鎌倉七口切通し 武蔵大路 | |||||||||||||||
武蔵大路は元々は大仏切通しに関連して書いていたのですが、段々に稲村路や化粧坂にも深く関連しだしたので、ページを分けました。 「新編鎌倉志」と桐生六郎さて大仏切通し鎌倉初期の主要道路であったとイメージする根拠らしいのが「新編鎌倉志」の記述ですが、それはこういうものです。
私はこの「新編鎌倉志」の記述は、寿福寺の前のあたりの道を武蔵大路と呼んでいたこと、大仏坂切通しが深沢切通とも言われていたことから「そういえば吾妻鏡に桐生六郎が深沢を経て腰越に向ったと書いてあるね。ここを通ったのかしらん」と軽く書いているだけで断定している訳ではありません。少なくとも私にはそう読めます。しかしこれがこの後「武蔵大路」をめぐって大変な混乱を引き起こしているようです。
が、このあたりで学者さんの間で色々論戦があるようです。私も参戦しちゃいましょう。 「新編鎌倉志」が言っている「吾妻鏡」の該当個所はこうです。
ここでも出てくる腰越ですが、義経がそこから入るのを許されなかったのも同じ腰越ですね。おそらくここが当時の鎌倉郡の海側の境で今で云えば入出国管理事務所みたいな位置づけだったのでしょう。地形図を見てください。今の道路もモノレースも消して。 「腰越」の地名は腰まで浸かって越す(渡る)ではないでしょうか。この腰越の鎌倉側が西の鎌倉の玄関であればその先は稲村路、後には極楽寺坂しかありえません。北の入口は山内道がメインになりますね。 西(京)から来たのに化粧坂に行った例が無い訳ではありません。日野俊基がそうですね。葛原岡で切られたので今は葛原岡神社があります。ただこれは首を晒すには鎌倉外で一番近いところと言うので化粧坂になったのかもしれません。 そうそう、注意しなければいけないのは現在の鎌倉の町並みは忘れて、鎌倉時代の屋敷、町屋がどこにあったかです。中心は幕府と政所。それらは若宮大路の東側小町大路に門を向けて固まっています。それを踏まえて人の動き、物流を考えてみる必要があると思います。 赤い丸●は大倉幕府(頼朝の御所)、その後の宇都宮・若宮御所と政所、赤い三角▲は町屋(商店街)、黄色い三角▲は鶴岡八幡宮寺の正門、赤橋、二の鳥居、下馬でこの3つを結ぶのが若宮大路・段蔓、白い丸〇は大きな有力者の館と大きな寺などです。実は大倉のあたりはもっと沢山あるのですが、見にくくなるので省略しました。
新田義重のケース似たようなケースがその前にもありました。まずはその前振りから。
「新田大炊の助源義重入道」とは新田義貞の祖先の新田義重、「故陸奥の守」とは「後三年の役」の源義家のことです。源義家の子義国の嫡子は源義康で足利尊氏の祖先にあたります。新田義重は源義国の長男ながら庶子で上野国新田郡の開拓を行い新田義重と称します。近隣の秩父党、藤原姓足利党との抗争で頼朝の父、源義朝と提携し、頼朝の兄悪源太義平に娘を嫁がせています。 とはいえ、甥の源氏性・足利義兼../がいち早く頼朝の下に駆けつけたに対して新田義重は、と言うのが上記の吾妻鏡の記述になります。 後半に書かれている「足利の太郎俊綱」は藤原秀郷の子孫で下野国・上野国に勢力を張り、関東での秀郷流藤原氏の嫡流と言っても良いでしょう。その子足利忠綱は治承4年(1180年)平家を討伐に挙兵した以仁王と源頼政との宇治川の戦の先陣として勲功を挙げ、「吾妻鏡」も忠綱を「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と書くほどの猛者であり、平家側にたち頼朝を北から脅かします。 その先の吾妻鏡記事の2か月後、形勢不利と見たのか新田義重は鎌倉に出頭します。それがこの条。
その後足利俊綱とその子忠綱は、常陸国の志田先生義広と結び頼朝を攻めようとしますが、寿永2年(1183年)2月、頼朝方についた小山朝政との野木宮合戦で敗北、足利忠綱は姿を消します。
両者とも「鎌倉中」には入れてもらえず、新田義重は「山内の辺に逗留」です。この場合の山内は北鎌倉の山内より広く現在の戸塚区にまで広がる広大な山内荘のどこか、大船あたりだったかもしれません。新田義重は「仰せ遣わさるの間」待たされただけでそのあと頼朝に拝謁していますが。(でも待たされている間は生きた心地はしなかったでしょうね) しかし源氏一門の新田義重ですら山内で足止めされたのに、はっきりと叛旗を挙げた藤性足利俊綱の家人で主を裏切り、その後「主殺しなどとんでもないやつだ!」と腰越で首を打たれる桐生の六郎が、何で寿福寺近辺まで入り込めるんでしょうか。それも鎌倉勢が北に神経を尖らせているまっ最中です。あり得ません。 ところで「武蔵大路」が何処なのか、化粧坂の上ではないかとか、いや下ではないかとそれによって大仏坂口が1181年当時からあったかどうかと言う判断の分かれ道になるかの様相。
鎌倉中「而るに鎌倉中に入れられず」の「鎌倉中」はどの範囲を指すのか。 北条政子が鎌倉入りするのに日が悪いからと1泊したのは稲瀬川、つまり現在の長谷寺と甘縄神社の間を流れる小川です(先の地形図に長谷の右側に書き込んでおきました)。少なくともそこを鎌倉とは認識していなかった。その先が鎌倉中と認識していたと考えられます。
それに対して寿福寺は頼朝の父の館があり、最初頼朝はそこを本拠地としようと考えたほどの処、それが鎌倉外である訳はないでしょう。、「鎌倉中」とその外とは市内、市外などと言うような単純なものではありません。はっきり現れるのはその後の話ではありますが鎌倉中とその外では法律さえ変わります。 もっとも北条政子と、それを出迎えた大庭景義がその稲瀬川を境界と認識していたかと言うとは稲瀬川の東側の甘縄神社も「鎌倉中」 ではなかった可能性があります。ではこの鎌倉初期には何処からが「鎌倉中」なのか、もしかして佐介川の先? そこまでは判りません。判断できるのは稲瀬川より東と言うだけです。と書いていながら佐助谷の内側が鎌倉中と言うのはありそうな気がしてきましたが。 政子が鎌倉に入ったとき、どこを通ってきたのかは、この稲瀬川と言うだけではまでは判りません。極楽寺坂? それとも深沢からこの大仏坂? 両方とも違うだろうと思うのはそれから70年後の6代将軍宗尊親王の鎌倉入りの経路です。
宗尊親王鎌倉入りの経路頼朝が鎌倉に入ったのは 1180年10月6日。「 御台所(政子)鎌倉に入御す」はその5日後の10月11日 です。極楽寺坂切り通しはそれから約80年もあとで、『吾妻鏡』建長4年(1252)の記事では第六代将軍宗尊親王が稲村ヶ崎経由(稲村路)で鎌倉入りしています。深沢、大仏坂経由ではありません。
その当時の西からの入口は稲村ヶ崎経由(稲村路)だったと考えるのが順当だと思います。それが不便だったので約80年もあとに極楽寺坂が開かれましたが、それも今我々が目にする極楽寺坂ではありません。成就院の門前に上がる階段道がそれに近いでしょう。 宗尊親王鎌倉追放の経路その六代将軍宗尊親王が鎌倉を追放されるときはこうです。
赤橋は鶴岡八幡宮の太鼓橋です。そこから西に武蔵大路を経て、午後8時頃に北条時盛の佐介の館に入ったと。宗尊親王の子惟康親王が追放されたときも佐介の館を経由しています。このときの様子は「とわずがたり」にもありますね。この親子2度の鎌倉追放の時には極楽寺坂の方は出来ていましたから、そこを通ったかもしれません。 が今度の問題は鎌倉からの出口ではなく、「新編鎌倉志」にある「しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より」の「武蔵大路」とはどこかと言う問題です。 亀谷辻と武蔵大路下「鎌倉市史(総説編)」について、鎌倉七口ではとても参考になるこちらのサイトの大仏切通のページにこうありました。
「鎌倉市史(総説編)」s54年版のp193ですね、やっと本が届きました。高柳光寿氏はこの見解です。
また、同じサイトの亀ケ谷坂のページには
「鎌倉市史(総説編)」のp192ですね。しかし総説編で高柳光寿氏は「鎌倉内の亀ケ谷辻附近を含む」とおっしゃっているのであって「化粧坂は武蔵大路ではない」とおっしゃっているのではありません。
吾妻鏡の該当箇所を引用しておきます。
武蔵大路は道ですからそれが化粧坂を通って亀ヶ谷辻(辻と言うからには亀ヶ谷坂への道との合流点で岩船地蔵堂のあたり?)から少なくとも鉄の井までの道なら、「武蔵大路上」が「気和飛坂山上」で「武蔵大路下」が「亀谷辻」で別に矛盾はありません。 話はそれますが、この2つを見比べると面白いですね。共通するのは大町・小町・大倉辻、それに米町=穀町、亀谷辻=武蔵大路下とすると大体は同じ場所が公認町屋。 武蔵大路鶴岡八幡宮の赤橋(今の太鼓橋)の正面は若宮大路、前の横の道は今は横大路と呼ばれ、西の端は「鉄の井」のあたりまでを言いますが、鎌倉時代初期には大倉幕府の南門前の道(六浦道の一部)で、時代が経つにつれ塔の辻(宝戒寺前)から若宮大路(赤橋)までも言うようになります。 桐生六郎の件の1183年当時の中心を大倉幕府に置くと武蔵大路は塔の辻(宝戒寺前)か、中心を鶴岡八幡とおけばこの赤橋の西から巌小路(巌堂前)を含んで、化粧坂を越えて武蔵国に通じる幹線道路を呼んだものと私は思います。そうでなければ吾妻鏡
養和元年9月16日の条の記述にはなりませんし、当時の道は番地がある訳でもなし、漠然としたものです。 宗尊親王鎌倉追放はそれより1世紀近く後の1266年で、御所は大倉から宇津宮御所を経由して若宮小路に移っていましたが、位置的には似たようなものです。寿福寺から巽神社、裁許橋(さいきょばし:鎌倉時代は西行橋)、六つ地蔵に至る道が当時の武蔵大路だとすると何で「武蔵大路」と呼んだのでしょうか? 10世紀までの鎌倉郡衙(現御成小学校)が中心なら判りますがこのときは12世紀も後半、中心は大倉幕府です。 寿福寺から先の化粧坂だけが「武蔵大路」なら、何で化粧坂を苦労して登って、また古東海道の六地蔵あたりまで降りてこなければならないのでしょうか? おそらく、寿福寺の前から化粧坂には行かずに現在の今小路(当時この名は見えませんが)を通って裁許橋(西行橋)で佐介川を越えて六地蔵あたりか、あるいは川の手前を右に曲がったかで「佐介の第(館)」に入ったのでしょう。 佐助と言うと現在では佐助稲荷を思い浮かべますが佐助川、佐助谷はそのあたりまで続いています。六地蔵は古東海道ですからそこから西に稲村道か極楽寺坂でしょうね。 つまり「武蔵大路」は鎌倉中もそのど真ん中から武蔵国に伸びる幹線道路を言ったのではないでしょうか。鎌倉外は「大路」とは読んでいなかったと言うのが通説のようですが、そうでない例があったと思います。また、当時の地名や道の呼称はおおらかと言うか大雑多で、今のように正式に名称が決まっている訳ではありません。赤いから赤橋、「あそこの赤橋」とかそんな調子です。 それに、「新編鎌倉志」の編者が想像したように、寿福寺前から今小路を首をぶら下げて歩いていたなら(いや、馬で従者もいたろうが)大仏切通しから深沢なんかに抜けるより、そのまま稲村路を腰越に行った方が素直です。もっとも今の長谷はその昔は「深沢」だったようですから稲村路を腰越に行くのでも「深沢」を通ることにはなりますが。 以上から桐生六郎は大仏切通しなど通ってはいない、気和飛坂(化粧坂)から中には入っていない、更に新田義重のケース、および当時の鎌倉を直接脅かしている脅威はどちらの方向だったかを考えれば桐生六郎はもしかしたら気和飛坂にすら来てはいないのではないかと。おそらくは新田義重と同様に山内荘のどこかで泊って鎌倉に入国申請をしたのではないかと思えるのです。 桐生六郎は何処から使者を?そうだとしたらその場所は何処なんだろう。大船あたり? 当時この山内荘は山内首藤氏から取り上げられてその親族で頼朝側の土肥実平に与えられており、土肥実平は大船の北、いたち川の上流に証菩提寺(当時は無量寿寺)を建てています。 確たる証拠は無いのですが、土肥氏および岡崎氏の一部が鼬川ラインの防衛にあたっていたとの考えることができ、するとそのいたち川? このあたりは後の「中の道」とその東の七里堀の「下の道」が合流する地点でもありそこに関があってもよさそうな感じがします。 とは思いつつも桐生六郎も新田義重も出発したのが下野国・上野国ですから、武蔵国府(府中)から町田、そして境川沿いに村岡あたりから川を渡り山内荘大船近辺に入ったのかもしれません。 いずれにせよそこから使者を送り、そして「腰越に行け」と言われて桐生六郎は大船あたりから深澤を経て腰越へ向かったと考えるのが順当でしょう。気和飛坂(仮粧坂=武蔵大路上)の関から使者を立てたのでもおかしくは無いですが当時の鎌倉勢の北への緊張の中ではどうも疑問に思うのです。まあ本当のところは桐生六郎に「よう解らんからGPSのログを送れ!」とでも言うしかありませんけどね。(笑) 吾妻鏡での「武蔵大路」の記述上記に引用したもの以外に「吾妻鏡」に「武蔵大路」がどういう記述で現れるのか、いや、上記に引用したものも含めて年代順に全て洗いだしてみましょう。 まづはご存じの
和田合戦では。
西からは寅の刻に「腰越」(おそらく稲村口)、辰の刻には稲村崎、武蔵大路に来ていますね。特に後者は「陣す」「義兵疑貽の気有り」で当初はどちらにもつかず遠巻きにです。この状況で武蔵大路が今小路や長谷小路の位置だったらどうなるでしょう。遠巻きにはならず、両軍の真っただ中です。そりゃありえません。 武蔵大路=化粧坂と見ると駆け付けた西相模の御家人が鎌倉中の入口で躊躇している様子がまざまざと見えてくるではないですか。
「武蔵大路の下」、これも化粧坂の下と読めます。今小路に下はあり得ません。
一見判断つきかねるようですが、しかし武蔵大路・西浜・名越坂・大倉、とあるその武蔵大路を亀ヶ谷から化粧坂、西浜は判りませんが、甘縄のあたりと解釈すればこれは鎌倉中の出口を塞ぎ犯人を包囲するということになります。横大路(鶴岡八幡赤橋から政所)もその包囲網ですね。そして犯人は「名越辺」で発見されます。実はこれが「名越坂(なごえ)」の初見。 ところで明治40年の歴史地理大観「かまくら」大森金五郎著 p66には「西浜とは材木座村飯島に寄りたる処の浜を言う」と。確かに1209年 (承元三年)5月28日の条に「西浜(これ飯嶋と号す)の辺騒動す。これ梶原兵衛太郎家茂小坪浦に逍遙し、帰去の処、土屋の三郎宗遠兼ねて宿意有るに依って、和賀江の辺に相逢い、家茂を殺害するが故なり」とあります。参りましたね。それじゃまるで東浜じゃないですか、何処を中心に西浜と言うのでしょうか、もしかして小坪坂? すると西浜で小坪坂への出口を固めたと。 おまけに事件の起きた「前浜」は若宮大路のその先かと思いきや同じp66に「由比ヶ浜の坂の下村に寄りたる部分をいえるにや」と。確かに武州北条泰時が江の島明神に参拝するとすれば若宮大路から下馬交差点を右に甘縄方面に由比ヶ浜、そこから稲瀬川を渡り稲村路でしょう。確かに「前浜」は御霊社(鎌倉権五郎神社)または甘縄神社の前浜の意味かもしれません。だったら稲村口はどうしたんだろうか。自分の従者で直ちに固め自分は単騎御所に戻って出仕していた御家人に他の口に通じる辻を固めさせたと解釈すると筋は通りますね。
「陰陽使を武蔵大路の山峯に相伴い」ですから化粧坂上ですね。
「武蔵大路の下」、これも化粧坂の下と読めます。今小路に下はあり得ません。
これは高柳先生が自説の論証に引用したものです。「武蔵大路の民居」「亀谷の辺」。これは道筋の家とその周辺、つまり武蔵大路は亀ヶ谷の中を通っていたと言うことになります。
雰囲気的にと言う以上ではありませんが。化粧坂上は境界であり埋葬地であり卒塔婆(この頃は五輪塔?)も有ったでしょう。逆に鎌倉中の今小路や長谷小路での埋葬はこの頃には禁止されていたはずです。更に雷が落ちるような場所となれば化粧坂上でしょう。 先にあげた町御免所の事です。
六代将軍宗尊親王が鎌倉を追放されるとき。
それを分類してみます。
ここで武蔵大路上、下、武蔵大路の山峯とありますが、上が峯であるような「坂」となるとこれは化粧坂しかありません。またそこは鎌倉中の境界でもあります。これで長谷小路が武蔵大路などと言うことは消えるでしょう。武蔵大路が化粧坂から今小路、そして六地蔵までと言うなら矛盾は無いのでしょうか。 いやそれでは鎌倉の中心はどこかと言うことになります。私は初期には頼朝の住まいである大倉幕府(幕府は本来近衛大将の住まい)ではと思いますが、高柳先生のおっしゃるように鶴岡八幡でもよいです。そこから鎌倉中の武蔵の国への出口、化粧坂への道、あるいはその先までを武蔵大路と呼んだと考えるのが自然ではないでしょうか。 後の今小路(初見は1539年の「僧都記」)の道の名は吾妻鏡には見られず、またこの道筋を通った記録は六代将軍宗尊親王が犯罪者扱いで鎌倉を追放されるときだけです。(推定で和田合戦がありますが) 私のような素人でもそれが見て取れるのに、鎌倉史についてはだれもが読む「鎌倉市史(総説編)」で高柳光寿先生がきちんと論証されているのに、今だに武蔵大路を今小路とか長谷小路とか言う歴史学者が後を断ちません。これはどうしたことでしょうか。「新編鎌倉志」の呪縛? 呪縛から解き放されて初めて「歴史学」と言えるのではないですか? 謝辞:吾妻鏡は こちらのサイトを参考にしました。とても助かっています。ありがとうございます。 2007.2.8 追記 | |||||||||||||||