兵の家各流    平氏の流れ

さて、武家・藤原氏の系譜を見たついでに桓武平氏の系譜も見てみましょう。様々な系図があるのですがここでは『尊卑分脈』をベースにしてみます。『尊卑分脈』、正式には「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」は国立国会図書館近代デジタルライブラリに吉川弘文館のものが公開されており「第11冊」に「16巻平氏」が収められています。参照するには同ライブラリのビューワのダウンロード が必要です。系図の中にp15とかあるのは[新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第11冊]の中でのページです。

しかし、同じ家の家系図でも遡ると様々なのでほんとうはどうだったのかなんて解りません。特に鎮西平氏の系譜なんてろくに資料がありません。
比較的残っている関東のものでも三浦氏は良文流と言うもの、良茂流とあるもの様々です。更には三浦氏が2カ所に出てきて、おまけに片方は年代的に絶対おかしいと言うものも。従って一部は私が補正しています。あくまでご参考程度に。

系図と官位

官位(階位?)は色で示しました。色は:正四位 従四位 従五位上以上または受領任官です。範囲は源義朝が倒れる平治の乱までとしましたが一部はあまり厳密ではありません。

詳細に見る場合にはご参考に。房総平氏等リンク先に個々人毎のメモがあります。ただしあくまで自分用のメモで、随時更新です。


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この中で天慶勲功者上位は、

平貞盛(常陸掾から従五位下右馬助のち従四位) 、平公雅(上総掾から安房守、後武蔵守、系図上どこだか解らないのが(平清幹:上総介から因幡守)

武人として有名なのは、

中世の説話集「十訓抄」には優れた武士として、源頼信・藤原保昌と並んで平致頼・平維衡。大江匡房の『続本朝往生伝』で、一条天皇の頃の代表的な武士として、源満仲・満正・頼光、平致頼,、平維衡
それとは別に余五将軍平維茂(これもち)

犬猿の仲、先祖伝来の敵同士は

もちろん、関東で平将門 対 国香・貞盛・良兼、
関東で国香流繁盛 対 良文流忠頼
関東で良文流忠常 対 国香流直方
伊勢で良文流維衡親子 対 良兼流致頼親子

京武者系は

初期の貞盛流、その系統で伊勢平氏、そして良兼流、維茂・繁貞流
その他は高望王から4代の内にほぼ土着

平家と平氏は違う!?

平清盛で有名な伊勢平氏も清盛を書く為に1本の流れにしていますがそう単純なものではありません。将門の乱でも解る通り実は本家など無いのです。散らばった各流の中で唯一中央の院政と結びついて力を得たのが平正盛から清盛の流れだったと言うだけです。

上にまとめた系図を見れば解る通り、「平家物語」の平家は伊勢平氏の中の一流、それも平正盛からです。例えば逗子に史跡「六代御前の墓」なるものが有りますが、その「六代御前」とは平維盛の嫡子で12歳の頃、平家滅亡の文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで捕らえられ、鎌倉に送られて頼朝が死ぬまで逗子に住んでいました。その六代とは平正盛から六代です。

「平家と平氏へ違う!」なんてスローガンは今私が思いついただけですから真に受けないでください。でもそう言い切っても良い気がします。天下を二分した「源平合戦」と言うイメージがあまりに強すぎて目が曇りがちですが、あれは源氏と平家の戦いではありません。平清盛一族と源為義の孫達との戦いです。清盛の平家がどんなに国家権力の中枢に登りつめようと、板東の平氏各流には全く関係が無い、それどころかある意味源義朝が居た頃より悪く(不安定に)なっていたかもしれません。

関東の平氏各流で辛うじて受領層(諸大夫:たいふ)だったのは平直方の子惟方が「尊卑分脈」では従五位下上総介、「続群書類従」「北条系図」では従五位上能登守、その子らは歴史の表舞台から消えます。(北条時政がその子孫を名乗っていますが)。そしてそれと争った平忠常が「権」でない「上総介」らしいぐらいです。

もっとも、各地に土着して勢力を広げていますから、受領層の並の京武者よりは財力が有ったかもしれませんが、かと言って後の戦国時代以降の大名のイメージで考えるととんでもない間違いを犯します。例えば「奥州後三年の役」で武名をはせた鎌倉権五郎景正から4代に渡って開発し、公田までかすめ取った大庭御厨(荘園)はかなり広大なものでしたが、石高はたしか4千石ぐらいだったと思います。鳥羽院の時代にそれまでには無い大荘園が相次いで立荘されましたが、大体は数千石クラス、例外的な巨大荘園で5千町と言うのが摂関家で立荘されかかりましたが、これとて石高に直せばやっと4〜5万石ぐらいのもの。それらの大荘園でも核となる本所?は数十町(数百石)の田畑です。

豪族的武士

先に延喜勲功者達を在京勤務させて極力地方から引き剥がそうとしたと書きましたが、例えば平忠常の乱で有名な平直方も在京勤務の検非違使でその後各地の国司(受領)にも任ぜられているようですが、代が下るにつれ中央での出世と縁遠くなり地方の在庁官人として土着の度合いを強めて行きます。在京勤務が無くなった訳では決して無いのですが。
それぞれ、荘園の名義的領主の摂関家を中心とする貴族やら武家貴族の源氏やら、院の北面の武士として中央とのつながり、後ろ盾を持つことが地方での自分の地位、領地を維持するひとつの手だてではありました。

それら土着した板東平氏(藤原氏でも)がどのようにして自らの勢力を維持したかと言うと、一族の氏長者は一般的なパターンとしては国衙の在庁官人としての地位を獲得し、家督としてそれを代々世襲します。代表例が常陸の大掾氏。常陸は親王国ですから介が他国の守、掾が介に相当します。そして上総介、下総介、三浦大介など、中央から赴任する介ではなく権介です。家長がそうした在庁官人のポストを世襲し、その一族が丁度江戸時代の名主ぐらいの単位で名(みょう:単純化すると村、部落、字ぐらい)を支配・開拓・経営し、いざとなったら家長の元に結集して他の氏族と戦うと言う感じです。

もう少し大きな動員は在庁官人の権力により国衙の機構を通じた「廻文」(下向井p141)によって国や郡の土着武士(名主ぐらい)を動員すると言うものです。地元での抗争での大規模な動員としては頼朝挙兵後の千葉介氏の数百から千、上総介忠常の公称2万(上総国でそんなに武士が居る訳無いだろう!)、平氏でなく秀郷流藤原氏ですが小山氏の数千(?)の動員力もそうした国衙の機構の動員力で後の戦国大名とは違います。

ちょっと(いや大いに)脱線しましたが、近畿以外での豪族的武士団の状態だと思います。後の鎌倉幕府のインフラはそうした板東の豪族的武士です。

しかしそうした土着した平氏各流もただただ土着して開墾と近所での領地争いばかりしていた訳ではなく、国衙での地位を維持するためにも中央の権門、あるいは武家貴族への奉仕、中央官庁下級官吏としての勤務も欠かせません。
例えば後に北条時政は在京勤務から帰って来たら娘の政子が頼朝と出来ちゃっていてビックリとか、無骨者で有名な熊谷直実まで在京勤務をしていて同僚の関東武者と喧嘩したとか。
清盛の平家にしても義朝にしても、京武者系武家貴族はそうしたインフラの上に立っていたのであって、それぞれの動員力はかなり緩い組織、いや組織にもなって居なかったと言うことを押さえておく必要が有ると思います。

平家各流 詳細、またはメモ