの郷、荘園、郡を基礎とした領主と区別して、「豪族的領主」と呼んでいる。石井進氏の図式の地方豪族軍にも相当する存在であろう。 豪族的領主・千葉常胤その「豪族的領主」、「大名」のひとりである千葉常胤は、下総国全体ではないものの、複数の郡、別府の郷、荘園を知行する領主であり、一族郎党3百騎を引き連れて頼朝に合流している。 吾妻鏡を読んでいると、上総介常広の2万騎の前には霞んでしまいそうだか、しかし上総1国を切り従えたとしても、2万騎はあり得ない。『延慶本平家物語』で1万騎、千葉氏関係者により東国で成立したとする見解が有力な『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』では1千騎としており、1千騎ぐらいが妥当な線だろう。1騎に一人二人の所従を合わせれば、それでも2〜3千人である。吾妻鏡で上総介常広の記述はもっとも信用ならない部分である。梶原景時もそうだが。 郡司にして、庄司でもある千葉常胤の兄弟子弟は、村郷の単位ではろうが、それぞれの名字の地としての領地をもつ。上総介常広の兄弟や一族は、下総の千葉氏よりも広範に、上総国全体に広がり、かつ、村郷より大きい荘園の単位、郡の単位の名字の地をもつ在地領主となっている。 尚、下総・上総・安房の3国には、千葉氏、上総介一族以外に居なかった訳ではない。やはり平忠常の子孫の一族が、下総の海上、臼井、埴生、上総では伊西、伊東、伊南、伊北、庁南、庁北、天羽などに割拠している。 領地といっても、国衙や荘園の領家に対して納税義務を負い、配下の郡・別府の郷、荘園の中でもそれを構成する郷(以下国衙領の郷と区別するため「村郷」と呼ぶ)に分担する。それぞれの「郷」や「村郷」には自分の一族、子弟を配置してその経営に当たらせる。あるいは元からそこを領有し、千葉氏や、上総介氏の傘下に入り、「名簿(みょうぶ)」を提出した小規模領主達も居ただろう。 豪族的領主・上総介常澄上総介常広の父・常澄の所領であるが、印東庄において、「預所」菅原定隆との、年貢をめぐった相論に関する文書数通が、『醍醐雑事記』の紙背文書(しはいもんじょ)に見つかった(p91)。その中に「印東庄郷司村司光交名」があり、それによって印東庄には、「藤原」「中臣」「文屋」「平」「刈田」などの本姓をもつ郷司、村司が居たことが知られる。 「平」は上総介平常澄の同族かもしれないが、「藤原」はもとより、「中臣」、「文屋」も、平安時代前期には、中流貴族として出てくる氏(うじ)である。「刈田」は中央の貴族としては知られないが、『香取文書』には同姓のものが郡司判官代として出てくるらしい。いずれも農民ではない。彼らもまた、小さい単位ながら、農民を支配する側の荘園下級役職者(公文クラス)であると同時に、小規模ながら、その「村郷」の領主、名主であった。相論(訴訟)の公式文書だから本姓(氏:うじ)で署名する。 複数の郡、荘園にまたがる領地を知行する「豪族的領主」は、その下に郡や別府の郷、そして荘園、更にその下の村郷に支配が及び、それぞれの段階が「武士団」であり、それらが合わさって「大武士団」として行動する。 このことから、戦後第一世代の研究者は、この領主と「武士団」の、領地を媒介とした重層的結合関係と、そこに至たる社会経済、地方経済の成熟を重用視した。もちろん、それが後に鎌倉幕府、いわいる「武士の時代」「中世(封建制)」(本当にそうであったかは別にして)の原動力にとなったと考えたからだろう。そしてそこから、「武士団」が重層的な関係を築く段階以降を「武士」と、それに至るまでを「兵(つわもの)」と定義したのである。学術用語として。彼らは「鎧兜の騎馬武者」だけを見ていたのではない。 在庁官人・郡司と開発領主さて、「10世紀以降の受領と国衙」の中の「郡衙」から「国衙」へ において、地方の「国」の行政において、郡司の位置が低下して郡衙が消滅していったことを述べたが、ここでまた郡司が出てくる。一旦消えかかったものがまた復活したのだろうか。 しかし、これは、時代が逆行した訳ではなく、国造の系統を引く律令時代の郡司と、この12世紀、荘園公領制ともいわれる時代の郡司は一旦全くの別物と考えた方が良いかもしれない。 「武士団」の時代の郡司は、その郡の領主の別名に近い。とはいえ、戦国大名・小名やら、江戸時代の大名、旗本とは違い、その領地からの租税収益を全て自分の懐へ入れられた訳でもなく、かつ、その領主権が完全に保証されていた訳でもない。 国衙領を前提として、国衙、開発領主、農民という3段階に単純化してみる。 開発領主たるためには開発予定地の開発権をまず国衙に承認を得る必要があるから、開発領主はまず郷司とか郡司あるいは在庁官人として国衙に結びついている必要がある。また、開発に取り組む為には作業者の動員力、開発が完了して収入(農作物)を上げるまでの投資に堪えられるだけの資本(貸し出す稲、治水・開墾の為の牛馬・農耕具、開発拠点としての宅・田屋)が必要である。ただし、資本+雇い入れた労働力(奴隷)で農耕を行い、収穫は一旦全て領主の元に納められるという直接大規模経営(私営田経営)という訳ではなく、半ば自立して生産を行う農民(農奴)を多数その中に抱えている。 開発に取りかかって以降、通常3年程度の年貢(国衙領では官物)は免除され、開発が完了すると、その地は通常よりは減税された別符の名(納税単位)となる。開発者はその中で、ある程度の免税・非課税を得る。 ただし、その宅の周りの免税地以外は通常よりは減税された別名とはいえ、税(地子)自体は国衙に払わなければならない。しかし名主(みょうしゅ)は、開発者の権利としてその減税された分に相当する取り分を得る権利を持つ。これが加地子である。要するに直接大規模経営ではなくて、下請け経営がメインとなる。加地子は元請けの取り分である。 自立農民の側から見れば、私営田、公営田の段階とは異なり、収穫は自分の収入であり、そこから年貢を支払う。その別名の農民は、別名でない場合の地子と同じぐらいの年貢を払わなければならない。しかしそれは名主にとっては年貢は地子と加地子の合計であり、その内、地子は国衙に払わなければならないが、加地子分は手元に残る。これが中世の開発領主の取り分であり、その家の所有物として相続される。そしてその土地の領有権を証明する現在で言えば登記謄本に相当するものが公験(くげん)である。近世・江戸時代のような一円支配、つまりその藩の農民の年貢は全てその藩を治める大名の収入になるというものとは異なる。 ただし、律令制での税制が租庸調の他に雑徭という国司のもとでの年間30〜60日以内の労役があったように、在地領主はその支配地の農民等をに労役を課すことが出来た。この権限をもって新しい開発に取り組んだり、あるいは自分の非課税地や、その他の田畠をそうした課役によって耕作するなどによる利益も相当にあった。尚その労役を課す権利は、土地、領地領有の公験によるものではなく、郷司とか郡司の「職(しき)」に付属するものと考えれば大きくは外れない。在庁官人は国衙の中に食い込んだ開発領主である。いずれにしてもそうした国衙、あるいは国衙と通じる「職」を媒介として開発領主が成長していく。 国衙領を前提として、階層を単純化して要約してみたが、これが荘園であれば国衙に相当する位置に荘園領主(本所)が、郡司、郷司、名主に相当するものが下司(荘官)となり、農民は国衙領であっても、荘園であっても、基本的な収奪の構造は変わらない。 但し12世紀の荘園は多種多様であり、その内容は契約によって決まる。荘園の中にも公田があったりし、地子を国衙に納め、加地子が荘園領主の取り分となることもある。 鎌倉時代以降はこれに地頭が加わる。東国においては、郡司、郷司、名主、下司(荘官)が地頭となったが、西国では郡司、郷司、名主、下司(荘官)らの中間層に地頭が割り込み、それによって荘園領主の権益が脅かされ、縮小していく。 寄進系荘園鎌倉時代中期まで残った荘園を調べても、やはり同じことがいえる。「源義家をめぐる論点.2 権門の脅威論」において、かつては、荘園寄進が盛んに行われるようになるのは10世紀のことで、11世紀の摂関家藤原氏は荘園をその経済基盤としていたと思われていたことに触れた。 それが(ここでは第二世代の)網野善彦氏の1969年「若狭国における荘園制の形成」や石井進 氏の1970年「院政時代」、1978年の「相武の武士団」(『鎌倉武士の実像』に収録)における太田文の詳細な研究によると、12世紀中葉以降の鳥羽・後白河院政期がもっとも盛んに立荘された時期と考えられるようになり、しかしその大規模荘園が乱立した12世紀以降においてさえも、荘園領と国衙領はほぼ半々であったことも。 「私営田領主」の発展・農村の変容は、関東における荘園の成立を見てもやはり同じような結論に達する。 頼朝が挙兵した1180年(治承4)以前の荘園50数庄のうち、10件を除き、40数件は全て12世紀以降の初見である、かつそれより古い10件の内9件までが9世紀以前であり、1件が10世紀であり、構造的にも初期荘園に属するものが多いといわれる。そしてその10件の内、12世紀以降にまで名が残るものは僅かに2件にすぎない。 それに対して、残りの12世紀を初見とする大多数の荘園は、成立事情のわかるものは全て寄進系荘園であり、その寄進先は皇嘉門院(1149年院号宣下)や、安楽寿院領(1138年 鳥羽上皇建立)が多い、千葉氏の名字の地・千葉庄、鎌倉郡北部の山内荘は八条院領(鳥羽上皇愛娘)だった。 この時期の寄進系荘園については『院政の展開と内乱』に収録された、高橋一樹氏の「中世荘園の立荘と王家・摂関家」があり、それによると、寄進系荘園は単純に在地領主が、所領を寄進したというものではなく、また立荘の原動力は必ずしも在地領主だけではなかったことが説明されている。千葉氏や、鎌倉権五郎景政の場合は元からそこを開拓した在地領主であったが、他の荘園の場合には、京より荘官として武士が下向している例がいくつも見られる。この点でも旧来の在地領主論には注意が必要である。 大庭御厨(おおばのみくりや)奥州後三年の役の英雄・鎌倉権五郎景政は30代の壮年に達していた頃、大庭の地を開発し、あるいは近隣の公田もまとめあげて、名目上伊勢神宮に寄進、所謂「立荘」をして大庭御厨とする。(詳細は「大庭御厨の濫妨」を) その経緯を、石井進氏の「相模の武士団」(p125-132)から要約してみよう。 石井進氏は、鎌倉権五郎景政は12世紀以前からその地を少しづつ開拓していて、御厨開発申請の段階では、既にこのエリアで郡・郷司の地位を獲得していたのではないか、そしてそれを核に、周囲の公領も囲い込んだ大庭御厨の地の荘園化を計ったのではないかとして、はこれを例に次ぎのように言う。「寄進系荘園」を定義する有名な一文である。
田甫は、1144年(天養1)当時で95町、収穫量は47,750束(p130 米にして約2,400石本当だろうか。本当だとするとかなりの上田となる)、当時としては大きな荘園である。その広さを考えれば、国司・国衙との利害の衝突、調整、そして多分周辺開発領主との紛争も当然想像される。そして、最初に国司が承認してからたった2年後の1118年(元永1)、そして1131年(大治6・天承1)、1132年(天承2)にも、在任国司の奉免立券があります。がそれは逆に、何度も国衙によって取り消されたということでもある。 最初の承認自体が、相模守藤原盛重の任期切れ間際であったことが物語っているように、国司の交替の度に、新任の国司や在庁官人は荘園の整理や見直しを行って、国衙領の増収を図ろうとする。そしてまた任期切れ間際に、今度はその荘園を承認して謝礼を懐に入れるのは、この当時一般的である。しかしこの大庭御厨については、『天養記(官宣旨案)』に、「漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処」、とあるように、どうも国司(国守)が、というより、周辺の他の開発領主でもあったろう国衙の在庁官人らとの、長年の紛争という雰囲気も強く感じられる。 大庭御厨の濫妨さて。御厨周辺での境界争い、国衙に終結する在庁官人との争いに対して、伊勢神宮は、国司の承認による「国免荘」ではなく、より確実な朝廷の承認による荘園とすべく運動を始める。そして朝廷の承認を得て、国司が口出し出来ない官省符荘ランクに昇格させたのが1141年(永治1)。 これでもう大丈夫と思ったところへ、源義朝の「大庭御厨の濫妨」が起こる。ここで、それまで大庭御厨と対立していた在庁官人等の面子が明らかになる。国衙の在庁官人と摂関家の荘園の庄司である。三浦、中村一族はおそらく在庁官人として国衙を運営していた側と思われる。 頼朝の父源義朝は無官ではありながら地方の豪族にとっては貴族の血を引く「貴種」、というのがこれまでの穏当な見方であったが、「武士の棟梁」そのものに疑問の出てきた現在においては、源義朝を担ぐことは、彼が源義家の血を引く「貴種」だからというよりも、摂関家の爪牙となった源為義、そしてそれを通じて摂関家とのパイプであったことが、相模、両総の開発領主にとっての源義朝の価値だったのではないだろうか。「貴種」とは血統証ではなくて、極めて実利的なものである。 源義朝は、院近臣であった母親の実家、また父為義の摂関家家産機構とのつながりなどを利用しながら、現地の開発領主にはそれをちらつかせながら、南関東でのそうした紛争に介入し、自分の勢力を伸ばしていく。そのひとつがこの「大庭御厨の濫妨」、もうひとつが相馬御厨の横領である。 相馬御厨千葉氏の祖である相馬郡司平常重(以下千葉常重)は、1130年(大治5)6月11日、所領の「相馬郡布施郷」を伊勢神宮に寄進し、その下司職となる。 これで、「相馬郡布施郷」(大雑把に茨城県北相馬郡)の千葉氏の領有権は確実なものになるはずだったが、1136年(保延2)7月15日、下総守藤原親通は、相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕・監禁。常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに進呈するという内容の新券(証文)を責め取って、自らの私領としてしまう。 本当に官物未納だったのか、言い掛かりだったのかは判らない。どちらのケースも当時は良くある。本当に官物未納であれば、債務不履行で差し押さえ、担保を取られただけである。 更に1143年(康治2)に介入してきたのが源義朝(源頼朝の父)である。義朝はこのころ上総国の上総権介常澄の処に居たとされるが、上総権介常澄の、あそこは本来自分の領地だとの「浮言」を利用して、常重から相馬郡(または郷)の譲状を責め取ってしまいます。 そして、「大庭御厨の濫妨」の翌年の1145年(天養2)3月、義朝はその相馬郷を伊勢内宮外宮に寄進する。 常重の子常胤はそうした事態に必死で立ち向かう。1146年(久安2)4月に、常胤はまず下総国衙から官物未進とされた分について「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を納め、て相馬郡司職を回復し、また相馬郷の返却を実現するが、立花郷までは戻ってこなかった。 相馬郡司の地位と相馬郷を回復した常胤は、8月10日、改めて相馬郡(郷?)を伊勢神宮に寄進する。その寄進状が残っていることから、その間の事情が今に知られることになる。 義朝の行為は紛争の「調停」であったとする見方もあるが、その直後の千葉常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、千葉常胤にとっては、源義朝もまた侵略者の一人であることが判る。そして千葉常胤の寄進は伊勢神宮に認められている。 野口実編『千葉氏の研究』に収録されている「古代末期の東国における開発領主の位置」において、黒田紘一郎は、源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとした形跡があると論じられている。源義朝が相馬御厨を寄進しえたということは、単なる書類上のことだけではなくて、現地での徴税の請負の意味をもっていた以上、事実上の在地支配を離れて可能であったはずはない。事実上の支配があって、その支配を法的に保証するのが土地証文、と考えるべきだというのである。 千葉常胤と源義朝の間でどういう決着を見たのかは不明だが、保元の乱では千葉常胤は源義朝の率いる関東の兵の中に、上総権介常澄の子広常とともに名が見えること。そして『吾妻鏡』の記述などから、千葉常胤が、源義朝の傘下に入ることによって千葉常胤は領地の保全・回復を図ったとの見方がこれまでは一般的であった。しかし、『吾妻鏡』の千葉氏記述は信用出来ないし、保元物語に書かれた源義朝が率いた300騎も、源義朝に個人的に従った郎党と見るのか、それとも朝廷(後白河側)が国衙を通じて動員をかけた関東の武士を源義朝に指揮させたと見るかで変わってくる。この当時の関東のほとんどは後白河を担いだ鳥羽院側近の知行国である。 千葉常胤が寄進したときの「四至」は、それまでの「四至」よりも南に大きく広がっていたように見える。かつての寄進地が、茨城県北相馬郡近辺(正確には利根川より南の手賀沼より北)であったものから、千葉県南相馬郡側(正確には手賀沼の南)に広がっているように。そこから源義朝の寄進した旧来の相馬御厨(北相馬)と、千葉常胤が寄進したときに追加され、かつ千葉氏庶流の名字の地の多い南相馬とがそれぞれ分割支配され、上総権介常澄の子・相馬九郎常清が源義朝支配地を管理していた可能性も考えられるとしたのは福田豊彦である。但しその後、鈴木哲雄が『中世関東の内海世界』の中で、綿密な検証を行い、呼び名が違うだけで同じ四至であろうとし、この説を否定している。(水野白楓氏の御教示による) 開発領主の位置この事件は、当時における在庁官人=在地領主の変貌と、国司=目代との対立の激しさ、とくに在地領主層の弱体と限界を如実に示してる。まず、開発領主の領地領有とは、郡司、郷司という、役職において国衙から保証されたものだということ。しかし、それが、郡司、郷司という、役職において保証されたものである限り、国司・国衙側はその任を解く権限を持っおり、それは相馬郡において現実に行使されたといえる。更にその周囲には、他の開発領主が、隙あらばと狙っている。 最初の段階では同族の上総権介常澄、そして源義朝である。安定な状態を、確実なものにしようと、荘園の寄進を行うが、しかしその、荘園寄進も、それだけでは確実なものではないことは、この相馬御厨、そして大庭御厨の事件の中からも見てとれる。 平家政権下での更なる不安定さその不安定さは、平家のクーデター以降、いよいよ高まったというのが、その後の平家側佐竹義宗の相馬御厨強奪と再度の寄進として現れる。1161(永暦2)年正月日のことである。佐竹氏と、千葉介、上総介一族との対立はここに始まり、それが解消されるのは、1180年の源頼朝の旗揚げに、千葉介、上総介一族が合流し、富士川に平家を破ったあと、転じて佐竹氏を攻めて敗走させたときまで待たねばならない。 千葉介、上総介一族が、頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』にいうような、両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の侵攻に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の掛けであったと考える方が自然であろう。それを後世に伝えるときには、美化して正当化して、その後の権力者を褒め称えるのは世の常である。しかし、『吾妻鏡』には書かれていない相馬御厨での経緯を見れば、特に千葉常胤にとっては、源義朝は「御恩」を感じるような相手ではなかったことは明らかである。 源義朝が暴力的に奪い取ろうとしたものを、源頼朝は「所領安堵」した。それが頼朝の元への結束力であった。「武家の棟梁」という概念は頼朝が意識的に演出したものである。 2008.03.06 「在庁官人・郡司」 追記
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