鎌倉七口切通し        武蔵大路

武蔵大路は元々は大仏切通しに関連して書いていたのですが、段々に稲村路化粧坂にも深く関連しだしたので、ページを分けました。

「新編鎌倉志」と桐生六郎

さて大仏切通し鎌倉初期の主要道路であったとイメージする根拠らしいのが「新編鎌倉志」の記述ですが、それはこういうものです。

大仏切通 :大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。

私はこの「新編鎌倉志」の記述は、寿福寺の前のあたりの道を武蔵大路と呼んでいたこと、大仏坂切通しが深沢切通とも言われていたことから「そういえば吾妻鏡に桐生六郎が深沢を経て腰越に向ったと書いてあるね。ここを通ったのかしらん」と軽く書いているだけで断定している訳ではありません。少なくとも私にはそう読めます。しかしこれがこの後「武蔵大路」をめぐって大変な混乱を引き起こしているようです。

  • なお引用中の「治承5年」は7月14日改元され「養和元年」になっています。以下「養和元年」で表記します。更にこれは吾妻鏡の編集ミスで実は1183年寿永2年のこととなります。詳しくはまた。

が、このあたりで学者さんの間で色々論戦があるようです。私も参戦しちゃいましょう。 
と言っても素人が勉強しながらですから昨日と明日では書いてることが180度、と言うことも日常茶飯事ですのでその点は悪しからずご了承ください。

「新編鎌倉志」が言っている「吾妻鏡」の該当個所はこうです。

吾妻鏡 養和元年9月16日 (その実寿永二年(1183)かと)
桐生の六郎 俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。

原文 
桐生六郎持參俊綱之首。先自武藏大路。立使者於梶原平三之許。申案内。而不被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越之旨被仰之。

ここでも出てくる腰越ですが、義経がそこから入るのを許されなかったのも同じ腰越ですね。おそらくここが当時の鎌倉郡の海側の境で今で云えば入出国管理事務所みたいな位置づけだったのでしょう。地形図を見てください。今の道路もモノレースも消して。
と言っても普通に地図を見ているとどうしても現在の道路に目が行ってしまうので、国土地理院の50mメッシュ標高図を加工してみました。海面を僅かに上げてみるとこうなります。白は標高4mベージュは5mにしてあります。川は私がいい加減に書き込んだものですが。

map13s.jpg

「腰越」の地名は腰まで浸かって越す(渡る)ではないでしょうか。この腰越の鎌倉側が西の鎌倉の玄関であればその先は稲村路、後には極楽寺坂しかありえません。北の入口は山内道がメインになりますね。

西(京)から来たのに化粧坂に行った例が無い訳ではありません。日野俊基がそうですね。葛原岡で切られたので今は葛原岡神社があります。ただこれは首を晒すには鎌倉外で一番近いところと言うので化粧坂になったのかもしれません。

そうそう、注意しなければいけないのは現在の鎌倉の町並みは忘れて、鎌倉時代の屋敷、町屋がどこにあったかです。中心は幕府と政所。それらは若宮大路の東側小町大路に門を向けて固まっています。それを踏まえて人の動き、物流を考えてみる必要があると思います。

赤い丸は大倉幕府(頼朝の御所)、その後の宇都宮・若宮御所と政所、赤い三角は町屋(商店街)、黄色い三角は鶴岡八幡宮寺の正門、赤橋、二の鳥居、下馬でこの3つを結ぶのが若宮大路・段蔓、白い丸〇は大きな有力者の館と大きな寺などです。実は大倉のあたりはもっと沢山あるのですが、見にくくなるので省略しました。

 

新田義重のケース

似たようなケースがその前にもありました。まずはその前振りから。

吾妻鏡 1180年(治承四年)9月30日 新田大炊の助源義重入道(法名上西)、東国未だ一揆せざるの時に臨み、故陸奥の守が嫡孫を以て、自立の志を挟むの間、武衛御書を遣わすと雖も、返報に能わず。上野の国寺尾城に引き籠もり軍兵を聚む。また足利の太郎俊綱平家の方人として、同国府中の民居を焼き払う。これ源家に属く輩居住せしむが故なり。

「新田大炊の助源義重入道」とは新田義貞の祖先の新田義重、「故陸奥の守」とは「後三年の役」の源義家のことです。源義家の子義国の嫡子は源義康で足利尊氏の祖先にあたります。新田義重は源義国の長男ながら庶子で上野国新田郡の開拓を行い新田義重と称します。近隣の秩父党、藤原姓足利党との抗争で頼朝の父、源義朝と提携し、頼朝の兄悪源太義平に娘を嫁がせています。

とはいえ、甥の源氏性・足利義兼../がいち早く頼朝の下に駆けつけたに対して新田義重は、と言うのが上記の吾妻鏡の記述になります。

後半に書かれている「足利の太郎俊綱」は藤原秀郷の子孫で下野国・上野国に勢力を張り、関東での秀郷流藤原氏の嫡流と言っても良いでしょう。その子足利忠綱は治承4年(1180年)平家を討伐に挙兵した以仁王と源頼政との宇治川の戦の先陣として勲功を挙げ、「吾妻鏡」も忠綱を「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と書くほどの猛者であり、平家側にたち頼朝を北から脅かします。

その先の吾妻鏡記事の2か月後、形勢不利と見たのか新田義重は鎌倉に出頭します。それがこの条。

吾妻鏡 1180年(治承四年)12月22日
新田大炊の助入道上西、召しに依って参上す。 而るに左右無く鎌倉中に入るべからざるの旨、仰せ遣わさるの間、山内の辺に逗留す。
これ軍士等を招き聚め、上野の国寺尾館に引き籠もるの由風聞す。籐九郎盛長に仰せ、これを召されをはんぬ。上西陳じ申して云く、心中更に異儀を存ぜずと雖も、国土闘戦有るの時、輙く出城し難きの由、家人等諫めを加うに依って、猶予するの処、今すでにこの命に預かる。大いに恐れ思うと。

その後足利俊綱とその子忠綱は、常陸国の志田先生義広と結び頼朝を攻めようとしますが、寿永2年(1183年)2月、頼朝方についた小山朝政との野木宮合戦で敗北、足利忠綱は姿を消します。
残った父の足利俊綱を郎党の桐生の六郎が打ち・・・・、と言うのが先の吾妻鏡 養和元年(その実寿永2年)9月16日 の条です。

  • 吾妻鏡 養和元年の条に野木宮合戦前後が書かれているのですが、吾妻鏡のその他の複数の年には野木宮合戦は寿永2年のことと書かれており、その寿永2年の条が吾妻鏡 には丸々1年ありません。
    そこから寿永2年の記録が編集時に間違えてごっそり養和元年に編集されてしまったものであろうと言われています。よって桐生六郎の記事は実は1183年寿永2年のこととなります。
    詳しくは石井進「鎌倉武士の実像」収録の「志田義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」を参照してください。

両者とも「鎌倉中」には入れてもらえず、新田義重は「山内の辺に逗留」です。この場合の山内は北鎌倉の山内より広く現在の戸塚区にまで広がる広大な山内荘のどこか、大船あたりだったかもしれません。新田義重は「仰せ遣わさるの間」待たされただけでそのあと頼朝に拝謁していますが。(でも待たされている間は生きた心地はしなかったでしょうね)

しかし源氏一門の新田義重ですら山内で足止めされたのに、はっきりと叛旗を挙げた藤性足利俊綱の家人で主を裏切り、その後「主殺しなどとんでもないやつだ!」と腰越で首を打たれる桐生の六郎が、何で寿福寺近辺まで入り込めるんでしょうか。それも鎌倉勢が北に神経を尖らせているまっ最中です。あり得ません。

ところで「武蔵大路」が何処なのか、化粧坂の上ではないかとか、いや下ではないかとそれによって大仏坂口が1181年当時からあったかどうかと言う判断の分かれ道になるかの様相。
まずはこの問題を整理してみましょう。

鎌倉中

「而るに鎌倉中に入れられず」「鎌倉中」はどの範囲を指すのか。

北条政子が鎌倉入りするのに日が悪いからと1泊したのは稲瀬川、つまり現在の長谷寺と甘縄神社の間を流れる小川です(先の地形図に長谷の右側に書き込んでおきました)。少なくともそこを鎌倉とは認識していなかった。その先が鎌倉中と認識していたと考えられます。

吾妻鏡1180年(治承四年) 10月11日 庚寅
卯の刻、御台所鎌倉に入御す。景義これを迎え奉る。去る夜伊豆の国阿岐戸郷より到着せしめ給うと雖も、日次宜しからざるに依って、稲瀬河の辺の民居に止宿し給うと

それに対して寿福寺は頼朝の父の館があり、最初頼朝はそこを本拠地としようと考えたほどの処、それが鎌倉外である訳はないでしょう。、「鎌倉中」とその外とは市内、市外などと言うような単純なものではありません。はっきり現れるのはその後の話ではありますが鎌倉中とその外では法律さえ変わります

もっとも北条政子と、それを出迎えた大庭景義がその稲瀬川を境界と認識していたかと言うとは稲瀬川の東側の甘縄神社「鎌倉中」 ではなかった可能性があります。ではこの鎌倉初期には何処からが「鎌倉中」なのか、もしかして佐介川の先? そこまでは判りません。判断できるのは稲瀬川より東と言うだけです。と書いていながら佐助谷の内側が鎌倉中と言うのはありそうな気がしてきましたが。

政子が鎌倉に入ったとき、どこを通ってきたのかは、この稲瀬川と言うだけではまでは判りません。極楽寺坂? それとも深沢からこの大仏坂? 両方とも違うだろうと思うのはそれから70年後の6代将軍宗尊親王の鎌倉入りの経路です。

 

宗尊親王鎌倉入りの経路

頼朝が鎌倉に入ったのは 1180年10月6日。「 御台所(政子)鎌倉に入御す」はその5日後の10月11日 です。極楽寺坂切り通しはそれから約80年もあとで、『吾妻鏡』建長4年(1252)の記事では第六代将軍宗尊親王が稲村ヶ崎経由(稲村路)で鎌倉入りしています。深沢、大仏坂経由ではありません。

吾妻鏡1252年(建長4年)4月1日 甲寅 天晴、風静まる
寅の一点親王関本の宿より御出で。未の一刻固瀬河の宿に着御す。御迎えの人々この所に参会す。小時立つ。・・・・
路次、稲村崎より由比浜鳥居の西を経て、下の馬橋に到る 。暫く御輿を扣え、前後の供奉人各々下馬す。中下馬橋を東行、小町口を経て相州の御亭に入御す(時に申の一点なり)。

その当時の西からの入口は稲村ヶ崎経由(稲村路)だったと考えるのが順当だと思います。それが不便だったので約80年もあとに極楽寺坂が開かれましたが、それも今我々が目にする極楽寺坂ではありません。成就院の門前に上がる階段道がそれに近いでしょう。

宗尊親王鎌倉追放の経路

その六代将軍宗尊親王が鎌倉を追放されるときはこうです。

吾妻鏡 1266年 (文永3年) 7月4日 甲午 天晴、申の刻雨降る
今日午の刻騒動す。中務権大輔教時朝臣甲冑の軍兵数十騎を召し具し、薬師堂谷の亭より塔辻の宿所に至る。これに依ってその近隣いよいよ以て群動を成す。相州東郷の八郎入道を以て、中書の行粧を制せしめ給う。陳謝するに所無しと。戌の刻将軍家越後入道勝圓の佐介の第に入御す 。女房輿を用いらる。御帰洛有るべきの御出門と。・・・
路次、北門より出御し、赤橋を西行、武蔵大路を経て 、彼の橋の前に於いて御輿を若宮方に向け奉り、暫く御祈念有り。御詠歌に及ぶと。

赤橋は鶴岡八幡宮の太鼓橋です。そこから西に武蔵大路を経て、午後8時頃に北条時盛の佐介の館に入ったと。宗尊親王の子惟康親王が追放されたときも佐介の館を経由しています。このときの様子は「とわずがたり」にもありますね。この親子2度の鎌倉追放の時には極楽寺坂の方は出来ていましたから、そこを通ったかもしれません。

が今度の問題は鎌倉からの出口ではなく、「新編鎌倉志」にある「しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より」「武蔵大路」とはどこかと言う問題です。

亀谷辻と武蔵大路下

「鎌倉市史(総説編)」について、鎌倉七口ではとても参考になるこちらのサイトの大仏切通のページにこうありました。

鎌倉市史(総説編)を調べると、桐生六郎の行動の記述より武蔵大路の位置を次の様に述べられている。

「吾妻鏡の記述を見ると、武蔵大路は鎌倉の中ではないようである。そこでこれを仮粧坂と解したらどうなるであろうか。なを、新編鎌倉志には桐生の経た道を大仏坂を越えたようにしてあるが、それでは鎌倉の内を通ることになる。これは勿論不当である。」

「鎌倉市史(総説編)」s54年版のp193ですね、やっと本が届きました。高柳光寿氏はこの見解です。
総説編の著者・高柳光寿氏が「武蔵大路は鎌倉の中ではない」と言っているのではなくて(言う訳がない)。 「吾妻鏡」は桐生六郎の居た「武蔵大路の場所」は「鎌倉の中ではない」とそう読めるような書き方をしている、と言っているんだと思います。その直後にこう続けています。

赤橋から西に向かって寿福寺前に出て、そこから右折して梅が谷から化粧坂に上がる。それを武蔵大路としたら少しも矛盾なく解釈されるのである。

また、同じサイトの亀ケ谷坂のページには

鎌倉市史(総説編)には亀ケ谷と武蔵大路の関係に関し次の様な興味深い記事がある。
「武蔵大路が鎌倉内であることは吾妻鏡の文永二年(1265)三月五日の条の町御免の場所に、武蔵大路下とあることによって殆ど疑いがない。これよりさき建長三年(1251)十月三日の条にも町免許の場所があげてあるが、それには亀ヶ谷辻というのが見える。これは亀ヶ谷辻を武蔵大路といいかえたのではないかとすぐに思いつく云々」と亀ヶ谷附近は武蔵大路と称したのではないかと推測されている。

一方、新編鎌倉志の大仏切通の項には、桐生六郎と梶原景時とのやり取りより、武蔵大路は鎌倉の外のように述べていたが、上記の町免許の場所より見て鎌倉内の亀ケ谷辻附近と思われる。

「鎌倉市史(総説編)」のp192ですね。しかし総説編で高柳光寿氏は「鎌倉内の亀ケ谷辻附近を含む」とおっしゃっているのであって「化粧坂は武蔵大路ではない」とおっしゃっているのではありません。

  • しかしこれは高柳先生が悪いですよね。その直後に「下という文字を良く吟味すべきである」(p194)なんておっしゃるならご自分もちゃんと「亀ヶ谷辻を武蔵大路といいかえた」と書けばいいのに。先のサイトの引用を読んだときには私だって別の学者さんかと誤解しちゃいましたよ。

吾妻鏡の該当箇所を引用しておきます。

吾妻鏡 建長3年(1251)12月3日 
鎌倉中の在々処々、小町屋及び売買設の事、禁制を加うべきの由、日来その沙汰有り。 今日彼の所々に置かれ、この外は一向停止せらるべきの旨、厳密の触れ仰せらるるの処なり。佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等これを奉行すと。
鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々
 大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 気和飛坂山上

吾妻鏡 文永2年(1265)3月5日
鎌倉中散在の町屋等を止められ九箇所を免さる。また掘上の家・前大路の造屋同じくこれを停止せらる。且つは保々に相触るべきの旨、今日地奉行人小野澤左近大夫入道に仰せ付けらるる所なり。
町御免所の事
 一所大町 一所小町 一所魚町 一所穀町 一所武蔵大路下 一所須地賀江橋 一所大倉辻

武蔵大路は道ですからそれが化粧坂を通って亀ヶ谷辻(辻と言うからには亀ヶ谷坂への道との合流点で岩船地蔵堂のあたり?)から少なくとも鉄の井までの道なら、「武蔵大路上」が「気和飛坂山上」で「武蔵大路下」が「亀谷辻」で別に矛盾はありません。

話はそれますが、この2つを見比べると面白いですね。共通するのは大町・小町・大倉辻、それに米町=穀町、亀谷辻=武蔵大路下とすると大体は同じ場所が公認町屋。
あと「須地賀江橋」を「筋違橋」と読んで新設。
「気和飛坂山上」が消えています。 亀ヶ谷坂切通し によって亀谷辻=武蔵大路下が大きく繁栄して「気和飛坂山上」の町屋を吸収してしまったのか、あるいはこの条例?でさせてしまったのでしょう。しかし「和賀江」が消えるのはどうも納得がいかないのでその近辺が「魚町」となったのではないかと思うのですがどうでしょうか? 「魚町」は甘縄の方にもあったようなのですが。確かに甘縄って語源は漁師に関係しているんですけどね。

武蔵大路

鶴岡八幡宮の赤橋(今の太鼓橋)の正面は若宮大路、前の横の道は今は横大路と呼ばれ、西の端は「鉄の井」のあたりまでを言いますが、鎌倉時代初期には大倉幕府の南門前の道(六浦道の一部)で、時代が経つにつれ塔の辻(宝戒寺前)から若宮大路(赤橋)までも言うようになります。

桐生六郎の件の1183年当時の中心を大倉幕府に置くと武蔵大路は塔の辻(宝戒寺前)か、中心を鶴岡八幡とおけばこの赤橋の西から巌小路(巌堂前)を含んで、化粧坂を越えて武蔵国に通じる幹線道路を呼んだものと私は思います。そうでなければ吾妻鏡 養和元年9月16日の条の記述にはなりませんし、当時の道は番地がある訳でもなし、漠然としたものです。
高柳光寿氏(高校の頃に講演を聞いたことがあります)によると吾妻鏡はなんでもかんでも「大路」と呼んでいるんだそうです。今小路が当時からその名であれば吾妻鏡には「今大路」と書かれたであろうと。(笑)

宗尊親王鎌倉追放はそれより1世紀近く後の1266年で、御所は大倉から宇津宮御所を経由して若宮小路に移っていましたが、位置的には似たようなものです。寿福寺から巽神社、裁許橋(さいきょばし:鎌倉時代は西行橋)、六つ地蔵に至る道が当時の武蔵大路だとすると何で「武蔵大路」と呼んだのでしょうか? 10世紀までの鎌倉郡衙(現御成小学校)が中心なら判りますがこのときは12世紀も後半、中心は大倉幕府です。

寿福寺から先の化粧坂だけが「武蔵大路」なら、何で化粧坂を苦労して登って、また古東海道の六地蔵あたりまで降りてこなければならないのでしょうか? 

おそらく、寿福寺の前から化粧坂には行かずに現在の今小路(当時この名は見えませんが)を通って裁許橋(西行橋)で佐介川を越えて六地蔵あたりか、あるいは川の手前を右に曲がったかで「佐介の第(館)」に入ったのでしょう。

佐助と言うと現在では佐助稲荷を思い浮かべますが佐助川、佐助谷はそのあたりまで続いています。六地蔵は古東海道ですからそこから西に稲村道か極楽寺坂でしょうね。

つまり「武蔵大路」は鎌倉中もそのど真ん中から武蔵国に伸びる幹線道路を言ったのではないでしょうか。鎌倉外は「大路」とは読んでいなかったと言うのが通説のようですが、そうでない例があったと思います。また、当時の地名や道の呼称はおおらかと言うか大雑多で、今のように正式に名称が決まっている訳ではありません。赤いから赤橋、「あそこの赤橋」とかそんな調子です。

それに、「新編鎌倉志」の編者が想像したように、寿福寺前から今小路を首をぶら下げて歩いていたなら(いや、馬で従者もいたろうが)大仏切通しから深沢なんかに抜けるより、そのまま稲村路を腰越に行った方が素直です。もっとも今の長谷はその昔は「深沢」だったようですから稲村路を腰越に行くのでも「深沢」を通ることにはなりますが。

以上から桐生六郎は大仏切通しなど通ってはいない、気和飛坂(化粧坂)から中には入っていない、更に新田義重のケース、および当時の鎌倉を直接脅かしている脅威はどちらの方向だったかを考えれば桐生六郎はもしかしたら気和飛坂にすら来てはいないのではないかと。おそらくは新田義重と同様に山内荘のどこかで泊って鎌倉に入国申請をしたのではないかと思えるのです。

桐生六郎は何処から使者を?

そうだとしたらその場所は何処なんだろう。大船あたり? 当時この山内荘は山内首藤氏から取り上げられてその親族で頼朝側の土肥実平に与えられており、土肥実平は大船の北、いたち川の上流に証菩提寺(当時は無量寿寺)を建てています。
石橋山の負け戦のさなか頼朝を逃がすために戦死した三浦一族岡崎氏の若武者・佐那田与一忠義の供養のためのものとか。その下流公田町に「軍事基地」と考える手がかりとして、番場(ばんば=番所があった場所)の地名があります。

確たる証拠は無いのですが、土肥氏および岡崎氏の一部が鼬川ラインの防衛にあたっていたとの考えることができ、するとそのいたち川? このあたりは後の「中の道」とその東の七里堀の「下の道」が合流する地点でもありそこに関があってもよさそうな感じがします。

とは思いつつも桐生六郎も新田義重も出発したのが下野国・上野国ですから、武蔵国府(府中)から町田、そして境川沿いに村岡あたりから川を渡り山内荘大船近辺に入ったのかもしれません。

いずれにせよそこから使者を送り、そして「腰越に行け」と言われて桐生六郎は大船あたりから深澤を経て腰越へ向かったと考えるのが順当でしょう。気和飛坂(仮粧坂=武蔵大路上)の関から使者を立てたのでもおかしくは無いですが当時の鎌倉勢の北への緊張の中ではどうも疑問に思うのです。まあ本当のところは桐生六郎に「よう解らんからGPSのログを送れ!」とでも言うしかありませんけどね。(笑)

吾妻鏡での「武蔵大路」の記述

上記に引用したもの以外に「吾妻鏡」に「武蔵大路」がどういう記述で現れるのか、いや、上記に引用したものも含めて年代順に全て洗いだしてみましょう。

まづはご存じの

1183年 養和元年9月16日 (その実寿永二年(1183)かと)
桐生の六郎 俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路 より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。


和田合戦では。

1213年(建暦3年、12月6日改元建保元年)5月3日
義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲れるの処、寅の刻、横山馬の允時兼、波多野の三郎(時兼聟)・横山の五郎(時兼甥)以下数十人の親昵の従類等を引率し、腰越浦に馳せ来たるの処、すでに合戦最中なり(時兼と義盛と叛逆の事謀合の時、今日を以て箭合せの期に定む。仍って今来たる)。仍ってその党類皆蓑笠を彼の所に棄て、積んで山を成すと。然る後義盛が陣に加わる。義盛時兼が合力を得て、新覊の馬に当たる彼是軍兵三千騎、猶御家人等を追奔す。

辰の刻、曽我・中村・二宮・河村の輩、雲の如く騒ぎ蜂の如く起こる。各々武蔵大路及び稲村崎の辺に陣す。法華堂の御所より恩喚有りと雖も、義兵疑貽の気有り。左右無く参上すること能わず。御教書を遣わされんと欲するの比、数百騎の中、波多野の彌次郎朝定疵を被りながらこの召しに応ず。

西からは寅の刻に「腰越」(おそらく稲村口)、辰の刻には稲村崎、武蔵大路に来ていますね。特に後者は「陣す」「義兵疑貽の気有り」で当初はどちらにもつかず遠巻きにです。この状況で武蔵大路が今小路や長谷小路の位置だったらどうなるでしょう。遠巻きにはならず、両軍の真っただ中です。そりゃありえません。

武蔵大路=化粧坂と見ると駆け付けた西相模の御家人が鎌倉中の入口で躊躇している様子がまざまざと見えてくるではないですか。


1231年(寛喜3年)3月16日
武蔵大路の下の民家一宇焼失す。これ或いは青女嫉妬に依って、焼死せんが為自ら放火すと。

武蔵大路の下」、これも化粧坂の下と読めます。今小路に下はあり得ません。


1233年(貞永2年、4月15日改元天福元年)8月18日
早旦、武州江島明神に奉幣せんが為出で給うの処、前浜死人有り。これ殺害せらる者なり。仍って神拝を遂げ給わず、直に御所に参り給う。即ち評定衆を召し沙汰を経らる。先ず御家人等をして武蔵大路・西浜・名越坂・大倉横大路已下方々を固めしむ。途路に候し犯科者有るや否や、その内の家々を捜し求むべきの由仰せ下さるるの間、諸人奔走す。而るに名越辺の或る男直垂の袖を洗う。その滴血なり。恠しみを成し岩手左衛門の尉これを生虜り、相具し御所に参る。推問の刻、所犯の條遁れる所無し。これ博奕人なり。仍って殊にその業を停止すべきの由下知すと。

一見判断つきかねるようですが、しかし武蔵大路・西浜・名越坂・大倉、とあるその武蔵大路を亀ヶ谷から化粧坂、西浜は判りませんが、甘縄のあたりと解釈すればこれは鎌倉中の出口を塞ぎ犯人を包囲するということになります。横大路(鶴岡八幡赤橋から政所)もその包囲網ですね。そして犯人は「名越辺」で発見されます。実はこれが「名越坂(なごえ)」の初見。

ところで明治40年の歴史地理大観「かまくら」大森金五郎著 p66には「西浜とは材木座村飯島に寄りたる処の浜を言う」と。確かに1209年 (承元三年)5月28日の条西浜(これ飯嶋と号す)の辺騒動す。これ梶原兵衛太郎家茂小坪浦に逍遙し、帰去の処、土屋の三郎宗遠兼ねて宿意有るに依って、和賀江の辺に相逢い、家茂を殺害するが故なり」とあります。参りましたね。それじゃまるで東浜じゃないですか、何処を中心に西浜と言うのでしょうか、もしかして小坪坂? すると西浜で小坪坂への出口を固めたと。

おまけに事件の起きた「前浜」は若宮大路のその先かと思いきや同じp66に「由比ヶ浜の坂の下村に寄りたる部分をいえるにや」と。確かに武州北条泰時が江の島明神に参拝するとすれば若宮大路から下馬交差点を右に甘縄方面に由比ヶ浜、そこから稲瀬川を渡り稲村路でしょう。確かに「前浜」は御霊社(鎌倉権五郎神社)または甘縄神社の前浜の意味かもしれません。だったら稲村口はどうしたんだろうか。自分の従者で直ちに固め自分は単騎御所に戻って出仕していた御家人に他の口に通じる辻を固めさせたと解釈すると筋は通りますね。


1236年(嘉禎2年)3月14日
若宮大路の東、御所を立てらるべきに依って、来二十五日御本所として田村に御一宿有るべきの間、太白方に当たるや否や、方角を糺すべきの由、駿河の前司に仰せらる。仍って陰陽使を武蔵大路の山峯に相伴い、これを糺せしめ帰参す。田村は若くは戌方の分か。正方西に相当たらざるの旨これを申す。申の刻将軍家御行始め。武州の御亭に入御す。駿河の前司義村御劔を持つ。越後の守・陸奥右馬の助・同太郎・民部少輔・相模式部大夫・摂津の前司・周防の前司・三條前の民部権の少輔・左近蔵人・源判官以下供奉すと。

「陰陽使を武蔵大路の山峯に相伴い」ですから化粧坂上ですね。


1239年(暦仁2年、2月7日改元延應元年)12月29日 甲子
丑の刻武蔵大路の下 、佐々木隠岐入道の家以下数十宇焼失す。失火と。

武蔵大路の下」、これも化粧坂の下と読めます。今小路に下はあり得ません。


1241年(仁治2年)10月22日
今夜半更亀谷の辺俄に騒動し、程無く静謐す。これ群盗武蔵大路 の民居を襲うの間、隠岐次郎左衛門の尉泰清・加地八郎左衛門の尉信朝並びに近隣の輩馳せ向かい虜えしむるが故なり。

これは高柳先生が自説の論証に引用したものです。「武蔵大路の民居」「亀谷の辺」。これは道筋の家とその周辺、つまり武蔵大路は亀ヶ谷の中を通っていたと言うことになります。


1263年(弘長3年)9月12日 
武蔵大路 霹靂、卒塔婆を蹴裂す。その上三尺余り雷火の為焼く。蹴裂の声人屋に響く。聞く者甚だ多しと。

雰囲気的にと言う以上ではありませんが。化粧坂上は境界であり埋葬地であり卒塔婆(この頃は五輪塔?)も有ったでしょう。逆に鎌倉中の今小路や長谷小路での埋葬はこの頃には禁止されていたはずです。更に雷が落ちるような場所となれば化粧坂上でしょう。


先にあげた町御免所の事です。

1265年 (文永2年)3月5日
鎌倉中散在の町屋等を止められ九箇所を免さる。また掘上の家・前大路の造屋同じくこれを停止せらる。且つは保々に相触るべきの旨、今日地奉行人小野澤左近大夫入道に仰せ付けらるる所なり。
町御免所の事
 一所大町 一所小町 一所魚町 一所穀町 一所武蔵大路下 一所須地賀江橋 一所大倉辻


六代将軍宗尊親王が鎌倉を追放されるとき。

吾妻鏡 1266年 (文永3年) 7月4日 甲午 天晴、申の刻雨降る
今日午の刻騒動す。中務権大輔教時朝臣甲冑の軍兵数十騎を召し具し、薬師堂谷の亭より塔辻の宿所に至る。これに依ってその近隣いよいよ以て群動を成す。相州東郷の八郎入道を以て、中書の行粧を制せしめ給う。陳謝するに所無しと。戌の刻将軍家越後入道勝圓の佐介の第に入御す 。女房輿を用いらる。御帰洛有るべきの御出門と。・・・
路次、北門より出御し、赤橋を西行、武蔵大路を経て 、彼の橋の前に於いて御輿を若宮方に向け奉り、暫く御祈念有り。御詠歌に及ぶと。


それを分類してみます。

境界を現しているもの 1183年 1213年 1233年 (1263年) 3件+重複1件 
坂の上 1236年 1263年  2件
坂の下 1231年 1239年 1265年 3件
亀ヶ谷近辺 1241年  1件
単独では不明 1266年  1件

ここで武蔵大路上、下、武蔵大路の山峯とありますが、上が峯であるような「坂」となるとこれは化粧坂しかありません。またそこは鎌倉中の境界でもあります。これで長谷小路が武蔵大路などと言うことは消えるでしょう。武蔵大路が化粧坂から今小路、そして六地蔵までと言うなら矛盾は無いのでしょうか。

いやそれでは鎌倉の中心はどこかと言うことになります。私は初期には頼朝の住まいである大倉幕府(幕府は本来近衛大将の住まい)ではと思いますが、高柳先生のおっしゃるように鶴岡八幡でもよいです。そこから鎌倉中の武蔵の国への出口、化粧坂への道、あるいはその先までを武蔵大路と呼んだと考えるのが自然ではないでしょうか。

後の今小路(初見は1539年の「僧都記」)の道の名は吾妻鏡には見られず、またこの道筋を通った記録は六代将軍宗尊親王が犯罪者扱いで鎌倉を追放されるときだけです。(推定で和田合戦がありますが)
京の方から来た者は、その宗尊親王でも「海道記」の著者でも若宮大路を通っています。何かしらの道はあったにしても、それは田圃道とさして変わらないでしょう。そのような道を一番重要な武蔵大路と呼ぶでしょうか。また、今小路と言う名前からも「昔は無かった」と言う意味が伺えます。

私のような素人でもそれが見て取れるのに、鎌倉史についてはだれもが読む「鎌倉市史(総説編)」で高柳光寿先生がきちんと論証されているのに、今だに武蔵大路を今小路とか長谷小路とか言う歴史学者が後を断ちません。これはどうしたことでしょうか。「新編鎌倉志」の呪縛? 呪縛から解き放されて初めて「歴史学」と言えるのではないですか? 

謝辞:吾妻鏡は こちらのサイトを参考にしました。とても助かっています。ありがとうございます。

2007.2.8 追記